そして、時は満ちる。
私が望もうと、望むまいと。
Written by かつ丸
見られていた。
光すらない闇の向こうから、複数の視線を感じていた。
まとわりつくような、ねめつけるような。
何も身につけていない、全裸のリツコを値踏みするように。
やがて暗がりにぼんやりと光が点る。ぼやけていた淡い光が、リツコの周囲を照らしていく。
宙に浮く黒い石板。
そう、これは石だ。縦長の長方形、高さはゆうに2メートルはあるモノリス。物理法則を無視してリツコを取り巻いている。
いくつあるのか、すぐにはわからなかった。
立体映像だ。
実体があるわけではない。
視線は、その石から感じた。
かすかに、含んだ笑い声が聞こえた。この石板の向こうで、彼らは見ているのだろう。
それぞれに赤く番号が刻まれている。一つ一つが誰かに対応しているのかもしれない。
いずれにしても、下らないこけおどしだと思った。国連の中枢機関ともいえるはずなのに、これではまるで悪の秘密結社だ。あまり威厳が無いなと思った。
このような舞台装置を好み、そして査問の場で女性を裸にして喜ぶ黒幕。恥辱を感じるよりも先に、リツコはこのような趣向を取った彼らに、少し呆れていた。
もしかしたらリツコの動揺を誘うつもりだったのだろうか。だとしたら、底が知れる。罵倒する気にもなれない。
石板のひとつが、カン高い、やや下卑た口調で話し掛けてきた。
「このような失礼な手段をとったことを許してくれたまえよ、赤木リツコ博士。我々としてもキミにこれ以上の陵辱は味わわせたくはないのだ」
「…別に陵辱などとは思っておりませんわ」
強がりなどではなく、本心だった。
伝わったのだろう、失笑めいた鼻白む空気が漂ったのが分かる。
もとより、媚びるつもりもない。
「気の強い女だ。碇がそばに置きたがるのもわかる」
「だが、キミをこの場に差し出したのも、その碇なのだよ」
嘲るような声が告げる。
けれど、それすらもリツコの心を動かすことは無かった。
もう少し以前の自分なら、どうだっただろうか。ゲンドウの役に立てる、そのことに喜びすら感じただろうか、それとも、裏切られた怒りだろうか。
どちらも遠い。さざなみのような小さなざわめきしか、リツコは感じなかった。ゲンドウに思うところがあるとすれば、なぜ、自分に直接尋ねなかったのかと、それだけだろう。
彼も恐れていたのかもしれない。
現実を確かめることを。
眉をしかめることすらしないリツコの可愛げのない態度にいらだったのか、発せられる口調に厳しさが増した。
「……まあいい、本題に入ろう。零号機の自爆はキミの指示だったのかね?」
「…はい。使徒の侵食が進んでいましたから」
「他に方法があったとは考えなかったのかね?」
「すべて検討した結果です。先の参号機同様、使徒を分離させる有効な手段がない限り、零号機の破棄は止むを得ませんでした」
「参号機か。…あの機体の起動実験にはキミも立ち会っていたはずだな。失敗を目の当たりにしておきながら、予防措置をとろうとは思わなかったと?」
「運搬時にすでに乗っ取られていた可能性がある参号機は、あまり参考にはなりませんでした。もちろん、出撃前の検査は重点的に行なうようにしましたが…このあいだの使徒はエヴァの装甲も一瞬で破ってしまいましたから」
「…ふん、言い訳が得意のようだね、キミは」
小さく舌打ちが聞こえる。
ことさらに反抗的な態度をとっているつもりもないが、彼らの望むほどに従順ではないのも明らかだ。
もっとも、リツコも嘘をついているつもりはない。実際、あの段階で零号機を犠牲にせずに使徒を殲滅する手段は無かった。たとえば初号機が引き抜けば、とも考えたが、今のシンジの錬度では間違いなく不可能だった。触ったその手から侵食していく使徒なのだ、かつてのシンジですら、無傷で戦えるかどうか疑わしい。
『内部に侵食してきた相手は、やはり内部からはじき出すしかない、そういうことなんですか?』
その言葉が、突然リツコの脳裏をよぎった。
いつかの、そう、あれはマギが使徒に侵食された後、シンジと交わした言葉だ。それに対して自分はなんと言ったろう。
