Siesta 〜すすき野原の夢物語〜
変容 −メタモルフォーゼ− |
夢の世界から帰って3年。
里緒と決別してからも3年。
そしてこの思いが消えることなく、逆に日を追うごとに強まって3年の月日が経った。
一度お互いの思いが通じ合ってしまったが為に、そして離れているが故に里緒を思う気持ち……里緒を愛し、欲する気持ちは留まる事を知らず、未だ結論を出せないでいる俺を苛んだ。
相変わらず正月しか帰らない……いや、帰れなかったが、今度は里緒が俺を避けるようになっていた。一昨年は某ロックバンドの年越しライブ、去年は学校の友達とスキー旅行。
当然の事だと思う反面、苦しい程に胸が痛んだ。
こうして里緒はいつか俺以外の男に恋をし、愛し合うようになっていくのか?
その時俺はどうするんだろう?
笑って「おめでとう」と言えるのだろうか?
俺以外の男と築いてゆくあいつの幸せを心から祝福できるのか?
できる……筈がない。
自分で選んだ事なのに、その結果を受け入れられない俺。そんな卑怯で女々しい自分に唇を噛み締めながら俺は家へと続く道を歩く。
向かうは鈴原の家。今日は元日。年に一回の訪問日だ。
今年は「涼」が帰ってきているらしく、何日も前から「何があっても帰ってくるように!」と母さんから念押しをされていた。
俺も涼には会いたいし、涼も俺に会いたいと言ってくれた。長く涼の居場所に居座りつづけたこの俺に……。
2日前に帰国した涼。
俺達は従兄弟ながら双子のように似ていた。それこそ里緒が混乱する程に。
20年ぶりに聞いた電話越しの声を俺は鏡に映った自分に向かって話し掛けていた。まるで時が戻ったような不思議な感覚に陥る。
全てが優しくて暖かで安定してたあの頃。
あの旅行を切っ掛けに俺達の運命は思わぬ方向へと突き進んで行った。
もしあの時、旅行に行かなければ
もしあの時、皆が助かっていたら
こんなに悩む事無く俺は里緒と結ばれていたのかもしれない。
そう思って俺は自嘲した。
「たら」「れば」なんか言い出せば切りの無い事だ。
里緒にも行ったように全ては俺に勇気が無かった為だ。
全部自分で仕出かした結果だ。
俺は深々とため息を吐き歩を進めた。あの辻を曲がれば家は目の前だ。
あと10M……5M……。
「……」
一年ぶりの我が家、……いや鈴原の家だ。
耳を澄ませば父さんの大きな笑い声が聞こえる。涼相手にもう既に出来上がっているらしい。俺は苦笑しながらインターホンを押した。
『はい? 亮なの?』
「ああ、今着いたよ」
『じゃあ、今すぐ開けるわね、ちょっと待ってて頂戴』
「それは良いけど父さんの笑い声外まで丸聞こえだぜ?」
『あらやだ! ちょっとお父さーん……』
言っている間にプツッと断線した音がし、パタパタとスリッパで駆けてくる。ガチャリと解錠の音と共に心に響く声がした。
「お帰りなさい。亮兄」
「!」
声の主は勿論里緒だった。
言葉が出ない程驚いてしまった俺はマジマジと戸口で佇む理穂を見つめる。
3年ぶりの里緒。
あの頃肩を過ぎるぐらいだった髪は腰に届くくらいに伸びていて
あの頃淡いピンク色のリップクリームで彩られていた唇は艶やかなルージュに包まれていて
あの頃泣くも笑うも一生懸命だった瞳は穏やかに落ち着いた光を湛えて俺を見ている
「亮兄、どうかしたの?」
あの頃と変わらない仕種で里緒は首を傾げた。
「え? いや、里緒が……いるとは思わなかったから、ちょっとびっくりしたんだ」
「あ、そっかー。去年も一昨年もあたし出掛けてたもんね」
うんうんと肯きながら里緒はスリッパを出して「もう大変なんだから」とため息を吐いた。
「お父さんすっかり出来上がっちゃってて、『りょう』はどこだー! 出てこーい! って叫び出すし……」
「涼は?」
「これも親孝行だって言って我慢してるよ」
何事も無かったかのような会話。
もう既に里緒の中では過去の出来事として完結してしまったかのように。
先を歩く里緒の背中を見つめながら俺は客間に入った。
「お! おせーよ! 亮! おい、親父! 亮が来たぜ!」
「何!? こぉの親不孝もの! ちっとも家に寄りつかんとは何事だー!!」
顔を真っ赤にさせて絡んでくる父さんに苦笑しつつ俺は持っていた一升瓶を押し付けた。勿論父さんがこよなく愛す銘柄だ。
「もう、お父さんってばそんな風にいつも酔っ払って絡むから亮兄帰って来ないんじゃないの?」
「えっ!? そうなのか! 亮!」
可愛らしく頬を膨らませた里緒の言葉に父さんは情けないほどに困惑した表情で俺を見た。
「違う違う。確かに絡まれるのは困りものだけどね。……本当に忙しいだけなんだ」
そう言うと父さんは心の底からほっとした表情で「そうか……」と呟いた。
『本当の事情』を知っている里緒が何故そんな事を言ったのか判らず俺は里緒の顔を盗み見た。途端に目が合い、視線を逸らされるかと思いきや里緒は「冗談だよ」と言わんばかりに悪戯っぽく肩を竦め、ペロリと舌を出した。
「……」
なんて自然に笑いかけるようになったんだろう?
