「温泉・・・ですか?」
「そっ、温泉!」
ここはコンフォート17マンション、ミサトとシンジの家。
夕食の時間だが、いつものシンジの手料理ではなくコンビニ弁当を二人は食べている。
「で、でも、なんで突然温泉なんですか?」
「湯治よ」
そう言ったミサトの視線の先にはシンジの手。両手のひらが包帯でグルグル巻きにされている。
「シンちゃんのやけど、治りが遅いでしょ。リツコに言われたのよ。私が酷使してるのが原因じゃないかって。そんなことないと思うんだけど」
そんなことはあった。
ヤシマ作戦でやけどをした両手、結構重症だったため結局手術をするはめになり、当分使わないよう医師からは言われていた。
しかし、食事は出来合いで済ますから良いとしても、掃除、洗濯一切だめのミサトである、シンジが何もしないとこの家は3日で腐海に沈んでしまう。
やむなく家事を続けていたため、シンジの手はなかなか治らなかったのだ。
「でもまあ、普通に生活してたらどーしても手は使っちゃうもんね。だから温泉でのんびりして、ついでにやけどの治療もしちゃおうってわけよ」
「そうなんだ。・・・・・でも、いいんですか?使徒がくるかもしれないのに。零号機は修理中なんですよね」
「だーいじょうぶよ。温泉ていっても強羅温泉だから。あそこにはうちの施設も多いし、いざとなったらジェットヘリで10分もかからず本部まで戻れるわ」
「湯本や芦之湯じゃないんですね」
「強羅は硫黄泉があるから皮膚の治療にいいのよ」
「わかりました」
ようやく納得したのか。シンジも笑顔になった。
「温泉って行ったことないから楽しみです。それでミサトさんも一緒なんですよね?」
「私は無理よ。この間の後始末も残ってるし。ほんとは行きたいんだけど」
「えっ、じゃあ僕一人で行くんですか」
「まあ近所だから一人でも大丈夫だと思うんだけどね。保護者同伴よ」
それを聞いてシンジは少しホッとする。やはり一人で初めての場所に行くのは心細い。
「保護者って、誰なんですか?」
リツコさんはミサトさんより忙しいし、マヤさんかな。ま、まさか父さんじゃ・・・。
『シンジ、一緒に入れ、でなければ帰れ!』
素っ裸で仁王立ちになっているゲンドウの姿を想像してしまったシンジ。精神汚染が始まっていた。
「・・・シンジくんの先輩にあたる人よ。会ったことあると思うから、向こうに行けばすぐわかるわ」
よかった、父さんじゃない。だったら誰でもいいや。
「一緒に行くんじゃないんですか」
「ええ、いろいろと準備もあるから。ねえシンジくん、一つだけ注意しておくけど、これは遊びじゃないの。あなたは本来行かなければならない中学校を休んで温泉に行くことになります。費用はもちろんネルフの負担、つまり税金よ」
ミサトの顔が厳しくなる。
「だから自覚していてね。これは作戦行動の一環だということを。あなたは戦闘中私の言葉に従うのと同じように、今回の保護者の指示に従う義務があるの。それが守られなかった場合は処罰の対象になります」
「・・・はい」
緊張して答えたシンジの顔を見ると、ミサトは相好を崩した。
「まあ、心配しないで。それさえ守ってくれたら後は自由にしてていいから。基本は湯治なんだから、のんびりしてらっしゃい」
written by かつ丸
強羅温泉駅でリニアトレインを降りる。
第三新東京市から近く利用客が多いせいだろうか、ネルフのミサイル設備やレーダーサイトがすぐ近くにあり、度重なる使徒の襲撃にさらされていたにもかかわらず、温泉街に寂れた雰囲気は見られなかった。
「ここだな・・・」
そこは、ネルフ所有の保養所。職員の福利厚生のために運営されている施設。
そう言うと豪華なホテルを想像してしまうが、その外見はどうみてもただの温泉宿だ。「まあ、このほうが雰囲気があっていいかな・・・」
別に気にするふうもなく、シンジは中に入った。
仲居さんに案内してもらった部屋でくつろぐ。他にはだれもいない。
「そういえば保護者の人ってどこなんだろう。準備があるとか言ってたから、後から来るのかな」
時間は午後4時。温泉にも食事にも少し早い。荷物を置いたシンジは、とりあえずお茶を飲んでいた。
両手に巻かれた包帯に目をやり、どうせ温泉に入るのだからとそれを外す。
皮膚移植をおこなったため痕は残っていないが、まだ少しつっぱる感触がある。しかし、もう動かしても支障無いように思えた。湯治の必要なんてなかったかもしれない。でもまあいいか。せっかく休んでいいと言われたんだし。