内部からはじき出すか、侵食されたものごと破壊するしかない、そう話したのではなかったろうか。
レイを死なせないでくれと、シンジは書置きした。
もしかしたらリツコがどうやって彼女を助けるか、予見していたのではないだろうか。アスカを救うのに槍が使われるしかないと、そう知っていたように。
「…何をぼんやりしている、赤木リツコ博士。キミは今、査問の場にいると自覚していないのかね」
苛立たしげな声が、リツコの思考を遮った。
視線を前に戻す。
「余裕のあることだな」
「………」
「稼動している3機のエヴァのうち1機が失われたのだ。その被害の大きさがわからないキミではあるまい。たとえ使徒殲滅のためとはいえ、全てが許されるわけではないのだ」
「…そうでしょうか?」
こんどこそ、はっきりとした笑みを浮かべながらリツコは言った。
「零号機はもともとテストタイプ、実験機です。ネルフ本部の地下にはあれと同じモノの残骸が何十となく晒されていますわ。もちろん、ご存知でしょうけれど」
「……だから破壊してもいいとは言えんだろう」
「どうしてです? もともと実戦に出される予定の無かった機体です、実験で壊れることも折込みずみの。あの時点まで稼動し、使徒の殲滅にも役立ったのですから、充分な働きだったのではないでしょうか。…さいわい、他の支部でも急ピッチで新規のエヴァンゲリオンは造られているようですし」
「…まだ、完成していない、今、使徒が来たらどうするつもりなのだ」
「そうだ。零号機の爆発で第三新東京市のほとんどは壊滅し、軍事設備は無力化した。もはや防衛機能の無い現状で使徒に対抗できるのかね」
鬼の首でも取ったような、そんな形容が似合う口調だった。
ずっと研究施設勤めで経験はないけれど、小心な上司に仕えるサラリーマンの気持ちが少しわかるような気がする。
彼らが国連を代表する権力者とはとうてい思えない器の小ささだった。
ゲンドウは、今までずっとこれに耐えてきたのだろうか。だとすればご苦労なことだ。
「…まだ、エヴァは2機残っています。確かに完全ではありませんが、当初1機のエヴァで対処したことに比べれば、まだマシだと思いますわ」
「だがパイロットはどうだ。セカンドチルドレンはほとんど使えないと聞いているぞ」
「コアの付け替えをすれば、ファーストチルドレンでも搭乗可能です。補充要員も居ますし、パイロットの問題など小さいものです」
「初号機は封印中のはずだ。弐号機のみで戦えるのかね」
「もちろん、困難です。しかし、初号機の封印は人為的なものです。解かれさえすれば、すぐにでも稼動できます。…まさか使徒の攻撃を前にして、封印がそのままにされるとは考えにくいですわよね」
皮肉をこめて言った。
先の使徒戦において、すでにゲンドウによって封印は解除されている。あれが一時的なものにせよ、そうでないにせよ、実際の襲撃を前に、使えるエヴァを留め置くことに意味などあるわけが無いのだ。
ゲンドウの措置は、当然彼ら委員会の耳にも入っているだろう、だが、それをもって処罰するなど馬鹿げたことだ。
今までのこの査問のやり取りが、馬鹿げたことであるのと同じように。
もちろん、委員会は無能なわけではない。
リツコが今日呼ばれたことも、ただ零号機のことだけのはずがない。それはわかっていた。
今まで沈黙していた正面のモノリス。01と書かれたそれが声を発したのはそのときだった。その位置からも、彼の言葉とともに他の者達が口を閉ざしたことからも、この石板の向こうにいるのが首魁だとわかった。
「封印のことはいい。だが、赤木リツコ博士、現状で初号機は使えるのかね」
「はい」
「…パイロットにも問題は無い、本当にそうかね?」
「……はい」
「サードチルドレンの状況について、我々も報告は受けている。特に初号機との融合とサルベージ後の変質については興味深い。……碇はわからないといった、だが、キミならば説明できるのではないのかね、今のサードチルドレンがどういう状態にあるのか」
石板の向こうの、見えないはずの尋問者の目が光ったような気がした。
一瞬口ごもる。
