「あの男がいろいろと動いているようだな」

「放っておけばいい。奴には何もできんよ」

「政府はともかく、彼はおそらくゼーレの意を受けている。知らないわけでもあるまい?」

「・・・今は泳がしておけばいい。その方が老人も安心するだろう」

「まあ、何かと役にたつ男ではあるが・・・。いいのか、彼は葛城くんに近すぎるぞ」

「問題ない。所詮彼らの手に入る情報などたかが知れている。真実には手が届かん」

「疑念を感じさせるだけで充分危険だと思うがな。シンジくんやレイにも影響するだろう」

「おそらく、シンジたちには何も言わんよ。彼女の保護下にある限りはな。それくらいの分別はあるだろう」

「しかし慎重になるに越したことは無いのではないか? いくら計画が順調だとはいっても・・・」

「我々が本当に動きだすのはまだ先のことだ。それまでは何もつかめんさ」

「・・・・覚醒の時か」

「ああ、それもそう遠い事ではないはずだ」




夢魔の暗礁

〔最終話 幻影〕

Written by かつ丸




第三新東京市。

兵装ビルが立ち並び、有事の際は要塞となるこの街も、普段の顔は普通の地方都市と何も変わらない。

良く晴れた平日の午後。

自動車が行き交う日常的な風景。

しかし、常夏の強い日差しに照らされていたそこに、突然、黒い染みのような影が拡がっていった。

空中には巨大な球状の物体。

目が覚めたかのように、街中に警報が鳴り響く。

その音に驚いたのか、鳥の群れが空を舞う。

下界の喧騒など気にも止めないかのように、その物体はただ漂っていた。

まるで何かを待っているように。






発令所にミサトが駆け込んできた。厳しい顔のリツコが振り返る。

「遅いわよ」

「ごめん。どうなってるの? 富士の電波観測所は?」

「探知してません。いきなり現れました」

「パターンオレンジ。ATフィールド反応なし」

「どういうこと?」

聞き慣れない言葉にミサトが問い返す。オペレーターにかわってリツコが答える。

「波長パターン不明ってことよ」

「なに? まさか新種の使徒ってこと?」

「マギは判断を保留してるわ」

ミサトはモニターを見た。そこにはマーブル模様の球体が写っている。

「正体不明か・・・・・こんな時に碇司令はいないのよね」







兵装ビルに機体を隠しながら、シンジは初号機を球体に近づけていった。

前衛で、様子を見る。それがミサトの命令。

零号機のレイと弐号機のマヤはバックアップに回っている。

今の彼ら三人の実力を考えれば当然だろう。

レイはともかくマヤに近接戦闘はほとんど望めない。
射撃の腕は訓練により少しはましになっているが、市街地でバスターランチャーが使えない以上、弐号機の戦闘能力は零号機とさほど変わらなかった。

