見えない明日で

第6章 第10話

Written by かつ丸







 かん高い叫び声が轟く。
 ずしんと、大きな音がし、それとともに地面が揺れる。
 また一体、エヴァシリーズが倒されたのだろう。
 けれど、振り向くこともせず、白衣のポケットに両手を入れた姿勢のままで、リツコはただ前を見つめていた。


 ゲンドウが、そこにいる。


 彼も、依然として何も言わない。
 いつもの司令服姿で、オレンジ色のサングラス越しにこちらを見ている。
 すぐ後ろに立つレイも一言も言葉を発しない。

 二人とも静かに、何かが起きるのを、それとも終わるのを待っている、そんな様子だった。

 カヲルを追ってドグマに降りた前後、あそこにはゲンドウの気配は無かった。
 確か冬月が言っていた。ゲンドウがゼーレの要求を拒否したと。だから、彼が地下に降りレイを連れ出したのはその後だったのだろう。


「…シンジくんは、どうしましたか?」


 その問いかけに、わずかに彼の眉が動いた。
 レイの表情は変わらない。よく見れば彼女の目は焦点があっておらず、まるで何も映していないかのように虚ろだった。
 薬でも使われたのかもしれない、一瞬、そうも思えた。

 再度、尋ねた。


「…もう、ご存知ですわね、リリスの破壊については」

「…ああ」

「ダミーシステムの状況についても?」

「知っている」

「ならばわかっているはずです。元となるリリスが無くなったことによって、レイの身体は異常をきたしていました。そんな状態でむやみに動かすのは、いいことではありませんわ」


 われながら白々しい、そうリツコは思った。
 むろん、ゲンドウに対してなんら感銘を与えた様子は無い。彼は鼻で笑うことすらせず、ただ目で答えただけだ。何が言いたい、と。


「その子をここに連れてきたのは、司令も始めるつもりですのね。 ゼーレと同じように、狙いは初号機ですか?」

「……」

「人類を群生から一つのモノに変えると、キール議長は言っていました。あなたの目的は、いったいなんなのですか?」


 もちろん、答えなど無い。期待してもいない。
 小さく微笑し、リツコは後ろを向いた。
 そこでは初号機が、なおも戦いを続けている。すでに地には4体の白いエヴァが倒れている。
 残った5体が剣を構えて初号機を包囲しようとしているが、紫色の巨人の動きは、彼らを遥かに凌駕しているように見えた。

 槍でもって袈裟懸けにし、掴んだ腕をもぎ取り、蹴り上げたかかとが頭の肉をもぎ取る。

 一体、また一体。次々にエヴァシリーズは屠られていく。
 もはや、悲鳴を上げる暇すら、彼らには与えられない。

 もう一度、ゲンドウを見た。


「…凄いものですわね、そう思いませんか?」

「………」

「初号機が残る全てのエヴァを倒した時、ゼーレの野望は潰え、あなたの願いがかなえられる。それを待っているのですか?」

「………」

「チルドレンもなしに動いている今の初号機が、あなたの望みどおりのものだと、本気でお考えですか?」


 さらに地面が揺れた。初号機がまた一体倒したのだろう。
 幾種類かの問いかけにもゲンドウは答えはしない。
 リツコの言葉に揶揄するような響きがある、だからかもしれない。
 実際、彼の表情は徐々に険しくなっているようだった。


「初号機がリリスを毀した理由をあなたは理解していますか? そしてエントリープラグを、シンジくんを排出した理由を」

「………キミは、何を知っている?」

「先に質問しているのは私ですわ」


 また大きな地響きが起きる。
 今度は比較的近くだったようだ。舞い立つ風が激しい。
 振り向いて見れば、最後の一機と初号機が対峙しているところだった。

 初号機が地面を蹴り、一気に白いエヴァに詰め寄る。手に持った赤茶色の槍でえぐる様に胸元を切り裂く。
 苦痛で首を振り、ほとんど抵抗する様子もないまま、巨体が崩れ落ちた。