「さ、亮兄もぼーっとしてないで座って! はい、コップ」
「あ、ああ。ありがとう」
「里緒ーっ、遅れてきた奴は『駆けつけ3杯』が常識だー!」
「お父さん! もう! 全然懲りてないじゃない!」
父さんの言葉に里緒はまたも頬を膨らませた。愛娘に叱られ見た目に落ち込んだ父さんを見かねて涼が助け舟を出す。
「まあまあ、親父は家族が全員揃って嬉しくてしょうがねーんだよ。悪気はねーんだからさ、そんなに目くじらたてんなよ」
「だって……」
「亮だってガキじゃねーんだ。お前があれこれ口出さなくても大丈夫だっつーの」
「……」
きっぱりと言い切られて里緒は俯いた。
「あたし、お母さん手伝ってくる」
小さくそう言うと里緒は客間から出て行った。
「ありゃりゃ、拗ねるとその場から逃げるのは昔のまんまかよ」
面白そうに笑う涼を俺は軽く睨み付けた。
「おい、あんまりきつい事言うなよ。里緒が可哀想だろう」
「どこがきついんだ? 普通だろうが、兄弟ならさ」
全てを見通したような目で涼が俺を見た。
「なんだよ、お前も昔と変わらず里緒にベタ甘か?」
含みありげな笑みに俺は居心地の悪さを覚える。多分その気持ちが視線に現れていたんだろう。涼は肩を竦めて「ワリィ、調子にのった」と謝った。
「……」
この時になって俺は漸く涼を見た。
伸びた髪。浅黒い肌。俺より数段逞しい体。
昔は鏡に映したように同じだったのに随分と変わっていた。涼も同じように感じたのかニヤリと笑ってみせる。
「もう双子じゃ通用しないだろうな」
「そうだな……」
一抹の寂しさを覚えながら俺たちは久しぶりに語り合った。約20年の隙間を埋めるように……。
それからどれ位の時間がたっただろうか? 父さんは既に潰れて夢の国に行っている。涼は酒に強いらしく然程変わった様子はない。俺はといえばセーブしている為、少しばかり気分が高揚している程度だ。
呑むでもなく、食べるでもなく、静かな時間が流れていく中、涼は父さんの顔を見てから俺に話し掛けた。
「なあ、亮」
「ん?」
「親父たちは……お前にとって『良い親』だったか?」
「……何をいきなり。そんなの決まってるじゃないか。最高の両親だよ」
「じゃあ、何だってお前は家に寄りつかないんだ?」
「……」
「当てて……やろうか?」
「止めろ……」
「どうして?」
「お前には関係ないだろうが」
「……あるんだなぁ、これが」
「?」
「俺はもう日本には帰ってこない」
「……らしいな」
「遊びでもなんでももう来ない。……ってゆーか来れない」
「涼?」
「やっぱ気にすんだよ。あっちの親がさ」
「……」
「どんなに俺の家はここなんだって言っても、いつか日本に帰ってしまうんじゃないのかってずっと気にしてんだよ」
「……」
「笑っちまうだろ? 全然信用ねーんだよ俺。もうすぐ二人目の子も生まれるって言うのにさ」
「え? 二人目?」
「俺、3年前に結婚したんだ。丁度親父たちが俺に会いに来た時に……。聞いてないか? 親父たちから」
