警視庁捜査一課弐係の朝。始業時刻は過ぎているがいつものごとく係長の姿はない。他の人間もそれぞれの事をしている。柿ピーで点描画(モデルは勿論雅ちゃん)を描いている野々村。ネットサーフィンの合間にデータ入力に勤しむ近藤。爪を切りながらスポーツ新聞を読む真山。捜査資料を読みながら「だからあれがこーなって、そやさかいにこれがこーなんねんなぁ」と自己完結している金太郎。
「あれ、なんや東大ちゃん……やなかった、係長は今日も遅刻かいな。けっ、ええご身分やのぉ」
「あ、柴田係長でしたら病院に行くとのことで本日は有給を取られてます。野々村係長待遇には報告しましたけどお二人には伝えてませんでしたね」
柴田本人から電話を受けた近藤がディスプレイから首を伸ばしながら答えた。
真山は首をねじって近藤を見た。
「病院? あいつが? どこが悪いの? あ、頭か」
「………何でも『あの〜、もしかしたら体調が悪いかも知れないんで病院に行って来ます』っておっしゃってましたよ」
「なんですねん、そのかもしれんっちゅーのは」
「さぁ、背中刺されても平気で歩き回るような人ですから……。もしかしたら常人ならのたうち回るような病気だったりして」
「あり得る。東大ちゃん、今頃手術台の上に上っとったりして」
「………」
笑う二人に笑えない真山。
「まあまあ、柴田君も人間だったと言うことだよ」
フォローのつもりか何なのか訳の変わらない失礼なこと言って野々村は再び点描画に取り組む。残り二人も自分の世界に没頭しはじめた。
「………」
目の前の空席に目を遣りながら真山はぼんやりと昨日の柴田を思い起こす。体調の悪さなどは微塵も感じられずいつも通りのとぼけた柴田だった。異臭を放つ柴田スペシャルを片手に資料を読んでは犯人を突き止め、真山を引っ張って逮捕に向かう。
ま、後で電話でもしてやるか。再び真山も自分の作業(爪切り。次は足)に取り掛かった。
無為に時間は流れて、「業務終了! 業務終了!」と穴掘りポリスがシャッターを下ろした。近藤がパソコンを落として立ち上がる。
「それでは失礼します。今日は息子と一緒に盆踊りの練習なんです」
「僕も雅ちゃんとデートなんだよ。待っててねー雅ちゃーん。すぐ行くよぉ〜ん」
「ワシは犯人が分かってもーたんで今から逮捕に行って来ます!」
今にも飛び出しそうな金太郎に3人は口を揃えて「また明日!」と言い捨てた。
「んじゃ」
言って真山は家路についた。途中公衆電話を見つけて受話器を取った。警察手帳に殴り書きされた電話番号をプッシュする。しかし柴田の携帯は電源が入っていないようだった。真山は小さく息を吐き受話器を置いた。今度こそ家に向かって歩き出した。
無機質な部屋。解いたネクタイと財布を床に放って真山は水槽の前に腰を下ろす。金魚が自由に泳ぐ様をぼんやりと眺めていると視界の隅の赤いランプの点滅に気がついた。立ち上がって再生ボタンを押す。留守電の相手は柴田だった。
「もしもし、柴田です。お帰りなさい真山さん。えーっと今病院で診察が終わった所です。結構時間が掛かって参っちゃいました」
本当に参っているのだろうか。どことなくウキウキした様子の声だった。
「真山さんにお知らせしたいことがあるので後で携帯の方に連絡下さいね。では失礼します」
ピーッと言う機械音の後に「午後1時27分です」と録音時刻が告げられた。
あの馬鹿、携帯に連絡寄こせっつって電源切ってんじゃねーのか?
