見えない明日で

第6章 第2話

Written by かつ丸






 解放されたのは、見慣れた、ネルフ本部の廊下だった。
 長い時間のような気がしていたが、一日も経っていないはずだ。リツコの不在に気づいた者もあまりいないのではないだろうか。
 いつのまにか、黒服の男たちはみな姿を消している。
 あたりに人通りはまったく無い。
 立ち去る気配を感じなかったのは、リツコがしばらく自失していたからのようだ。
 近くにあった化粧室に入り、手洗い場の鏡で自分を写した。
 リツコの服装はここから連れられた時と同じ、いつもの白衣姿だ。髪すらもほとんど乱れていない。
 化粧は少しだけ乱れていたが、気をつけなければわからない程度だ。
 外見は、変わらない。
 まるで何も起こらなかったかのように。
 ただ鏡の向こう側からリツコを見ているその女性は、凍りついたような、冷たく白い光をその目にたたえていた。
 それは彼女の心の色なのかもしれない。

 蛇口をひねり、水を出す。そして手を洗った。何度も。
 どれくらいそうしていただろうか。

 水を止め、もう一度、鏡を見た。
 何も変わりはしない。
 こんなことで洗い流せるものなど無い。
 わかっている。

 化粧室からでた。やはり廊下に人影は無い。想像より遅い時間なのかもしれない。

 ゲンドウのもとに行くべきかとも思ったが、止めた。リツコが戻ったことは当然知っているはずだ。用があるならそのうち呼び出しがあるだろう。

 今は、無性にシャワーが浴びたかった。









 結局、その日リツコが呼ばれることはなかった。
 ほとんどいつもと同じように翌日を迎え、出勤した。とりあえず先の使徒戦の後始末をしているはずの技術部に顔を出してみたが、彼らの様子も特に変わらない、リツコは急遽出張したと説明されていたようだ。
 書類をはさんだバインダーを抱えながら、マヤが不満げな顔をしている。留守を預ける彼女に事前に何の説明も無いなどというのはおよそ異例だから、それは無理のないことなのだろう。
 リツコの研究室なら彼女のことだからストレートに苦情をぶつけてきたかもしれないが、人の目のあるここでは自制しているようだ。
 膨れっ面で、拗ねていることを隠そうとしないのは、マヤなりの嫌味のつもりだろう。


「…地上の状況について、概ね調査が完了しました」


 詳しいデータはメールで送りましたがと、そう前置きしてマヤが言う。
 零号機の爆発は芦ノ湖をさらに広げる結果となり、第三新東京市の少なくない部分を水没させてしまった。兵装ビルの稼働可能率は10%以下、要塞都市としての機能はほぼ無力化されたと言ってもいい。
 数値とともにマヤが報告してくるが、特に目新しいことではない。あの自爆の後、衛星カメラで状況を確認した時点で予想がついていたことばかりだ。
 表層部のみで、そしてそれでも市街中心部からは外れていたのが幸いしたのだろう、ジオフロント内のシェルターについてはほとんど無傷だった。だから人的被害も爆発の規模からすれば驚くほどに少ない。もちろん比較的、だ。それも、リツコにとってさほど興味は惹かなかった。

 零号機の残骸はどれもほぼ溶解しており、特別の強度を持つダミープラグのみが原型を留めていたという。


「中は確認したの?」

「はい……ですが、高熱でLCLが瞬時に沸騰したと思われます」


 つまり、中にあったモノは無残な姿になっていたということらしい。
 ほぼ同じ強度のエントリープラグがもしも残っていたら、乗っていたパイロットはやはり同様だったのだろう。ダミーもレイも組成は変わらない、結果が変わるはずも無い。
彼女が真の力に目覚めれば、あるいは生存できるのかもしれないが、今のところ兆候がない以上、そうなった可能性は低いだろう。



 そしてまた現れるのです。もう一人の彼女が。
 あの後、ネルフ本部の地下でリツコさんが見せてくれた、水槽で泳ぐ数多くの綾波たち。
 その中の誰かを、あなたか、父さんが、新たな、けれど今までと同じ綾波レイとして目覚めさせるのでしょう。