少し先の球体を見つめる。空中に浮遊しながら、ゆっくりと移動している。

得体が知れない。

敵意などは感じない。そもそも感情を持っているのかすら疑問だ。

どこかを目指しているのか。

その無機的な姿からは伺いしれない。

レイやマヤはまだここに向かっている途中だ。

アンビリカブルケーブルが機体の動きを制限しているため、もうしばらく時間がかかるだろう。

シンジの脳裏に過去の戦いが浮かび上がる。

なんの予備知識も無しに戦いを行なうことの危険さは、彼の身に沁みていた。

偵察の意味からも、彼女たちが近づく前にある程度刺激してみるべきではないか。

可能ならば市外に誘導せよ、というのも命令の一部ではあったが、そのためにどうすればよいか、シンジには見当もつかない。

それは命令したミサトも同じだろう。

少しでも情報が欲しい。その思いが、シンジに焦りを生んだ。

思い切って球体に近づく。

マーブルの模様をしたそれに向かい、威嚇の意も込めてハンドガンを発砲した瞬間。突然球体は姿を消した。

何があったか分からず戸惑うシンジを嘲笑うように、初号機が立つ地面が沈んだ。






「パターン青! 使徒発見!!」

発令所に警報が鳴り、オペレーターの声が響いた。

ミサトたちが事態を把握する暇も無く、初号機の足元に染みだす様に影が拡がっていく。

周辺のビルも巻き込んで、その黒い影は初号機を吸い込もうとしていた。

初号機が影に向かって発砲するが、効果はない。

「何だよ! おかしいよ!」

「シンジくん、逃げて!! シンジくん!!」

ミサトの絶叫も届かず、初号機はもう腰まで沈んでいる。

「碇君!!」

「シンジくん!!」

異変を察知したレイが近づこうとする。

続いてマヤも。

しかし、彼女たちが初号機が見える場所まで到着する前に、初号機は完全に飲み込まれようとしていた。

「ミ、ミサトさん! 綾波! マヤさん!」、

必死で叫ぶシンジの声が発令所に木霊する。

しかし為す術はない。皆モニターを見つめるしかない。

触角が沈み、やがて初号機が全く見えなくなる。

「碇君!!!」

レイの呼び掛けも、ただ虚しく響くだけだった。

もうシンジの声は聞こえない。スピーカーからはノイズだけが流れている。

「・・・なんてこと」

呆然としたミサトが呟く。それはモニターを見る発令所全員の呟きだったろう。


その後幾度か使徒に攻撃を加えたが、影が広がり、街が沈むばかりでダメージを与えた様子はない。

それ以上ミサト達にはどうすることも出来なかった。

ただ、零号機と弐号機に撤退を告げることしか。







ミサトが覗く双眼鏡に夕焼けに染まった街が写る。

「国連軍の包囲、完了しました」

黒い影に染められた第三新東京市。それを臨む山腹の駐車場に、ミサトたちは待機していた。

報告をする日向に、ミサトが頷く。

「影は?」

「動いてません。直径600メートルを超えたところで停止したままです」

ミサトが双眼鏡を下ろし、離れたところで端末を叩いているマヤに声を掛ける。

「リツコはなんて言ってるの?」

「まだ解析中のようです」

「そう。・・・・リミットは16時間なのよね?」

少し表情を暗くして、マヤがその問いに答える。

「はい、シンジくんが生命維持モードに切り換えていれば、ですが。もう4時間近く経っています。残された時間は・・・」

「あと12時間と少し・・・ね。なんとかしないと・・・」

二人の会話を聞きながら、レイはただ街を見つめていた。

何も言わず。

シンジを吸い込んだ黒い影の奥を。





「・・・・ここはどこなんだろう」

エヴァを生命維持モードに移行して数時間。

幾度めかの問いを自分自身にする。

いらえはない。

エントリープラグ内にシンジは横たわっていた。

初号機の動きが止まってから、何度か外部の探索を試みたが、なんの応答もない。

宇宙に放り出されたかのように、なにもない空間が広がっているようにも感じられる。

死の世界なのか?

