しんじとれい
〔第八話 蒼空〕
Written by かつ丸
笑顔を見たとき、周囲の色が変わった。
世界が、溶けていくような気がした。
よく知っているはずの場所。
毎日通っている道。
そのすべてがとけて崩れていく。
今、何時だろう。
たしか朝だったように思える、だがこの暗さはなんだ。
闇の中にいる。
闇を光が照らす。
二つの青い光。
それとも紅い光。
同じ物を見たことがある。
身近にいたような気がする。
冷たく光る、二つの瞳。
――でも、違う。こんなじゃなかった。
もっと冷たかった、それでも、恐怖は感じなかった。
この光は怖い。
蔑み、嘲り、こちらの反応を楽しんでいるようにも思える。
ねずみを捕まえたネコの瞳はおそらくこうなのかもしれない。捕まえられたのは自分だ。
背を向けて走って逃げたい。だが身体が強張り動けない。こちらを向く二つの光に絡みとられたように、立ち尽くすしかなかった。
いつからこうしているのだろう、それすらももうわからない、彼女の名前を聞いてからいったいどれだけの時間が流れただろうか。
青い瞳が近づく。笑いながら、友達のように。
来ないでくれ、叫びたいが声は出ない。ただ近づく彼女を見ているしかない。
朝の日の光が差している。
空には青空が広がっている。
そして視界には一人の少女。
「・・・シンちゃん」
思わずそう言っていた。かすかなつぶやき、それとも声にならない悲鳴。
黒い髪の幼馴染はここにはいない。彼に聞こえるわけがなかった。
呪文の効果はなく、少女の歩みは止まらない。ただ、その微笑みはいっそう凄惨なものに変わっていた。
歓んでいる、それがわかった。
絶望した。
もう逃げられないと。
14年間の人生で、初めての、そして最後になるのかもしれない深い絶望。
その時、少女の歩みが止まった。
視線を外し、遠くを見ている。
「・・・・なんだ、邪魔が入ったみたいね」
その言葉とともに、あたりの空気は変わっていた。
目の前にいるのは普通の少女、どこにでもいる、というには綺麗過ぎたが、すでに恐怖は感じない。
「マナだったわね、また会いましょ。今度はあなたのシンちゃんがいるときにね」
そうして、少女はマナの前から消えた。
「・・・どうしたんだ、マナちゃん」
車のブレーキが間近で鳴り、誰かがマナに声をかけた。道端でずっと立ち尽くしている彼女を不審に思ったのかもしれない。さほど時間は経ってないと思うが。
そこには赤いミニ、そして無精ひげの見慣れた男が窓から顔を出している。
「・・加持さん。どうしてここに?」
「碇住職に頼まれてね、お使いだよ。寺から運ばなきゃいけないものがあるんだ」
「シンちゃんは一緒じゃないんですか?」
「ああ、シンジくんには葛城がついてるよ。俺もおっつけ後を追うんだけどな」
「・・・・シンちゃんは今、どこにいるんですか?」
本部にはいないと、そう言っていた。
あの時彼女の誘いに頷いたのも、このまま動かなければずっとシンジに会えなくなるような、そんな気がしたからだ。
マナの問いかけに一瞬加持の表情が動いた。逡巡している、そんな様子だった。
「・・・一緒に来るかい? 少し遠いけどな」
「はい、お願いします」
「わかった。じゃあ、しばらく待っていてくれ」
シンジを追う。それがマナにとっては自然なことに思える。
加持のことを信用しているわけではないが、怖さは感じない。
さきほどであった少女、彼女もシンジを追っているはずだ。教団の関係者なら、加持も彼女のことを知っているかもしれない。少女が言っていた邪魔とは加持が来ることだったようにも思える。
訊いてみたら教えてもらえるかもしれない。
寺に入った加持が戻るのを待ちながら、マナは去っていった少女のことを考えていた。
レイ、サクラ、ミサト、リツコ、そしてまたシンジの前に現れた新しい女性。
惣流アスカ。
彼女はシンジに何をしようというのだろう。
「わ、わあああああ」
激しい横Gに圧迫され、シンジは思わず悲鳴をあげた。
凄い勢いで景色が後ろに下がっていく。前を走る車がみるみるうちに近づき、そして通り過ぎていく。
いくらここが高速道路だといっても、尋常なスピードではない。
スポーツカーに乗るのは初めてだが、これが普通なのだろうか。
加持の車に乗ったとき、彼はかなりのスピードを出していたがその時にはさほど感じなかった。
あの時シンジはそれどころではなかったとは言っても。
傍らのミサトを見る。シンジのことなど気にならないように楽しげにハンドルを握っている。
恨めしそうに睨むシンジの視線に気づいたのか、ミサトが軽く微笑んだ。
「あら、車は苦手?」
「そ、そんなことないですけど。ミ、ミサトさん、もっと普通に運転してくださいよ」
「そんなに飛ばしてないわよ。レイは大丈夫みたいじゃない」
後部座席ではレイが寝転んでいた。
周囲のことなど何も気にならない様子で目をつぶっている。本当に眠っているのかもしれない。
車が揺れるたびに、それにあわせて身体も揺れているが、シンジのように怯えた気配はなかった。
たとえこの車が事故にあっても彼女が被害を受けることはない、だからなのかもしれない。
そう言う意味では比較の対象にされても困る。
「男の子なんだから、これくらい我慢なさい」
「・・横暴なんですね。わ、わわわわ。もう、カンベンしてくださいよお」
「おおっと、ごめんなさ〜い」
車が急な車線変更をし、反動でシンジの身体が車の側面に押し付けられたのだ。前を走っていた車を追い越していくのがシンジには見えた。。
謝りながらミサトの顔は笑っている。馬鹿にされてるようにも感じた。
だからといってどうすることも出来ないけれど。