 シンジの手紙に書かれていた、本来の未来。
 このような状態で、新たに現れたレイを、いったいどのように説明したというのだろう。

 そして、あの黒石板の向こうにいた者たちは、そのことについてどう考えるだろう。

 綾波レイ、その存在に。



「……先輩?」

「ああ、ごめんなさい。…このことはもう上にはあげたの?」

「いえ、あらましができしだい報告するよう、昨日副司令には言われていますが。…あの、先輩、お願いできますでしょうか」

「…そうね、わかったわ」

「ありがとうございます!」


 マヤが顔を綻ばせる。
 リツコとは気安く話せても、冬月やゲンドウは彼女にとっては雲上人に近いのかもしれない。
 そんなマヤに微笑み、リツコはバインダーを受け取った。
 向かう先は司令室だ。
 まだ呼ばれてはいないが、こちらから会いに行くのもいい、そう思った。
 別にリツコが逃げる理由は無いのだから、と。










「……司令はお留守なのですか?」

「…ああ、出張中だよ」


 リツコの問いかけに、いつもどおりのやわらかい口調で返事がきた。
 主が不在の大きな机、その少し離れた脇にある来客用ソファに座り、冬月は将棋の駒を並べている。片手に持つ本は詰め将棋のテキストだろうか。
 事前に連絡はしなかったが、とまどった様子は無い。もちろんこの部屋に入る前にインターフォンで名はつげている、数秒あれば心に幕をかけることなど彼にとってはたやすいだろう。
 ゲンドウの不在についても不自然に思ったが、詮索は無意味だとわかっていた。
 本当に留守だったにしても、そうではないにしても、ここにいないことに変わりはない。

 リツコも気にしないフリを装い、マヤから預かった報告書を読み上げる。
 冬月はそのまま詰め将棋を続けているが、もちろん話を聞いていないわけではない、ときおり質問をはさんでくる。もっとも、さほど重要だと思っていないのも確かのようだ。


「…レイが助かったのは、やはり僥倖だったな」


 零号機の残骸について聞いた後、ためいきをつきながら冬月は言った。ふだんからレイにこだわった様子は見せない彼だが、感じるところがなかったわけではないらしい。


「そのかわりに失ったものはあまりに大きいのかもしれません。…使えるエヴァは今現在実質的にゼロになりましたし、地上の設備も壊滅。ネルフ本部がもつ戦力は、ほとんど残っていませんわ」

「セカンドチルドレンは、やはり見込みは薄いのかね?」

「明日にでも再テストを行なうつもりですが、早期回復は困難でしょうね。原因がわからないことには、どうにも」

「…碇の息子もあてにはならんか」

「はい。…もちろん、現状ではそうも言ってはいられませんが」

「そうだな……」


 ピシっと、駒を打つ音が響く。ゲンドウならともかく、冬月がシンジのことをそれほど気にとめてはいないだろう。
 記憶を失った今のシンジについても、彼から具体的に問われたことはない。そういう場ではいつもゲンドウがいた、だから遠慮していたのかもしれないが。
 何を考えているのか、ネルフ本部でもっともわかりがたいのが冬月なのかもしれない。少なくとも、人間のうちでは。



「……お伺いして、よろしいでしょうか?」


 一通りの報告を終え、バインダーを閉じた後、一拍おいてリツコは切り出した。
 予想していたに違いない、意外そうな表情もなく、冬月が顔をあげこちらを向く


「副司令はご存知なのですか? あの、モノリスたちの正体を…」

「………」


 いきなり、言ってみた。
 さすがの彼も虚を衝かれたのか、絶句しているのがわかる。
 これでリツコにも理解できた。アレは補完委員会のこけおどしの姿などではなく、それとはまた別の何かであると。


「…そうか、君もゼーレに会ったか」

「ゼーレ?」

「ああ、すでに君は察しているかもしれんが、補完委員会は表の顔、いわばダミーにすぎない。ネルフの、ゲヒルンの、そして人工進化研究所の、真のオーナーともいえる結社、それが彼らだよ」

「……つまり、国連からは外れたところにある機関だということですか。それが補完計画の指揮者だと…」

「かつての南極、葛城調査隊にも彼らの息はかかっていた。さもなければ無名の大学講師でしかなかった碇が、あの隊に参加することなど不可能だったろう」


 アダムの制御実験。
 セカンドインパクトの原因となった、その世紀の悪行についてのあらましは、すでにナオコから聞かされていた。現場に行っていないナオコもゲンドウからの伝聞だったはずだ。
 ほのめかしだけではあったが、あの災忌は事故ではなく人為的なものだという印象をリツコは受けていた。世界の大部分を混乱に巻き込んだあの事件も、そのゼーレという組織が企んだものだということなのだろう。
 ゲンドウを、実行犯として。


