BLEACH
Keep the Faith.
 一護は自分の目の前の光景が信じられなかった。
  ルキアの背中から尽きだしたグリム・ジョーの腕。
  指先から滴り落ちる血。
  これ以上はない程に見開かれたルキアの双眸。
  助けたいのに駆けよるどころか指一本動かせない。
  一護は全身に力を込めながらただ声の限りに叫んでいた。 「うるせえなぁ」

 グリム・ジョーが面倒くさそうにそう言った。そして首だけを捻って振り向いた。
「な……!?」
  振り向いたのはグリム・ジョーではなく、他でもない一護の内なる虚その人であった。
  内なる虚はこれまた面倒くさそうに腕を振り払いルキアを地面に広がった血溜まりに叩き付けた。ルキアは小さく呻いて血溜まりの中きつく拳を握りしめている。
「ルキア────!!! テメェ!」
「うるせえなぁ。ぎゃあぎゃあ喚くなよ」
「ん……だとぉ?」
「俺の手はテメェの手だろうが」
  内なる虚はゆったりとした動作で一護と向き合った。白黒反転した双眸は狂気に満ちている。一護はギリギリと歯を食いしばりながら内なる虚を睨み付けていた。
「ハッ! 何だよ、テメェ気付いてねえのかよ」
  呆れた調子でそう吐き捨てた。一方カチンと来た一護は状況も忘れて「何がだよ!」と膨れっ面をした。
「見てみろよ。テメェの手をよお!」
「俺の手? 俺の手が何だって……」
  一護は何の気無しに己の右手に目をやった。血にまみれた己の右腕を……。
「な、何だよ! これは!」
  叫んで内なる虚に目を向ければその姿はどこにも居なかった。代わりに一護の足下には血溜まりが出来ていてその中にはルキアが俯せに倒れている。
「ル……ルキア!」
  浅く荒い呼吸を繰り返しながらルキアが呟いた。精一杯の力を使って血で汚れた手で一護の袴を掴む。
「何故だ……。一護……何故貴様が私を……」
「あ、あ、あ……嘘だ」
「何故……だ」
「嘘だ────!!!」

 ────ご

「嘘だ! 嘘だ! 嘘だ!」

 ────一護

「俺じゃねえ! 俺がやったんじゃねえ!」
「起きろ! 一護!」
  頭部に鋭い痛みが走って一護は目を見開いた。
  目に映るのは薄暗い自室と眉間に皺を寄せたルキア。
「ルキ……ア?」
「…………」
  ルキアは無言のまま踵を返すと一護を放って部屋を出てしまった。ルキアの行動を訝しく思う余裕すらなく一護は力なく起き上がって額に張り付く髪をグイッと拭い上げた。拭う手が震えている事に気がついて一護は「クソ!」と己の掌に拳を打ち付けた。
「一護」
「あ? うわっ」
  いつの間にやら戻ってきたルキアの呼び掛けに一護は顔を上げた。目の前には水の入ったコップ。どうやらルキアはこれを取りに部屋を出て行ったようだ。
「とりあえず飲め」
「あ……わりぃ」
  礼を言って一護はコップを受け取ると一気に飲み干し、大きく息を吐いた。ルキアはそれを見届けてから徐に腕を組んだ。
「一体どうしたと言うのだ」
「…………」
  問われてもどう答えて良いか分からず一護は俯いて沈黙したままだった。
「……私に関わりがあるのだろう」
「!?」
「貴様が譫言で私の名を呼んだのだ」
  言い当てられて驚き顔を上げた一護にルキアは淡々と答えた。
「前にも言ったとおり貴様が言いたくない事を無理矢理聞き出す真似を私はしたくない。だが私に係わりある事なら話は別だ」
  言外に話せと命じるルキアから顔を背けて一護は力なく頭を抱えた。
「……ルキア」
「なんだ?」
「お前、恋次の所に行けよ」
  一護の口から出たのはそんな思いがけない言葉だった。
「は……?」
  ルキアは一瞬何を言われたのか分からなかった。それもそうだろう。夢の内容を問うたというのに返ってきたのはまるで関係のない事。しかも恋次の元に行けとはどこから来たと言うのだ。反芻し、漸く理解したルキアは当然の如く声を荒げた。
「な……!? 貴様、ふざけるな!」
「ふざけてねえよ!」
「!」
「ふざけてなんかいねえよ……」
「……一護、貴様」
  やりきれなさで歯を食いしばっている一護はそれ以上何も言う気はないようだった。ルキアは一護よりも深く眉間に皺を寄せ、威圧的に腕を組んだ。
「相変わらずの糞餓鬼ぶりだな、貴様は」
「あぁ!?」
「そうであろうが。いつでも人の意見などお構いなしで己の意見を通そうとする。我が儘で、身勝手でどうしようもない糞餓鬼だ」
「テメェ……」
「貴様はいつも自分勝手だ! 違うか!? 私を救うなどと言って己の危険も顧みず尸魂界に飛び込んで来おったのは他でもない貴様であろう!」
「!」
「私は何度も帰れと言った。だが貴様は聞かなかった。いつもいつも他人の為に危険に突っ込んで行って、自分だけがボロボロになって、それでも自分が納得できればそれで良いと思っている身勝手な糞餓鬼だ」
  ルキアの言葉はきつかったが口調はだんだんと収まり静かになっていった。
「……」
「貴様は自分の事しか見ていない。貴様の身を案じ、貴様の血が流れる事を厭い、共に戦おうとする者の気持ちも存在も見てはいない」
「ルキア……」
「第一貴様、事情も説明せずに恋次の元に行けと言われて私が納得すると思ったか! このたわけが!」
  言い切られて一護は面白くなさそうにそっぽを向いた。だがルキアの言った言葉は確かにその通りで、仮に自分の身に置き換えてみれば到底納得できる筈もなかった。
「話せ一護。話さねば何も始まらぬ」
  ルキアの言葉に一護は観念してぽつりぽつりと話し始めた。グリム・ジョーに刺し貫かれたルキア。それが一護の内なる虚であり、引いては己の腕であった事を……。
「俺は……あいつを押さえる事が出来ねえ。……あいつを押さえる事が出来ねえなら夢と同じように……」
「くだらぬ」
  一護の苦悩した末に出た言葉をルキアが一言の下に断ち切った。余りの唐突さに一護は「は?」と間抜けな顔をする。
「聞こえなかったのか。私は『くだらぬ』と言ったのだ」
「な、何がくだらねえって言うんだよ! 俺は……」
「その考え方がくだらぬと言ったのだ。──聞け一護」
  反論しようと口を開きかけた一護をルキアは制した。
「貴様が内なる虚の暴走を恐れ、私の身を案じて私を遠ざけようとしているのは分かった。だが貴様は大事な事を忘れている」
「何だよ、一番大事な事って」
「貴様の家族だ」
「!」
「喩え私を遠ざけた所で貴様の内なる虚が暴走すれば累が家族に及ぶのは必至……」
  言われてみればその通りだった。夢の中ではルキアを傷つけた為ルキアの事しか考えて居なかったが自分には家族が居る。そして家族は一護にとって何よりも護らねばならない存在。
「……くそっ!」
  一護は己の甘さ加減に舌打ちしてベッドに拳を叩き付けた。そんな一護にルキアは静かに告げた。「見誤るな」と……。
「……ルキア?」
「見誤るな、一護。貴様の名を思い出せ」
「俺の……名前?」
「そうだ、貴様の名に込められた意味を思い出せ」