すでに車は名神高速に入っている。このペースならあとほんの少しで京都につくのかもしれない。
それまでに訊きたいこともあったのだが、正直それどころではなかった。
だいたいなぜこれほどに急ぐ必要があるのか想像もつかない。それなら新幹線でくればよかったではないか、そうシンジは思う。
だがミサトには最初からそのつもりはなかったようだ。
現地での足を確保したいから、そう思っていたが、今は高速を思う存分とばしたかったからではないかと邪推している。
これだけのスピードで走っているにも関わらず白バイやパトカーが現れる様子もない、レイに戸籍をつくったほどの権力をもつ是得礼宗なら警察に介入することもわけはないのかもしれない。
「京都には行ったことあるの?」
「い、いえ、無いですけど」
「・・・そう。修学旅行じゃ行かなかった? これからなのかもしれないわね。中二だもんね、まだ」
一人で納得して、ミサトは頷いている。巡航モードに入ったのか車の動きは少し落ち着いていた。
回りに車がいなくなった、だからかもしれない。
ようやく一息つき、シンジは改めてミサトを見た。
彼女と出あってまだ3日目、二人きりで話すのは初めてかもしれない。
シンジよりも頭一つ背が高い、長く伸びた黒い髪、なんだかいい匂いがする。マナにもレイにも感じない何かを彼女が持っているような気がするのは、ミサトが大人の女性だからだろうか。
「・・・どうしたの、ボーっとして」
「え、い、いえ、す、すいません」
心の中を見透かしたようなミサトの言葉に、シンジはどぎまぎしてしまった。ミサトは気にした様子もなく、悪戯っぽい笑い声を上げている。やはりからかわれているようだ。
後ろの席のレイが動いた様子はない、シンジに絡んでこないところをみると、本当に眠っているのかもしれない。
このまま押されっぱなしというのも、なんだか悔しい気がした。小さく深呼吸して心を落ち着かせる。
自分にはミサトに訊きたいことがあったはずだ。
「あの、ミサトさん・・・質問してもいいですか」
「何? なんでも教えてあげるわよ。スリーサイズからいきましょうか?」
「そ、その、そうじゃなくて・・・」
「上から93、58,89。年齢は29歳。住所はとりあえず箱根にあるわ。仕事で全国に行かなきゃいけないから、あまり意味はないんだけどね。趣味は料理、得意なのはカレーかな、機会があれば食べさせてあげるわね。恋人は今募集中なの、そうねシンジくんならもう少ししたら立派な候補になるわよ、レイやマナと勝負するのもおもしろいかもしれないし」
「ミ、ミサトさん・・・ち、違うんです」
「年の差はあるかもしれないけど私ってほらかなり若く見られるからオッケーよね、マヤみたいに高校生と間違われることはないけど、女子大生だって言っても十分通用するはずだわ。・・・・え、なに、シンジくん」
完全に自分の世界に入ってしまったミサトに、シンジは圧倒されてしまっていた。この人には一生勝てない、そんな気がする。
マナを大人にしたらこんな感じになるのかもしれない。
「え、えっと・・・訊きたいのは昔のことなんです。ミサトさん、父さんの弟子だったって言ってたから」
「ああ、そのこと・・・なかなかかっこ良かったわよ、当時の碇住職はね。みんな羨ましがったもの」
「そ、それで、その・・・・」
屈託無く話すミサトに対して、シンジの口はうまく動かなかった。気づいたのか、いぶかしげな様子でミサトがこちらをちらりと見る。
どうしたのか、無言でそう訊いているようだ。
そう、訊かなければならない、ゲンドウに何度もしようとして、結局一度もできなかった質問を。
「・・・もしかしたら、ミサトさんは会ったことがあるんじゃないかなって。僕の母さんって、どんな人でしたか?」
「母やあなたたちは、昨日のことを予測されていたのですか?」
「ああ、15年前からな」
広い部屋に平机が一つだけ置かれている。天井に描かれているのは、巨大なマンダラだった。
平机の前のか革張りの椅子にはこの部屋の主、碇ゲンドウが座っている。傍らには冬月コウゾウが補佐するように立っていた。年長で別に階級的な上下があるはずもないのに、なんの疑問に感じた様子もない。
赤木リツコはそんな二人に対峙している。別に争おうとしているわけではない、彼女の表情に怒りなどなかっただろう。
怒るとすればここにいる者にではなく、ミサトやシンジが会いに向っている彼女の母親に対してであったからかもしれない。
「やはり、ミサトが巻き込まれた、あの事件ですか。・・・原因は不明、おそらくは自然災害か事故、そう発表されたはずですけど・・・事実を曲げて伝えたのも、あなたの仕業だったんですね」
「私ではないさ。教団の意思だ。一般信徒に知らしめるには事は大きく、そして時期が早すぎた。葛城調査隊が派遣されたことも、襲われるであろうことも、予見は出来ていた、しかしそれは予兆にすぎん、真のはじまりは・・・」
「槍がこの世に現れてから・・・・ですか?」
「そうだ・・」
ゲンドウの言葉に頷き、リツコは視線を移した。平机の上に置かれた小さな箱、そこに入っているのは、一本の腕、だ。
指のつき方から、左腕だとわかる。肘の少し上から切断されたそれは、しかし血が噴出すこともなく、まだぬくもりを持っていた。
かすかに動いているような、そんなふうにもみえる。
さほど大きな腕ではない、子供というほど小さくはないが、大人の腕にはくらぶるまでもない。
筋肉はついている、おそらくは少年の腕であろう。
間違いなく、人間の腕だ。外見だけならそう思える。
「・・・これも、ご存知なのですか?」
「・・・・それが誰かはわからんよ」