彼らが何を知り何を知らないのか、リツコには見極めがつかない。
盗聴には気を付けていたつもりだが、それも完璧だったとは限らない。時間を超えてきたというシンジの言葉が、仮に漏れていたとすれば、彼らにとって看過できないことのはずだ。
だけど、とも思う。
だけど、リツコは実のところ何も知らないのと同じだ。これから起こることも次に来る使徒のこともほとんど聞かされていなかった。
今のシンジもかつてのシンジとは違う。
これが数ヶ月前ならばともかく、リツコが守らなければならない相手はもういないのだ。ここで全てを明らかにしたとしても、何を困ることがあるだろうか、と。
だから、怖れることなど何もないのだ。
「たしかに彼はサルベージの影響で軽い記憶障害を持っていますが、エヴァとのシンクロも許容範囲ですし、戦闘には問題無いかと思われます」
「碇からもそう聞いている。…だが、そうなった原因は聞いていない。記憶障害はサルベージの失敗が主因かね」
「…わかりません。あまりにもデータ不足ですから」
「覚醒した初号機の意志が関わっている、そう考えたことはないかね?」
「それは…」
確かに、それはリツコも考えたことだ。
とまどいをみせたリツコに、モノリスの向こうの男が口を歪ませて笑ってみせた、そんな気がした。
「…キミは知っているはずだな、初号機のコアに誰が使われているか」
「はい。…パイロットの母親をデータ化しコアとして用いるのが、エヴァのシステムですから」
「左様。10年前のシンクロ実験でエヴァと融合した碇ユイ、彼女がコアになっている。もちろんデータなどではなく、生身のままで一体化したものだ。だから初号機だけが覚醒の後、独自の意志を持てる」
「………」
「もともと我々は疑っていたのだ。10年前、彼女は、碇ユイは事故ではなく、自らの意志でエヴァに留まったのではないかとな。…あの機体は神のヒナ型だ。神に等しい力を得ようと望むあまり、人の形を捨てたとも考えられる」
「…人類補完計画こそがそうなのだと思っていましたわ」
「碇がそう言ったわけではあるまい。補完計画は確かに神への道だが、特定の個人が神となることではない。そのような不遜な考えは、粛清されるべきものだ」
「………」
「リリスから造られた初号機は、本来補完計画の埒外にあった。だからこそ今まで碇ユイの思惑は見過ごされ放置されてきた。しかし、初号機がS2機関を搭載するに至り、そしてロンギヌスの槍が失われたことで状況は変わったのだよ」
威圧的な雰囲気をたたえたまま、淡々と話している。
しかし、リツコは困惑していた。
思わず口を挟む。
「待ってください! どうして、そんな話を私にするのですか?」
「…キミには我々の目的について理解してもらう必要があるからだ。碇によって歪められた補完への道は修正されねばならん」
「…私にそれを手伝えと?」
「強制するつもりは無い。キミの判断に委ねよう」
そうして、再び石板は語りだした。
周りのものたちは、口を挟むことすらしない。だが、平静ではないのは場の雰囲気で感じ取れた。彼の発言は委員会の了承を得ていない、今リツコに話しているのは全て独断なのだろう。
「行き詰まり進化の袋小路に入った人類は、これから黄昏を迎えるしかない。この星の支配者たらんとするには、あまりにも不完全で脆弱にすぎる」
「そのための補完計画…」
「そうだ。神の力を取り込み、全てのココロをひとつと為し、群生ではない、新たな種としての人類、いやもはや類とは呼べん、新たなる種『ヒト』となる」
「補完を目指す最後の、十八番目の使徒…司令も、そうおっしゃっていました」
「碇は計画の発案者であり、最大の推進者であり、功労者だった。だからこそネルフの総司令として多大な権限を与えたのだ。だが、もはや奴は己のもくろみの為に動いている。いまさら補完計画を阻止するつもりか、それとも自分自身が神となるつもりか、その見極めは我々にもいまだついておらん」
「私に、それをせよと?」
ゲンドウの真意を探る、そのための手駒となれと言うのだろうか。
人類を進化させる、そんなことのために。
彼を裏切れと。