 何か一つのものを護りとおせるように

 ルキアに言われるまでもなくそれは一護にとっての絶対の信条であり信念だった。
  不意に一護の中で蟠っていた何かがパキンと音を立てた。一護の目に新たな光が宿るのを認めてルキアは改めて一護と向き合った。
「貴様が護るべきは私でも貴様の家族でもない」
「ルキア?」
「貴様が唯一護るべきは貴様の信念だ」
「!」
  ルキアの言葉に一護は雷に打たれたかのような衝撃を受けていた。まだショックから戻れない一護にルキアは更に語りかける。
「一護よ、今ここで私に誓え」
  これまた唐突な言葉に面を喰らった一護が眉間の皺を深くしながら問うた。
「な、何をだよ」
「今ここで、己の内なる虚に負けぬと私に誓え」
「!」
「どうした一護、誓えぬか? やはり貴様は内なる虚に飲まれてしまうのか!?」
「飲まれねえ! 俺は負けねえ!」
「ならば誓え! 私が見届け人になってやる。そして貴様が己の信念に背く時──、その時は私が貴様を……殺す」
  ルキアは真っ直ぐに一護を見据えてそう言い放った。
「!」
  ルキアは無言で一護を見つめ、一護も無言でルキアを見返した。幾許かの時が過ぎ、一護はギュッと両の拳を握りしめた。
「俺は、黒崎一護は、内なる虚なんかには絶対に負けねえ!」
  闘志の籠もった双眸を爛々と輝かせ一護は誓いを立て、ルキアは深く、大きく頷いた。
「護廷十三隊 十三番隊所属朽木ルキアが見届け人となり、死神代行黒崎一護の誓いを見届ける事を宣誓する」
  ルキアも厳かに重々しくそう誓いを立てた。
  しばらくの間二人は見つめ合い、そしてどちらからともなくフッと緊張を解いた。
「さあ、夜も遅い。明日も色々忙しいのだからさっさと休め。私も休む」
「ああ」
  言ってルキアは踵を返し扉に向かい、頷いた一護は窓から空を見上げて決意を新たに固めていた。
  ルキアが後ろ手に扉を閉めようとした時、

「サンキュ」

 微かな声が耳に届いた。
「……」
  ルキアはフッと笑うと何も言わずに扉を閉めた。ただ心の中で、

 負けるな。……一護。

 とだけ囁いて。



おわり