本部に突然現れた妖怪。宙を飛ぶ巨大な黒い獣が同じ容姿をもつレイと対峙し、そして使い手として槍により変身したシンジと戦ったのだ。
その時にシンジが持つ槍で切り落とされたのがこの腕。退治してはいない、妖怪は逃げてしまった。
この腕が人の形をしているように、その本体も戻っているのかもしれない。
レイが人の形に戻っているように。
「・・・レイは千年の間封印されていました。それと同じ姿を持った妖怪が本部に現れてもあなたたちに動じた様子はありません。ミサトの言葉が真実なら、あの妖怪はかつて葛城調査隊を襲ったものと同じなのではないのですか?」
「葛城調査隊を襲ったもの、か」
「・・あなたは直前で離れていたようですね。予見できていたのが本当なら、彼らを見殺しにした、そういうことなのですか?」
「だったらどうする? 葛城くんにそう話してもかまわんぞ」
冷たい物言いに、思わずリツコはゲンドウをにらんだ。
だが、サングラスの奥にあるゲンドウの瞳に、まったく揺らいだ様子は感じられなかった。
たかが一握りの者たちの犠牲などかえりみる必要はない、そうゲンドウは言いたいのだろう。
捨て駒だった、そのことを訊けば、ミサトはゲンドウに復讐しようとするかもしれない。彼女が15年前の復讐をするため。それだけのために教団にとどまりつづけているのだとリツコは良く知っていた。
二人をとりなそうとするかのように、傍らの冬月が口を開いた。
「リツコくん、少し落ち着きたまえ。昨日も言ったように、事態は切迫しつつある。15年前の予兆が現実になり、決戦の時が目前に迫った、その証なんだよ、これは」
「・・・・『敵』が、千年振りに襲ってくるということですか? 槍の使い手が現れたことで、すでに教団内にもその認識はありますが。でもあの妖怪は使者とは違うと・・・」
「ああ、あれは『眷族』だ。おそらく、誰かが変えられたのだろう、昔そうだったようにな」
「誰かが?」
「その腕の持ち主だよ」
ゲンドウの言葉に、リツコは再び机上に置かれた腕を見た。
これが『変えられた』誰かのもの?
一瞬の思考停止の後、その意味に気づき愕然とした。
つまりは生身の人間を妖怪に変えた、そういうことなのだろうか、あのシンジが持つ槍のように。
「・・ま、まさかもう一つ獣の槍が存在するというのですか?」
「それはわからん。だが、同種の力をもつものがいるのは確かのようだ。15年前に葛城調査隊を『眷族』が襲ったことから、初めてそのことがわかった。口伝にも現れていなかったからな。教団中枢が槍の封印を解くことを決めたのはそれ以降だよ、我々には対抗手段が必要だからだ」
「教団中枢・・・評議会ですか?」
「いや、真に計画を知る者は5人だけだった。先の教主、評議長、私、君の母赤木ナオコ女史、そして・・・」
澱みなく話していたゲンドウが、戸惑うように黙った。
彼の視線の先にはリツコや冬月ではなく、別の誰かが映っているのかもしれない。
「・・・碇ユイ、その5人だ」
是得礼宗別院、門に掲げられた古い板にはそう書かれている。
本部ほど大きくはない、音流布寺よりも小さいかもしれない。しかしその静謐な雰囲気が、歴史を感じさせた。
京都という街の空気がそう思わせているのかもしれない。
門は閉ざされている、一般には公開されていないということだろう。京都に入ってからあちこちでみかける観光客の姿もここでは見られなかった。
中心部からさほどはなれているわけではないような気もするが。
通用口のインターフォンにミサトが向い、何か話している。それを横目で見ながら、シンジは周囲を見渡していた。
初めてくる京都、なにか懐かしい気がするのは、シンジが寺で生まれ育ったせいなのかもしれない。
シンジの隣によりそうように立っているレイも、やはり周囲を見上げている。何も言わない。いつにもまして透明な表情をしているようでもある。
「・・・・ごめん、ちょっと今すぐってわけにはいかないみたい」
帰ってきたミサトが頭を掻きながら言った。
「あ、そうなんですか。でも、じゃあどうするんですか?」
「なんか法事の最中みたいなのよ、1時間もすれば終わるそうだから、それまでどこかで時間をつぶしてくれない? せっかくだから観光でもすればいいわ」
「別にかまいませんけど・・・ミサトさんは一緒じゃないんですか?」
シンジの言葉に、ミサトが少し困ったような顔をする。
車の中でユイのことを尋ねた時も、同じような表情をしていた。答えられない、あるいは答えたくない、そういうことだろうか。
それ以上詮索するのも何か悪いような気がした。
「あ、いえ、いいんです。1時間ほどしたらここに来たらいいんですね」
「悪いわね、シンジくん。でも、気をつけるのよ」
「はい、それじゃ。じゃあ行こうか、綾波」
その言葉に、レイの答えはなかった。
さきほどまでと同じように空を見渡している。
「どうしたの、なにか来るの?」
「いいえ」
思わず手にもつ槍を握りなおしたシンジに、レイが顔を向け微笑んだ。
危険はない、そういうことだろうか。
「・・・少し、行きたい所があるの。・・・かまわないかしら?」
「一人で?」
その問いかけにレイが無言で頷いた。シンジから離れようとするなど、おおよそこれまでになかったことだ。レイはこの街が初めてではない、おそらく千年ぶりに訪れた京都に知り合いはいないだろうが、思うところはあるのかもしれない。
ミサトを見る、彼女も頷いていた。
「う、うんわかったよ。でも1時間後にはここに戻るから、頃合を忘れずに来るんだよ。あと、あんまり飛んだり目立つことをしちゃだめだよ、大騒ぎになるから」
「わかったわ」
頷くレイが、言った先から空を飛んで去っていった。