ごろんと横になる。この街に来てからの出来事が頭をよぎった。こんなにのんびりしたのは久しぶりだ。
ふあぁと大きなあくび。今日は掃除も洗濯もしなくていい、そう思うと少し嬉しい。
いくら家事が向いているとはいえ、チルドレンと主夫の兼業はシンジの負担になっていたようだ。そのままシンジは眠りについていた。
呼ばれたような気がして、シンジは目を覚ました。上体を起こしてふと横を見ると誰かが座っている。
・・・・・綾波・・レイ・・・
先の作戦の結果、入院していた筈の彼女。
その後ずっと顔を合わせることはなかった。
お見舞いに行こうにも、ミサトもリツコも入院先の病室を教えてくれなかったのだ。
その彼女が、壱中の制服を着て、紅い瞳でこちらを見つめている。その顔に表情は見られない。
目と目が合う。
一瞬自分の状況が分からなくなった。
思考停止の後、ようやく温泉に来ていることを思い出したシンジは、ここに彼女がいる理由に思い当たり尋ねた。「えっと・・・綾波も・・・湯治に来たの?」
しかし視線を外さぬまま、軽く首を振ってレイが答える。
「・・・違う」
「じゃあ、どうして?」
「保護・・・あなたは、わたしが護るの」
何を言っているのか分からない。
彼女の言葉の意味を図ろうと、少し呆然としたままシンジはレイを見つめていたが、そんな彼に頓着せず、レイは懐から手帳を取り出すとそれを読み上げ始めた。「初号機パイロット碇シンジの湯治治療についてスケジュールを通達します。本日1800をもって碇シンジは保護者綾波レイの指揮下に入ります。1820旅館備えつけの浴衣及び丹前着用の上、脱衣場に出頭。別命あるまで待機すること」
そう言って、シンジに折り畳まれた浴衣と丹前を渡す。
「出頭時刻まであと20分。じゃあ、これ、着替」
無意識にそれを受け取りながら高速で頭を回転させていたシンジは、漸くレイの言った言葉の意味を理解した。
「ちょ、ちょっと待ってよ綾波。保護者って、指揮下ってどういうことだよ」
「だからあなたを保護するの。葛城作戦部長から正式な辞令もでているわ」
「で、でも綾波だって同じ中学生じゃないか。保護者なんて変だよ」
「問題ないわ。命令だもの」
とりつくしまもない。シンジにはミサトの邪悪な笑みが想い浮かんだ。
・・・ミサトさん、少しでも信じた僕が馬鹿でしたよ。
「じゃ、先、行くから。寝ぼけてその格好で来ないでね」
そう言うとレイは部屋を出ていった。
その格好?
レイの言葉にシンジは半身をおこした自分の姿を見下ろす。
毛布がかけられている。
綾波がかけてくれたのかな・・・って!「どうして僕は裸なんだよーーーーーーー!」
部屋をでたところでレイは少し頬を赤らめていた。
「ファーストチルドレン、目標に接触」
「心拍、血圧に若干の上昇が見られます」
「やはり反応が顕著になってるわね」
「どういうこと?」
「以前よりもシンジくんを意識しているということよ」
「ふーん、じゃあ結果が楽しみじゃない。まもなくステージ1ね。引き続き観察を続けて」
「始まったな」
「ああ」
18時20分、シンジは脱衣場に来ていた。
しっかり浴衣と丹前も着ている。
しかし、自分の状況に不安を感じているのだろう。その顔は少し蒼かった。「綾波、どうしたんだろう」
周りを見渡しても彼女の姿は見えない。旅館には冷房が効いていてむしろ寒いくらいなので、ここで待っているより早く入りたいのに。
しかし、別命あるまで待機、そう言われている。ここ数カ月の訓練で、命令には逆らわない体質になっているシンジだった。突然、発信音が鳴る。見ると脱衣かごの一つに携帯電話が入っていた。急いで取り出し、電話にでる。
「はい」
「・・・服を脱いで、温泉に入って」
「もしもし、綾波!」
あわてて呼びかけたが、すでに電話は切れている。
釈然としない。
なんだってこんなことをしてるんだろう。普通に温泉に入ればいいじゃないか。
でも何か意味があるのかもしれない。
綾波が冗談をいうとも思えないし。バックにいるのがミサトさんっていうのがひっかかるけど。しかたなく服を脱ぐ。裸になったシンジは、脱衣場に積まれているタオルを一つ持ち、前を隠しながら温泉へのドアを開けた。