プラグ内を微かに照らす明りだけが、僅かな現実感を支えている。

この光がある限り、まだ希望はある。

しばらく明りを見つめたあと、シンジは目をつぶった。

不安を紛らわせるには無理にでも眠った方がいい、そう思えたから。







「あれはいったいどういうことなんです?」

黄色い瞳で端末の画面を見つめる少女に、軽い口調で加持が話しかける。 

「それが聞きたくてまたこんなとこまで来たの? 加持くんも暇みたいね」

流れる様に写し出されるデータを目で追いながら、レヰが冷やかすように答える。

「司令も副司令も不在ですからね。まあいたとしても教えてくれるかは疑問ですが。初号機がサードチルドレンごと消失するという事態。委員会はおそらくパニックでしょうね」

「どうかしら。参号機と四号機はほとんど完成してるんでしょう? 兵器なんだから、消耗するのはあたりまえと思ってるかもしれないわよ?」

「しかしシンジくんはエースですからね。それにそもそも使徒をまだ倒してません。新しいエヴァは間に合いませんよ」

野球の試合の成り行きを予想するように、二人の会話に深刻さは微塵も無かった。

「で、聞きたいのは、使徒の行動のこと?」

「ええ、この上にとどまったまま数時間。攻撃するわけでもなくじっとしている。いったい何がしたいんですかね、あいつは」

「前にも言ったけど、私は使徒じゃないんだから、分かるわけないとは思わないの?」

微笑みながらレヰが言う。

「推測で結構ですよ。どのみち俺の自己満足の為ですから」

「そのためには危険も厭わないのね。・・・・まあ見上げた心がけなのかしら」

何を言っても堪えない加持に、呆れたように小さく溜め息をつき、レヰは再び画面に集中する。

加持も軽口を止めてその様子を見守る。

「・・・・なるほどね」

得心した顔で、レヰが端末から視線を離した。

「なにか分かりましたか?」

「ええ・・・初号機は消失したわけではないわね。取り込まれたのよ、使徒に」

「とするとあの影は・・・・」

「あれが使徒の本体よ。空中にうかんでいる球体が影」

その言葉に驚いたのか、加持が端末を覗き込む。当然彼には意味などわからない。

それにかまわずレヰが説明を続ける。

「内向きのATフィールドで、厚さ3ナノの極薄の空間を形成、虚数空間、つまりはディラックの海ね」

「虚数空間って、そんなところに物質が飛び込んだら対消滅を起こすんじゃないんですか?」

「それはあくまでフタよ。初号機が今いるのはその向こう、言うなれば別の次元。時間も場所も全く別のどこかね」

依然、腑に落ちない表情で加持が尋ねる。 

「あの使徒の中にそんな世界が? いったい使徒ってなんなんですか?」

「それは私にもよくわからないけど・・・・あの使徒が何をしたいか、だったわね」

「はい」

少し表情を厳しくしてレヰは加持を見た。

「・・・最初の目的はわからないわ。でも、使徒が動きを止めたのは初号機を取り込んでから。そこから考えられるのは・・・・」

加持は黙って話を聞いている。

「使徒は興味を持ったのかもしれないわね。初号機か、あるいは・・・シンジくん・・・人に」

「人に・・・・?」

「そう・・・・知恵の実を食べた者に・・・だからあの使徒が再び動きださない限り、シンジくんはまだ生きてるってことかもね」

呟くようにレヰが話す。

「じゃあ、今、使徒はシンジくんとコンタクトしてるってことですか?」

「あくまで推測よ・・・そもそもどんな形で使徒が人に接触を図るのかなんて、想像もつかないもの」







シンジは夢を見ていた。

どこか暗い場所。

幼児に戻った自分を。

母は既に消え、父も去った。

一人取り残され、ただ丸くなって泣いていた。どうするあてもなく。