「ホントに大丈夫かな・・・?」
半ば呆れ顔でそれを見送り、シンジもまたその場を離れた。
あえてレイと違う方向にしたのは、無意識に気を使っていたのかもしれない。
背中にミサトの視線が向けられているような気がしたが、振り返り、それを確認することはしなかった。
「あれがシンジくんね、何年ぶりかしら」
「ご存知なんですか?」
「ええ、あの子は覚えていないでしょうけど、まだほんの子供だったから。やっぱりお母さん似ね、よかったわ」
シンジは気づかなかったようだが、門には監視カメラが設置されていた、それを通してみていたのだろう。
シンジたちと別れてすぐ、ミサトは寺の中に入っていた。
ここにくるのは初めてではない、案内も無しに本堂に入ると、すでに彼女はそこに座っていた。
赤木ナオコ、是得礼宗京都別院の院長である。
そのいかつい呼び名やこの古い寺に似合わず、彼女は鮮やかな色合いのスーツを着ている。
茶色に染めた髪に紫色の口紅、むしろ先斗町あたりのほうがはまるだろう。
誰も非難する者はいない。ここの管理者ではあっても僧籍にはない、そういうことだからだ。
シンジにはああ言ったものの、この場所が法事に使われることはほとんどなかった。
京都にも是得礼宗の信者は多数いるが、別にあるいくつかの末寺の檀家になり、この寺にはいない。昔からそうだ。ここは鎮護国家としての役割のための場所だった。明治になるまでは、御所を守護するまさに要だったのだ。
最近は連絡事務所的な仕事しかしてはいなかったが。
「訊かれました、碇ユイさんのことを」
「あなたは知ってるの?」
「いえ、それが一度も会ったことは無いんです。碇住職に教わってたころはまだお二人が結婚される前でしたし、それに・・・」
「・・・普通の信徒じゃ、ユイさんにはそうそう会えないものね」
「はい、父は当然知り合いだったようですけど・・・」
碇、いや、六分儀ゲンドウの名がミサトたちの中で伝説化しているように、碇ユイの名もまた教団の中では一種の影響力を持っている。
神格化、そう言ってもいいかもしれない。
評議員だったミサトの父はユイの名を出す時は常に「ユイ様」と尊称で呼んでいた。他の僧侶や幹部たちもおそらくは同じなのだろう。さすがにあったことも無いミサトが、彼らと同じように呼ぶことには抵抗がある、けれどユイの名に畏怖のようなものを感じるのも確かだ。
「・・・シンジくんもほとんど覚えていないでしょうね。でも、だからレイに惹かれているのかもしれない」
「レイに、ですか?」
「ええ、シンジくん以上にユイさんに似ているわ。カメラの向こうで見た限りは、十代の頃の彼女と瓜二つといってもいいくらいよ・・・」
「それって・・・どういう意味ですか?」
「さあ? ただ、事実を言ってるだけよ。ただの偶然、そうかもしれないでしょ」
はぐらかすように、微笑みをナオコが浮かべた。妖艶な、そう言ってもいいかもしれない。
リツコの母親である彼女は、すでに50を超えているはずだが、とてもそうは見えない。
枯れた様子は微塵も感じられなかった。
「それで、訊きたいことがあるんじゃないの? だから一人で来たんでしょう?」
「ええ。もうご存知ですよね、昨日の本山での事件は」
「報告は受けたわ。映像も見た。あなたも活躍したみたいね」
「ほとんどはシンジくんのおかげですから。加持君も言ってましたが、使い手じゃないと相手はできないようですね」
「15年前の事件では、碇ゲンドウが調伏に成功したわ。たとえ使い手じゃなくても、あなたならなんとかなると思うわよ」
「・・・・やはり、ご存知なんですね、あの時の顛末を。でも、碇住職が倒したんですか、あの後」
かつて訪れた南方の離島で、自分たちを襲った謎の化け物。十数人いた調査隊はミサトひとりを残して全滅したのだ。
是得礼宗より抜きの法力者たちが、ただ1体の妖魔になすすべなくやられていった。
あの時の悪夢が昨日の出来事と重なる。
ミサトはあの日多くのものを失った。父や、調査隊に参加していた仲間たち、そして自分に対する自信を。
15年前にもナオコに事件については話している。その時はあまり思いつめるなと、そう言われただけだった。だが、ミサトが知らないところで様ざまな動きがあったのだろう。
「滅ぼすにはいたらず、すんでのところで逃げられたらしいわよ。彼も相当の深手だったから苦戦したんでしょうね」
「・・・そうだったんですか」
ナオコが近づきミサトの手をとった。
両の手のひらからぬくもりが伝わる。15年前もこうしてもらったような気がする。
運ばれた病院の一室で。あの時、ミサトは泣いていた。
「今まで、黙っていて悪かったわ。でも、ついに『敵』との戦いの時は来たわ。槍の使い手のシンジくんはもとより、これからはあなたや加持くん、そしてリツコたちを中心に動いてもらうことになるでしょう。・・・15年前の仇をとる機会もきっとあると思うわよ。・・・つらいことかもしれないけど」
「・・・どういう、ことですか? やはり正体を知ってるんですか」
「確信があるわけじゃないわ、ゲンドウさんからの話を聞いて想像していただけ。あなたも気づいてしまった、・・・だから来たんじゃないの? 私のところに」
「昨日の妖怪は、人間の腕を残していきました。・・・あれが人が変化したものだとして、15年前の妖怪もそうだったとしたなら・・・・あいつは・・・」
カーテンからの日差しは、すでに午後のものだった。
それをぼんやりと感じながら、サクラはまどろみの中にいた。
入院して幾日目になるだろう。夜も早くに寝かされているはずなのに、それでも寝たりないような気がする。
