Written by かつ丸
まるで悲鳴のように、警報が鳴り響いている。
ネルフ各支部、全部で5つあるマギのコピーが、一斉に本部のマギにハッキングをかけているのだ。
多勢に無勢なのか、一方的に侵食されていく様子がモニターには映されている。
見ればわかるその過程を、いちいち口に出して報告しているオペレータの声からは、狼狽していることがあきらかにわかった。
ミサトもまた、うろたえている。どういうことかと、大丈夫なのかと、ただ喚いている。
マギはリツコの担当だ。そこに加えられた攻撃なら、他の誰も、口出しはできまい。
それなりのスキルを持つマヤも、こちらを向いたまま手は止まっている。
だが、リツコはまだなんの指示も出していない。
マギが侵されていくのをただ見ているだけだ。薄笑いさえ浮かべながら。
そんな彼女の様子に、他の職員たちも不審を感じつつある、それはわかる。
マギの重要性を最もよく知っているのがリツコのはずだからだ。
それまで何も言わず立っていた冬月が、はじめて口を開いた。
「…対処しなくていいのかね、リツコくん」
「はい、…相手はネルフの支部です、敵ではありません」
「警報が聞こえんのかね。これは、すでに本部への敵対行為だ」
言葉の内容とはうらはらに、冬月の口調には微塵も緊張感が無い。
リツコに対し何も強制していない、静かな響きだった。
彼はすべてをわかっているのかもしれない。
リツコがしようとしていることも、その意味も。
「これが委員会の意志なら、我々は従うのが筋でしょう。…それとも、違うのですか、副司令?」
「さきほど委員会より補完計画を遂行するよう命令があった。この攻撃は碇が拒否した結果だ」
「…なるほど、そういうことですか」
「なにやってるのよ、リツコ!!」
世間話でもしているかのように静かに会話をしている二人に痺れを切らしたのか、ミサトがずかずかと詰め寄ってきた。
こうしている間にもマギへの侵略は止まっていない。画面に表示されたマギの状況図は、エナミーを示す赤い部分が増え続けている。
しかし、だからどうだというのか。
ミサトの方を向き、肩をすくめる。
「…何を焦ってるの、あなた」
「あんた…。このままマギを見捨てるって言うの、リツコ」
「それも選択肢の一つよ。確かにマギを失うことは本部の放棄に等しいけれど…、ミサト、あなたまだわからないの? すでに本部には一体のエヴァも無いのよ。守るべきものなど、ここにはすでにないわ」
「だって、今、副司令が言ったじゃない、委員会は補完計画で人類を滅ぼそうとしてるんでしょ?見過ごしにはできないわ!」
ミサトの大きな声は、発令塔のみならずフロア全体に聞こえたのではないだろうか。
彼女がどこからその結論に至ったのかは知らないが、補完計画の真意という最高機密をこうもあけすけに遡上に載せる、その意識の持ちようには、呆れるのを通り越していささか感動すら覚えた。
案の定、マヤなどは目を剥いてしまっている。
リツコも、冬月も動じてはいない。どのみち、ここに及んでは機密などではない。
だが、知らないままにしておいたほうが、罪の意識などない本部のほとんどの職員にとっては精神衛生上よかっただろう。
「…少し、おちついたら? ここでマギが奪われたとしても、それですぐに補完計画がなされるわけじゃないわ」
「だからって何もしないつもり? あんたが、他の誰でもないあんたがマギのこと見捨てるって言うの?」
「そうです、先輩! 先輩なら、まだ十分マギを防御できるはずです!」
もう立ち直ったのか、ミサトに続いてマヤが叫んだ。
座っていたイスから立ち上がるとリツコのほうに詰め寄ってくる。
「いくら五台がかりとはいえ、マギオリジナルは支部のマギとは別物だって先輩も言ってたじゃないですか。諦めるのはまだ早いと思います。防御壁を作ることも可能だし、それに、あのプログラムを使えば反撃して支部のマギを操作することだって…」
「…ちょっと待ちなさい、マヤ」
興奮のせいかよけいなところまではみ出したマヤの言葉に、リツコは顔をしかめた。彼女の言葉の意味はわかる、かつて冬月が拉致されたときに開発した特殊なシステムはすでにマギに組み込んである。
しようと思えば、逆にこちらから攻撃を加えることも可能だ。能力は本部のマギが一番高い、五体がかりでこられても対抗できるほどに。
システムのことはゲンドウには報告してはいなかった。
奥の手にするつもりがなかったとは言えない。だが、もはや使うつもりは無かった。
冬月を横目で見ると苦笑いをしている。
聞こえないふりをしているようだ。使われたとすればゼーレに対する剣にもなりえたかもしれないが、彼もそんなことはもうどうでもいいのだろう。