そこに声を掛けてきた少女がいた。

母によく似た顔、よく似た声。

だから安心したのか。

それからは彼女に連れられて歩き回った。

彩られた車の行進。踊り回る人形たち。眼下に広がる光の海。

初めて見る風景の中を、彼女に手を引かれながら。

いつしかシンジは心細さをを忘れていた。

突然訪れた暗闇にシンジが怯えて泣きだした時、彼女は優しく抱きしめてくれた。

私がついている、と。

その言葉と彼女のぬくもりが、シンジにやすらぎを与えてくれた。

彼がもう失った、母の、そして父から貰っていたやすらぎを。






『・・・・・状況は以上の通りです』

モニターに写るリツコは少し緊張している様に見える。

彼女が話した内容は、シンジに対する最後通告に等しいものだった。

「それで使徒のATフィールドの突破は可能なのか?」

冷静な口調を崩さず、ゲンドウが問いかける。

『はい、別の空間をつくり出すほどの強力なものですが、零号機と弐号機の2機で一瞬中和し、保有する全てのN2爆弾を用いれば・・・・』

「・・・作戦の目的は分かっているな?」

『・・・・・・初号機の回収・・ですね』

「・・・・分かった、やってみせろ。・・・指揮権委譲の連絡はこちらからしておく」

赤いサングラスを通して、ゲンドウがリツコの顔を見据える。
その視線にモニターの向こうでリツコは目を逸らした。
一瞬口ごもり、言い訳するように話す。

『破壊に必要なエネルギーは莫大です。市街はもとより初号機が原型をとどめる可能性は低く、パイロットの生存は・・・』

「放っておいても死ぬだけだ・・・考慮する必要は無い」

『・・・・わかりました』

モニターからリツコの姿が消える。

視線を移さず誰もいない画面を見据えたままのゲンドウに、横にいた冬月が声を掛けた。

「よかったのか? それで」

返事は無かった。






「眠ることがこんなに疲れるなんて思わなかった・・・」

ようやく目を覚ましたシンジが、身体をシートにもたれさせたまま呟く。

全身のだるさが、気力まで吸い取っていくように感じる。

スイッチをオンにし、索敵をおこなってもなんの反応も無い。

ふたたび生命維持モードに戻す。

「システムを切り換えてからもう12時間・・・・僕の生命もあと4、5時間か・・・」

死の恐怖はまだ実感とはなっていない。いまにも助けが来そうな気もする。

しかし現実に終わりの時は近づいていた。

「綾波・・・・」

呟くシンジの目は、ただ遠くを見ていた。




リツコが指し示すホワイトボードを、レイは冷たい視線で見つめている。

シンジを取り込んだ使徒の正体が解ったとはいっても、彼女にはあまり意味は無かった。

どうすればシンジを助け出せるのか。

その答えだけをレイは求めている。

エヴァのシステムは熟知している。まもなくLCLの循環が弱まり、生命維持に支障がでてくる筈だ。

もう時間がない。

あと何時間かすれば確実にシンジの生命は失われる。

それを知っているはずなのに、悠長に説明を続けるリツコに、彼女は怒りすら感じていた。

それが筋違いだと分かってはいたが。







「エヴァの強制サルベージ?」

「そう、可能と思われる唯一の方法よ」

使徒の説明を聞き終わり、肝心のシンジ救出について話し合おうとしたミサトに、リツコが答える。

周囲にはだれもいない。

駐車場に造られた野戦指揮所の外。サーチライトの明りが二人を照らしている。

「残った2体のエヴァが形成するATフィールドを利用したら、1000分の1秒だけ虚数空間を形成する使徒のATフィールドの中和が可能なのよ。その瞬間を狙って、992個、現存する全てのN2爆弾を使徒の中心部に投下。そのエネルギーでディラックの海ごと使徒を破壊する・・・・これしかないわ」