「…赤木リツコ博士、キミは頭のいい女性だ。そして碇に最も近い場所に居た一人でもある。奴の思惑についても、すでに気づいていたのではないかね?」
「………」
「今までは、その上で奴に協力していたのかもしれん。…しかし、碇自身がキミを切り捨てたのだ。もう義理立てする必要はあるまい」
この場にリツコがいること、それがゲンドウの答なのだろう。
信頼されているから、だとは思えなかった。ならば事前に一言あってもいい。
申し出を拒否すれば、それはそのまま死へと繋がるのかもしれない。冬月のときとは違う、加持はもういないのだ。自力でも脱出することなど不可能なのはわかっている。
リツコに人身御供になれと、そうゲンドウは望んだのだろうか。
彼を愛するなら、手駒として、死ねるはずだ、そう言いたいのだろうか。
「………そんなに器用な人じゃないわね」
誰にも聞こえない声で、小さく呟いた。
彼の甘えなのだ。冷酷な選別ではなく、弱さゆえに、リツコの情にすがっているのだ。
目的の為にリツコを切り捨てた、それは確かだろう。だが、ゲンドウの心が穏やかだったわけではない、彼も苦しかった、こうするしかなかった、だから送り出すときに何も言わなかったのだと、言えなかったのだと、そう思えた。
レイを救うために初号機の封印を解いた彼が、今、こうしてリツコを捨てようとしている。代わりのいるはずの人形のほうが、5年越しの愛人よりも大事だと明言しているも同じだ、そのことも一方ではわかっていたが。
少し前の自分なら、歯噛みして悔しがっただろう。
レイを、ゲンドウを、自分自身を、世界の全てをも壊したいと思っただろう。
だが、不思議と今は醒めていた。
裏切ったのは、きっとリツコが先だ。
いつのまにか、ゲンドウから心は離れていた。レイを生かし未来を変えたあの時、それとも、帰ってこないシンジのためにケイジで泣いたあの時、いや、もっと以前、シンジの部屋で彼の弾くチェロを聴いたあの時、それともそのずっと前から、リツコはシンジを、ただシンジだけを見ていたのだから。
ゲンドウがレイの中に誰を見て、そのために何を選択しようと、愛人として彼を責める資格など、もうリツコは持っていなかった。
愛が消えたわけではない。
もっと大事なものができただけだ。
ゲンドウのためならば命すら惜しくなかった。どれだけ手が汚れようとかまわないと思っていた。けれど、もしそうすることであのシンジと再び逢うことができるというなら、今のリツコはゲンドウを切り捨てることができるのかもしれない。
だから同じなのだ。
もちろん、ゲンドウを裏切ろうと裏切るまいと、シンジに逢えるわけではない。
モノリスからつきつけられた選択は、リツコの願いからは遠い、どちらを選んでも絶望しかない空しい袋小路でしかなかった。
ならば5年間抱いていた想いに殉じるのも、いいのかもしれない。
半ば本気で、そうも思った。
糸一本身につけぬ裸体ではあるが、舌を噛むことくらいはいつでもできる。おそらく治療されることはないはずだ。そうやって迎える死が苦しくても、絶望の中で生き続ける苦痛よりはずっと短くてすむ。
リツコの返事を待っているのか、もうどのモノリスからも声は出されていない。
薄明かりの部屋で、人の形をしているのはリツコだけだ。
目をつぶる。世界が暗闇に消える。
自分に問い掛けた。
本当にそれでいいのかと。これで終わってもいいのか、と。
やはり、答えは決まっていた。
まだ、リツコは知らなければならない。シンジが望んだことの行く末を、見極めなければならない。
己を初号機に溶かし、レイを助けたその果てに、彼が未来をどう変えようとしていたのかを。
だから、
だから、死ぬわけにはいかないのだ。
何を失っても。
誰を裏切っても。
閉じていたまぶたを開く。
モノリスたちは微動だにせず浮んだままだ。
いつのまにか渇いていたくちびるから、掠れた声で言った。
「……私は、おそらく肝心なことは知らされていませんわ」
「…………」
「それでもいいというのなら、お伺いしましょう。私に、何をお望みですか?」
胸が小さく痛んだ。
けれど、無視できる痛みだった。