「…ミサト、マヤ、あなたたちは考え違いをしているわ。防御壁を展開すれば、当分の間マギへの攻撃を止めることはできる、でも、それはあまり意味の無いことよ」
「マギを、本部を明け渡すって言うの?」
「そうしなければ、今度は力押しで来るかもしれないわよ」
「……」
ミサトが息を呑む音が聞こえた。
彼女もようやく思い至ったらしい。
相手の目的が本部機能の奪取ならば、マギを守ればそれで終わるということにはならない。
国連をも動かす組織なのだ、この国を動かし本部に攻め入ることなど、造作もないだろう。
いつかシンジは言っていた。ミサトは彼を守り、兵隊に撃たれて死んだと。
それが最終的に人間同士の戦いになったことを指しているのは、明白ではないか。
もちろん、ミサトはシンジの言葉など知りはしない。だが軍人の彼女ならば、相手が踏み出せばここがひとたまりも無いことくらい、容易に想像できるはずだ。
軍隊のような呼称をしてはいても、ネルフは軍隊ではない。使徒ならざる普通の人間たちこそが、最もたやすくここを堕とせるのかもしれないと。
「…あんたは、本当にそれでいいの?」
そう尋ねたミサトの言葉に、リツコは無言で頷いた。
基地を包む警告音は止まらない。画面が示す汚染領域はみるみる広がっている。
三基あるうちの二つ、バルダザールとメルキオールはすでに敵の制圧下にある。残るはカスパー一基、それも時間の問題だ。
だが、今なら、今ならまだ間に合う。防げる。
かつて使徒に乗っ取られかけたときよりも、よほど分はいい。
しかし、リツコはその様子を見つめるだけだった。
母の心を持つ生体コンピューターが、意に反し犯されるように、蝕まれていく様を。
動揺が無いといえば、きっと嘘になる。
それでも動くつもりはない。
ただ思い出していた。マギが生まれるまでのことを。
母ナオコは、マギの開発のためにすべてを犠牲にした人だ。
リツコは父の顔を知らないし、幼少時から半ば祖母に預けられて育ったようなものだった。
ナオコが結婚よりも、家庭よりも研究を選んだ結果だと、リツコは理解していた。
ならばなぜ自分を生んだのかと、そんな反抗心を持った時期もあった。中学生のころだ。
ごくたまに実家に帰ってくるナオコに、一度だけ叩きつけたこともある。彼女は困った顔をしていた。
ごめんなさいと、そう言って、けれど彼女はまた、やりたいことがあるからと、それが一段落すれば一緒に暮らそうと、そうも言った。
それがマギの完成のことを指していたのか、別の研究のことだったのか、ただその場を誤魔化しただけなのかどうか、リツコは知らない。
結局、その後のセカンドインパクトでうやむやになったことだ。
避難の手配はナオコを通じてなされた。
しかし、疎開と称してあてがわれた住居で、母と娘がともに暮らすことは無かった。ナオコは大学と兼ねて人工進化研究所に所属し、インパクト前より精力的に研究を進め始めたからだ。
世間一般からすれば、けして不自由な扱いではない。多くの人々が飢えや戦いに巻き込まれて死んでいたのだ。
あの時期平穏に暮らせた、それは、ナオコの力がなければ不可能だったはずだ。
それ以上を望むのは贅沢、聞き分けの無い我侭でしかない。
長く続いていた祖母との暮らしは、別に寂しいとは感じなかった。
けれど、やはり欠落感は覚えていたのだろう。
理系に進み、第二東京大学に入学し、研究者の道を歩んで来たのは、リツコの側から母に擦り寄った結果だと、今ならわかる。
ナオコはその間ずっとこの本部の地下に篭っていた。
リツコがネルフに入らなければ、接点などほとんど無かったのは疑いない。
近くに来てからは、確かに親密に暮らせていた。
だが、位置としては三番目だ。女として生き、科学者として生き、そして最後に母としての生を彼女は持っていた。
気づいたときにはリツコはもう、そのことに不満を漏らすような歳ではなく、母を想って泣いていた少女はどこにもいない。
そう思っていた。
だが、それは錯覚だと、カスパーがナオコの血で染められたあの日、リツコは気づかされた。
母に何を求めていたのか。
母に何を望んでいたのか。
突然のナオコの死以来、リツコの心は彷徨っていた。
マギ、E計画、ゲンドウ。ナオコの代わりを務めるように、彼女のいた場所をリツコは埋めた。それもむしろリツコ自身の隙間を埋めるためだった。
自分が母に代わることで、母を感じたかった。
「カスパーに侵食進んでいます! もう、もちません!」
オペレータの叫び声が遠くに聞こえる。
画面の表示はほとんどが赤く染まりつつある。
マギは三人の自分だと、いつかナオコは言っていた。
ナオコ自身の心をデータ化していると。