再び電話を掛けてみるが応答は同じだった。柴田の容態は気になったが自宅に掛ける気にもなれず、真山はベッドに転がり込んだ。ま、ほっときゃ向こうから掛けて来るだろ……。目を閉じて眠ろうとした矢先、お約束のように電話が鳴り響く。
「もしもし?」
「あ、真山さんですか? 柴田です。あの……留守電聞いてくれました」
「聞いたよ」
「携帯の方に掛けました?」
「掛けたよ」
「ああーすみませ〜ん、今気がついたんですけどね。病院の中は携帯使っちゃ駄目みたいで電源切ってそのままだったんですよ〜〜」
「んなこったろーと思ったよ。バカバカバーカ」
「うう〜すいませ〜ん」
「で、話って……」
何?と言いかけて真山はふと言葉を飲み込んだ。
「……お前さ、今どこにいんの?」
「ええ? 色々買い物してるんで新宿にいますが」
「じゃあさ、飯食おうぜ飯。どうせお前の事だから飯まだだろ?」
「はい、そういえば朝から何も食べてませんでした」
「お前さ、三度三度ちゃんと飯食わねーから病気になんだよ!」
「別に病気って訳じゃないんですけど……」
ぶつぶつ不平を言う柴田を無視して真山は待ち合わせ場所を決めて電話を切った。
いつもと同じ柴田の声。ほっと息をつくと同時に朝の近藤達の会話が思い出される。とにかく自分に対して無頓着な事この上ない柴田が自ら病院に行ったと言う事実が真山を不安にさせていた。真山は声だけでなく、自分の目で無事を確認したかったのだ。財布をズボンのポケットに押し込むと足早にマンションを後にした。
日も沈み、人混みでごった返した街。柴田を待つ真山の足下にはもう既に10本近い吸い殻が落ちている。もう帰っちゃおっかなぁと苛ついてきた頃、遠くから「真山さぁ〜ん」と手振る柴田の姿が見えた。走る気は毛頭ないらしく相変わらず鈍くさいペンギンのようにえっちらおっちら歩いている。
「はぁ〜お待たせしました。」
「遅ぇよバカ。なんでお前の方が来んの遅いんだよ」と一発頭をはたこうと手を振り上げた真山。だが相手が病人だったことを思い出すと所在なさげにその手で頭を掻いた。
「買い物って何買ってたんだよ」
「あ、これなんですけど……」
柴田は手提げ袋から真っ赤な毛糸玉と編み棒を取り出した。一瞬顔が引きつった真山。
「……お前、もしかしてこれで毛糸のパンツでも編むつもりか?」
「何ですか、それ」
「お前あの島で言ってだろ? 赤のパンツしかはかねーって」
「もう、違いますよ。私靴下を編むつもりなんです」
「誰に? 俺に? だったらいらねーからな。断固として拒否するぞ。編む前にいっとくからな、編むんじゃねーぞ」
「ふんだ、真山さんには頼まれたって編んであげませんよーだ」
「じゃあ、誰にだよ」
「教えません」
すっかり気分を害したようで柴田は口をとがらせて俯いた。真山は、しょうがねーなという風に息をついて柴田の顔をのぞき込む。
「んで、何食う?」
「私は奢りでしたら何でも」
「ばか、誰が奢るっつったよ。大体お前、俺より給料多いじゃねーか」
「もぉ〜真山さんてばつくづく男らしくないですねぇ」
「うるせぇよ! ……で、何食うんだよっ」
「えぇっと、今日は中華な気分なんですけど、良いですか?」
「中華? いいのかよ。んな濃いモン食って」
いつもは素っ気ない真山に心配されて嬉しいのかニコニコ顔で柴田が頷く。
「さっきも言ったとおり別に病気って訳じゃないんですから、そんな心配しないでくださいよ」
「じゃあ、何だって病院に行った訳よ」
「何でだと思います」
楽しげな柴田に、逆に問い返されて真山は考え込む。はっきり言って全然分からないのだ。柴田が重ねて問う。
「どんな病院に行ったと思います」
「脳神経科」
真山の即答に明らかに気分を害した柴田。
「あれ、違った? じゃあ、美容整形外科か? って全然顔変わってないもんなぁ」
一人でウケている真山に柴田がぼそりと呟いた。
「産婦人科です」
「へぇ、産婦人科だったんだ」
「はい産婦人科です」
「なるほど、産婦人科かぁ。………って産婦人科!!?」
目を見開く真山に柴田は、
「赤ちゃん出来ちゃいました」
と、満面の笑みを浮かべ両手でピースをした。
一瞬意識が遠のいた真山は人混みを外れてビルの脇に座り込んだ。
「大丈夫ですか」
心配げに問い掛ける柴田に真山は顔を伏せながら、大丈夫ですか?じゃねーよ。と心の中で呟いた。マジか? マジなのか? 俺が父親? こいつが母親? に、似合わねー!!