目を丸くしている俺を見て涼はハハハと笑った。
「なあ、亮」
「……」
「お前今日の親父をどう思う?」
唐突に問われて俺は爆睡している親父を見た。年に一度しか会っていないから何とも言えないが、それでも少しはしゃぎ過ぎているように思えた。そしてそう言うと涼は俯いて小さく笑った。
「やっぱさ、寂しいんだよ。親父も、お袋も……。何も言わねーけどさ」
「……」
「俺もお前も家には帰ってこない。……んで、今年の春には里緒が家を出るって言うし」
「……え?」
「何だよ、それも聞いてなかったのか? 里緒の奴就職決まったろ? 場所が結構遠いからアパート借りる事にしだんだとよ」
「何……だよ、それ。聞いてないぞ!」
「俺も昨日聞いたところだよ」
ふーっと疲れたように涼は溜息を吐き眠そうに目を閉じる。眠るのかと思ったが煙草を取り出して一本くわえた。
「要るか?」と仕草で振ってくるので頷いて一本頂戴した。俺達は顔を寄せ合い、涼が付けたライターで煙草に火を付ける。
「……結構きついの吸ってるんだな」
「眠気覚ましにゃコレが一番なんだよ」
「眠りたければ眠れば良いじゃないか」
「……お前どうせ俺達が寝てる間に帰っちまうんだろう?」
「……」
「今生で最後かも知れねーんだ。ゆっくり語らせろよ」
「……あっちの家族が気になるんなら家族ごと遊びに来ればいいじゃないか」
俺の言葉に涼は小さく笑った。
「無茶言うなよ。俺はお前と違ってしがない漁師なんだぜ? 今回の渡航費用だって恥ずかしながら親父に半分もって貰った位なんだ」
「……」
自分の心ない言葉を恥じながら俺は俯いて呟いた。
「お前が来れないんだったら俺が行くよ」
「ははは。……どうせだったら里緒と来いよ」
「!」
「好きなんだろ? 相も変わらず」
してやったりとほくそ笑む涼に俺は何の言葉も返せなかった。
「吐いちまえよ」
「……」
尚も押し黙る俺を涼は穏やかな表情で見つめている。手持ち無沙汰なのか煙草の煙で輪を作って遊んではいたが……。
どれ程の時間がたったのだろう。実際には4〜5分の事かもしれないが俺には数時間にも思えた。だがグルグルと思いを巡らせている内になんだかバカらしくなってきて俺はクスリと笑い「ああ、そうなんだ」と至極素直に答えた。
「漸く言いやがったな。」
「ああ、時間掛かったよ」
「ちゃんと言えよ」
「……いや、止めとく」
「なんで!?」
「実は一度告白した事があるんだよ」
「な!? い、何時!?」
「3年前」
「振られたのか?」
言外に「まさか。そんな事有る筈無い」と匂わせて涼が尋ねる。
「思いは一度通じ合ったんだ。……でも」
その先が言えず俺は押し黙った。だが涼はそんな俺の弱さを許さない。強い意志を込めて俺の目を覗き込んだ。
(こーゆー所はやっぱり兄妹なんだな……)
そんな事を思いながら俺は白状した。
夢での出来事、現実での出来事、そしてその結果を……。
涼は一切口を挟まずじっと聞いてくれていた。
普通ならこんな事喋るはずもないのに、何故だろう。やはり涼だからか?
