12月某日。師走のデイビス家。休日の今日家にいるのはナルと優人の二人。
麻衣はどうしたのかというと、綾子・真砂子に連れられて一泊二日の温泉旅行に行っているのである。
事の起こりは今から2週間前のこと。綾子が「温泉に行くわよ」と宣言したことから始まる。
「どしたの? いきなり」
「あたしの知り合いが旅館を営んでるんだけどね、その人が招待してくれたのよ」
「へぇーいいなぁ。そんな事あるんだ」
「ま、相手にしてみたら只単なる先行投資って奴でしょ。うちみたいな大病院に伝を作れば集客になるじゃない?」
「あ、な〜るほど」
「そういうこと。で、再来週の土日に女3人予約しといたわよ。ちなみに真砂子には昨日の内にOKの確認とってるから」
「……何それ」
「いつものメンバーで行ったらそれこそ調査と変わんないじゃない。だから女3人だけで羽を伸ばそうと……」
「ちょ、ちょっと待ってよ! いきなりそんな事言われても無理だよ!」
「だから2週間も猶予があるじゃない」
「だって絶対無理だよ。ナルがOK出すわけないじゃん」
「あ〜ら、良いわよね〜? ナル〜。日々家事に追われている大切〜な奥様を一泊二日の小旅行に快〜く送り出すぐらい、なんでもないわよね〜〜?」
「……」
「なあにその目は言いたい事があるならはっきり言いなさいよ」
「優人はどうするんだ?」
「あんたが面倒見りゃ良いだけの話じゃない」
「……」
「どーせあんたの事だから親子の交流はあんまり無いんでしょ? ここは一つ荒療治と思って24時間優君と向き合いなさいよ」
「……」
「いーじゃねーのナルちゃんよ。なんなら俺が泊まり込みで優人の面倒見てやろうか? 自慢じゃねーがお前さん達が結婚するまでの2ヶ月でオムツ換えはちょっとしたもんだぜ?」
「ああー良いですね、滝川さんが行くのなら僕もお邪魔しようかな。僕、普通食も離乳食も作れますよ?」
「……」
「渋谷さん何が食べたいですか? 僕腕によりをかけて作らせて頂きますから」
「おい青年、俺の好みは聞いてくれんのか?」
「やぁねぇ〜、ノリオったら。僕があなたの好みを知らないとでも思ってるんですか? とっくにリサーチ済みですよ」
「おお、なんか嬉しいような嬉しくないような……」
「………………………………僕一人で結構です」
と言うわけで今に至る。
麻衣とて「本当に行っても良いのかなぁ」と思わないでもなかった様だが、当のナルが黙りを決め込んでいるため意志の疎通を図る手だてが無く、ずるずると当日になってしまっ。まあ、本当にイヤならもっと早くに反対しているだろうし、と結論付け最近では上機嫌で支度を始めていたのだが……。
そうして麻衣は朝早くから起きだして二日分の食事を作り置き、迎えに着た綾子達と温泉旅行に出発した。
怒濤の一日目はナルの精神力と忍耐で乗り切った。麻衣が出かけてすぐ起きだした優人にご飯を食べさせ、そして掃除をし、洗濯をする。常と違う運動量の所為かいつもなら(麻衣が居なければ食べない)少量の昼食も人並みの量を平らげた。食事はすべて作り置きがあるので買い物の必要はない。必要はないがその分起きっぱなしの優人の相手をしなければならない。これが一番の苦痛だった。
やはり綾子の言った通りか、日頃風呂に入れる意外の全てを麻衣に任せてしまっている為一体何をどうすれば良いのか判らない。自分の幼い頃を思い浮かべてみてもあまりよい例は浮かんでこない。
(それもそうか……)
とナルはため息を吐いて有るだけのおもちゃ箱をひっくり返した。そして好きに遊べと言わんばかりにその中に優人を下ろす。そして自分は少し離れたところで本を片手に見守ることにした。
しかしそれで済めば子育てでノイローゼになる人間など居るはずもない。
やりたい放題に、手当たり次第に物を投げる優人にナルはため息を吐いて隣に座り、使い方を教える。が、一歳未満にそんな事が通用する訳もなく自分のやりたいように出来なくなった優人は癇癪を起こして泣き出してしまった。
「…………」
最も恐れていた状況にナルは頭を抱えた。
(……呼ぶか? ぼーさんと、安原さんを……)
と思いかけナルは頭を振った。
(どうせおもちゃにされるのが落ちだ)