 後には槍を携えた初号機のみが立っている。


 これで終わったのか。
 あまりにもあっけなかったと、そう感じた。初号機の力が隔絶しているとしても。

 だが、リツコの不安は現実となって帰ってきた。

 視界を何かが走る。


「…避けて、シンジくん!!」


 思わず、叫んでいた。

 初号機も感じていたのだろう。ATフィールドが展開される。
 しかしフィールドにつかまったはずのソレは、回転しつつオレンジ色の結界をあっけなく破壊し、初号機にと襲い掛かった。
 紫のエヴァがとっさに腕を出す。掴んだものの威力は減らず、そのまま初号機の顔に突き刺さる。 赤い血が、装甲を染めている。
 ようやく引き抜くと初号機は、ソレを地面に投げ捨てた。
 初号機が持っているものと同じ、赤茶色の巨大な棒。
 唯一エヴァに対抗できる神の武器、ロンギヌスの槍だった。

 複製したというのか。
 作れないのかと、いつかミサトが言ってはいたが。

 気づけば、やられたはずの白いエヴァたちはみな立ち上がっている。あの復元力もまた、S2機関のなせるわざだろうか。
 手に携えているのは、剣から槍に変わっている。みな、同じものだった。

 もはや、初号機のアドバンテージはなくなったといっていい。
 むしろ圧倒的に不利だった。

 片方の目がつぶれ、血が流れている。意に介さないように身構えてはいるが、すでに周囲は白いエヴァに囲まれている。


 一斉に、エヴァシリーズたちが飛びあがった。9本の槍の切っ先が、初号機に迫る。
 薙ぐように槍を使い、初号機が跳ね返す。
 だが多勢に無勢だ、初号機の装甲のあちこちが切り裂かれ、そこからも赤いものが流れ出している。
 もちろん白いエヴァたちも傷だらけだが、まるでパーサーカーであるかのように、衰えた様子は無い。

 隙をつき、一本の槍が、初号機の左手のひらを貫いた。
 別の槍が、右手のひらを突き刺す。
 自由を奪い、そのままエヴァシリーズは羽ばたき、初号機を持ち上げようとする。

 初号機の動きが止まる。
 持っていた槍は、地に落ちている。
 なすすべもないかのように、みるみる引き上げられていく。

 いつのまにか遥か上空、数百メートルに達するだろうか。
 囚人のように護送されていく、その姿が十字に模されているのは、あながち偶然などではあるまい。
 救世主の名の下に、世界を変革するための依代として使う、そういうことだろうか。
 祭壇にかけられた紫の機体。9機のエヴァは生贄を屠る執行者だ。


 万事休すと、そう思わせる状態だが、しかしリツコは信じていた。
 このままゼーレの思惑通りの補完計画など、シンジが認めるわけがない。
 時を遡ってまで変えようとした未来を、彼が許すわけがない。

 だから目は背けなかった。


 思いに答えるかのように、何も力など入っていないはずなのに、地にあったロンギヌスの槍がゆっくりと浮き上がる。
 とがった先端を上に向けると、次の瞬間、矢のごとき速さで空に向かって飛んだ。

 初号機を捕らえていた白い巨鳥の一つに、槍が襲い掛かる。
 それが、反撃ののろしだった。


 咆哮が空気を揺るがし、地上のリツコたちの周りまで振るわせた。
 閃光があたりを金色に染める。

 見れば初号機が、その翼を大きく広げていた。
 ふるい落とされたかのように、エヴァシリーズたちは周囲から散っている。
 ゆっくりと1機のエヴァが空から落ちてきた。さきほどロンギヌスの槍で、身を貫かれた機体だ。
 中央部の赤いコアがくりぬかれたように破壊されている。
 すでに力を失っていることが、それでわかった。