「…司令も、その、ゼーレの一員なのですね?」

「いや、碇は手駒にすぎんよ。ゼーレははるか以前から存在するといわれる組織だ。成り上がりの入る余地など、おそらくないに違いない」

「しかし、…それは不自然ではないのですか? あまりにも司令の権限は大きいと思いますが」


 ゲンドウのことが制御できなくなった。
 だからこそ彼らは冬月を拉致し、そしてリツコを査問にかけたのだろうから。
 ただの手駒なら、もっと効果的な制御手段を持っていたはずだ。それが加持だというならいかにもおそまつすぎる。

 無名の大学講師、そう冬月は言った。
 西暦2000年当時、まだ33歳のゲンドウは、確かに学会での知名度はゼロに等しかったろう。葛城博士の研究施設は東京にあったが、京都の大学に所属していたゲンドウでは大きなコネもそうそうありはしまい。なにより大学から派遣されるとすればその頃すでに新進気鋭の学者だった冬月にこそ白羽の矢がたってもおかしくはなかったのだ。
 しかも、調査隊の構成は日本国内にとどまらない。機密事項とはいえ、神の発見という人類史を揺るがす大きな問題だ、世界各地の優秀な科学者が選抜されたはずだ。

 そこになぜゲンドウが参加できたのか。
 ゼーレというその組織が送り込んだとして、なぜ、ゲンドウはそんなものの手駒になったのか。いや、なりえたのか。

 仮にただの工作員だったとしても、世界の破滅に近づけたあの事件の実行などと、それほど大きな秘密に関わったら、秘密保持のためにはむしろすぐさま消される可能性のほうが高いはずだ。
 加持が、あっさりと殺されたように。

 やはり、納得はできない。

 リツコの強い疑念が伝わったのか、冬月が、小さくため息をついた。


「…セカンドインパクト以前から、碇にはゼーレとのつながりがあったのだよ。……あいつの妻である碇ユイ、彼女のバックボーンにある組織こそが、ゼーレだった」

「バックボーン? でも、確かユイさんは副司令の教え子だったと…」

「ああ、私のゼミに在籍していた時から、そういう噂はすでにあった。あの当時、コングロマリット、いわゆる多国籍企業の持ち株会社が作った財団が私の大学に大口の委託研究を行っていたが、その財団の名称がゼーレという名でね。ユイくんは理事に名を連ねていると、学生や教授会では囁かれていた。…おそらく、研究契約を結んだ事務方から漏れた情報だろうな」

「…ユイさんの方が世界を動かす巨大組織ゼーレの一員であり、そのユイさんとの結婚により、司令もまた組織との強い結びつきを得たと、そういうことですか?」

「うむ…」


 真面目な顔でうなづく冬月から紡がれるのが信じられないほど、荒唐無稽な、三文小説のような話だ。
 ギャクタマなどというのは俗な言葉だが、傍から見ればまさにそんな状態だろう。それでも世界を動かす裏組織などと、スケールがおよそマンガチックにすぎてあまりに現実味がない。そしてゲンドウにそんな役割が似合うかどうか考えれば、贔屓目かもしれないがやはりそぐわないのではと思う。
 確かに陰謀家ではあるが、野心家が本性だとは思えない、院生から大学に残るというのは世間レベルでは地味な生き方だ。ノーベル賞などの栄光はごく一部を除けば長年の研究の成果であり、安易な近道で果実をもぎ取ろうとする男には、迂遠すぎるだろう。
 地上の権力が欲しかったのなら政治家を目指せばいいし、天上に君臨したいなら宗教家になればいい。しかし、ゲンドウは、ただの大学講師でしかなかったのだ。冬月が言ったように。
 それまでの人生で関わりもせず、必要ともしなかった途方もない権力、なぜ、彼がそんなものを望む必要があるというのか。


「…司令にとっては政略結婚だったと?」

「最初に近づいた時は、碇もそのつもりだったのだろう。研究者にとって潤沢な資金や後ろ盾は大きな魅力だ」

「この数年、司令が研究をしている姿など見たことがありませんけど、本末転倒ですわね」

「人間である以上、感情で踏み外すこともある。巻き込まれた口だよ、あいつも」


 もっとも私を巻き込んだのは碇だがな、と、自嘲気味に冬月が笑った。
 それでもリツコには笑えなかった。冬月の言葉の示唆するもの、それは、セカンドインパクトからゲヒルン創設にいたる一連のことにゲンドウが関わっていたのは、彼独自の考えゆえではなく、むしろユイの意志に拠ったということだ。


