Written by かつ丸
「…今朝は話はできたの?」
「アスカ? いいえ、このところほとんど顔を合わせてないわ。家には帰ってきてるみたいだけど…」
挿入位置に運ばれていくプラグをガラス越しに見ながら、ミサトは苦虫を噛んだような顔をしている。
今のアスカに励ましが効果的かどうかは疑問だが、今日ここにいたるまでに、何かしてあげたいと思うのは、せめて声をかけたいと思うのは、同居人である彼女の当然の想いだとリツコにもわかる。
それを、利用する者のアリバイづくりだと断じるのは、あまりにも一面的すぎるだろう。
もっとも、エントリープラグの中で実験開始を待つ少女は、ミサトのことなど気にしてはいまい。ほとんどラストチャンスなのだ、その緊張に耐えるのに精一杯に違いない。
プラグ内を映すモニターは、あえて止めてある。こちらの声も、向こうの声も、聞こえないようにしていた。
準備段階も含めて必要以上の会話はしていない。
少しでもアスカが集中できるようにという配慮だった。
リツコたち技術部関係者とミサトを除き、他の誰もこの場にはいない。
シンジもレイも呼んではいなかった。彼らには今日の実験はないと伝えている。
残酷な結果が出るところを、わざわざ子ども達に見せることもないからだ。
深紅のエヴァンゲリオンが実験場に繋がれている。
四つの複眼に、まだ光は灯っていない。起動が成功しなければ、灯ることはない。
もう、二度と灯らないのかもしれない、アスカの手によっては。
誰もが、口に出せずとも、そう思っているのかもしれない。
ミサトも。
おそらく、アスカ自身さえも。
準備は整ったのか、そうマヤに聞こうとしたその時、制御室のドアが開いた。
「副司令!?」
「ああ、そのまま続けてくれ」
薄茶色のネルフ制服に見を包んだ冬月が、ざわめく職員たちを片手で制す。
連絡は受けていなかったが、リツコに驚きはなかった。
昨日、司令室で行なった冬月とのやりとり。
その、効果が現れたのは、思いのほか早かったようだ。
「進捗状況はどうかね?」
「どうなの、マヤ」
「は、はい、セカンドチルドレンの身体、及び精神状況についてはすでにチェックを完了しています。体調はほぼ良好、メンタル面でも大きな問題は見当たりませんでした。機体も再度点検しましたが、おかしな個所は見つかっていません。準備もすんでいますので、いつでも実験は開始できます」
緊張した口調でマヤが答える。彼女だけではない、技術部員全員に張り詰めた空気が漂っているのがわかる。
ミサトも口には何も出さないが、怪訝そうな顔をしている。
対する冬月に気にした様子は無い。
弐号機の起動試験を行なうことは昨日の報告時に話していたが、副司令の彼が実験場に顔を出すことなどほとんど異例だった。レイの起動試験以来だったろう。
いつもの実験はリツコの指揮のもと行なわれているが、彼がいる以上、リツコもその指示に従わないわけにはいかない。
つまり、リツコの意思表示に対する、これが答えというわけだろう。
ひとつは実験の主導権と結果についての情報を抑える。
もうひとつは、リツコとゲンドウのつながりをなくす。
そう、冬月がここにいる以上、リツコがゲンドウの元に報告に行く必要はない。立場で言えば青葉やマヤたちに近いものになる、そのことに気づいている者は、技術部の中にもおそらくまだいないではあろうけれど。
もちろん、リツコにとっては予想の範囲内の出来事だ。最悪の場合、ゲンドウの指示で拘禁される可能性も考えていたから、それに比べればはるかにましだった。
マギは今もなおリツコの管理下にある、また、絶対に秘密でなければならない綾波レイの正体を知っている。その危険性を彼らが過大に考えれば、手綱をとれなくなったリツコを排除しようとするのは、むしろ普通のことだと思う。
けれど、ナオコの時とは違う。
リツコにはまだ代わりがいない。
たとえばマヤでは無理だ。数年先ならわからないが、精神的にも技術的にも、リツコの穴を埋めるレベルにはない。リツコにしたところで、ナオコの後をきちんと継ぐには何年もかかったのだ。
使える度合いと危険度を天秤にかけているとしたら、まだもう少し時間はあるだろう。