旅館の外観からこじんまりしたものを予想していたのだが、それは想像していたよりもはるかに広かった。
学校のプールの半分ほどもある広さの露天風呂は、外周を大きな岩で囲まれており、もうもうと湯気が立っている。
お湯は乳白色でいい香りがする。たまに家で使う温泉の元よりも硫黄のにおいがきついようだ。
他に人影は見えない。まさに貸し切りだ。ペンペンを連れて来てあげればよかったな。
テレビでしか見たことの無い風景に少し感動しながらシンジは思った。
そうすれば、彼の同居人(鳥)はさぞかし喜んだことだろう。ミサトが何も言わなかったのが不思議だ。
彼女もペンペンのことは大事にしているのに。
・・・遊びじゃないってことか。
ミサトが言った言葉を思い出し、自分がここにいる理由に気がついたシンジは、近くにあった風呂桶で軽く身体を流し、湯船の中に入った。色がついているため外からは見えなかったが、温泉の底は中心に向かい階段状になっていた。
少し奥まったところでちょうどいい段差を見つけ腰をおろす。あったかい。
肩まで湯船につかり、空を見上げる。あたりはもう薄暗い。
旅館の明かりと、ところどころにある灯籠が温泉を照らしている。
少し温めのお湯。
気温を考えるとこの方が心地よい。
鼻唄でも歌いたい気分だ。こんな時は『第九』が似合うような気がする。何故だろう?
しばらくぼんやりしたまま上を向いてお湯にひたっていた。
それに飽きたころ、少し身体を起こし、両手の様子を確認してみる。少しふやけている。でも、つっぱった感じはもうしない。
何度か握ったり開いたりを繰り返すが、もう違和感は感じない。
・・・やっぱり効果があるのかな。
そう思いながら、両手を見つめていると、誰かが横から手首をつかんだ。
白くて細い手。「・・・!」
驚いて振り向く。
そこにはやはり紅い瞳。
じっとシンジの手を見つめている。掴んだまま離そうとしない。「あ、綾波、どうして・・・」
「両手をお湯につけて」
そういって力をこめる。あわてて両手を湯船にもどすが掴んだ手はそのままだ。
「綾波、手を離してよ」
「だめ。今、離すと治療に影響がでる。だからだめ」
影響ってなんだよ。そう言葉にしようとしたが、レイの冷たい視線に言っても無駄だと悟り飲み込んだ。
そこで自分の置かれている状況に思い当たる。
胸元までつかったお湯の中は見えないものの、レイがなにも着ていないのは雰囲気でわかる。
シンジもエチケットとしてタオルは持って入っていない。つまりなにも身を隠すものはない。
お互い裸で向かいあったまま、両手をつないで見つめ合っているのだ。
これは、おいしい・・・違う、これは、まずい。湯あたりしたわけでもないのに、頭がくらくらしてくる。
あらためてレイを見ると白い肌は温泉の影響かうっすらとピンクに染まっている。
か、可愛い。
いきなり理性が臨界点を突破しかける。
いけない。
ぶるぶると頭をふる。
しかし、目の前にはレイの顔。きょとんとした表情でシンジを見ている。
自分を抑えられない。なんとかしないと。
自制心を総動員して話しかける。「ね、ねえ、いつまでこうしていればいいのかな」
「予定では1900に湯船をでて、身体を洗うことになっているわ」
「・・・その予定って誰が決めたの」
「あなたが知る必要はないわ」
「そ、そう」
会話が途切れる。
再び動揺が始まる。
でもお湯が濁っていて良かった。透明だったらとてもうれしい・・・じゃなくて、とても耐えられそうにない。
こっちにきてミサトと一緒に暮らし始めてから、ある程度女性の下着姿や裸にも免疫がついていたが、やはり30前のおばさんと同級生とでは全然ちがう。
繋いだ手のたおやかな感触。
彼女の部屋で見、触れたその肌が再び目の前にある。
思わず生唾を飲んだ。慌てて視線を外し、明後日の方向をみる。
今、彼女を襲ったら取り返しのつかないことになる。そのシンジの認識は多分間違っていなかった。
「目標に激しい動揺が見られます」
「ファーストチルドレンの心拍数、プラス30ポイント前後で推移」
「・・・レイの反応が鈍いんじゃないの?」
「今のところ予想の範囲内ね。あの子はまだ命令を守ることを第一に考えているわ。・・・それより驚異的なのはシンジくんね。こちらの予測どおりとはいえ、この状態で逃げ出しもせず襲いもせず、我慢できるなんて」
「シンジくんにここで襲う度胸があったら、私はとっくに襲われてるわ。固まってるだけなんじゃないの」