「でも、これではエヴァの機体が、シンジくんがどうなるか・・・・救出作戦とは言えないわ」

リツコの言葉の意味を理解し、ミサトが厳しく詰問する。

「作戦は初号機の機体回収を最優先とします。たとえボディが大破してもかまわないわ」

「ちょっと待って」

「この際、パイロットの生死は問いません」

激情にまかせ、ミサトがリツコの頬を張る。

大きな音があたりに響いた。

左頬を抑えながら、リツコがミサトを睨みつける。

からまる視線。

その時、対峙する二人に声を掛ける者があった。

「私は何をすればいいの?」

声の方向を二人が見る。

ライトの届かない影に、隠れるように立つ蒼い髪の少女。いつからそこにいたのだろうか。

「レイ。あんたこの作戦の意味が分かってんの?」

「放っておいても碇君は助からない・・・・なら」

「・・・・ミサト、少なくともこの作戦のシンジくんの生存率はゼロではないわ」

思いつめたようなレイの顔に、ミサトが渋々頷く。

「この作戦についての一切の指揮は私がとります。レイ、あなたは搭乗準備をなさい・・・」

リツコの言葉に頷き、レイはその場を離れた。

後を追うようにリツコもテントへと向かう。

周囲に指示を出すリツコの声を聞きながら、ミサトはひとりごちていた。

「・・・レイ、司令たちが助けようとしているのは初号機よ。シンジくんじゃないわ」









夕陽が差し込む電車の中。

車両の両側に並行に備えつけられたシートの一つにシンジは座っている。

いつからここにいたのか、なぜここにいるのか、それは分からない。

この電車がどこに向かっているのかも。

自分の他には誰も乗っていない、そう思っていたが、正面のシートに、太陽の光に隠れるようにして座っている誰かがいることに、シンジは気づいた。

黒い髪の少年。幼児と言ってもいい、5、6才だろうか。

こちらをじっと見ている。

何故かよく知っている気がした。

「誰?」

思わず彼に問いかける。

「僕は碇シンジ・・・・」

嘲笑うようなアルカイックスマイルで答えたのは、幼い頃のシンジと同じ顔だった。






「どうして君はここにいるの?」


少年が尋ねる。

自分が今どこにいるのかシンジにはよく分からない。だからその問いには答えられない。

それを見透かしたように、少年が言う。


「どうして君はエヴァに乗ったの?」


フラッシュバック。シンジの脳裏に発令所から彼を見下ろすゲンドウの姿が浮かぶ。

自分を責めるように話すリツコとミサト。

包帯をまかれ、痛みに悶えるレイ。

なぜあのとき自分はエヴァに乗ったのか、今のシンジには分からない。

他に選択肢は無かった。そんな気がする。


「どうして君はネルフに来たの?」


その問いには答えられる。

書きなぐられた『来い』という文字。


「・・・父さんに呼ばれたから」

「父親に会いに来たの? 一度逃げ出したのに」

「別に好きで来たわけじゃないんだ・・・・先生もその方がいいって言ったし・・・」

「父親が嫌いなの?」

「嫌いだと思ってた。でも今は分からない」



『よくやったな、シンジ』

通信機越しのゲンドウの言葉。



「父さんが誉めてくれた。初めて誉められたんだ・・・・嬉しかったんだ、それが」

「だからこれからもエヴァに乗るの? 父親を信じて」

「ううん・・・・父さんは関係ない」

「・・・彼女のためだね。エヴァに乗るのは」



シンジの腕の中で身悶える蒼い髪の少女。上気した頬。紅い瞳。



「君はもう父親を求めてはいない。彼女がいるから」

「・・・綾波は僕を必要だって言ってくれる。僕をとても強く求めてくれる。彼女を守らなくちゃいけない。だから、僕はエヴァに乗るんだ」

「彼女を好きなんだね」

「うん、初めてなんだ。誰かを好きになったのは」

「たとえ人間じゃなくても?」



『彼女は人ではないわ』

黄色い瞳の少女が嘲笑うように言う。レイと同じ顔で。



「関係ないよ。綾波は綾波だもの。人間かどうかなんて、そんなことどうでもいい」

「自己欺瞞だね。じゃあどうして彼女のことを父親に訊いたの?」



『レイは私が造った』

ユイの墓標の前でゲンドウが言う。

『アレの身体は、エヴァと同じもので出来ている。そういう意味では人ではない』



「知りたかっただけだ。本当のことを。そうしなきゃいけないって思ったんだ」

「それで? 君は恐れているんじゃないのかい? 彼女のことを」



零号機の中で見た、自分に襲いかかろうとするレイの幻。

学校の屋上で見せた冷たい横顔。

装甲が剥がされ、むき出しになった初号機の素体。シンジを見つめる巨大な瞳。




「君は疑っている。彼女の心の底にある闇を」

「違う。だって綾波は僕のことを受け入れてくれる。僕を愛してくれる」



蠢く白い肌。絡みつく肢体。熱い吐息。幾度と無く繰り返される営み。

貪るようにシンジを求めるレイの姿。



「ただ快楽を欲しがってるだけじゃないのかい? 君も彼女も」

「そんなこと・・・・・ないと思う」

「心の中なんて、他人には分からないよ。・・・・そもそも彼女は人の心を持っているのかい?」




暗黒。

すべての映像が消え、誰もいなくなった。自分自身すら。