それゆえにナオコは死んでいない、マギの中にいる、そう思っていたのも事実だ。
だが、リツコは、本当は知っている。
ずっと前から知っていた、
ナオコは、あそこにはいない。
マギにいるのは、ただのデータの集合、デジタル化された思考ルーチンに過ぎない。
たとえナオコと同じ思考をしたとしても、あれはナオコではないのだと。
リツコにとってナオコは、己を産んだ母ただ一人だ。
そして彼女はもういない。
自ら命を絶ち、この世から去ってしまった。
だから、もういいのだ。
アレは、捨ててもいいのだ。
「先輩、もう、もう…」
マヤがすすり泣きをしている。
ハッキングは終わりつつある。
もはや、何をしても間に合うまい。
リツコは正面の巨大モニターを見た。
初号機はなおもうずくまったまま動いてはいない。本部で起こっていることを、彼は知っているだろうか、どうだろうか。
だが彼ならばリツコの気持ちを分かってくれる、そんな気がした。
視線を元に、マギへのクラックの様子を映していたモニターに戻す。
警報がひときわ大きく鳴り、そして突然止んだ。
赤く染まる画面が、点滅している。
「…マギ、完全に、制覇されました」
「リツコ…」
「いいのよ、これで…」
その呟きとともに、一瞬施設全体の灯りが消え、そしてすぐにともる。
誰も操作していないのに、計器類が激しく点灯を始めた。
マヤが涙をぬぐい、あわてて持ち場に戻る。
「こ、これは?!」
「どうしたの?」
「信号が、ここから初号機に停止信号が発信されています!」
「で、でも…」
「はい、さっきの私たちと同じですから…」
ミサトとマヤの会話の意味は、リツコにも分かった。初号機を止めようと、彼女たちはさんざん動いていたはずだ。
この信号の意味もまた、リツコには理解できる。
おそらく試しているのだろう。初号機が制御不能であること、それが真実か否かを。
冬月を見る。
彼に動じた様子は無い。
その後幾度か信号は送られ、けれど初号機になんの変化も無かった。
特に動きは無いが、ATフィールドの反応は依然、消えはしなかった。
その時だった。今までとは違うビープ音が響いた。
オペレータが通信機をオンにする。
「はい、えっ、は、はい、わかりました」
青葉がこちらに一瞬目をやり、そしてあわてて頷く。オープンにしろと、そう言われたのか、スピーカーから声が聞こえてきた。
聞き覚えのある声だった。
『私は人類補完委員会議長、キール・ローレンツだ。マギは委員会権限によりこちらで接収した。なお、ネルフ本部についてはその使命終了により、委員会から委任した全権限を停止することを、ここに宣言する』
「なっ、なんですって!」
ミサトが叫ぶ。
彼女を手で制して、冬月がマイクへと向かった。
「いささか手荒な手段ですな、キール議長」
『…冬月くんか、碇はそこにいないのかね。今さら何をするつもりか知らんが』
「先ほども言ったとおり、初号機は暴走中です。こちらで使える状態にはありませんよ」
『使えるか使えないかは、キミたちが決めることではない。だが、抵抗せずマギを差し出したのは利口だったな。碇の指示かね』
「それは、赤木博士の判断ですよ」
静かな口調のまま、冬月が言う。
そこにはなんの含みも感じられない。リツコのほうを見ることすらしなかった。
『…なるほど、そうかね。…まあいい、キミたちはその姿勢を忘れないことだ。そうすれば職員の無事は保障しよう』
そして、通信は切れた。
時間が止まったようにしばらくの間誰も動こうとしない。
冬月だけがため息をつくように小さく微笑み、通信装置から離れた。
「ふ、副司令、今のは」
ようやく我に返ったのか、ミサトが詰め寄る。
だがそれにはかまわず、冬月が正面のモニターを目で示した。
「…どうやら、始まるようだな」
気がつけば画面では、初号機が立ち上がろうとしていた。
右手にはロンギヌスの槍。
その視線は天空を、ジオフロントの天井を見つめている。
何かが来る、それが初号機には分かるのだろう。
もちろんリツコには何も感じられはしない。
けれど、彼の望みが叶う時が近づいている、そのことははっきりとわかった。
「…ミサト」
友人の名を呼ぶ。
彼女は展開について行けず呆然としている。
「な、なに…?」
「今日、アスカはどうしたの?」
「…たぶん、家にいると思うけど。どうして?」
「そう…、上は戦場になるわ。今は本部にいないほうがむしろ安全かもしれないけれど、避難するように連絡だけは取っておきなさい。私は行くところがあるから。それじゃあね」
画面の初号機を示し、リツコは言った。
「リツコ!?」
「せ、先輩!!」
「マヤ、後を頼むわね」
なぜかまた泣き顔に戻っているマヤに笑いかけ、目が合った冬月に会釈をする。