思えば昔から親兄弟に言えないことも俺達は話し合えた。鏡に映した様な容姿。俺達はお互い相手を通して自分に語りかけて居たのかも知れない。そして今もまた同じ状況なのかも知れない。
俺は涼に話しかけながら自分の心を再構築してゆく。
「……もうあれから3年もたったんだ。生まれたばかりの赤ん坊だって立って歩いて言葉を話す。里緒の気持ちだって変わってたって可笑しくない時間だろう? ……今更蒸し返す必要もないさ」
「でも……」
「良いんだよ。これで」
「後悔しないのか?」
「今までに腐るほどしたさ。言わなきゃ良かったってね」
「そうか……」
「ああ……」
俺の言葉に涼は大きく溜息を吐いた。
「少し寝る」
「ああ、お休み」
「……帰るなよ」
「……」
「3人、揃うのはもう最後なんだ。時間、が許す限り……居てくれ……よ」
そう言って涼は深い眠りに落ちた。
(相変わらず先手打つのが巧いヤツだな)
苦笑して俺は立ち上がった。押し入れから毛布を取り出し父さんと涼に着せ掛け、ダイニングに向かった。今晩泊まる事を母さんに告げる為に。
「母さん、突然だけど今日は泊まって行くから」
ダイニングのテーブルではどんちゃん騒ぎから避難していた女性陣(って言っても二人だけだが)が目を丸くして俺を見ていた。
「……あらあら、まあまあ、お父さん喜ぶわよ! 有り難う、亮」
心底嬉しそうに目を細める母さん。そしてその横で里緒は「良かったね」と母さんに向かってニッコリと微笑んでいた。
「あら、でも……そうだとしたら」
ふと母さんは顔を曇らせると冷蔵庫を開けた。
「あらやだ、やっぱりビールがもう無いわ」
「そりゃあれだけのペースで呑んだら無くなっちゃうよ。あたし酒屋さんに行って買ってくるよ」
「えっ!?」
「あらそう? じゃあ瓶ビール1ケース頼むわね」
里緒は「はーい」と返事して階段を上っていく。
「ちょ、ちょっと母さん! 里緒一人で1ケースなんて無理だよ!」
「大丈夫よ、この頃の酒屋さんって親切だから車まで運んでくれるし、家の前まできたらその時は亮、頼むわね」
「車って……里緒、免許取ったの? 何時?」
「短大決まってすぐよ」
否応ない変化に付いて行けず俺は呆然としていた。
こんな風に里緒は俺から離れていくのか?
何事も自分の力で出来るようになっていくのか?
もう、俺には里緒を守る権利はないのか?
「ふっふっふ〜。じゃーん! コレを見よ!」
何時の間に降りてきたのやら里緒は俺の目の前に免許証を差し出した。驚いた事にMTだった。そして……。
「そのメガネは?」
「最近乱視が酷くなっちゃって……。これ無いと信号が二重に見えて危ないんだ」
溜息混じりにそう言って里緒はメガネを掛けたその姿は──。
……スージーそのものだった
女神の泉で交わした口付け。
抱きしめたその細い肢体。
通じ合った思い。
全てが鮮やかに蘇り、俺の胸に甘い痛みを刻みつけていく。
ダメだ
と俺は思った。
ダメだ 到底諦め切れないよ。
甘い痛みは全身に広がり軽く震えを伴って俺を突き動かす。
「俺も……ついて行くよ」
「えっ!?」
玄関に向かい掛けていた里緒は俺の言葉に驚いたように振り返った。
「い、いいよ! 亮兄疲れてるのに。あたし一人で大丈夫だよ!」
「良いから、遠慮するな。……それとも運転の腕前を俺に見せるのが怖いのか?」
冗談交じりにそう言うと里緒はプーッと頬を膨らませて俺を睨め付ける。
「言ったな! これでも休みは積極的にドライブ行ってて上手なんだからね! ふんだ! 目にもの見せてやるわ!」
「期待してるよ」
俺はニッコリ笑って先行く里緒に着いていった。
危なげなくハンドルを切る里緒を俺は飽きることなく見つめていた。
そう言えば倒れた里緒を学校まで迎えに行った時、里緒も俺をチラチラと見ていたな。
懐かしくも微笑ましい気持ちになって俺は笑みを浮かべた。
だが当の里緒は少しばかり居心地悪そうにハンドルを握り直す。
「どうした?」
「……あんまり見ないでよ。助手席に自分より運転の上手な人が乗ってるのって物凄く緊張するんだから……!」
「気にすることないさ」
「もう! 見ないでったら!」
「イヤだ。……見ていたいんだ。里緒を……」
「!」
驚いて里緒は思わずブレーキを踏んだ。