心の中で軽口を叩いていると次第に麻痺していた思考が感覚を取り戻してくる。真山は俯いたままで柴田に質問を投げかける。
「な、何ヶ月なの?」
「一週間程です」
「は?」
「はい。柴田純、妊娠一週間です!」
「………普通、二、三ヶ月で気づくモンじゃないの?」
「はい、お医者さんにもよく気付きましたねって感心されちゃいました」
「呆れられてんだよ」
深々とため息とつく真山。段々といつもの調子戻ってくる。
「柴田、さっきの靴下ってもしかして……」
「はい、赤ちゃんのですよ」
「や、やっぱり」
「だって妊婦と言ったら、アームチェアに編み物ですよ! BGMは『こんにちは赤ちゃん』で決まりですね!」
決めるなよ、んなもん……。一昔前のドラマや映画なんかの影響なのだろうか、柴田は相変わらず乙女チックな妄想の海にどっぷりと浸かりきっていた。だが柴田は自分の腹に宿った命を純粋に喜んでいるだけなのだ。
もう、何だかなぁ。真山は苦笑した。
何の兆候も見られない腹を愛おしそうに撫でている柴田をみていると、あーだこーだと思い悩んでいる自分が滑稽に思えてくる。
真山は立ち上がると右手を差し出した。訳が分からず首を傾げる柴田に「荷物貸せよ。持ってやるからさ」と、微かに照れを含んだ表情で言った。
「えっ? い、いいですよ。ちゃんと自分でもてますよ!」
「いいから貸せよ。……って、お前コレ何だよ。むちゃくちゃ重いじゃねーか!」
柴田の肩から例のトートバッグを奪い取った真山はずっしりと来る重さに、「ったく、何入ってんだよ」と荷物検査を始めた。
「柴田ぁ、もうコレ、十月十日はいらねーだろ? 出しとけ。で、双眼鏡、コレ止めてプラスチックか何かのオペラグラスにしろ。ポラロイドカメラも無し。写るんですとかにしろ。いいな? ……お前、ケン玉なんか何に使うんだよ。もう捨てちゃえ。あっ、コレが一番大事。お前柴田スペシャルは俺がいいって言うまで禁止」
「ええ〜」不満げに口を尖らせる柴田を余所に真山は柴田の生命線とも言える地図を取り出した。
「あ、コレもいらねー」
「えっ、それがないと私、道に迷っちゃって大変なですよぉ」
「お前が外に出る時は俺もついてってやるからさ。だから必要なし! だろ?」
真山は渋々頷く柴田の頭をクシャリと撫で、そして左腕を差し出した。
「?」
「お前って何にもない平地で転ぶだろ、だから……捕まっとけ」
「……はいっ」
柴田は心底嬉しそうに頷くと真山の左腕に右腕を絡めた。
「んじゃ、行くか」
「はい!」
暖かな空気に包まれた二人が歩き出す。
相変わらず未来というモノは不安定で明日の保証など何もなく、変えようのない過去でさえ人の意識によってその形を変える。そんな二つの事象に挟まれ、翻弄される現在。確かなものなど何一つ無い絶望的なこの世界で、それでも人は歩き続ける。
こいつがいるから俺は生きていける。
この人がいれば私は生きていける。
組んだ腕から伝わる暖かさ。命の証明。今の二人にとって唯一の確かなものを感じつつ、二人は未来へと歩き出した。 |
おわり |
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