「・・・あなた、普段なにをしてるの?」
「紳士的じゃないか。お前の息子とは思えんな」
「・・・あれはただの根性無しだ」
固まったまま時間が過ぎる。
さすがに逆上せてきた。
突然レイが掴んだ手をシンジの手首から手のひらに移す。
右手で右手、左手で左手をそれぞれ持ち、二人の間で交差させると、そのまま強く握りしめてくる。「どうしたの?」
シンジの問いかけには答えず、いったん力を抜くとまた強く握りしめる。
その顔は真剣なまま、お湯の中の掴んだ手のあたりを見つめている。
「痛い?」
何度も何度もそれを繰り返しながら、ぽつりとレイが尋ねた。
漸く彼女がしていることが理解できたシンジは、思わず微笑みながら答える。「ううん、もうほとんど治ってるんだ。・・・ありがとう」
「・・・そう」
顔を上げたレイが、シンジを見つめる。
その頬が少し赤く、瞳が潤んでいるのは、彼女が長時間温泉に入っていたからだろうか。普段無表情な彼女だけに、そのいたいけな様はシンジの胸を打った。
僕は最低だ。純粋にやけどの心配をしてくれていた綾波に欲情するなんて。
内罰モードに入ろうとしたその時、不意にレイが両手を離した。
「時間よ。湯船から出て」
そういうとスタスタと歩いていく。
段差を登っていくので、後ろにいるシンジに白い背中からその下の部分まで全てさらしているのだが、まるで気にする様子は無い。慌てて後を追う。彼女の身体を視界に入れないように、その蒼い髪だけを見つめながら。
途中何度か躓いて倒れそうになったが。
二人は屋内にある大浴場に来ていた。
露天風呂には身体を洗う設備が無いためだ。途中、シンジは脱衣場に戻ってバスタオルを取りレイに渡している。
レイはそれで身体を隠しているが、なんのためにそうするのかはまるで分かっていない様子だった。「座って」
壁に設置されたシャワーの前を指さしてレイが言う。
膨張気味なナニをタオルで隠しながら、相変わらずレイの方を見ないように、シンジは小さな椅子に腰掛けた。とりあえず身体を洗おうとした時、背中に濡れたタオルが触れる。
「じっとしてて」
そう言うとシンジの背中を流し出した。
たぶん初めてなのだろう。ぎこちない、不器用な洗い方。
しかし、シンジも誰かに背中を流してもらうなど初めてのことだった。いや、初めてではないかもしれないが、それは彼が物心つく前の事だろう。
何故だか幸せな気持ちになる。そのままレイの腕の動きに身体を任せる。背中が終わり、頭を洗い始める。ゴシゴシと髪の間をレイの細い指が動く。
なんだろうこの感じ。昔、知っていたような気がする。なんだかお母さんって感じだ・・・。
懐かしい手の感触。
気持ちいい。綾波と一緒に暮らしたら、毎日こうしてもらえるのかな。ミサトさんと代わってくれないかな。同じ保護者なら綾波のほうがいいや。ミサトに知られたらお仕置きされそうな妄想にシンジが浸っていた時、シャンプーを綺麗に洗い流してレイが言う。
「こっちを向いて」
「へ?」
「・・・こっちを向いて」
強い口調。
やむなくレイの方を向き直す。前をタオルで隠し、視線をそらしたまま。レイは、持ったタオルをシンジの胸に当てようとする。
「な、なにするんだよ。綾波」
「あなたの身体を洗うの」
当然、といった口調でレイが言う。
「自分で洗うからいいよ」
「どうして。あなたは手を使わないようにしなければいけないわ」
シンジは頭を抱えたくなった。そんな恥ずかしいこと頼めるわけない。
なんとかこの場をごまかさないと。「す、少しくらいなら使った方がいいんだ。身体を洗うときタオルを握りしめるからマッサージにもなるし。ほ、ほら、さっき綾波もやってくれたよね。だからきっと手にいいことだと思うんだ」
必死で言い繕う。説得力がないのが自分でも分かる。しかしレイは納得したようだ。
「そう、じゃあ自分で洗って・・・」
「う、うん・・・」
ほっとしてシャワーの方を向き直す。
レイの視線を感じ、動きがどうしてもぎこちなくなるが、それでも気にせず身体を洗う。
そうしないとまたレイの気が変わるかもしれないから。レイはそんなシンジをただ見つめていた。
漸く洗い終わる。座ったままシャワーで身体を流し、そしてシャワーを止める。
「立って」
それを見計らっていたように、レイの声がかかった。
素直に立ち上がり腰にタオルを巻きながらレイの方を向く。