身体のだるさが少しずつ消えている、そう感じるのは、きっといい傾向なのだろう。
昨日シンジに言ったように、徐々にだが霊力が回復している、その証のように思えるから。
ゆっくりと目を開き、周囲を見渡した。
誰もいない。
ただ枕もとで黄色いものが動いているだけだ。
「なんや、目えさめたんか?」
「うん・・だけど、なんだか眠いよ」
「ゆっくり休んだらええ」
どこにでも売っているような動物をかたどった小さなぬいぐるみ、誰が見てもそうとしか思えないだろう。動いて喋る様子を見たら腰を抜かすかもしれない。
その正体はケルベロス、翼持つ黄金の獅子。杖の継承とともに、サクラが引き継いだ使い魔だ。
「・・・今日は誰も来ないのかな?」
「トモヨはまだ授業中やろ、もうすぐくるんとちゃうか。アホ兄貴もそのうち来よるで」
「うん・・・でも、そういえば」
「どないしたんや?」
目を細めて窓の外を、サクラは見つめた。
青い空、昨日何か騒ぎがあったようだが、すでにその名残はない。
静かな、いつもの本山だ。
「なんか・・・昨日の夜、お兄ちゃんが来たような気がしたから」
「夜に? ・・・夢でもみたんとちゃうか? 相変わらずブラコンやなあ」
「ハハハ、そだね」
夢、それとも気のせい、きっとそうだろう。
寝ているサクラのすぐ近くにトウジがいた。枕もとに、いや、なんだか窓の外に、彼の気配がしたような気もする。
ここは3階だ、ありうるわけがない。
昨日の帰り際のトウジが寂しそうな顔をしているような気がした。だから、そんなことを考えたのだろう。
もう一度目をつぶり、サクラはまどろみの中に帰っていった。
今度は楽しい夢が見られそうな、そんな気がした。
京都の街の特徴、それは平日に中学生がぶらぶらと歩いていても目立たないことだ。
バス停を降り、清水寺へ続く石畳の道を歩きながら、シンジはそう思った。
まわりには中学生や高校生と思しき、制服を来た男女がたくさん歩いている。みな、おそらくは修学旅行かなにかだろう。シンジの中学がどこに行く予定なのかは覚えてはいないが、もし京都なら何か損をしたのか得なのかわからない不思議な気がする。
どうせ学校行事ではマナかレイに振り回されることになるだろうから、ゆっくりまわれるという意味では貴重な経験なのかもしれない。
学生だけでなく、外国人も多い。普段シンジの街ではあまり見かけないためやはり珍しいが、英語がおぼつかないシンジにとっては遠くから眺めているほうが無難だろう。
ミサトとの約束の時間まであと4、50分ほど、観光客の中にまぎれて過ごすのも悪くない気がした。
だが、やはりシンジには安息の時などないようだ。
「・・・かわったもの、持ってるのね」
清水寺から景色を見下ろしているシンジに、その少女は声をかけてきた。
「えっ?」
「だから、それよ。何かの武器なの? 土産物屋さんでは売ってそうにないけど。京都の名物?」
「こ、これ?」
シンジの持つ槍のことを、彼女は言っているのだろう。
包帯を巻いて目立たなくしているとはいえ、目に付いたらたしかに不思議に違いない。
反射的に振り返り、少女のほうを向いた。
シンジと身長はさほどかわらない、年齢も同じくらいだろう。
長く伸びた栗色の髪、頭についた二つの赤いポッチ、見知らぬ制服がスマートな肢体を包んでいる。人形のように整った顔立ち、そして青い瞳。
始めてみる顔、一度でも見たら忘れることができないほど印象的だ。
思わずシンジはまじまじと彼女を見つめてしまった。
そんなことにはに慣れているのだろうか、何も気にならない様子で彼女は言葉を続けてくる。
「そう、なんか面白そうじゃない。ちょっと見せてくれない」
「だ、だめだよ、これは・・・」
「何よ、ケチねえ、まあ、いいけど。・・・アンタも観光なの? 一人でいるなんて、友達いないわけ?」
ズケズケと言う口ぶりは、馬鹿にしているようにも聞こえる。
外見がお嬢様然としているわりに、かなり口が悪いようだった。イントネーションに違和感はない、容姿は日本人離れしているが、ハーフかなにかなのだろう。
こちらを見る表情には、悪意は感じられない。
「じ、自分だって一人じゃないか。僕は・・・ちょっとぶらぶらしてただけだよ。みんな用事があるって言うから」
「ふ〜ん、でも、今は一人なんでしょ。ちょうどいいじゃない、一緒にまわりましょうよ」
「え、き、君と?」
「何よアタシに不満があるって言うの? でも勘違いしないでよ、ただの暇つぶしだからね。人気のないところに連れ込んで厭らしいことするとか、そんなこと考えてるんじゃないわよ。・・・まあそんな度胸なさそうだけど」
「何言ってるんだよ、いったい・・・」
「いいじゃない、いきましょうよ。さっきからナンパとかうるさくてゆっくり見れないから困ってるの、少しでいいからさ」
シンジの周囲に押しの強い女性が集まるのは、何か理由でもあるのだろうか。
マナやレイ、そしてミサトがそうであるように、目の前の彼女もシンジが否定の言葉を出すことを認めない、それがわかった。
こういう相手には逆らわない、抵抗したら被害が広がるだけ、それが14年生きてシンジが覚えた処世術だった。
シンジが諦めたことがわかったのだろう。少女は笑顔で言った。
「じゃ、決まりね」
「・・・それで、どこに行くの?」
「だから、観光よ。あまり時間ないんでしょ? ここからなら、八坂神社とかならそう遠くはないわよ。少し歩かないといけないけどね」
「へえ、詳しいんだ」
「そーんなことジョーシキよ、ジョーシキ」
すでに歩き出している。やむを得ずシンジは後ろについていった。
すれ違う男子学生はみな彼女の方をみているような気がする。ナンパがうるさいというのも本当なのだろう。