 ギャウギャウと奇声が聞こえた。仲間を倒された抗議のつもりだろうか。
 しかし初号機は聞く耳など持たず、逆に相手を屠るために、再び手にした槍を構えなおしていた。


「……どうやら、終わるようだな」


 まるで他人事であるかのように、静かないつもの冷徹な声でゲンドウが言った。
 初号機が一機のエヴァに襲い掛かり、ロンギヌスの槍を突き刺す。白い機体の中でなにか赤いものが、弾けたのが見えた。
 力を失い落ちてくる。高さのわりに勢いがつかないのは、翼が抵抗の役目をしているからだろう。
 そのまま地面に落ちる。
 さきほどまでよりはるかに大きな衝撃があたりを包み、リツコの体を揺らした。


「…シンジと、そう言ったな」


 その言葉で、リツコは振り向いた。
 ゲンドウがリツコの目を見据えている、今度は、それがはっきりとわかった。


「あれにはシンジは乗ってはいない、そうではないのかね」


 口元をゆがめて笑みを浮かべている。
 一瞬だけ、気圧されるような気がした。だがそれは錯覚だと、そう思った。


「初号機にはエントリープラグは入っていません。それに、地下で、お会いになったのではないのですか?」

「確かに会った。しかし、それだけだ。ついて来いとは言わなかったからな。あいつは、まだドグマにいるだろう」


 レイを見る。彼女の表情に変化は無い。
 蝋人形もさながらに、白く凍り付いている。
 ゲンドウやリツコの声など、聞こえはしないかのように。
 ふたたび、大きな地響きがした。見上げると上空の白いエヴァは、6機に減っている。
 地に落ちたエヴァたちは、みなコアを潰されていた。


「まもなく、老人たちの夢は潰える。セカンドインパクトから15年、彼らの計画は塵芥に帰すわけだ」

「司令は、それでいいのですか? 補完計画が頓挫することによって、あなた自身が、いえ、あなたと副司令と、そしてユイさんが実現のために費やした時間も、願いも、全てムダになるというのに」

「私の願いは、もとより彼らとは違う。使徒が全て倒された今、ネルフがなくとも、リリスが失われようとも、さほどの問題にはならんよ。…キミが我々を裏切り、マギを見捨てたことも、私には些細なことだ。キミの母親に対する感傷を、わずかに刺激しただけだったよ」

「少しでも思い出していただけたのなら、母も喜んでいることでしょう。…マギは、あれは私にとっては鎖だったんです。ようやく、それがわかりました。母の名を騙り私の心を縛りつけようとする鎖。だから捨てたんです。もう、いりませんから」


 そうだ、マギがネルフにリツコを縛っていた。
 ナオコが死んだ後、リツコにはここを離れるという選択肢もあった。ゲンドウとの関係が残る理由の一つではあった。それでも、母が残し母の心を宿したあの機械が無ければ、リツコの揺らぎはもっと大きかったろう。

 ナオコが望んだ形でマギを運用する、その使命は、娘であるリツコが背負った十字架だった。
 いや、本当はリツコでなくてもよかったのだ、技術を持つものは他にもいる、ただ、リツコがそうしたかった。それは、マギに失った母を重ねていたからだ。

 けれど、それは欺瞞だ。別の何かを得れば、心の隙間を埋めるための違うよすがを見つければ、手放せるものだ。

 だから捨てた。母を殺したわけではない。一つの電子頭脳を管理下から外した、それだけのことでしかない。


「…マギは、ナオコくんの夢だった」

「はい、けれど、私の夢ではありません」


 微笑む。
 ゲンドウが絶句したのがわかる。


「私は、私です。…母とは、違います」


 はじめて、そう言った。

 この5年間、最初に抱かれた後からずっと、心の中で疼いていたしこりが、消えていくような気がした。
 もちろん、ゲンドウがはっきり同一視してきたわけではない。
 けれど計画のパートナーとして、愛人として、母にしたのと同じようにリツコを扱ってきたのは事実だ。
 ナオコは絶望し自ら命を絶った。
 しかしリツコは、そうはならない。
 自分をではなく、ゲンドウを、断ち切ることが出来る。

 白衣のポケットに入れている右手を、軽く握った。そこには研究室で着替えるときに一緒に持ってきた小型拳銃がある。十メートルほどしかないこの距離なら、リツコでも外しはしまい。