彼は困ったような表情をしていたが、肩をすくめただけで何も言わない。
そうして、リツコは一人発令塔を後にした。
後悔は無い。マギのことも、すでに過去のことだ。
むしろ心は躍っていた。
あと数十分、それとももっと早い時間に、リツコが望んでいたその時が訪れる。
自然に、笑みがこぼれた。
地上まであとわずかというところで、爆発音とともに激しい地震が起きた。
本部施設全体が震えているようだ。
外で爆発があった、そう推測できた。この規模はN2爆雷による攻撃と思える。
よろめき、壁につかまりながら、リツコは足を速めた。
途中、エスカレーターやエレベーターが停止していたのは、奪われたマギの仕業だろうか。これでは当分誰も上がってはこれないだろう。
ごく小数のものしか知らない非常通路から入り口のゲートを抜け、本部施設から出る。
外は、思いのほか静かだった。
初号機は、さきほどと同じ、宙をみつめたままだ。
彼は待っている。
だが、それももう僅かのことだ。リツコにもかすかに轟音が聞こえてきた。
空を見上げた。
街があったはずのところに、大きな穴が開いている。さきほどの攻撃が原因だろう。
その向こう、高度数千メートルといったところか。さほど高くない位置を複数のジェット機が飛んでいるのがわかる。
ジェット機の巨大な羽根から何かが離れた。ひとつ、ふたつ、全てで九つの投下物は、落ちてくる途中で形を変化させ、翼もつ鳥へとその姿を変えた。
円を描くように飛びながらこちらに近づいてくる。
白いエヴァ。エヴァシリーズ。
各支部で開発されていたアダムの子らが、全てここに集ったのだ。
アンビリカブルケーブルは繋がれていない。S2機関を組み込まれているからだ。
かつて実験時にアメリカ第二支部を消失させた無限エネルギー、それを実用化させたのだろう。
別に不思議ではない。有能な科学者がいた、それだけのことだ。
チルドレンが乗っているのか、独自のダミーシステムを使っているのか、どちらにしても本部のあずかり知らぬところでこれだけの体制を構築していたのだ。
周到に準備されていた、そのことははっきりと言える。
ゲンドウと彼ら委員会、いや、ゼーレとの間にはずっと早い時期から溝ができていたのに違いない。
それが今日、牙を剥いている。
ただ一機本部に残った初号機を血祭りにあげるべく、襲い掛かってきている。
だが彼らは知らない。
今初号機を操っているシンジもまた、ずっとこの日のことを待っていたはずなのだ。
もう数十メートルのところまで、エヴァシリーズは降りてきている。
手には、平坦な刃を持つ武器。空気を裂くような奇声を、大きく割れた口から発している。
白地に黒ののっぺりとした顔から、鋭い牙を持つ赤い口腔が顕わになる様は、爬虫類然として不気味だった。
どこか無機的だった多くの使徒たちより、彼らのほうに生理的な嫌悪感をより感じる。
造った者たちの嗜好だとすれば、悪趣味なものだと思った。
そんな者たちが望む補完計画とやらも、やはり醜悪なものなのだろう。
「…神の力を取り込み、全てのココロをひとつと為した、群生ではない、新たな種としての人類、…そう言っていたわね」
いつかの、キールの言葉を思い出していた。
彼の理想とやらがあのエヴァの延長線上にあるというなら、ついていきたくはないとリツコは思う。
仮に、シンジの行き着いた赤い海と、違った場所だとしても。
だから、シンジを止める気は無かった。
初号機が槍を強く握りなおす。
エヴァシリーズの最初の一機が地面に下りるよりも早く、彼は走り出していた。
袈裟懸けに斬る。血を噴出し、白いエヴァが倒れる。
ほんの数秒の出来事だ。
突風とともに砂塵がリツコのところまで来る。思わず手で目をかばった。
その時だった。
背後に気配を感じた。
振り返る。
十メートルほど離れた場所に、その男は立っていた。
「…お久しぶりですわね、司令」
白衣についた砂を払いながら、リツコは言った。
リツコがゼーレの元から帰って以来、ずっと彼女の前には姿を見せなかったネルフ総司令、碇ゲンドウ。彼は、何も言わずこちらを見ているだけだ。
服装はいつもと同じだが、どこか違和感を覚えて気づいた、今日は白い手袋をしていない。
理由を訊こうとして、しかしやめた。
ゲンドウの後ろに立っているもうひとつの人影に気づいたからだ。
先ほどターミナルドグマで別れた、蒼い髪の少女が、その身に何もつけない姿でそこに立っていた。
もう一度砂塵が舞う。
風を背中で感じた。
ゲンドウの元にも吹いているはずだが、彼は微動だにしていない。
彼がリツコを見ているのか、それともエヴァシリーズと戦う初号機を見ているのか、いずれともわからなかった。