「おっと! 危ないなぁ。後続車が無かったから良かったモノの、いたら大事故になってるぞ」
ダッシュボードに手をつき身体を支えてそう言うと、里緒は泣きそうな目で俺を見ていた。
「だって、だって亮兄が……変な事言うんだもん」
「変な事って……ひどいな。それよりも停まるんだったらせめて路肩に停めなさい。本当に後ろから追突されるぞ?」
「う、うん」
詰まらせながら肯いて里緒はハンドルを切って路肩に寄せた。
外を見れば公園の入り口に程近い場所だった。
「久しぶりに散歩でもしないか?」
「え?」
心底驚いたように目を見開く里緒。俺は苦笑して首を振った。
「……いや外は寒いな。やっぱり止めておこう」
そう呟いた俺に里緒は小さく笑うと「行こう」と囁き、キーを抜き取るとガチャリと扉を開け外に出た。
「うーーー! 寒い!」
「ほら、風邪ひくから車に戻りなさい!」
「やーだよ!」
「こら!」
ベーっと舌を出して里緒は公園の中に入っていく。慌てて俺は里緒を追いかけた。
正月の公園。昼間ならば凧上げなどで賑わっていたかも知れないが、日も落ちた今は人っ子一人いない。
そんな寂しい公園の中、里緒は池に向かって歩いていく。池と言ってもボート遊びも出来る大きな池だ。
「おーい、気をつけるんだぞ!」
設えられた桟橋から池を覗き込む里緒に声を掛けると、里緒は右手で空を、左手で水面を指差しながら、
「星がとぉってもキレイーー!」
嬉しくてしょうがないという様子で里緒は俺を手招きする。俺も同じように空を見上げて嘆息した。
降るような星空。
清らかな水の辺。
二人だけの世界。
まるであの時を再現したかの様なシチュエーション。
「まるであの時みたいだね」
俺の心を読んだように里緒は微笑んだ。息を呑む俺。だが里緒はそれ以上話そうとはしなかった。
「……家、出るのか?」
「うん……」
「父さんも母さんも反対しただろ」
「物凄くね」
「何だってそんな遠い会社に就職したんだ?」
「……なんとなく」
「なんとなくって……」
「だって今の世の中選り好みなんか出来ないよ。それにあたしってば何の芸も無い訳だし……」
寂しそうな里緒の横顔に胸が痛んだ。里緒は俺を見てクスリと笑う。
「里緒?」
「しおんみたいにね。永久就職って手もあったんだけどね」
「!」
心臓が踊って耳鳴りが始まった。
「そ……んな相手がいたのか?」
掠れた俺の問い掛けに里緒は曖昧な笑みを返す。
「里緒」
「結構モテたんだよ? これでも」
里緒は悪戯っぽく笑いかけるが俺の頭の中はノイズが渦巻いていた。あまり言葉が入ってこないし浮かんでもこない。
呆然としている俺を余所に里緒はしゃがみこみ桟橋から水に手を伸ばす。あまりの冷たさに指を引っ込めたが再びそろそろと手を伸ばす。
「でもね、やっぱりダメだったの」
「……何が?」
辛うじて俺は問い掛けた。だが里緒は押し黙ったままだ。
「里緒?」
里緒は立ち上がると真っ直ぐに俺を目を見詰める。
「亮兄が好きなの」
「……え?」
里緒は今何て……?
「誰でも……本当に誰でもよかったの。亮兄を忘れさせてくれるのなら。……でもダメだった。あたし誰と居ても亮兄を思い出してしまう……。亮兄と同じところを見つけても、亮兄と違うところを見つけても全てが亮兄に繋がっていくの」
目に薄っすら涙を浮かべながら里緒は笑顔を作る。
「ごめんね? いきなりこんな事言って。……でも亮兄を困らせるつもりはないの。ただ、亮兄を想い続けていく事は許して欲しい。もう二度と言わないから……ずっと心の中にしまっておくから……。だから──」
「二度と言わないなんて、言うなよ」
里緒の言葉を遮って俺は呟いた。
「亮兄……?」
俺は手を伸ばして里緒を抱きしめた。
「亮兄!?」
「もう一度言ってくれ。俺の都合の良い夢じゃないんだって言ってくれ……!」
「亮兄……」
「頼む……!」
里緒はそっと俺の背中に手を回し、頬を胸に押し当てた。
「亮兄が好き。大好き。……ううん、愛してる」
「!」
「亮兄は?」
言って里緒は顔を上げた。俺を見上げる里緒の顔がぼやけてきて一雫、涙が里緒の頬に落ちた。
「ご、ごめん」
俺は慌ててその雫を拭ったが、涙は後から後から溢れてきて里緒の頬を濡らした。
「……っ! ごめん!」