 ゲンドウに向き合ったまま、言葉を続ける。
 右手は、まだポケットに入ったままだ。


「ゼーレの計画は、初号機が潰すでしょう。…司令、あなたの計画とは、レイを使うことなのですか? あなたが独自の補完計画の道具とするために、彼女をここに連れてきたのですか?」

「レイだけではない。私自身も、初号機も道具となる。全てが予定通りのことだ」


 ゲンドウが不気味に笑う。
 お互いの手の内を探り合おうとするかのように、かつての愛人同士が冷たく対峙していた。


「…初号機が? 今の初号機が、コントロールできると思っているのですか、あなたに」


 嘲るようにリツコが言った。
 ゲンドウは答えない。ゆがんだ笑みを浮かべているだけだ。

 あたりに、他に人の気配は無い。
 ほぼ一定の間隔で起こる地響きや断末魔の叫び声は、上空で行われている別の戦いを教えてくれる。
もうエヴァシリーズはほとんど残っていまい。コアを失われている以上、二度と復活もできない。


「…ああやって初号機がゼーレのエヴァを倒しているのは、あなたのためですか? パイロットも乗せずにエヴァ自身が持つ意思のみで動いているのは、あなたの、司令の計画を助けるためだと、本気でそう信じていますの?」

「初号機の意思は、ユイのものだ。彼女が老人の願う世界の到来を拒否した。あれは、その結果だ。そしてユイの願いの先に、私の願いも続いている」

「…それは違いますわ。ユイさんは、あそこにはいません。…あなたも本当は気づいている、いつになく饒舌なのは、不安を隠すためではないのですか?」


 ゲンドウの笑みが消えた。
 間をとるつもりか、眉間に手をやり、サングラスの位置を直している。
 レンズの向こうにある瞳が厳しく光っている、それがわかった。


「…何が言いたい?」


 ドスを利かしたつもりか、低音で彼は言った。
 氷で跳ね返すように、静かな声で応える。


「そのままの意味ですわ。ユイさんはもういないのです」

「それでシンジと呼んだのか? ばかばかしい。あれが乗っていないと言ったのはキミ自身のはずだ」

「…初号機にいるのは、もう一人の碇シンジです。第3使徒以来、ずっと戦っていた彼が、あそこにはいます」


 一瞬時が止まる。
 爆弾を落とした、そんな意識は無い。すでにリツコにとってあたりまえの事実となっていることを、あたりまえに話すだけだ。
 わけもわからないままでいるゲンドウに教えてあげただけだ。

 ゲンドウは言葉を失ったのか、黙り込んでしまっている。
 そして彼の後ろではレイが光の戻った瞳でリツコを見ていた。
 驚いた様子は無い。彼女にもわかっているのだ。


「なにをバカな、狂ったのかねキミは…」


 搾り出すように、ゲンドウが言った。
 そしてまた顔を歪めて微笑む。こんどこそ、あからさまな嘲笑だった。


「…未来から帰って来たなどという、シンジの言葉を信じていたのかね、キミともあろうものが」


 今度は、リツコが絶句する番だった。
 思わず睨みつける。
 リツコの知らないところで盗聴をしていたのにちがいない、いつかは分からないが、おそらく病室での会話だろう。


「あなたは信じていないのですか? 彼が成し遂げてきたことを知っていれば、そのほうがおかしいと思いますわ」

「未来よりの帰還など、非科学的なただの虚言だよ。シンジに特殊な知識があったとすれば、それは初号機にいるユイのせいだ。人を超えた力を持つ者以外に知りえないことをシンジは知っていた。だがシンジはただの人間だ。最初の起動の時に、来る戦いに必要な知識をユイに与えられたのだよ。訓練も受けていない未熟な息子を、ユイがそうやって守ったのだ。それが証拠に、過度な記憶を取り上げたのもまた初号機だった」

