Written by かつ丸
思えば、第五使徒戦が、シンジにとってターニングポイントだったのかもしれない。
あの時、手遅れになる直前まで、シンジはレイを見捨てようとしていた。
それを思いとどまり、使徒を倒すために飛び上がった瞬間、シンジの中で何かが変わったのだ。
世界を壊したのは、サードインパクトを起こしたのはレイだと、シンジはそう言った。
原因を断つのがもっとも容易な手段のはずだった。あの時なら責められることはあるにせよ、殺したのはあくまで使徒になる。
けれど、シンジはそうしなかった。できなかった。
その意味を、リツコは軽く考えていたのかもしれない。
地上で、シンジが零号機からレイを救い出し、リツコたち救助隊が到着するまでの何分間かのあいだ、ゲンドウを始め誰もシンジたちの様子を把握しきってはいない。
カメラにより画像を見ることはできても声までは拾えなかった。俯いていたシンジのくちびるが見えない状態では、発令所から知ることは不可能だ。
レイだけが知っている。
シンジは「ごめん」と謝っていたと、そう答えた彼女が嘘をついていたとは考えにくいが、はたしてリツコは全ての真実を聞かされていたのだろうか。
いくらレイが特別とはいえ、彼女を助け涙を流した、それだけで、ここまでこだわるものなのだろうか。
「あの使徒戦の後、二人きりの地上で、シンジくんは、あなたに何を話したの、レイ」
「っ!………」
レイが息を飲んだのが、わかった。
一瞬だけ目が見開かれ、紅い瞳の動きが止まる。
かつて一度尋ねた時とは、明らかに様子が違う。
リツコの言葉の意味が、彼女にも伝わったのだろう。
今度は、包み隠さず話せ、と。
シンジはレイを自爆から救うことを望んだ。
彼もまた、彼女に拘っていた。
世界を救うためにシンジがしようとしたこと、その鍵を、今のレイはもしかしたら聞かされていたのではないだろうか。
だから、死によってリセットされるのを避けようとしたのではないか。
「………」
蒼い髪の少女は少し俯いたまま口を閉ざしている。
いつも何ごとにも動かされないレイが、今は怯えているように見えた。
リツコに、ではないだろう。
彼女の秘密を全て知るリツコにさえ、告げるのを憚ることを、シンジは言っていたというのか。
「お願い、教えて、レイ…」
「………」
「レイ……」
懇願に近いリツコの言葉が届いたのか、レイがゆっくりと顔を上げる。
決心がついたのだろう、その表情はいつもの彼女だった。
むしろ、本当に怯えているのはリツコかもしれない。
シンジがリツコには明かさなかった、直接明かしたくはなかった事実の一片を手に入れる、そのことに。
打ちっぱなしのコンクリートが剥き出しになった、女の子らしいマスコットのひとつも無い殺風景な部屋で、レイの心象風景そのものとも思えたこの場所で、今、ようやくリツコは真実と向き合っていた。
「ごめんと、言っていたのは本当です。ただ…」
「他にも、話したことがある。そうね」
レイが小さく頷く。
そして、意を決したように、訥々と語り始めた。
「あの時、使徒の攻撃でプラグ内の温度は上昇していました。私は意識を失っていたので断言はできませんが、おそらく生命維持が危険な状態だったと思います。…碇君は、初号機でプラグを取り外して地上に降ろしてくれました。私が気づいたのは、彼にプラグから助け出される時でした」
「…続けて」
「碇君の手でプラグから抱き上げられ、地面に降ろされるまでの間、彼はずっと泣いて、涙を流していました。私は不思議でした。…彼が何を悲しがっているのかわかりませんでしたから。使徒も倒したようだし、どこかケガをした様子もないのに、どうして泣くことがあるんだろうと」
人は悲しい時に涙を流す。
かつてレイにそう教えたことを思い出した。
「泣きながら、謝っていました。ごめんと、何度も繰り返していました。…その意味もわからなかった。自分の身体に大きな異状が無いのは感じ取れましたし、碇君に助けられなければ今の私は死んでいた可能性が高い。謝罪される理由が、私には無いはずだから」
「…あの戦いで、彼は一度あなたを見捨てようとした、それが理由よ」
「はい、碇君も、そう言っていました…」
リツコの言葉に動揺することも無く、あっさりとレイが同意した。
むしろそのことに驚愕する。
いくら時間が経ったとはいえ、シンジが自分を死地へと追い込んだというその事実を指摘され、なぜ、簡単に受け流すことができるのだろうか。
「どうして謝るのかと訊いた私に、綾波を死なせようとしたからだと、彼はそう答えました」
「………」
「私は尋ねました、私が死ななかったから悲しいのかと、だから泣いているのかと。でも、ならばなぜ私を助けたのかわからない。そう言うと彼は、碇君は…」