里緒は切なそうに俺を見つめ、背けた俺の顔を両手で包み込んだ。先ほどまで水に浸っていた手は驚く程冷たかったが、涙で腫れた頬には心地よかった。
「泣かないで」
里緒は俺の顔を引き寄せると唇で涙を掬い取った。
「泣かないで、亮兄」
繰り返して里緒はもう一方の涙も掬い取る。
それでも涙の止まらない俺。
そんな俺を泣き笑いの顔で見詰める里緒。
俺達はお互い顔を寄せ合い、そして……唇を重ねた。
何度も何度も。
それこそ唇が離れた瞬間に夢が覚めてしまうのではないか……と脅えながら。
どれ程時が経ったのだろう。力を失った里緒が甘く喘ぎながらガクンと仰け反った。
肩で大きく息をする里緒をしっかりと抱きしめて俺は里緒の耳元に口を寄せた。
「愛してる」
小さな囁きに里緒は薄っすら目を開けた。
「愛してる。愛してる。愛してる・・・・・・」
この言葉しか浮かんでこず、俺はずっと囁き続ける。
里緒の目から涙が一粒零れ落ちた。
「嬉しい……」
そう呟いて里緒は力の入らない腕で俺を抱きしめる。
「里緒……」
「夢じゃないよね? 嘘じゃないよね?」
「俺こそ夢を見ているのか現実なのか不安だよ」
声を震わせながらそう言うと里緒は小さく笑った。
「里緒?」
「だって二人とも信じられないなんて変じゃない?」
「……そうだな。立てるか?」
尋ねると里緒は顔を真っ赤にさせて肯いた。そして俺の顔を見上げると唇に指を沿わせて「口紅付いちゃったよ」と照れ笑いした。
「えっ?」
「ここにも付いてるよ? ほらこっちにも」
クスクス笑って里緒は両目の下を指差し、ポケットからハンカチを取り出した。
「亮兄、かがんで」
「あ、ああ」
身を屈めると里緒は目の下を優しく拭ってくれた。
ふと目を瞑っている俺の唇に再び熱が点る。驚いて目を開ければ里緒はそろそろと逃げ出そうとしている。
「里緒!」
「きゃーーー!」
脱兎の如く里緒が走り出す。
「待て!」
「やーですよーだ!」
子供の様に追いかけて、そしてまた腕の中に閉じ込めた。
背後から抱きしめる形となり里緒は顔を上げて俺の瞳を覗き込む。
「ね、亮兄。これからどうすの?」
なんと答えるのか心待ちしてる様子が可愛らしくて俺は身を屈めて頬に口付けた。里緒はくすぐったそうに身を捩り、同じ問いを繰り返した。
「とりあえず……」
「とりあえず?」
「酒を買いに行かなきゃな」
「……じゃなくてぇ!」
「ははは、父さん達にきちんと挨拶しなきゃな」
「え!?」
俺の意味ありげな言葉と視線に里緒の目が見開かれた。
「だってさ来てら既に父さんは出来上がってたから何の挨拶もしてないんだ」
「それは新年の挨拶でしょう!! もう! 知らない!」
茶化す俺に業を煮やしたのか里緒は俺の腕を振り払おうとする。
「ははは、ごめんごめん。あ……でも里緒には就職先を変えて貰わなきゃならないな」
「えっ!? どうして!? い、一体どこに!?」
慌てふためく里緒の耳元に口を寄せて囁いた。
「俺のところ」
「……え?」
「永久就職しないか?」
「……え!?」
「もう……離れたくないんだ。朝も昼も夜も、ずっと里緒の側にいたい。ずっと里緒を感じていたい」
「亮兄……」
「ダメか?」
里緒は身体を捻ると真正面から俺の顔をじっと見つめた。まるで俺の真意を推し量るかのように。そして一言──。
「ダメ」
「……」
「……な訳ないでしょ! 嬉しい!」
全身で喜びを表現して里緒が俺を抱きしめる。
「今度こそキャンセル不可だからね! 今度こそ、何があってもしがみついて行くからね!」
「ありがとう……里緒」
震えた声を情けなく思いながら俺は里緒を抱きしめた。
結局、俺は時間が許す限り鈴原の家に泊まり続けた。
父さんが素面の時を見計らって事の次第を報告すると……。
父さんは苦り切った顔で俺達を認めてくれ、母さんは里緒を抱きしめて喜んでくれた。
そして涼は「お前らの結婚式くらいは出てやるよ」と言ってくれた。
月日は流れて俺達が正式に夫婦となる日が来た。
身内だけの式──。
未来への扉は開かれた。
俺達は互いに手を取り合って、永遠へと続く一歩を踏み出してゆく────。 |
おわり |
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