「…根拠も、なにもない話ですわね」

「根拠はあるよ。…絶望的な未来を迎えたといいながら、シンジが私を責めたことは一度も無かった。恨み言の一つも言わずに黙々と戦っただけだ。子供の意思にしてはあまりにも都合がよすぎる、そこには別の、もっと大人の意志が介在していると考えるしかない、そう思わないかね?」

「…思いませんわ。シンジくんはそういう子ではなかったですから。ほとんどまともに向き合おうとしなかったあなたには理解できないでしょうが。…彼はただ自分自身だけを責めていました。あなたや、私や、利用するためだけに彼をここに呼んだ大人たちはみんな、本当は弾劾されてもしかたなかったのに」


 シンジが背負っていたものの重さを、ゲンドウは知りはしない。流した涙を、彼は見てはいない。 盗聴器のマイク越しでしか聞いていない言葉など、そこにどれだけの現実味を持てるというのだろう。
 だからゲンドウは誤ったのだ。
 自分の望むほうに捻じ曲げて受け取った。つきつめることもなしに。
 ゲンドウの言葉こそ、リツコには虚言としか聞こえない。彼が何を言っても、もはやなにも感じはしなかった。


「シンジくんのことを知っていながら、彼が何も言わずに従っていたから見逃していたのですか? そして本当に切り捨てるより先に今のシンジくんになったからもういいと?」

「補完計画を防ぐという言葉とは裏腹に、あいつは従順に使徒と戦っていた。逆らうそぶりもみせずにな。私にとっては確認する必要が無かっただけだ。…まあいいだろう、事実はすぐにわかる」

「…そうですわね。事実は、揺るぎませんから」


 最後に残っていたエヴァシリーズが、コアを打ち抜かれ地に落ちた。
 金色に光る12枚の翼を広げて、初号機が下りてくる。リツコとゲンドウ、そしてレイのもとへと。

 レイを伴って、ゲンドウが歩き出した。距離をとったまま、リツコも後ずさる。
 静かに、初号機の足が地面についた。片目から流れていた血は、まだ止まってはいない。装甲のところどころからも、血は流れている。
 右手には槍。その先端が赤く染まっているのは、エヴァシリーズを倒した名残か。

 足元十数メートルに近づいているリツコやゲンドウたちを見ているようだ。その巨大な四肢のどれかを一振りでもすれば、簡単に潰されるだろう。
 だが、リツコはまったく恐怖を感じなかった。ゲンドウも臆した様子は無い。

 一度初号機を見上げて、そしてゲンドウは全裸のレイを間近に引き寄せた。


「…始めるぞ、レイ」


 何も言わずレイはなすがままになっている。その視線はゲンドウではなく、ただ初号機を見ている。
 気にもならないように、ゲンドウは自身の右手のひらをレイの腹部にあてた。
 どういう仕組みが、その手がずぶずぶと肉の中に沈んでいく。
 レイの顔が苦痛でゆがんだ。


「…その手のひらにあるモノが、手品の種ですか。…アダム、ですね。 らしくもない、おぞましいことですわ」

「………」


 一瞬ゲンドウの手のひらに見えた異様な物体は、かつての南極で鹵獲された神の一部だったようだ。
 本来リリスから生まれた人類とは別の存在のはずだが、むりやりに移植したらしい。
 レイを形作るものに干渉しているのだ。
 リリスとアダムが融合する、そのことに重大な意味があるのかもしれない。もしかしたら、シンジも知らない何かが。


「…もう、止めてください、司令」


 右手をポケットから出し、持っていた拳銃をゲンドウへと向けた。
 こちらを一瞥し、しかし、ゲンドウの手は止まりはしなかった。
 受精させようとでもいうのか、レイの腹部深くに沈んでいく。
 たとえ威嚇射撃をしても、彼は止まるまい。本当に撃つべきか、リツコがそう考えたその時、初号機が動いた。


 咆哮は無かった。
 光も無かった。


 まるでスローモーションのように音も無く、そして滑るような動きだった。


 槍を両手で持ち、先端を自分に向ける。もともと二又だったはずのロンギヌスの槍は、ずっと以前、この戦闘の最初から直線状になっていた。その錐のように尖った先の部分を己が胸部にあてている。