レイの目が虚空を見つめる。
リツコの顔ではなく、違う誰かを見ている。
ここにはいない誰かの顔を。
「違う。僕は間違っていた。キミに罪は無い。キミは何もしていない。キミを裁く資格も、殺す資格も、僕には無いんだ。たとえ……」
「………たとえ?」
「…たとえ、僕と綾波の願いが世界を滅ぼしてしまったんだとしても、それはキミのせいじゃない。だから死なせちゃだめだったんだ」
おそらく、これがシンジが言ったとおりそのままなのだろう、まるでシンジが乗り移ったかのように、レイが話す。
表情は冷静なまま、微動だにしてない。
「世界を滅ぼすとはどういう意味かと、私は訊きました。彼は首を振って答えました。…キミは知らないことだと、知らないほうがいいと」
「…それでは納得できないでしょう」
「はい。もう一度、同じことを私は訊きました。碇君はしばらく黙ると、次に初号機を見上げて睨むように見据え、そしてまた視線を私の方に戻し、言いました」
「………」
「…僕たちはエヴァを動かすために生まれたんじゃないんだ。こんなことを絆にしちゃいけないんだ。キミに他に何も無いなんて、そんなことは嘘だ。……そのために父さんが綾波を創ったとしても、キミがクローンで、同じ人が何人もいて、その元が僕の母さんだったとしても、そんなことは関係無い」
淡々と、レイが話す。
彼女の存在の根幹に関わるはずのその言葉に、意味などまったく無いというかのように。
リツコは驚きを表すこともできず、息を呑んでただ聞くしかなかった。
「…本当はそう言えばよかったんだ。逃げたりせずに、ちゃんと話せばよかったんだ。恐かったんだ、綾波が、キミが僕の知らない別の何かに変わったみたいで。僕と綾波の間に、絆はちゃんとあったはずなのに」
「……」
「僕は綾波が好きだった。アスカやミサトさんが好きだった。トウシが、ケンスケが、委員長が、そしてカヲルくんが好きだった。この街を、みんなを守りたかった。…だけど、出来なかった。逆に壊してしまった。僕は、結局逃げてしまった。すべて、その報いだったんだ」
いつか、そう、シンジが初号機に溶けたあの戦いの前、同じようなことを彼は話していた。
トウジのことで動揺していたのだろう、泣きながら、独り言のように。
あの時、シンジにはリツコが見えてはいなかった。
レイが話すシンジの様子も、似ているように感じる。策略や思わくなどない、純粋な感情の迸りが、彼の自制を無くしたのだと思う。
レイの紅い瞳は空ろなまま、焦点を失っている。
シンジに言われた言葉をこうも覚えているのは、レイ自身、何度も反芻したからに違いない。
秘密をすべて知っているというその告白が、彼女にとって無意味であったはずがないのだ。
手紙を読んでも動じた風がなかったのも、これでわかった。
「いったいあなたは何を話しているのかと、そう私が訊くと碇君は、我に返ったように私を見て、そしてまたしばらく押し黙りました。1、2分でしょうか。彼は、ごめん、忘れてくれていいと、そう言いました。…その後です、赤木博士と救助隊が到着したのは」
「…あなたたちの会話は、遠すぎて私たちには聞き取れなかったわ。……でも、それ以上追求しようとは思わなかったの? 彼とは学校で会う機会もあったでしょう。…それに、そういえばシンジくんが言っていたわ。あなたが部屋を訪ねて来たことがあるって」
「一度、行きました。彼の言葉が気になりましたから。その時も、ただごめんと謝られただけでした。まだ何も話せないとしか言ってはくれなかった」
そう話すレイが、悲しそうな顔をしているような気がリツコにはした。
ほんのわずかの表情の変化がそう感じさせた。
「けれど、さっきの手紙を受け取った時に、彼は約束してくれました。何も訊かずにこれを預かってほしい、いつか槍が使われた時に赤木博士に渡してくれれば、その後、隠していたことは全て明らかにすると」
「疑問には思わなかったの?」
「その時は変だと思いました。けれど、碇君が初号機から帰ってこなかったことから、一度は納得できました。直接渡せない、そういうことなのかと。でも…」
「ひと月の後帰還し、使徒を倒した槍が宇宙に消え、預けられた手紙を渡した今でも、シンジくんは記憶をなくしている。あなたの希望をかなえることは無理でしょうね。…もしかしてあなた、シンジくんに尋ねてみたの?」
「はい。…あの人は、何も知りません」
知るはずがない。あれは、別人なのだから。
さきほどの揺らぎがまぼろしのように、やはりほとんど感情を出さないままのレイを、リツコは見つめた。
果たされなかった約束を抱えていた者が、ここにもう一人いた。