レイが人ではないとしたら、彼女の心も人のそれではないのか。

それこそがシンジが一番知りたいことだったのかもしれない。




「それに君は、本当に自分の心が分かってるのかい?」

遠くから声が聞こえる。

「君は気づいているんだろう? 彼女が・・・・・君の母親に似てることを」


浮かび上がるレイの顔。そこに黒髪の女性の顔が重なる。


暗闇の中で、シンジは声も無く叫んだ。








「エントリープラグの予備電源、理論値ではそろそろ限界です!」

「プラグスーツの生命維持システムも、危険域に入ります!」

「・・・12分予定を早めましょう。シンジくんが生きている可能性が、まだある内に」






悪夢から逃れるように、シンジは目を覚ました。

血の臭いが濃くなったエントリープラグの中で。

「もう保温も酸素の循環も切れてる。・・・・・寒い」

思わず身を丸くする

うっすらと辺りを照らしていたプラグスーツの赤いランプの点滅がやがて消える。

バッテリーが切れたのだ。

「これまでか・・・・綾波・・・・ごめん」

シンジが目をつぶる。意識が薄れてゆく。

その瞳の奥に写ったのは紅い瞳の少女の悲しそうな顔。

泣いているのか。見たことのない表情。

シンジを呼んでいる気がした。



・・・・綾波・・・



かすかに残った意識の中でシンジが呟いた時、何かが彼を包んだ。

暖かい光で。


ゆっくりと目を開けた。

光が人の形を作っている。

夢ではない。誰かがそこにいる。シンジを抱きしめている。


「・・・・お母さん?」


身を委ねながら、シンジにはそれが彼の母だと分かった。

やさしい感触。記憶の底。なつかしいぬくもり。

そして、彼の意識は途切れた。








第三新東京市の中心にできた円上の影。

その縁沿いに零号機は立っていた。反対側には弐号機の姿。

視界の届かない影の奥を睨みながら、レイは作戦の開始を待っていた。

空には爆撃機が旋回している。千個近いN2爆弾が投下されることになるのだ。

作戦の結果、レイが見ることになるのはシンジの遺体かもしれない。その可能性の方が高い。

それはレイもよく分かっている。

ゲンドウやリツコがシンジのためにこの作戦を行なっているのではないことも。

結果シンジを殺すことになるとしても、彼女には選択肢はない。

ただ、会いたい。

その気持ちだけが、今のレイを支えていた。




突然、影に亀裂が入った。なんの前触れも無く。

地割れが起こったように、赤い裂け目が走る。破壊音を響かせて。

「何が起こったの?」

発令車の中、ミサトが叫ぶ。オペレーターたちにも事態は把握できていない。

みるみる亀裂は広がっていく。

「まさかシンジくん?」

「あり得ないわ。初号機のエネルギーはゼロなのよ」

戸惑うリツコたちを嘲笑うように、空中を浮かぶ球体が裂けた。

血しぶきのように赤い液体が吹き出す。

「な、なんなの?」

弐号機のマヤが呟く。

零号機の中で、レイはただ黙って見つめている。

唇をかみしめながら。


内部から両腕を広げ、球体を二つに割るようにして初号機が姿を見せた。

咆哮。同時に球体が砕ける。圧倒的な力。

微塵となり、使徒の形はどこにも残ってはいない。
無となった空間から、初号機はそのまま赤い液体の海となっている地面に降り立った。

真っ赤に染まった機体。
その目だけが白く光っている。仁王立ちになって。
それは獣そのものだった。

異様な風景。

「なんて、なんてものをコピーしたの、私たちは」

恐怖で、リツコが顔を歪めながら呻きに似た言葉を出す。

ミサトは、そんなリツコを冷たい目で見つめていた。





「それでシンジくんの具合はどうなんだ?」

「病院で眠ってるわ。特に異常は無かったみたい」

軽い口調で尋ねる加持に、ミサトが答えた。安堵したからか、その表情は柔らかい。

「使徒に飲み込まれたんだ。よく生きて戻れたもんだな」

「ええ、・・・・私たちはなにもしてないけどね」

「サードチルドレン、仕組まれた子供、か・・・・」

「どうしたの?」

含んだような物言いが引っかかったのだろう。訝しげにミサトが尋ねる。

「・・・いや、結局使徒は倒された。初号機の力で。・・・初号機はシンジくんを守ろうとしたんじゃないのか?」

「シンジくんを?」

意外そうなミサトの顔。考えたことも無かったのだろう。

「ああ。シンジくんの生命が消えかけた時、再起動した。これで2回めだろ?」

最初の暴走。それはシンジが初めてエヴァに乗り、使徒と戦った時起こった。

「それはシンクロの結果じゃないの? 自己防衛本能が暴走に結びついたんじゃ」

「どちらもパイロットの意識は無かった。その可能性は低いさ」

ミサトの頭に一つの光景がよぎる。
シンジがエヴァに乗る前、プラグも挿入されないまま勝手に動いた初号機。

あの時もそうだった。

「・・・エヴァに心がある。そしてシンジくんを助けることを望んだ。そう言いたいの? でもなぜ?」

「その理由は俺が一番知りたいことだよ。ここの地下で見たあのアダム、そのコピーとして作られた人造人間。エヴァの秘密がそれだけじゃないことは、葛城にも分かってるんだろう?」