「なっ!」


 思わず声をあげたのは、リツコだったろうか、ゲンドウだろうか。

 前かがみの体勢をとった初号機は、軽く反動をつけると、切っ先を装甲に突き刺した。
 幾重もの特殊合金でつくられた紫の躯体に穴を穿ち、何度か槍を握りなおして深く貫いていく。
 痛みがないわけはない。脳神経は生きている、でなければ動けない。槍が通る場所には素体と、そしてコアがあるはずだ。
 人が自分で自分を傷つけるのと変わりはしない。それを今、初号機はしている。

 反対側まで届こうかというそこまで刺して、次に初号機は手で槍の逆の先端を掴むと一気に、一気に、槍を斜め下に向けて跳ねるように引いた。

 コアの中にまで埋まっていた部分から、初号機の身体が裂ける。胸から肩口にかけて装甲が割れる。割れた部分をえぐって槍が現れ、肉があたりに飛び散った。
 血が吹き出る。壊れたポンプのように。
 そこで初めて、初号機が吼えた。
 痛みか、苦しみか。それとも歓びか。
 両手で持った槍を地面に刺し、身を支えている。
 一度、二度、天に向かって叫ぶ。片目から涙のような赤い血。首から下も真っ赤だ。吹き上げる血はあたりを赤く染めつつある。
 徐々に初号機の叫びは小さくなり、そして何も聞こえなくなった。


「…なぜだ、ユイ、何を考えている」


 呆然といった態で、ゲンドウが呟いた。レイの中に入った手は止まってしまっている。
 降りしきる初号機の血は、まるで雨のようだ。赤い雨に打たれながら、リツコはゲンドウを見て笑って言った。


「これで、全ての使徒と、全てのエヴァは失われました。シンジくんの、彼の願いが、ついに叶えられたのですわ」


 その言葉に我に返ったのか、リツコを見てゲンドウが睨む。


「まだだ。まだレイの、リリスの力は使える。ユイのいるあのコアが失われるまでは、彼女に逢うことは可能だ!」


 動転したままゲンドウは言った。ユイに逢う、それが彼の願いだというのは本音だろう。
 初号機から引き寄せるのか、世界そのものを変えるのか、どちらにしてもそんなことは許せないと思った。
 ユイへの嫉妬などではない。逢いたければ、誰も巻き込まず自分だけで行けばいいのだ。



「レイ!」



リツコは叫んだ。


「レイ! あなたはそれでいいの? そうやってこの世界を壊すことを認めるの? そんなことのために生まれてきたの? どうして、今ここにいるの、あなたは!」


 俯いていたレイがこちらを見た。


「初号機を見なさい! シンジくんがしたことを見なさい! 今、なぜあなたが生きているか、その理由を考えなさい! 渚くんとあなたの何が違うのか、なぜシンジくんは今のあなたが生き続けることを望んだのか、わかるでしょう、あなたなら!」


 ひたすらレイの瞳を見つめる。
 心の無い人形ではない。滅びをもたらす使者でもない。
 自らの存在理由に怯え、シンジの隠す謎に悩んだ彼女は、その時点ですでにゲンドウのくびきから外れている。
 出生など関係ない。
 彼女自身の意思で、綾波レイだけが持つ自我で、この世界と関わっていたのだ。


「あなたが本当にしたいようにしなさい! あなたはまだ選べるのよ! たとえ司令が何を望んでも!」

「止めろ!!」


 ゲンドウの怒声と共に、なにかがリツコの肩を掠めた。
 我慢ならなくなったのか彼は、左手で銃を構えてこちらにむけている。
 だが、もう遅い。リツコの放った言葉の弾丸は、すでに先にレイを打ち抜いていた。