リツコにはシンジが自分で話す代わりに手紙をレイに託したように、彼はリツコに委ねるつもりなのかもしれなのだろうか。今の話をレイから打ちあけられたときには、リツコが抱える秘密を明かしてもいい、そんなメッセージが透けて見える気がする。
シンジが残した手紙を、リツコは答えだとは認めていない。
レイを助けた先に彼が成そうとしたこと、成そうとしていることがなにか、まったく見えてこないからだ。
未だゲンドウの支配下にあるレイをただ生かしたところで、ゲンドウの計画が止まるとは思えない。
そうだ。シンジは、まだ何かを隠しているのだ。
だから、リツコがレイに真実を告げる義理はないように思えた。
それは言い訳で、本当は別の理由が、―――知らない形でシンジとの交流を持っていたレイに対する嫉妬が―――あったかもしれない。
けれど、そんなことには気づかないふりをした。
「…わかったわ。レイ、それで全部ね」
「はい。……碇君は、彼は、何者なんですか?」
はぐらかそうとしたリツコを止めるように、レイが言った。
カヲルについて尋ねた時と同じ言葉、しかし、口調はまったく違う。威圧感すらある。
直球のその質問には一片の惑いも無かった。リツコならば答えられると確信している、だからだろう。
「……今のシンジくんは、初号機とシンクロするサードチルドレン、それだけの存在でしかないわ」
「…かつての碇君は違った…」
「ああなる前の彼は、知るはずのない様々なことを知っていた。その理屈はわからないわ。使徒とは違う意味で、この世界の、私たちの法則とは別のところにいた。いうなれば埒外の存在だから知りうることができたのかもしれない。……なんの確証も無い、私の、想像だけれど」
「なぜ…」
理由を、レイが問いかける。
なぜ、そうだとわかるのか。なぜ、シンジはそうなったのか。
言葉は形作られることはなかった。
その前にリツコが答えたからだ。
「…あの子が自分で言ったように、彼が滅びた世界から来たから、かもしれないわね。ここではない、どこか別の、彼が滅ぼした世界から来たから。…でも、それが事実なのか、よくできた妄想なのか、もう確認するすべは無いわね」
嘘ではない。
事実であったと、シンジが未来から来たとリツコが確信していると、それを話さないだけだ。
確信にいたる経緯の全てが、この数ヶ月の、シンジとリツコの対峙の中で、交流の中で生まれたことだ、レイに話したいとは思えなかった。
もっともレイはリツコの様子を気にしてはいないようだ。
ただ、その言葉が示すのは何か、そのことを考えているように見える。
信じるか信じないか、それはわからない。
神の分身でもある彼女が、荒唐無稽を理由に否定したとしたら、笑えないジョークだと思った。
思考に沈むように黙ってしまったレイに、会話の終わりのときが来たとリツコは感じた。
シンジが具体的に何をしようとしていたのか、結局それはレイも知らなかった。その点だけでは無駄足に等しいかもしれないが、レイも知らないという事実は、リツコをどこかで安堵させてもいた。
立ち上がり、レイを見下ろして言う。
「じゃあ、私は帰るわ、レイ。今日はごめんなさい」
レイが顔を上げる。紅い瞳は、半ば空ろなままだ。
しかし、きびすを返し玄関に向かおうとしたリツコに声がかけられた。
「もうひとつだけ、教えてください」、と。
振り向く。レイの白い顔は、それまでになくこわばっているように見える。
話してみろと、そう無言で促すと、彼女は言った。
「…私は、碇ユイという人のクローンなのですか? その人と、同じ人なのでしょうか?」
答える言葉を、リツコは持たなかった。
自分が別の誰かの代用品だ、などとは、誰もが認めたくはないことだろう。
レイにとっても。
誰にとっても。
リツコがレイの部屋を訪ねたその翌日。
午前中からシンクロテストが予定されていた。実験の責任者は冬月だが、リツコも本部に出勤している。
昨日のことを受けて、もしかしたら保安部に拘束されるかもしれないと、そんな予想もしていたが、何事もなく研究室に着いた。
泳がされているのか、それとも、レイの部屋の中まではモニターしていなかったのか、それはわからない。
どちらでもいいことだと思う。動けるなら動かせてもらう、それだけだからだ。
ゲンドウの思惑も、今は気にはしていない。
たとえシンジの秘密を知られたところで、彼に何ができるというのか。シンジの望みを壊すためにレイを殺し三人目にする、たとえばそんな選択を、彼が行えるわけがない。
ならば、今のゲンドウはリツコにとって路傍の石ころに等しい。無視していればいい。