意を決したナルは泣き喚く優人を抱き上げるとそのまま散歩に出ていってしまった。どうやら効果は有ったようで優人は見慣れぬ景色に途端に上機嫌になって意味不明の叫び声を上げている。そうして小一時間ばかり、優人がくしゃみをし出すまで近所を歩き回り帰宅の途に付いた。
そうして夕方過ぎになった頃、うとうとし出した優人をナルは必死になって起こし続けた。優人の我慢の限界に近づいた頃、早い目に夕食と入浴をすませると、優人は力つきたように眠りに落ちた。漸く人心地を付こうとしたナルだが奇妙な寝息を上げる優人を見ているうちにナルも同じように力つき深い眠りに落ちていった。
明けて翌日、夜明けの遅いこの時期で陽は高く上っていた。
(多大な時間の無駄遣いだ……)
心底うんざりした様子でナルは身支度を整えブランチを取る。ブランチと言っても全く食欲がわかないので彼の前にあるのは濃いめの紅茶が満たされたティーポットとカップが一組あるのみ。
「……ふーっ」
時間を掛けて全てのお茶を飲み干し、大きく息を吐いた後ナルは何かに気づいたように部屋の中を見回した。
「……」
日中だというのに耳に痛いほどの沈黙。
元々この近隣は閑静な住宅街で以前もこのような感じだったのだ。
だがやけに静かな家の中でナルはソファに腰掛け苦笑した。思えば結婚して以来初めての静けさかも知れない。普段なら麻衣が食事に洗濯に掃除と忙しなく働き回っているのに、それがないのだ。
優人もまだ眠っており、今こそ仕事のチャンス。なのにナルは動かなかった。いや、と言うよりも動けなかった。この静けさがやけに空虚すぎて動く気にならなかったのだ。
目を閉じ、眠るでもなく、只静けさに身を任せていると脳裏に細々とした生活音の中で聞こえてくるハミングが蘇る。曲名は判らないながらも優しく心に響く旋律だった。
(Nursery Rhymes....)
ハミングは麻衣の物からルエラの物へと変化した。
(そう言えばルエラがよく歌っていたな……。子守歌……)
ナルは元々一人で沈黙暗闇の中で眠るタイプなのだがジーンは人肌や小さな灯り子守歌等を必要とするタイプだった。双子故いつも同じ部屋で寝食を共にしていた所為かナルはジーンに合わせてどんな所ででも眠れるようになった訳だが、ジーンはそうもいかなかった。それはデイビス家に引き取られてからも同様であった。二人が部屋を別々にするまでルエラは二つのベッドの間に腰掛け、Nursery
Rhymesと呼ばれる童歌をよく歌っていた。
その頃の少しばかり暖かくてくすぐったい気持ちが蘇ってくる。
(あれは……なんて歌だったかな……確か……)
ナルが思いを寄せた時、優人がぐずりだした。そろそろ起き出す頃だと思ったナルは用意してあった離乳食を暖めてテーブルにセッティングする。ベビーベッドから優人を抱き上げ、椅子に座らせると、小さなスプーンを使ってスープを優人の口元に運び込む。近頃優人の食欲は目覚ましく、少々太り気味にさえ見えたが歩き始めれば次第に絞れてくると言われ、本人の食欲に任せて食べさせている。
「しっかり噛みなさい。顎の発達が悪くなる」
などと相変わらず理詰めで会話を続けるナルに優人はお構いなしだった。ちょっとスプーンの運びが遅れるだけでテーブルを叩いて催促するほどだった。
「テーブルを叩くんじゃない。行儀の悪い」
「ぶーーー。んま、んま!」
「本当に絞れてくるんだろうな……」
ぱんぱんに膨れ上がった優人の頬。その頬に付いていた米粒を取るとナルは自らの口に運んだ。ふやけにふやけた米粒にナルは眉根をしかめる。
「こんな味のない料理のなにが美味しいんだか……」
結局用意してあった全てのご飯を食べ尽くし満足した優人は椅子から降りようと藻掻いていた。ナルはため息を吐いて優人をリビングの絨毯に下ろし、ビデオの電源を入れる。中には優人お気に入りの幼児番組が入っているのだ。これを付ければ優人は大抵大人しくなるのだ。
「なぁー!!」
ナルの思惑通り優人は満面の笑みを浮かべてナルと画面を交互に見ている。やがて歌に合わせて音楽が流れ出すと両拳を振り上げて踊り出す。
その余りの必死ぶりに流石のナルも苦笑して見ていた。その時、自分の振り上げた拳の勢いに負けて優人の体が仰向けに倒れ掛けた。
「危ない!」