なにより、リツコがレイの秘密をゼーレに話していないことは、ただ距離をとっただけで敵対するわけではないことの証でもある。その意味がわからないわけはない。
監視はつけているにせよ、リツコが具体的な裏切り行為を何もしないうちは、手を出してくることはないと思えた。
「では、起動実験を始めてくれたまえ」
「はい、アスカも準備はいいわね。弐号機起動試験、開始します」
冬月が号令をし、リツコが復唱する。
指揮系統からすれば何の問題も無い。
あたりまえのように、技術部員たちが動き、そうして、試験は始められた。
病室のドアを、二度ノックした。
返事はない。
かまわず中に入った。罵倒の声が無かったのは、そんな気力も無いということだろう。
何も言わずにベッドに近づく。
後ろに続いているミサトも無言だった。
アスカは、眠ってはいない。
上半身を起こして、視線だけ余所を向いていた。空ろな瞳だ。
ここに運ばれて数時間、最初は暴れて鎮静剤を投与されていたはずだが、今はもう落ち着いたらしい。
ようやく現実を受け入れた、そういうことだろうか。
丸イスがひとつだけある。リツコは座らず、ミサトの目を見て促がした。
小さく頷き、ミサトが腰掛ける。
白衣のポケットに手をいれ、こころもち二人から下がった位置にリツコは立った。
ミサトとほとんどかわらない高さにある、アスカの顔を見つめる。
何も感じないかのように、あらぬ方向を向いたままだ。
口びるがかすかに動いている。聞こえないが、独り言を言っているようだ。
そんなアスカを見ているだけのミサトの右肩に、手のひらを乗せた。
一瞬、彼女が震えたのがわかる。
やはり自分が切り出すべきか、そう思ったが、その前にミサトが話し出した。
「…アスカ、単刀直入に言うわ。あなたは当分休んだほうがいいと思うの。…しばらくエヴァから離れて、体調を整えれば、またシンクロできるようになるわよ」
「………」
「中学校はこないだの爆発で壊れちゃったから、洞木さんが疎開する松本に行くのもいいかもしれないわよ。ペンペンの世話も彼女よりあなたにしてもらったほうが私も気楽だし…」
「………」
「もし望むなら、一度ドイツに里帰りするのもいいかもしれないわね。……ご家族とはもう一年近くも会ってないんでしょ? 声だけじゃなくて、たまには顔を見せないと、やっぱり…心配するわよね…」
「…………」
ミサトの声が届いていないのか、アスカは返事をせずぼんやりとしている。
薬物の影響ではない、心を閉ざしつつある、その前兆かもしれない。
それほど、エヴァの存在が、彼女にとっては大きかったということだろう。
幼児のころからパイロット候補生として育成されてきたのだ、無理も無いことだと思う。
だからといって、今の状態を許していいものでもない。荒療治でも現実に目を向けさせなければいけない。
それは、ミサトが一番よくわかっているはずだ。
「アスカ、エヴァと全くシンクロしなかった以上、暫定な措置として、あなたは弐号機パイロットの資格を剥奪されるわ」
「リツコ!」
リツコの言葉に、驚いた顔でミサトが振り向く。
そしてはじめて、アスカの瞳がこちらに動いた。
「……もう…アタシは…チルドレンじゃなくなるの?」
「形式上はそのままよ。けれど、あなたが乗るエヴァは無くなるでしょうね」
「だから、それは暫定的なものよ。シンクロ率が戻ればまた弐号機に乗れるようになるわよ」
割り込むようにミサトが言う。
だが、アスカの瞳はリツコから動きはしなかった。
聡明な彼女にはわかっているのだろう。今日行なわれたのがラストチャンスだったのだと。アスカのシンクロテストを今後実施される見込みが、もはやほとんど残っていないというそのことに。
「…アタシは…エヴァに…乗れなくなるのね。…誰か新しいパイロットが来るの?」
「おそらく、そうなるでしょう。…あなたが気にする必要はないと思うけど」
「ちょっと言い過ぎよリツコ!」
「いいじゃない。どのみち使徒は次で終わりなんだから。そうなればチルドレンそのものに意味はなくなるわ」
「なっ!?」
アスカが目を大きく開く。