口の悪さや性格に難はありそうだが、きれいな女の子と連れ立って歩くのに悪い気はしない。
生まれ育った街から離れた開放感も、少しはある。マナやレイが近くにいないせいかもしれないけれど。
これくらいなら浮気とはいえないだろう、誰にともなくそう言い訳をしながら、シンジは少女のほうに目をやった。
茶屋や土産物屋など、沿道に連なる店を覗きながら歓声をあげている。並べられた小さな置物やきれいな色の油取り紙を見て瞳を輝かせている彼女は、無邪気な子供のようにも見える。
同い年なのに姉のように感じるマナや、どこか神秘的な雰囲気のただようレイとも、少し違った魅力を持っているようにも思えた。
奔放な明るさ、とでもいったらいいだろうか。
何よりシンジが持っていないものだろう、それは。きっと友達も多いのかもしれない。
「なに、ぼーっとしてんのよあんた」
「ご、ごめん」
「謝らなくてもいいけどさ。あんたは何か買わないの? さっきから全然見てないじゃない。せっかく来てるんだから土産くらい買ったら?」
「うん、そうだね・・・」
京都には遊びに来たわけではない、だが彼女に言ってもしょうがないだろう。
それに彼女の言うことにも一理ある。家に帰った後でマナに京都に行ったことを話したら、まずまちがいなく土産を求められるだろう。
そうでなくてもレイと一緒に旅行をしたなどと言ったら、どんな結果になるかわからない。
攻撃を回避する準備をしておくのにこしたことはないのだ。
少女の横に並び、土産物屋の軒先を覗く。いろいろとかわったものがあるが、何がいいのかはよくわからない。
何をあげても喜んでくれそうな気もするし、文句を言われそうな気もする、なかなか難しいのだ。
しばらく悩んだあと、ようやく手にとったのは陶器で出来た小さな子犬の置物だった。なぜそれを選んだのかは、自分でもよくわからないけれど。全然京都らしいイメージもない。どこの観光地にでもおいているのだろう。それでも受け取った時のマナの笑顔が見えたような気がする。
もうひとつ、なぜだか目に付いていた白い狐の置物、その二つを持ってシンジはレジへと向った。
「ふ〜ん、なかなかやるじゃない」
「な、なんだよ」
「わざわざ二つに分けて包んでもらうなんてさ。自分用ってわけじゃないみたいだし、ふたまた? ボケッとした顔してるくせに女ったらしなんだ」
「そ、そんなことは・・・」
ない、と断言はできない。一つはレイのために買ったものだからだ。
ふたまた、などという意識はないけれど。だいたいどちらとも付き合っているわけではない。
栗色の髪の少女は、両腰に手をあてて呆れたような顔をしている。
別に妬いているようには見えない、からかっているだけだろう。
「ホント男は怖いわよねえ」
「だ、だから、そんなんじゃないって」
「別にアタシに言い訳する必要ないじゃない、でも、彼女には怒られると思うわよ」
「か、彼女って? そんなのいないよ」
少し視線を泳がせながら答えたシンジの前で、少女が笑みを浮かべた。
見透かしたように、口元が微笑んでいる。
居たたまれないように感じ、思わずシンジがうつむいたその時、
槍が震えた。
「に、逃げて!!」
「え、どうしたのよ、突然」
遠くから迫ってくる気配を、シンジは感じた。
おそらくは使者だ。この槍を追ってきたのだろう。
辺りには大勢の人がいる、ここで戦うのはまずい。
「ま、待ちなさいよ、ねえ」
叫ぶ少女をその場に残し、何も言わずにシンジは駆け出した。
事情を知らない人を巻き込んではいけない、そのことしか今は頭の中にはなかった。
その高台には、いくつかの墓が並んでいた。
参拝しているものが散見されるが、別に縁者ではない。観光客だろう。レイがそこにいるのも知り合いの墓があるからではない、ここからなら京の街が一望に見渡せる、それゆえだ。
シンジたちと別れた後、いったん延暦寺方面に飛び、そこから連なる寺をたどるように、レイは南下していた。
ここで空から降りたのも特に深い理由はない。
このようなおかしな増築物はなかったが、この山自体は昔から存在していた。かつてここに登って京を見たことがあったような気がしたから、だから降りてみた。
千年の時間の経過。
その実感は、レイには無かった。
あの寺の下、封印の地で過ごした倦んだような時間は、レイからすでに時の感覚を奪ってしまっていた。
それに何が変わったわけでもない。ただ、外に出てきただけだ。
この街で生きている幾百万の人間たちと全く違うレイにとっては、時の流れなどそれほど大きな意味はなかった。
眼下に広がる、京の街。
レイが知らない間にできた建物、見たこともなかった乗り物、あったことも無い人々。
知るものもいない街など、異国と同じだ。たとえ、かつてそこで暮らしていたことがあったとしても。
ここにいることに、やはり何の感慨もわかなかった。
ただ、覚えていることはある。
おぼろげな過去の向こうに、鮮やかに浮かび上がってくるものがある。
かつてこの街の空は赤く染まっていた。
家々を燃やす炎、大勢の人の泣き声、飛び交う無数の矢、いななく馬たち、そして・・・。
今とはまったく違うこの街に、確かに存在したもの。
はるか昔のはずだ、だが、そうではない。
予感がする。
それともこれは、気配、だろうか。
千年前の残り香がそう感じさせるのだろうか。
「・・・・カヲル・・・・」
レイのそのつぶやきは、彼女自身も意識していなかったのかもしれない。
長い間、レイはそこから動けずにいた。
見下ろす彼女の視界に、街を襲う黒い闇が映った、その時まで。
「・・碇君!?」
一瞬で現実に戻る。