そこには白い肢体があった。なにもつけていない。バスタオルは脇に置かれている。「な、な、な、」
思わず絶句する。しかし、視線は外せない。
そんなシンジを無視して、先程までシンジが座っていた椅子にレイが座る。
「洗って」
「へ?」
言ってる意味が分からない。
「手にいいのでしょう」
シンジの方に首だけ向けてレイが言う。
「治療のため・・・だから、洗って」
綾波の身体を洗えってことだよな・・・。
「・・・わかったから、これで前隠してよ」
そう言ってバスタオルをもう一度渡す。
頷いたシンジに安心したのか、レイはそれを受け取り再び前を向いた。
シンジは先程レイが使っていたタオルを手にとり、軽くお湯ですすいでボディーシャンプーをつける。眩しいや。
レイの華奢な背中にタオルを当てようとしてその肌の白さに一瞬躊躇する。
意を決してタオルを当てた。びくりとレイが震えたような気がする。
それでも何も言わず俯いたままだ。緊張しているのかもしれない。
何か微笑ましくなる。
直接レイの肌には触れないように、シンジは優しく洗い始めた。
「ファーストチルドレンの心拍数、プラス50ポイントを超えました!」
「動揺しているの?レイが?」
「ええ、この反応値は予想を少し超えているわ」
「肉体的接触が原因ならさっきのほうが強かったでしょう」
「でも、さっきまでのレイはシンジくんの手だけを気にしていた。彼が視界から消えたことで逆に意識し始めたのかもしれないわね」
「シンジくん自身を、か・・・」
「順調といっていいわ。ここまではね・・・」
レイの髪をシンジの指がすいていく。
蒼い髪がシャンプーの泡で白く染まる。
二人ともほとんど裸で、触れ合うほど近くにいるのに、シンジは、いつのまにかそんなことは気にならなくなっていた。
レイは俯いた顔を上げようとしない。
髪を洗うことに集中していたシンジは、レイが唇を噛みしめていることに気がつかなかった。「どこか、痒いところはある?」
いつも散髪屋できかれていることを、なにげにレイにきいてみる。
「・・・ない」
小さくレイが答える。それを気にするふうもみせず、シンジはレイの髪を洗い続ける。
「・・・どうして?」
「え?」
「何かおかしな感じがする」
シンジが手を止める。
「ごめん、洗い方おかしかった?」
レイが首をふる。
「続けて・・・。続けてほしい」
「うん・・・」
再びシンジの手が動きだす。レイはゆっくりと顔を上げ、目をつぶってその動きに身をまかせ、シンジに聞こえないほど小さな声で呟いた。
「・・・気持ちいい」
シャワーを手に持ち、レイの髪からシャンプーの泡を洗い流す。
「終わったよ」
その言葉に、レイは閉じていたまぶたを開いた。
「もう・・・いいの?」
その問いかけに、シンジは少し逡巡する。
まさか前も洗えってことかな。いくらなんでもそれは問題あると思うんだけど。綾波は平気なのかな。命令には従えって言われてるけど、そんなことしたらこれから学校で綾波と会った時、どんな顔したらいいか分からなくなるよ。
妄想は杞憂に終わった。立ち上がったレイがシンジに告げる。
「露天風呂に戻って手の治療を再開して。2000に最初の部屋に出頭すること。じゃ、準備があるから」
そして、また、シンジを置いて歩きだす。ただ、今度はバスタオルをその身体に巻いていた。
「ステージ2終了。引きつづきステージ3の準備に入ります」
「驚いたわ」
「何が?」
「レイが自発的に身体を隠したことよ」
「・・・普通隠すでしょう・・・って、そういえばあの子さっきまであまり隠そうとしなかったわね」
「やはりシンジくんね、鍵になるのは」
「でも、本当にそれが役にたつの?」
「理論上は、ね」
浴衣と丹前を再び着て、シンジは部屋に向かっていた。
あれから温泉にレイは姿を見せなかったが、言いつけを守って手の治療に専念していたため、すでに時間は8時ぎりぎりになっている。
さすがにお腹がすいていた。普段ならもう食事を終えている時間だ。部屋に入ると、レイが浴衣姿で座っている。
「座って」
自分の隣の座布団を指さしてレイが言う。
初めて見るレイの浴衣姿に呆然としていたシンジは、答えることもせず、視線を外せないまま立ち尽くしていた。「・・・どうしたの?」
「・・あ、ご、ごめん」
慌てて座る。さっきは裸を見たというのに、その時よりどきどきしている。