ミサトが絶句しているのがわかる。
リツコはそんな二人の様子を微笑みながら見ていた。
この病室はモニターされている。冬月も、そしてオペレータたちも聞いていただろう。もちろん承知の上だ。
アスカの瞳に光が戻ってきているのが分かる。
ミサトはそんな彼女と目を合わせたくないのか、横を向いている。
いつもの気の強さを取り戻したように、アスカがリツコに問い詰めてきた。
「それ、どういうことよ、いったい」
「言ったとおりの意味よ。次の使徒を倒せば、もう新しい使徒は現れないわ」
「なんでそんなことがわかるのよ」
「…もともと使徒の出現は予想されていたことよ。だからこうしてこの街やエヴァがつくられた。始まりがわかっているのなら、終わりも同じことだわ」
「じゃあ…次でどのみち用無しだったってこと? そんなことぜんぜん聞いてないわよアタシは」
「今、言ってるじゃない」
怒りに身を震わせているアスカを、冷めた目でリツコは見ていた。
ミサトが何も言わないのは、この数日の間に彼女なりに咀嚼したせいだろう。
使徒はもはや大きな問題ではないことに、ミサトも気づいているのかもしれない。
その後どうするか、どうなるのか、それこそが焦点になる。
ゲンドウ、冬月、リツコを除いたネルフ職員の多くは、使徒がいなくなった後のことなど考えたこともあるまい。だが、これでいやおうもなく考えざるを得なくなる。
使徒がいなくなれば、ネルフは何をするのか、と。
自分たちのレゾンデートルはどこにあるのか、と。
目の前のこの少女が、まさにそれだ。
エヴァの存在に意味がなくなるなら、シンクロ率の上下に悩むこと自体に意味が無くなる。
彼女を支えてきたであろうチルドレンという地位、それが無意味にになる。
「だって、使徒がいなくなっても、エヴァが無くなるわけじゃないんでしょ?」
「誰と戦うつもりなのアスカ。来もしない宇宙怪獣や悪のロボット軍団がやってくるのをずっと待つつもり? ばかばかしい。 わかるでしょう、使徒がいない世界では、後は人間しかいないのよ」
「それって…」
「エヴァが兵器である以上、使徒がいなくなっても兵器として運用される可能性はあるわ。でも、そんなに人殺しがしたいの? アスカ」
人命救助だとか災害出動だとか、そういうことに使われる可能性も確かにある、だからリツコの論理は歪んだ決め付けだとの謗りは免れないだろう。
だが、その本質が兵器である以上、殺戮や破壊にもまた使われうる。そのことに反論の余地はあるまい。
使い道を決めるのは、少なくともアスカではないのだ。
「…アタシは…ずっとパイロットして教育を受けて…だから…」
「軍人として生きていくというのなら、私は止めないわ。14やそこらで求められたわけでもないのに酔狂だとは思うけど、あなたの人生ですものね」
「…リツコ、もうやめてあげて…」
いたたまれなくなったのか、ミサトが振り向いて言った。
アスカは蒼ざめた顔をしている。人殺しになると言われて平静でいられるほど、精神的にタフではないのだ。
「…そうね。…これからどうするか、よく考えればいいわ、アスカ。ネルフはあなたの将来に責任があるから、望む道を進めるように、フォローはするつもりよ」
我ながら、気持ちのこもらない言葉だと思った。
補完計画が発動されれば、おそらく望みもなにも関係なくなる。ネルフにとってアスカは、切り捨てられる時間が早くなった無用のもの、ただそれだけの存在だった。
アスカだけではない。
ネルフの職員もみな、計画の生贄としてもうすぐ切り捨てられる。かつて赤木ナオコがそうだったように。
葛城博士が、惣流キョウコがそうだったように。
祭壇の仔牛として、屠られるべく定められている。
「…あなたがエヴァに拘る理由は、きっと私にもミサトにも通じるものね。だから、あなたの生き方を笑うつもりはないけれど、過去に捕らわれるには、あなたはまだ若すぎるわ」
「…うるさいわよ。知ったような口をきかないで!」
「ええ、もうやめるわ。それじゃ」
そうして、リツコは病室を出た。ミサトは、もうしばらくアスカと話をするつもりだろう。
唯一の家族として、今度こそ、胸襟を開いてみればいい。
