「神谷さん!」
ぐらりと傾いだセイの身体を総司は間一髪抱き留めた。
「神谷さん! 神谷さん! 大丈夫ですか!?」
「う……あ……だ、大丈夫……です」
そう答えたセイの顔色は途轍もなく青い。
「大丈夫です……。少し目眩がしただけです」
到底大丈夫そうには見えないが、それでも総司の手を借りて立ち上がろうとするセイの肩を総司は軽く、だがしっかりと押さえつけた。
「もう少しじっとしてらっしゃい。大丈夫には程遠い顔色じゃないですか」
「しかし……」
「いいから! ……ってこの炎天下にじっとしてたって治まるものも治まりませんよね」
言うなり総司はセイを抱き上げて木陰を探して走り出した。
「お、沖田先生!? 」
「大人しくしてらっしゃい! それに喋ると舌を噛みますよ!」
いつもの如く甘味屋への道すがら。少し先には大木と脇にお地蔵様が祀られていた。
「お隣失礼しますね」
と断ってから総司はそっとセイを地面に降ろした。
「……まだ顔色が悪いですね」
やはり辛かったのか目を閉じて、眉間に皺を寄せているセイ。総司は懐紙を取り出してセイの額に浮かぶ脂汗を拭う。
「すみません、ご迷惑をお掛けしました」
セイは目を閉じたまま謝った。未だ目を開こうとすると視界がぐるぐる回るからだ。
(……やっぱり、お馬の明けた日は体調が悪いなぁ。それにこの暑さで食欲もないし、夜も眠れないし……)
京の夏は盆地の所為か江戸の人間の想像を絶するほどに暑い。比較的今日に長く居るセイではあるがやはりここ数日の酷暑には耐えかねていた。
「……はぁ、もっと稽古を頑張らないと……」
一人ごちたセイの言葉に総司は怪訝そうに眉根を寄せた。
「何をどうしてそう言う話しになるんですか、あなたは」
「だって、近頃よく眠れないんです。でもそれは疲れが足りてない証拠だから……」
「………………………………。はあぁー」
セイの言葉に総司は大仰に溜息をついて見せた。
「何なんですか、その溜息は」
うっすら目を開けたセイは不愉快そうに総司を見た。
「その状態で稽古を増やしてどうするんですか。先ずはしっかりご飯を食べるのが先決でしょう?」
「沖田先生?」
「んもう、最近食が細ってるから心配してたんですよ」
総司の言葉にセイは目を丸めた。そしてじわじわと喜びがこみ上げてくる。
「ご心配をお掛けして……申し訳ございません」
弱々しいながらも笑顔を浮かべたセイに総司は苦笑を返す。
「今日は甘味屋さんに行くのは止めておきましょうね」
「えっ!? だ、大丈夫ですよ!」
「駄目です。確かに暑い時に鍵善の葛切りは美味しいですが滋養があるとは言い難いですからね」
「……。で、でも、先生」
「今は何より神谷さんの体調を整えるのが先決です。ちなみに口答えはきちんと体調管理をしてからにして下さいね」
にっこりといつもの笑顔で釘を刺されてセイはうっと詰まり、俯いてから「承知しました」と答えた。
その様子に総司は満面の笑みを浮かべる。
「そろそろ歩けそうですか? まあ歩けないなら負ぶって行きますけど……」
「だだだ、大丈夫です! ほら! もうこの通り!」
言ってセイはすっくと立ち上がった。一瞬目が回ったがそこは根性で耐えた。おそらく総司にはバレているのであろうが敢えて言及はなかった。ただセイの手を引き「では行きましょうか」と笑顔を向けるだけ。
「はい……!」
喜びを噛み締めて後に続く。
(ああ、私って本当に幸せ者だ)
そう、セイは心底思った。だがその幸せは続く総司の言葉で敢え無く破られる事となる……。
「美味しい鰻のお店を知ってるんですよ。一杯食べて滋養を付けて、早く元気になって下さいね」
「……は? な、何の店ですか?」
「え? だから鰻のお店ですよ」
「鰻……?」
「そうですよ? 神谷さん、あなたまさか鰻を食べた事無いんですか?」
「有りますよ! 鰻くらい!」
「だったら何を怪訝そうな顔してるんですか」
小首を傾げる総司にセイは信じられない思いで一杯だった。
「先生ご存知ないんですか!? 上方の鰻は腹開きなんですよ!?」
「知ってますよぉ、それくらい」
「し……。だったら何故!?」
「何が何故なんですか」
「な、な、な、何故って腹開きって言ったら切腹じゃないですか!? そんな縁起の悪いもの食べられませんよ!」
またも顔面蒼白でそう言い切ったセイに、今度は総司が怪訝な顔をする。
「でも、美味しいんですよ? 本当に」
「この際味なんか関係ないでしょ!? 信じられない! 日頃『私は武士です』って言ってるくせに!」
更に激昂するセイに総司は困った様な笑顔を浮かべた。
「何が楽しいんですか!?」
「え? あ、だって私は別に切腹が嫌な訳じゃないから……」
「はぁっ?」
「だって、私が死ぬのは近藤先生の為ですもん。だったら切腹だって構いやしませんよ」
「……」
「神谷さん? どうかしたんですか?」
唐突に呆然となったセイの顔を総司はきょとんと覗き込んだ。その顔を見ながらセイは視界と同様に頭の中までが激しく揺れるのを感じた。
(……分かってた……事じゃないか。この人はこういう人なんだって……。この人の心の中には局長しかいないんだって……!)