湯上がりだからか、浴衣を着ているからか、いやその両方だろう。
ちらちらとレイの方をみるシンジの頬は赤く染まっていた。「さあ、食べましょう」
「う、うん」
テーブルに目をやる。レイに気がとられて気づかなかったが、そこには夕食の準備がされていた。
大きめの金属製の鍋には出汁がはられている。
火はまだついていない。大皿には白菜やネギなどの野菜、豆腐、そして魚の切り身などが並べられている。
ちり鍋だ。
その他には刺身やサラダ。ウーロン茶やジュースに混じって、ビールやお銚子も置いてある。
中学生だけだって知らないのかな。お酒がある。きっと、コースみたいなものなんだろう。
深く気にせずシンジは思った。別に学校の行事で来ているわけでも無い。
アルコールは飲まずに置いておけば問題ないだろう。
レイを酔わせてどうこうといった大人の思想は、まだ、彼の中には無かった。
レイが取り箸を手にし、大皿から切り身の一つをはさむと、シンジの口許に差し出す。
「食べて」
まるで、新婚さんのような風景。しかし、実態はかなり異様だった。
「ね、ねえ、これはこのままじゃ食べられないよ」
レイの瞳に影が差す。切り身をもとあったところに戻し、次に白ネギをつまもうとする。
「・・・だ、だから、これは鍋の材料だから、ちゃんと調理しないとだめだよ」
「・・・どうすればいいの」
「鍋・・・作ったことないの?」
こくりとレイが頷く。
確かに、常夏となった日本で鍋料理は珍しい。クーラーの効いた部屋で鍋をつつきながらビールを飲むのがいい、といった贅沢な趣味を持つミサトのような人間が身近にいなければ、シンジも作る機会など無かったかもしれない。それでも、生のネギを食べさせようとしないでよ。
シンジは心の中で叫んでいた。「じゃあ、僕が作るよ」
そういってミニコンロに火をつける。
沸騰するのを待って、材料を入れて蓋をする。手慣れたものだ。
レイはその様子を黙って見つめていた。
「もうしばらくしたらできるからね」
一段落して座りなおし、レイに微笑みかける。しかし、レイの表情は冴えない。
「・・・どうしたの?」
その問いには答えず、シンジの手を指さす。
「治療の邪魔・・・」
「・・・そんなことないよ。さっきも言ったけど、もうほとんど治ってるんだ。それに・・・」
レイの瞳を見つめる。
「あの時、僕を守ってくれたよね。・・・ずっと、お礼を言いたかったんだ。ありがとう」
「・・・命令だから」
「理由なんて関係ないよ。・・・綾波が僕を守ってくれたのは、そのために死にそうになったことは本当だから。だから・・・」
「・・・そう」
「それに・・・お見舞いいけなかったから。だから、気にしないでよ。」
そう言って微笑みかけるシンジに、レイは無言で頷いた。
頃合いとみて鍋の蓋をとる。ポン酢醤油の入った小鉢に食べられそうな豆腐や野菜、切り身を見繕い、レイの前に置く。
「はい、綾波の分。熱いから気をつけてね」
次に自分の分を同じ様に小鉢に入れ、大皿から追加分を鍋に補充する。
一息ついてレイの方を見ると、箸を手に取ることもしないで、じっとシンジの小鉢を見つめている。
「どうしたの?」
シンジが尋ねると、思い立ったように手を伸ばし、シンジの小鉢と箸を奪う。
そして小鉢から切り身の一つを箸でつまむと、シンジの口許に持ってきて言った。
「食べて・・・」
「ファーストチルドレンの心拍数、プラス10ポイントで推移。血圧は平常値とあまり変わりません」
「感情の揺れが小さくなっている?」
「どういうこと?」
「・・・まだ、わからないわね。だけど、おそらくはシンジくんを受け入れたのよ、レイは」
「受け入れたって、・・・恋愛感情を持ったってこと?」
「その可能性もゼロじゃないけど・・・単に存在を認めたということ。碇シンジという人格、他者の存在、シンジくんがレイのことを見ている、それを感じることで安息を得る。エヴァだけに存在理由を求め、命令されることで安心していた、今までの彼女にはあまり無かった傾向ね。・・・司令の眼鏡と同じかもしれない」
「エヴァとは無縁なところで自分を見てくれる人を求める。だから、二度目に切り身を勧めたのは、ただ、そうしたかったからで、私の作戦に従ったからではない・・・・・こういうこと?赤木博士」
「ええ、そういうことよ、葛城一尉。だから逆に心は落ち着いている。・・・でも、それを確認するには判断材料が少なすぎるわね」