間一髪、ナルの手が間に合い後頭部激突は避けられた。
「頼むから大人しく見ていてくれ……」
はぁーっと大きくため息を吐くナルに、最初のうちはキョトンとしていた優人だったが、イレギュラーな出来事さえも楽しかったのか手を叩いて喜びだした。
「……やっぱり安定が悪いな……。しょうがない」

そう言うとナルはその場に胡座をかいてその上に優人を座らせた。ナルの腹に凭れ込むような形で優人は相変わらず踊りながらビデオを見ている。
そして小一時間ばかりが過ぎた頃だろうか。踊り疲れたのか次第に舟を漕ぎ始めた。体が左右に揺れ今にも寝付きそうである。
ナルは抱き上げ立ち上がるとベッドに向かい、そっと優人を下ろした。すると優人は途端に泣き出す。
「……眠いなら素直に寝れば良いだろうが」
心底呆れた声を出してナルは再度優人を抱き上げた。縦抱きにしてゆらゆら揺らして見るが優人は相変わらずぐずぐずと愚図っていた。
(どうすれば良いんだ?)
現在重量級の優人を長時間抱き続けるのは至難の業なのだ。ナルは必死に記憶を呼び起こして麻衣がどのように優人を寝かしつけていたのかを思い出す。
(抱き方は……これで良い。それから緩やかにステップを踏むように揺らして……。後は……歌、か……)
対処方法が判ったのは良いが一体何を歌えば良いのかナルには見当も付かなかった。先程のビデオの歌など覚えているはずもなく、いつも麻衣が歌っている歌もうろ覚えで思い浮かべる端から消えてしまう程だった。
ハミングでも良いんではないか? と言う考えは起こらなかった様でナルは必死になって子守歌なるものを思い浮かべた。
(……! そう言えばよくルエラが歌っていた歌は……。確か Hush Hush……。ああそうだHush-a-bye,babyだ)
耳にタコができる程聞かされた歌。出だしを思い出してしまえば後は芋蔓式に記憶の縁から引き出されてゆく。
ナルはすぅっと息を吸い込むと緩やかに歌い出す。
Hush-a-bye, baby, on the tree top,
When the wind blows the cradle will rock;
When the bough breaks the cradle will fall,
Down will come baby, cradle, and all.
とても短い曲だが歌い終えるまでに優人は大人しく目を瞑りだした。しかしそのまま黙っているとまた愚図り出すので次の曲を歌い始める。
How many miles to Babylon?
Three score miles and ten.
Can I get there by candle-light?
Yes,and back again.
If your heels are nimble and light,
You may get there by canddle-light.
そうして短い歌ばかり5、6曲歌った頃、優人は小さな親指をちゅうちゅう吸ってこてんと眠り込んだ。
ナルはそうっとベッドに寝かせると毛布を掛けて吸っていた親指を外す。そして柔らかな産毛に唇をそっと押し当てると灯りを消してリビングへと戻った。
それからしばらく経った頃、沢山の荷物を抱えて麻衣が帰ってきた。
リビングで読書中のナルを発見した麻衣は『ただいまぁー』と言いかけるがナルに制され、指さされた方を見て苦笑した。
薄暗い中、ベビーベッドからはほんの少しばかり鼻の詰まった寝息が聞こえてくる。
「ただいま」
「おかえり。……楽しめたか?」
「そりゃ勿論! ナルは? 大変だったでしょ?」
「……まあ、それなりにな」
肩をすくめるナルに麻衣は荷物を解きながら尋ねた。。
「もう二度とごめんだ! って感じ?」
「……いや、それ程でもない」
意外な言葉に麻衣は目を丸くした。
「どうした?」
「ナルね、今、すっごい優しい顔してるよ。……いつもその顔で居ればいいのに」
「家族の前だけで十分だ」
深々とため息を吐いてナルはソファに深々と背を預ける。その様子に麻衣はニッコリ笑ってこういった。
「パパ、お疲れさまでした」
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