「ぐっ…」


 突然ゲンドウがその場でうずくまる。
 レイの身体に入れていたはずの右手を押さえ、驚いたようにレイを見る。

 数歩後ろに下がると、レイはゲンドウを一瞥した後、視線をリツコに向けた。


「…私は私。ここにいるのは私。他の誰でもなく、誰の代わりでもない」


 微笑んで、リツコは頷いた。
 レイも微笑みをかえした、そんな気がした。

 呻きながらゲンドウがレイに向けて腕を伸ばす。その右腕の拳部分は切り取られたように無くなっている。
 避けるように下がったレイの元に、突然横合いから誰かが走りよって来た。


「こっち!」


 ふりしきる赤い血の雨にまぎれる様に現れた闖入者。
 レイの腕を掴むと、そのまま抱きかかえるように建物の中に引っ張っていく。あっけにとられたのかゲンドウもリツコも止める暇すらなかった。


「……フフッフフフフ」


 思わず笑っていた。
 あれはシンジだ。おそらく彼はドグマからゲンドウたちの後をつけてきていたのだろう。もしかしたらリツコとゲンドウが話している間ずっと、そこの柱の影にでも隠れていたのではないだろうか。
 彼はレイを助けに来たのではなかろう。一人ドグマに残され不安だっただけだ。
 けれどここで話を聞いて、そして止めようと思ったのだ、レイを使って父がしようとしていることを。


「…なにが、おかしい」

「あら、これは失礼しました」


 憮然としてこちらを見ているゲンドウに、笑った顔のまま言った。
 いつのまにかまた銃口をこちらに向けている。怒りを抑えきれない、そんな様子だ。
 笑いを収め、合わせるようにリツコも拳銃を構えた。
 初号機の血がつくる雨はなおも激しさを増している。まるで全ての血を流しだそうとするかのようだ。ゲンドウの全身も赤く染まっている。リツコの白衣も、すでに真っ赤だった。


「今から彼らを追っても、もう、間に合いませんね。どのみち初号機にユイさんはいないのです。内部にあるものは内部から壊すことができる。コアの中のユイさんを、彼女とシンクロするシンジくんだけが、初号機を壊さずに滅ぼすことができたんです」


 シンクロ率が400%を超えたあの使徒戦こそが、シンジが待ち受けていた時だった。
 いくら彼の秘密を握っていたところで、使徒を倒すために彼をエヴァに乗せ続けていた時点で、思惑に嵌っていた。


「たとえあなたが泳がし、利用していたつもりでも、シンジくんが初号機に溶けたあの時に、すでに勝負は終わっていた、詰んでいたんです。どう足掻こうと、あなたの求めた人はもうどこにもいはしません。…それでもまだ、諦めませんか、司令?」

「…言いたいことは、それだけか」


 お互い銃を向けたまま、二人向かい合う。
 ほんの数週間前まで身体を重ねていたもの同士の、一つの終焉だった。


「赤木リツコくん、キミには、失望したよ。…私は、本当に……」


 キミを愛していたと、そうゲンドウの口が動いた。5年間一度も言われることのなかった言葉を、最後のこの時に言うのは、本音だとしても、どこか狡いと思った。


「私も、愛していましたわ、あなたを」


 笑顔で言った。
 きっと5年間一度も彼に見せたことの無い、最高の笑顔だったと思う。


 一発、それとも二発、銃声が響いた。

 リツコは自分がゆっくりと後ろに倒れていくのがわかった。
 身体のどこかが焼けるように熱い。だがそれがどこなのかはもうわからない。


 空が赤く染まっている。初号機の、シンジの流した血が空を、周囲全てを覆っていくようだ。
 これが最期に見る風景なのか。
 けれど、世界は続く。
 リツコの生がここで終わっても、補完はされぬまま、群生としてのヒトの世界は終わらない。
 この赤の向こうには、ここから見えない高みには、青い空が広がっているのだ。


 血でぬかるんだ地面に仰向けに倒れた。
 赤い空だけだった視界の隅に、もう動かなくなった初号機が見えた。



 ちゃんと彼を見届けることが出来た。
 それで満足だった。



 ミサトとマヤは怒るかもしれないなと、そう思ったのを最後に、リツコの意識は闇に落ちた。







 







〜つづく〜












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解説



第6章終了

次回がエピローグ、最終話です。













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