「まあいい傾向なんでしょうけど。でも、どうしてそれがシンクロ率のアップにつながるのよ」
「だから言ったでしょ。司令の眼鏡と同じだって。エヴァだけが存在理由ならエヴァはプレッシャーにしかならない。でも、あの眼鏡をそばに置くことでそれが緩和され、起動試験は成功したわ。」
「じゃあ今回も?」
「そう、シンクロテストで確認しないと断言はできないけど。おそらく作戦は成功ね」
「そううまくいけばいいんだけど」
「・・・妬いてるの? あなた」
最初はレイの言葉に戸惑ったシンジだったが、素直にその申し出を受け、切り身を食べさせてもらった。
そして、レイの小鉢と箸を取り、白菜をつまむ。「はい、綾波も食べてよ」
少し驚いた顔。しかし拒否はしない。自然に頷く。
「どう?」
「・・・おいしい」
「よかった」
そうして、二人だけの晩餐が始まった。
ミサトと暮らすようになってから、誰かと食べる食事というものに、シンジは慣れ始めていた。
しかしお互いに食べさせあうといったことは初めてだった。独り暮らしのレイは尚更だろう。
けれどまるでいつもそうしているかのように、二人は自然にふるまっていた。少し熱い野菜や豆腐をはふはふと冷ましながら食べるレイ。
その様子は、普段無表情な彼女に、意識せずに無邪気な表情を与え、とても可愛らしい。
それを見つめるシンジの視線に、レイも温かいものを感じていたのだろう。
いつもはほとんど食事をとらない彼女が、今日は勧められるままに口を動かしていく。
「・・・・ふう」
お腹がふくれ、お互い箸を置く。鍋の火はすでに止めてある。さすがに、少し暑い。
そう言えば飲み物がなかった。コップは手元にあるが、飲み物はシンジのそばには置かれていない。「ねえ、綾波、なにか飲むものとってよ」
同じく暑さで顔を火照らせていたレイは、シンジの言葉に反応し、手を伸ばす。
「・・・・・・ねえ、これお酒だよ」
ビール瓶の半分ほどの大きさのビンには、吟醸酒と書かれている。
「冷えてるのが、これしかなかったから」
たしかにピッチャーに入れて置かれていたウーロン茶やビールはもう温くなっている。
ジュースも鍋の近くに置いてしまっていたため、むしろ熱いくらいだろう。これだけが2本ワインクーラーに入っていたのだ。温いウーロン茶やジュースはあまり飲む気がしない。
仲居さんを呼んで注文したら新しいのを持ってきてくれるだろうが、自分でお金を払うのならともかく、そんなもったいないことはしたくない。・・・別にいいかな。
このビンはキンキンに冷えている。
さっきまで氷の入ったワインクーラーの中にあったのだから当然だ。
栓を開け、少しだけコップに注いでみる。いい香りだ。いわゆる日本酒の香りではない。ミサトが二日酔いの時に発しているアルコール臭とも違う。透きとおった果物のような香り。少しだけ舐めるようにして味見をする。
美味しい。
ミサトに隠れて盗み飲みしたビールは苦いだけだったのに。
ふと見ると、レイが興味深げにこちらを見ている。
いつものシンジなら絶対に言わないだろう。しかし、さきほどのレイとの食事。その幸せな雰囲気に、彼はかなりハイになっていた。「・・・飲んでみる?」
こっくりと頷くレイ。お酒など飲んだことがないのは容易に想像できる。
それは子供がいたずらの仲間を増やすのと同じ心理だろう。
レイの差し出したコップの半分ほど、ビンの中身を注ぐ。そして自分のコップにも半分ほど注いで手に持つ。冷たい感触が気持ちいい。「それじゃ・・・乾杯」
そう言ってコップを軽く掲げる。レイはどうしていいか分からないようだ。
気にせずレイのコップに自分のコップを軽く当てる。
小さな音。
きょとんとしているレイに微笑みかけながらそれを飲み始める。それを見てレイもおずおずと飲み始める。・・・ちょっとかっこつけすぎたかな。
この間見たTVドラマの影響だろう。TVを見ないレイに効果があるとは思えないが。
コップに口をあてる。やっぱり美味しい。とくとくと飲む。喉が冷やされる。
隣を見るとレイもゆっくりと飲んでいる。
シンジが飲み終わるとほとんど同時に、レイもコップを空にしていた。「・・・お代わりしようか」
「・・・ええ」
口当たりのよさと冷たい感触。シンジとレイは知らず知らずに2本とも開けていた。
「ちょ、ちょっち、やばいんじゃないの」