だからと言って納得できる訳が無い。セイは踵を返そうと総司の手を振り解いた。だが駆け出す寸前に再び手首を捕まれる。
「離してください!」
「いきなり何なんですか!」
「……は、腹開きの鰻なんか食べたくありません!」
真の理由が告げられる筈もなくセイは言った本人が情けなくなる様な理由を答えた。案の定総司は呆れた声音を返す。
「何子供じみた事を言ってるんですか、あなたは」
「ほ、放っておいてください!」
言ってセイは総司に背を向け振り解こうと腕を捻る。勿論、総司の腕がそれくらいで外れる訳がない。しつこく暴れるセイに、総司は深々と溜息をついて脇差しを鞘ごと引き抜いた。そして……。
ポコ
セイの後頭部を叩いて「はい、後ろ傷です」と告げた。流石に訳が解らずセイの動きが止まり、振り返る。見れば総司は脇差しを肩に掲げてニッコリといつもの笑顔を浮かべている。
「お、沖田先生?」
「後ろ傷ですよ、神谷さん。切腹ですね」
「な、なにを……」
「やだなぁ忘れたんですか? 隊則」
「覚えてますよ! だから何なんですか、いきなり!」
「後ろ傷を受けた神谷さんに切腹して貰おうかと思いまして……」
「思いましてじゃなーいっ!」
今度は顔を真っ赤にして噛みつくセイに総司はにやにや笑いながら問い掛けた。
「切腹はいやですか?」
「な……っ。そんなもの! イヤに決まってるじゃないですか!!! しかもこんなふざけた理由で!」
「じゃあ、鰻食べに行きましょうよ」
ニッコリと笑う総司と、本当に訳が解らないと目を丸めるセイ。
「どこをどうすれば鰻に行き着くんですか……?」
「え? ほら、神谷さんの身代わりに鰻に切腹して貰おうと思いまして……」
「…………………………………………………………………………………………」
セイの思考がしばし停止した。そしてじわりじわりと巡り出す。
(この人は考えるの苦手なクセに、どうしてこういう事だけは瞬時に思いつくんだろう?)
意表を突かれたと言えばいいのだろうか? セイの中でぐるぐる渦巻いていたモノがストンと落ち、そして言いようもなく笑いがこみ上げてきた。
「な……にを言ってるんですか! もぉっ!」
「えぇ? わ、私、なんか変な事言いましたか?」
無意識の言葉だったのか、それでも総司はホッとして首を傾げた。
「だ……だって! 鰻に切腹って! あーもう、変ですよ! 変! 変ったら変! 滅茶苦茶変です!」
「な、なんですか! そんなに変って連呼しなくても良いじゃないですか!」
「変なモノは変なんですからしょうがないでしょっ?」
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜んもう! そんな口が叩けるんでしたら暑気中りも大丈夫でしょ!? 行きますよっ!」
口では勝てないと踏んだのか総司はぶぅっと頬を膨らませてセイの腕を取った。
「はい!」
セイは笑顔で答えて総司の隣に並び、そして頬を赤らめたままのふくれっ面を見上げた。
「な、なんですかっ?」
視線を感じたのか総司は唇を尖らせたままセイをチラリと見た。
「なんでもありませんよ。鰻、たっくさん食べましょうね。先生」
返されたセイの笑顔の暖かさに漸く総司も暖かい笑顔を返す。
「はい。……鰻も葛切りくらいたぁっくさん食べましょうね〜♪」
「……程々にしましょうね」
蝉の声も治まらぬ盛夏。
行く道には陽炎が立ち上り、額からも汗は止めどなく滴り落ちる。
そんな暑気の中、二人は手を取り合って歩いていく。
太陽よりも熱い心を分かちながら……。
おわり