遠すぎて見えはしなかったが、巨大な力を持つものにシンジが襲われている、それがわかった。
感傷にひたっている場合ではない、過去のことなどどうでもいい。
今、レイが望むことはただひとつだからだ。
次の瞬間、レイの身体は宙に飛んでいた。
槍を手に握り締めて、シンジは歩道を走っていた。
すでに包帯は取っている。震えは止まっていない。
先ほどから多くの人たちに注目されているような気がするのは、けして気のせいではないだろう。
背後から敵の気配が近づいてくるのは自覚していた。それでも、今戦うのはまずい。他の人を巻き込むのはもとより、こんなところで変身でもしたら化け物扱いされてしまう。
一刻も早くミサトの元へ行く、それがシンジが考えていることだった。
別院の敷地内なら問題はない、そのはずだからだ。
しかし土地鑑のない京都の街、来る途中にバスを使ったことも災いしている、どのあたりに別院があったのか、シンジは漠然としか覚えていなかった。
振り向く。
直径3mほどの巨大な黒い固まり、それが迫ってくるものだった。
昨日本山で襲ってきたレイそっくりの敵とは違う、だからといって変身しないでシンジが相手をできるとは思えなかった。
使者なのは間違いない、以前の敵のように遠距離から攻撃してこないのが、幸いなのかもしれない。
「くっ!!」
突然、使者が速度を上げた
シンジを捕らえようとするかのように、みるみるうちに迫ってくる。
「わああっ」
使者の全面が大きく広がった、まるで口を開いているかのようだ。
何が起こったかわからなくなり、シンジの身体が強張った。
飲み込まれる。
そう思ったその時、誰かがシンジの袖を引いた。
「こっちよ!!」
促されるままに向いたそこには、幅の狭い脇道があった。
迷うことも無く駆ける。使者はシンジの身体があったところをくわえ込むような格好をした後、そのまま通り過ぎていった。慣性のために簡単には方向を変えられないのだろう。
「今のうちに行くわよ」
「き、君は・・・」
「いいから、早く来なさいって!!
先ほど別れたはずの栗色の髪の少女、なぜだか彼女がそこにいた。
シンジの袖を握ったまま、同じように駆けている。
ここまで先回りしたのだろうか、だが、そんなことを悩んでいる場合ではないようだ。
「ほら、急ぎなさいって! 死にたいの、あんた!?」
「わ、わかってるよ!」
すでに、使者は再びシンジたちに迫っていた。
道の両側の民家の塀を崩しながらやってくる。そのぶん速度は落ちているが、逆に使者が持つ並外れた力をあらわしてもいる。
ブロックをへしゃげてしまうだけの質量を持っていることも。
陸に上がった鯨、そんなふうにもみえる。なぜあんなものが空を飛ぶのかわからない、だが、事実の前ではむなしい叫びだろう。
「ねえ、あのヘンなのになんかしたわけ!?」
「知らないよ!」
「じゃあなんで追われてるのよ!!」
「向こうに訊いてよ!」
脇道が現れるたびに曲がる。石段を何度か下った。今どこにいるのか全くわからない。
いつのまにか人気の少ないところに来ていた。それでも周囲は建物が並んでいる、中には人がいるはずだ。
遠くでサイレンの音がする。だが警察などでどうにかなる相手ではないだろう。
「はあ、はあ・・・」
「何よ、だらしないわね、しっかりしなさいよ」
走りづめでさすがに息が上がってしまったシンジを尻目に、少女はほとんど汗すらかいていないように見えた。
努力のかいあって使者はやや引き離したようだ。ちょうどみつけた小さな児童公園に飛び込み、ベンチに座り込んだ。時間帯のせいか他に誰もいない。ここなら、迎え討てるかもしれない。
ようやく息を整え、傍らに立ってシンジを見ている少女を見上げた。
あんな化け物に追われて来たというのに、彼女にあまり緊張感はない。現実感が無いだけだろうか。
「ねえ、君はもう逃げてよ。あいつが追ってるのは僕だから」
「どうして? なかなかおもしろそうじゃない。それにあんたひとりでどうにかなるわけ?」
「頼むよ。君には感謝してるから、巻き込みたくないんだ」
「へえ、見かけによらず、なかなか男らしいのね」
茶化すように答える少女は、シンジの言葉など聞くつもりはないようだ。
再び走るか、だが、ミサトが待つ別院の場所も、すでにシンジにはわからなくなっていた。
どうしよう。焦るシンジをあざ笑うように、頭上から突然黒い固まりが現れた。
「な、なんで、こいつ」
「きゃ、なによこれえ!」
叫び声が重なる。シンジの手の中で槍が大きく震えた。
大きく開いた使者の口。逃げられない、そう思った瞬間、何者かが使者を弾いた。
「あ、綾波!?」
『大丈夫?』
すでにいつものレイではない。長く伸びた青い髪とともに、その姿は獣へと変わっていた。
巨大な白い獣。
一瞬その赤い瞳がシンジを睨んだように感じたが、その視線はシンジではなく、シンジと並ぶ少女のところに向けられているような気もする。
隣を見る、先ほどのショックが原因なのか、栗色の髪の少女は気を失ってその場に倒れているようだった。
あたりを見回す、他に人はいない。
考える間もなく、体勢を整え直した使者が再びシンジへと襲い掛かってきた。
「くうっ!!」
槍を掲げる。
シンジの身体が紫色に光る。次の瞬間髪が腰まで伸び、皮膚は紫色に変わった。
使者に向かい薙ぐように槍を振るう。手ごたえはあった。
悲鳴をあげるようにして、使者が宙にとぶ。それを追うように、レイが炎を吐く。
一瞬にして包まれ、のたうつような動きをしだした。
「綾波!!」
叫びとともに高く跳ぶ。そのまま待ち受けていたレイの背中に乗り、使者の間近に迫った。
気づいた使者が口を開き、こちらに向ってきた。
逃げない。
戦闘を長引かせる余裕など無い。