「・・・ええ、シンジくんがこんなに積極的になるとは予想外ね」
「お酒は冗談で置いてたのに。・・・どうするの、今更乱入はできないわよ」
「もう少し様子を見ましょう。別に口説いてるつもりは無いと思うし。いざとなれば非常呼び出しをすればいいわ」
「使徒も来ないのに?」
「シナリオから少し外れているのではないか」
「葛城一尉の影響だな。だがむしろ好都合かもしれん」
「・・・また暴走を待つつもりか」
シンジはレイと肩をもたれ合って座っていた。
さすがにアルコールが回って、頭がぼーっとしている。
やっぱり暑い。クーラーのリモコンを探す。
頭が働かない。漸く見つけて強にする。かたわらのレイを見る。寝ているわけではない。目は開いている。
ただ、顔がピンクに染まっている。元が白いため、その変化がはっきりと分かる。「大丈夫?」
話すのが億劫なのか、こっくりと頷く。
「・・・もう、休んだ方がいいね。綾波の部屋はどこ?」
「・・・そこ」
そう言ってふすまを指さす。
「そこって・・・」
嫌な予感がして、よたよたと立ち上がりふすまを開ける。
・・・やっぱり。
そこには二組の布団が並べて敷かれていた。
振り向いてレイを見る。目を開けたまま下を向いている。とりあえず寝かせてあげないと。
そう思い、近づいてゆっくりと立たせる。「さ、もう寝よう」
肩を貸しながら、隣の部屋に向かう。背中にあたるレイの感触。ヤシマ作戦の後のことを思い出す。
軽い。
こんなに華奢な身体で戦わなければならないなんて。
そう思うと悲しくなる。他になにも無いと言った彼女の言葉。エヴァが全ての絆だって言ってた。
そんなことはないと思いたい。少なくとも自分との絆はあると。
「ねえ、綾波」
布団にレイを横たえながらシンジが言う。紅い瞳がシンジを見つめる。
「今日は楽しかったね?」
レイの返事を待たずにシンジは続ける。
「とても楽しかった。・・・きっと、ずっと忘れないと思う」
そう言ってレイに微笑みかける。
「だから、それが、僕と綾波の絆になるよ・・・きっと」
見つめ合う。レイがシンジの背中に手をまわす。熱い吐息。
そして・・・初めての接吻。二人の時間は止まっていた。
「危険です。ファーストチルドレンの絶対防衛ライン侵食されています」
「シンジくん・・・暴走しているの?」
「・・・いいえ、レイも、だわ」
ゆっくりと唇を離す。
「・・・・・・・・おやすみ、綾波」
レイは静かに目を閉じ、そのまま眠りについていた。
「これでよかったのか」
「ああ、これで刷り込みは終わった。私に何かあっても、老人達の思うようにはならん」
「しかし、お前の計画にも支障がでるのではないか」
「・・・いずれにしてもユイには会える。レイがシンジの嫁になるのならそれでもいい」
「結局それが本音か」
翌朝、レイは目を覚ました。
身体がだるい。温泉に長時間入ったからだろうか。それとも飲酒の影響か。
軽く頭を振って傍らの布団を見る。
昨日、彼女が生まれて初めての一次的接触・・・接吻・・・をした相手、碇シンジはまだ眠っていた。時刻は8時半、昨晩寝たのは何時か確認していないが、食事開始の時間から考えると、おそらく22時前後だろう。
睡眠時間は十分とれている。
今日の日程については葛城一尉から特に指示を受けていない。指示を受けていない以上、レイの自由にしていいはずだった。昨晩のことを思い出す。
入浴時までは概ね葛城一尉の事前計画どおり実行できたと思う。
しかし、夕食が開始されて以降、ほとんど作戦のことなど忘れていた。
自分が彼を保護する立場であるということすら失念していた。
あまつさえ飲酒までするとは。ここは監視されているはずだ。懲罰の対象になるかもしれない。
しかし、別に後悔しているわけではない。朝食をとる必要があることに気づく。
別に空腹は感じないが、彼を起こさないといけないだろう。寝乱れた浴衣を直し、布団の傍らに座る。
静かに寝息を立てている少年を見つめる。
自分の顔がなぜか赤くなっているのが分かる。理由は分からない。彼を見ているからだろうか。声をかけようとして躊躇する。
初号機パイロット。サードチルドレン。碇司令の息子。クラスメート。葛城一尉の同居人。
私に・・・エヴァに乗ること以外の絆を教えてくれたヒト。そう、だから、彼にふさわしい言葉で、彼のことを呼ぼう・・・。
「起きて・・・・・碇君」