「それは・・・」

加持の目がミサトを見つめる。
その瞳に気押されたかのように、ミサトが言葉を詰まらせる。

地下の巨人。
そして今度の作戦で、ミサトのネルフへの不信感は拭いがたくなっている。
それが加持にはよく分かっていた。

使徒が絡んでいる限り、ミサトは必ず真実を知ろうとする。
彼女の父の仇だから。それは宿命。

しかしネルフ、そしてゼーレが持つ闇は、ミサトが想像するより遥かに深い。

放っておけば間違いなく飲み込まれるだろう。

誰かが道を示さなければならない。


見透かすような視線に耐えるように加持を見つめ返すミサトの身体は、加持にはとても小さく写った。

まるで睨み合うようになる。

張りつめた時が過ぎる。

そして、加持が先に微笑んだ。 

優しい笑顔で。

「まあいいさ。初号機の気持ちなんて、誰にも分かるわけないからな」







「ユイさんはまだ帰りたくなかったようね」

総司令室。冬月は所用で出ている。

イスに座りいつものように両手を組むゲンドウに、レヰが話しかけた。

「・・・・なんのことだ」

「わかっていたんでしょう? リツコが本当は初号機を壊そうとしていたことが」

黄色い瞳がゲンドウを見つめる。

「作戦は発動されなかった。ゼーレに非難されずにあなたの願いを適えるせっかくの機会だったのに」

「目的はあくまで初号機の回収だ・・・・結果としてそれは果たされた」

眉一つ動かすこともないゲンドウの様子。しかし全く気にせず、レヰは言葉を続けた。

「結果としてね。・・・・でも破壊される可能性は低くはなかったはずよ。あれだけのN2爆弾を使ってコアが無事ですんだかしら」

「・・・異世界に取り込まれるよりはましだ」

「それはただの言い訳でしょう? あのN2爆弾の量に明確な根拠があったとは思えないけど」

「適正量を計算している時間がなかったんだろう」

微動だにしないゲンドウに、レヰが冷たく微笑む。

「でも少し早かったんじゃないの? 参号機と四号機、そしてダミーシステムが完成して、シンジくんとレイをエヴァから降ろす。それからでもよかったんでしょう」

「今回の件はイレギュラーだ。ああいう形で初号機を失うわけにはいかなかった」

「それはそうでしょうけど、人の娘を息子殺しの共犯にはして欲しくないわ」

初めてゲンドウが少しだけ表情を変えた。

「作戦を立てたのは彼女だ」

「そうやって逃げるの?・・・・でも、あの娘もおめでたいわね。自分の恋敵を抹殺するどころか、その復活のために手を汚そうとするなんて・・・たとえ知らないにしても」

「初号機を破壊したからといって、ユイが帰ってくるとは限らん」

「・・・そのための器として『レイ』をつくり、私でさまよう魂の定着を実験した」

「あなたにはマギがあった。単純に比較はできんよ」

「それでもそのつもりなんでしょ? ・・・だから今の私やレイには手を出さないのね、ユイさんを汚すようで・・・・」

拗ねたようなレヰにゲンドウが苦笑する。

「全ては仮定の話だ。・・・補完計画の遂行、それが求められることに変わりはない。初号機がたとえ破壊されてもだ」

「まあそのためのネルフですもの。エヴァは次々と造られているし・・・」

「エヴァが何体あっても、それだけで補完の遂行ができるわけではないさ」

含みのあるゲンドウの言葉に、レヰが黄色い瞳を見開いた。

「まさかユイさんが帰って来れば、その後は補完の阻止にまわるつもりなの? ・・・老人たちが黙っていないと思うけど」

「アダムに槍、切り札はこちらが握っている。それに今のリリスはただの脱け殻だ。補完には使えんよ」

「・・・・リリスの封印・・・まさかそのためにシンジくんとレイを・・・・」

ゲンドウが声もださず不敵に笑う。半ば唖然としながらレヰが言葉をつぐ。

「あの二人を放っておくのは、シンジくんを補完の依代にするためだと思ってたんだけど、そう、そういうことなの」

「そうする可能性も否定はしない、それが必要ならば。・・・明日のことなどわからんさ」

「そうね。少なくとも今回、ユイさんはあなたの思惑に乗らなかった。これからも計画通りにいくとは限らないものね」

「そのための手は打つ。どんなものを使ってもな」

その言葉を最後にゲンドウは部屋を出ていった。レヰがその背を見つめる。