槍を強く握る。レイが襲いくる巨大な口に向って再び炎を吐いた、一瞬使者がひるむ。
今だ。
シンジはレイの背中から離れた。そのままダイブする、使者の口の中へと。
貫く。
視界が闇に染まる。
そして、確かに聞いた。使者があげる断末魔の声を。
外にでた。後ろを見る。広がる青い空、そして闇の固まりがゆっくりと消えようとしているさまが、シンジにははっきりと見えた。
「ね、ねえ大丈夫?」
「う、うん・・・」
肩を激しく揺すると、ようやく少女は目覚めた。ぼんやりとした顔でまわりを見ている。
だが、すぐに焦点はあったようだ。
「な、なに気安くさわってんのよあんた」
「ご、ごめん」
大声を出され慌ててシンジは少女から離れた。
彼女はすぐに立ち上がり、服についた汚れをはたいている。
特にケガはないようだ。
「まあいいけど・・・もうあのヘンなのはいないの?」
「うん、もう大丈夫だよ」
「あんたが退治したの?」
「う、うん、まあどうでもいいじゃない。でも、ありがとう。助かったよ」
「あれくらい気にしなくていいわよ。それで、彼女は放っといていいの?」
「えっ?」
振り向くと、レイがこちらを見ていた。裸ではない、さきほど着せたシンジのカッターシャツ姿だ。
その時に少女のことは簡単に説明はしたつもりだが、それでも睨んでいるような気がする。
マナやサクラもそうだが、シンジに近づく女性は全て気に食わないのかもしれない。
「あ、うん、友達、なんだ」
「彼女がふたまたのうちの一人ってこと、かわいい子じゃない」
「・・・あなた、誰?」
和やかに話すシンジたちに割り込むように、レイが少女に言葉をかけた。
いつのまにかシンジのすぐ前に来ている。背中をシンジに密着させるようにして、少女と対峙している。
「あ、綾波?」
「どうしたのよ。・・・ってあんた裸じゃない」
「あなた、誰?」
ゆっくりと、レイが後ろに下がる。それに押されてシンジもあとずさった。
まるでシンジを少女から離そうとするかのようだ。
レイがどんな顔をしているのかはシンジからは見えない。向かい合う少女の顔からは、まだ、微笑みは消えてはいなかった。
「ふうん、仲がいいんだ。・・・これじゃマナも苦労だわね」
「えっ?」
確かに、今彼女は『マナ』と言った。聞きとがめたシンジを嘲るように、少女の笑い声が響く。
レイの身体が強張ったような気が、シンジにはした。
「ど、どういうことだよ」
「別にたいしたことじゃないわ、『シンちゃん』。ここに来る前にマナと少し話をした、それだけよ。ホントは連れて来てあげようと思ったんだけど」
「き、君は・・・・いったい・・・」
彼女に自分の名前は言ってはいない。それにあの呼び方はマナだけのものだ。
少女の青い瞳が光る。周囲の空気が変わる。
今、初めて気づいた。槍が震えている。
「役者が、そろったようね」
そう言った少女が見ているのは、シンジでもレイでもなかった。
シンジのすぐ背後に誰かの気配がする、近づいてきている、だがシンジには振り向くことが出来ない。少女から、目を離すことが出来ない。
歪んだ笑いを浮かべたまま、少女のくちびるが動いた。
「・・・久しぶりね、ミサト」
「どうして、あんたが・・・」
後ろからの気配は、シンジのすぐ隣で立ち止まった。
ミサトが、呆然とした顔で少女を見ている。目を見開いて。
シンジのことなどまるで見えていない。
「さすがに老けたんじゃない? もう結婚はしたの?」
「どうして、あんたが、ここに・・・」
「あんたが会いたがってるんじゃないかと思って。アタシに訊きたいことがあるんじゃないの?」
「それじゃあ、それじゃあ、やっぱりあんたが・・」
「今のアタシの姿を見たら、訊くまでもないと思うけど。あんたの想像どおりよ」
二人が何を話しているのか、シンジにはわからなかった。
レイがシンジの腕を掴んでいる、もしかしたら彼女ですら怯えているのだろうか。
槍の震えはとまらない、激しさを増していく。
しかし、なぜだろう。
目の前には、一人の少女しかいないというのに。
戸惑いながら、けれどシンジにはすでにその理由がわかっていたのかもしれない。
ゆっくりと、変わっていく。
目の前にいる今日始めてあった少女が。
栗色の髪、青い瞳、整った顔立ち、グラビアから抜け出たアイドルのような体つき。
それが徐々に変わっていく、人の姿が失われていく。
赤く染まっていく。
血のような、燃え盛る炎のような、赤に。
「あ、ああ・・・」
思わずシンジは呻き声を出していた。
レイの時は最初から人外の存在だと分かっていた。
だが、彼女は違う。普通に出会い、会話し、助けてくれたその少女が、目の前で違う何かに変わろうとしているのだ。
「ア、アスカ・・・」
ミサトがつぶやいたのは、あの少女の名前だろうか。
しかし、すでにその名に意味はないだろう。
空気を引き裂くような、大きな咆哮が響いた。
シンジたちの前から、少女の姿は消えている。
そこにいるのは、深紅の身体を持った、巨大な獣だけだった。
〜つづく〜
かつ丸にメールを送る
katu@osaka.104.net
解説:
10万ヒット記念、ということにしときます(^^;;
展開については全て当初からの予定通り。
ミサトが誰でアスカが誰か、というモデルは当然ありますが。
まあ「うしとら」のほうの展開とは、すでにかけはなれてますね。
エヴァかといわれても困るけど(^^;;
でも、「エヴァ」にしていくつもりはありまする。
しかし本格的にアスカとシンジ絡めたのって初めてだなあ。
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