残るのが憎しみだけだとしても、あのままアスカが壊れてそれで終わるよりは、きっといいことなのだと思う。
廊下を数歩歩んでから、病室をもう一度振りかえった。
閉じられた扉の中で何が話されているのか、もう聞こえない。
そしてすでに、興味も失われていた。
もともとたいして気にかけていたわけではない。
アスカの立場は、やはりリツコに似すぎている、亡き母の思い出にすがり続けようとする彼女の姿は、できれば視界の外に置いておきたかった。
だから、もういいだろう。
踵を返し、再び歩き出す。
加持の願いにどれだけ応えられたのか、リツコにはまだわからなかった。
シンジとレイのシンクロテストが行なわれたのは、その翌日だった。
アスカは結局一日入院させて、そして家に返したようだ。制御室に顔を出したミサトがそう言っていた。様子からみて、あれから事態が悪化したわけではないらしい。
それより、リツコにとって今は目の前の実験のほうが大事だった。
先に行なわれた初号機とシンジのテストは、前回とほとんど変わらない数値を示した。
問題は今、行なわれているレイの試験だ。かつての互換実験がウソのように、まったくシンクロする気配が無い。
実験の実質的な指示は、今日も冬月が行っている。それを横目で見ながら、ミサトがリツコだけに聞こえる小さな声で話し掛けてきた。
「…彼女も、深層心理ではエヴァに乗るのを拒否してるってこと? アスカみたいに」
「それは、少し考えにくいわね。あの子にとっては、エヴァこそが存在価値だから。アスカとは全く別の意味で」
「…エヴァに乗るそのためにレイは生まれてきた、いえ、造られたんですもんね。このまま切り捨てられるの? あの子も」
「さあ、どうかしら…」
ミサトは知らないが、レイの存在にはリリスに関わる大きな秘密がある。チルドレンという立場自体がカムフラージュのようなものだ。
ゲンドウや冬月が、レイを手放すわけが無い。
それに初号機とのシンクロ低下はレイに原因があるというよりエヴァ側の問題だろう。S2機関搭載後、いや、ユイが覚醒してからのことだからだ。実際零号機とはずっとシンクロしていた。
初号機が拒否している、そう思える。
そういう意味では、アスカよりも状況はいいのだ。
世界各地で造られているエヴァ、そのうち一機でも本部にまわされることがあれば、パイロットはレイになるのではないかと思う。
理論上は、弐号機のパイロットになることも可能だ。
ただ、初号機に乗れないだけで。
「…やはり、無理のようだな」
ため息をつくように、冬月が言った。
モニターに映った数値は、やはりさきほどまで変わらぬ最低を示したままだ。
「もういいだろう、リツコくん」
「はい、みんな、実験を終了します」
リツコの号令で、技術部員達が激しく動き出す。
周囲に頓着することも無く、冬月は初号機を見つめている。静かな、何かを諦めたような、そんな目をしていた。
昨日の病室でのことも、何も聞かれない。もはや周囲のことなどどうでもいいのかもしれない。
リツコと同じように冬月を見ていたミサトが口を開く。
「シンジくんの戦闘訓練、充実させる必要があると思われますが、よろしいでしょうか?」
「…ああ、そうだな。碇には私から話しておこう」
答えながらも冬月は視線を初号機から動かさない。
彼が見ているのはきっと、ゲンドウと同じものなのだろうと思った。
同じ者に囚われた共同体として、彼らは進んでいけばいい。
「弐号機パイロットの補充、どうすればよろしいでしょうか?」
リツコの問いかけには、冬月は無言で答えた。
聞こえなかったのか、そうではないのか、リツコも二度問い直すことはしなかった。
ダミーを使うにしろ、予備の子どもたちを使うにしろ、リツコを通さずに行なうことはできはしまい。何も言わないのは、彼らなりの思惑があるのか、動く必要すらないのか、どちらかだろう。
だから、それ以上は訊かないでいた。
委員会が直接フィフスチルドレンを送ってくると、冬月から聞かされたのは、それから数日経ってからだった。
履歴書と、添付された写真を見ただけで、リツコにはその子どもの正体がわかった。