「・・・私には若い肉体、レイにはシンジくん、そしてリツコには現在の快楽と地位・・・私とレイはともかく、あの娘がそれで満足するかしらね・・・」

レヰのつぶやきはゲンドウに届いていなかった。






白い世界の中、シンジは一人だった。

『母さん・・・・』

母はもういない。

包まれた時の感触はまだ残っているが。

彼女は行ってしまった。シンジを残して。

深い喪失感の中、しかしシンジは安堵していた。

まだ会わなければならない相手がいたから。

なにもない世界を、ただ彷徨い歩く。

そして確かに見つけた。

世界の果てで佇んでいる、蒼い髪の少女の姿を。





日差しを感じながら、ゆっくりとシンジは目を覚ました。

病室のベッド。エントリープラグではない。

助け出され、ミサトが自分に抱きついて泣いていた。あれは夢ではなかったのか。

他にも夢を見ていた様な気がするが、何も思いだせない。

全身に気だるさを感じる。節々が痛い。それが生きている証なのだろう。

その時、気づいた。

こちらを見ている紅い瞳。

制服姿。ベッドの脇でイスに座っている。ずっとついていてくれたのだろう。

軽くシンジは身体を起こした。

目が合い、見つめあう、不安そうな表情。

おもわず手をのばす。レイもそれに応じ、シンジに手を差し伸べる。

レイの腕に絡めるように、シンジは彼女の感触を確かめる。

初号機のエントリープラグで感じたものとは違う、レイだけが持つぬくもり。

今のシンジにはよく分かる。

他の誰でも無い、綾波レイという存在を自分が求めていることが。


「・・・・・ただいま」


心配そうなレイを宥めるようにシンジが言う。

その言葉に、シンジの顔を見るレイの眼がみるみる潤みだした。

そして涙が溢れだす。

いく筋もいく筋も、まるでとどまることなく。

気づかないのか、レイは目を見開いたまま、拭おうともしない。

初めて見るレイの涙に一瞬呆然としていたシンジが、手を離し彼女の顔に触れる。

その時、ようやくレイが己の頬を伝うものを知った。

とまどうように拭き取り、じっと眺める。

問いかけるようにシンジの方を見たレイに、シンジは微笑みかけた。

それを見て何かを思いだしたのだろう。レイも微笑む。涙を流したまま。


「・・・おかえりなさい」


そしてシンジに身体を預けた。飛び込むようにして。

レイを受けとめ、口づけを交わしながら、シンジは自分の顔にレイの涙が落ちるのを感じていた。

熱くシンジの頬をぬらす液体。

レイの心から溢れたもの。

それがシンジの中の不安を全て流していく。

いつしかシンジも涙を流していた。

目を瞑り、レイを強く抱きしめる。

初めて彼女を知った気がする。もう迷いは無かった。



朝の光の差し込む病室。

シンジとレイはひたすら抱き合っていた。


お互いをもう離さないように。




永遠など無いと、知っているかのように。






〜fin〜









かつ丸にメールを送る
katu@osaka.104.net



解説:

最終話にしてようやく使徒登場です(笑)。
戦闘シーンはほとんどありませんし、脱出方法も原作と同じですが(^^;;
だいたいあんなもんとどうやって戦うつもりだったんだろう>ミサト
命令どおりに零号機と弐号機待ってたら、三機そろってズブズブズブ・・・・(^^;;;
偵察という概念が無いのかしらん。

この三部作については加持とゲンドウを中心にすえてみました。
原作ではほとんどその心情を語られることの無かった二人ですが、自分なりの解釈です。
ただ話は途中なので、それぞれの想いがどう実を結ぶかってのは別問題ですんで、ふふふ・・・。

そしてこの話の目的・・・・ある程度の謎ときとレイの涙。
どちらについても異論、疑問ありましたら、遠慮なくメール送ってください。
場合によっては続きに影響しますんで(爆)

ともあれ、「新月」「M」「夢魔」と続いた三部作形式もこれで終わりです。
次からは最後のEOEまで、一続きの話になる・・・・かな?(^^;;
ずっと投稿でやってきたので、めどがたってから発表を始めるつもりでしたけど、自前のHPになってある程度自由に差し替えできるわけで・・・どうしようかしら(笑)

まあ今は真っ白だし、再開は少し先かな。




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