それに、仮に一時的に拘束されても同じだ。マギに依存する限り、ゲンドウはリツコを殺せない。全ての成り行きを知る、そのためだけならば、ただ「その時」まで生きてさえいられればいいのだ。
ゲンドウに対する怖れは、リツコの中に微塵もなかった。
別の感情はあったのかもしれない。けれど今は忘れることにしていた。
着替えを済ませ、実験準備のために制御室向かう。
予感はしていなかったが、通りがかった休息コーナーの、自動販売機の前のイス、そこに談笑する人影をみつけた。
思わず足を止める。
同じ中学校の制服姿の、黒髪の少年と銀色の髪の少年。
サードチルドレンとフィフスチルドレン。
碇シンジと渚カヲル。
人と、人でない何か。
話している中身までは聞こえなかった。けれど二人が親密に話をしているのはわかった。
シンジが笑っている。やわらかい笑顔だと思った。
こんなふうに笑えるのだと、少し驚く。
リツコにそうしてみせることは、この先ずっとないのかもしれない、そう感じた。
気配を感じたのか、会話の切れ目だったのか、カヲルが顔をこちらに向ける。
目が合った彼の紅い瞳は、レイと似てはいるが、やはり違う雰囲気をかもしている。ようやく気づいたのか、シンジもリツコのほうを向いた。
おびえた目をしている。
きっと、本部のほかの誰に対してもそうなのに違いない。
「おはようございます、たしか、赤木リツコさん」
「お、おはようございます」
「…おはよう。早いのね、あなたたち。これから準備だから、テストまでまだ時間はあるわよ」
「ええ、知ってます。でも、僕たちの居住区は本部の中ですから、無理をしてるわけではありませんよ」
「そう、あなたもシンジくんと同じく独居エリアに住むのね。…若いからかしら、もう仲良くなったようだわね、二人とも」
「はい、シンジくんにはとても親切にしてもらっています」
臆することもなく、そつなく返事をするカヲルは、少し大人びた普通の少年としか見えない。容姿はともかく、挙動や反応に異常なところなどまったくなく、彼が使徒だ、などと言っても信じるものなどまずいないだろう。
一朝一夕で、こうはなるまい。
長い時間をかけて教育を施した、そういうことだろうか。ならば、彼の育成担当は、その分野ではリツコよりも優秀だったようだ。内面はともかく、情緒の発露という点では、レイは足元にも及ばない。
彼の笑顔はとても自然に思えた。感情のない作り笑いなのかどうか、それはリツコにもわからなかった。
「渚カヲルくん、ね。昨日はバタバタしてちゃんと挨拶できなかったけど、あらためてよろしくお願いするわ。即戦力として、みんな期待しているから」
「やれやれ、あまり今日のテストにプレッシャーをかけないでほしいですね」
「あら、ごめんなさい」
冗談めかした会話にも、つばぜり合いめいた色合いはない。
ただ、彼の横のシンジはうつむき、リツコのほうを見ようとはしていなかった。「即戦力」という言葉に反応したのかもしれない。
自分が「戦力」になっていない、その自覚はあるのだろう。使えない自分の代わりにカヲルが来た、そんな思いがあるのだろうか。その場合、代用品はどちらになるのだろう。
無視してカヲルを見る。今のシンジにも、用は無い。
気にした風も無くカヲルが口を開き、リツコに言った。
「そういえば、赤木博士、こちらに来る前に言われました。…なにか困ったことがあったらあなたを頼れと」
その言葉を聞き、一瞬、リツコの目がカヲルの顔に釘付けになった。
凍りついたようにしばらく見つめた後、何かを押さえつけるように強くリツコは目を瞑り、そして開いた。
「…そう、…もちろん、できるだけのことはするわ」
そう言って、リツコは小さく微笑んでみせた。
あの日、冬月がキールと呼んだあの黒いモノリスがリツコに告げたこと。
それは、いつかネルフに派遣するある者の便宜を図って欲しいという依頼だった。
取引ではない、その時点の選択も協力の限度も、あくまでリツコの自由意志にまかせると、そして、リツコは了承したのだ
今、カヲルの言葉で、それが彼のことだとわかった。
もちろん、半ば予想はしていたことだ。
ただ、使徒である彼に対して協力をする、その意味が示すことが、補完計画とあまりに矛盾していると感じ、確信はもてなかった。
それでも、これもリツコの前に開けた道のひとつだ。
あのシンジが知っているのか、そうではないのか、行き着く先でわかる時が来るのか、それはわからない。
どれほど手を汚すことになっても、何を捨てることになっても、ただ進むしかない。それだけがわかっていた。
他の誰でもない、あの日、ゼーレと対峙したあの闇の中で、代用品から脱するためにリツコ自身が選択した、その結果だった。