「…では、なぜ司令は人類補完計画を推進したのですか? ユイさんが消えた後も」

「私は碇ではないよ」

「副司令…韜晦はもう結構ですわ」


 厳しいリツコの口調も意に介さないように、冬月はまた視線をテーブルに戻すと将棋の駒をひとつ掴み、盤上に置いた。
 しばらく沈黙が続く。リツコはただ彼の横顔を見下ろしていた。
 二人だけの司令室にもう一度駒の音が響き、そして再び冬月が口を開いた。


「……人類補完計画は、ゼーレという組織の悲願だよ。知ってのとおりA計画もE計画も、その一部にすぎん。つまり…」

「つまり、それもまたユイさんの遺志だったのですね。……でしたら、どうして今になって彼らを裏切るのですか?」

「…問い質して確かめろと、ゼーレの老人が君にそう言ったのかね?」


 また、駒の音が響く。冬月の表情は見えない。


「……いいえ、ただ私が知りたいだけですわ。彼らに訊かれたのは、司令の真の目的は何か、でしたけれど私には答えられませんでしたし。国連を動かすほどの組織を相手にしてまで、対抗しなければいけないどんな理由があるのか、想像もつかないですから」

「手厳しいな…」

「やはり初号機の覚醒が遠因なのですか? それとも目的? どちらにしてもあと一体しかこない使徒を殲滅すれば、あなたがたとゼーレとで潰しあいが始まるということになるのですね」

「…補完計画を執行するのが、我々ネルフの最終的な使命だよ」

「それは、誰にとっての補完となるのでしょう?」

「愚問だな」


 さらに強く、断ち切るように冬月が駒を盤に置いた。
 そしてしずかに駒から手を離し、本を閉じる。


「…詰んだのですか?」

「ああ、もともと詰むようにできている、解けてしまえば一本道でしかないよ」

「それでは、私は仕事に戻ります。…失礼いたしました」


 今までの会話など無かったように、いつもどおりリツコは軽く頭を下げた。
 小さく冬月が頷く。


「…君も、碇に巻き込まれた一人だな、ナオコくんのように。こんなことに関わらなくても、君ほどの才能があればいくらでも道はあった」

「……母と私は違いますわ。…私は、まだ絶望はしていませんから」


 そう言って冬月に見せた笑顔は、皮肉でも嫌味でもない曇りのないものだった。

 もはやリツコの心は、ゲンドウとは別のところにある。彼を支点とし冬月と三人でネルフを支配してきた薄闇色の同盟から、リツコは抜け出たのだ。
 ゼーレの手に渡した時点で、ゲンドウが自ら切り捨てた形にはなった。今日冬月が一人でリツコと会ったのは、彼女を労い、そして、冷静な目で心境を量ることにあったのだろう。

 そのことがわかったから、リツコも応えてみせた。
 冬月には伝わったはずだ。彼らへの訣別の意志が。

 ゲンドウと冬月の企てに従うことはしない、そう告げたに等しい。

 折込みずみだったのかもしれない。彼も動揺はしていなかった。
 ゼーレの訊問に転び二人を裏切ったというより、ユイへの嫉妬から協力しないと思われているのだろうか。
 だが、あのモノリスの指示は、ゲンドウを探れなどということではなかった。
 また、ユイとゲンドウの真実を知っても、リツコの中にどす黒い感情は湧きはしなかった。

 ただ、リツコがゲンドウから自由になった、それだけのことなのだ。


 絶望はしていない。


 ゲンドウによって絶望させられることなど、今のリツコにはありえない。

 彼が誰を望もうと。
 彼が何を願おうと。


 もう一度、冬月にお辞儀をして、リツコはドアの方を向いた。
 歩き出す。

 そうだ。
 後は進むしかない。


 この先に、何が待っていても。








 







〜つづく〜












かつ丸にメールを送る
katu@osaka.104.net



解説




ゲンドウいないとき、冬月に司令室に入る権限があるのかどうか。
副司令に個室が無いってわけもないし。
でも、冬月って発令所にイスもないのな。











自作エヴァSSインデックスへ

トップページへ