親しく言葉を交わすようになり、気付いたことがある。
まるで幼い子供のような、ほんの些細な行動。
「あれ、リンさん。買出しですか?」
煩わしい雑踏の中、不意に背後からかけられた声。
振り返るまでもない。周囲からの視線やざわめきだけで誰なのかが分かった。
「―…シェリー」
「すっごい荷物ですねー、何コレ? …電池にスペアケーブルに…紅茶缶?」
なんつー組み合わせですか、こりゃ。と、信号待ちのリンの隣りに立つ。
モデル並の長身に容姿端麗な彼らが揃えば、人々の視線を集めるのは当然。
今に始まったことではないのだから、当人達は至って平素である。
歩道の信号が赤から青へと切り替わり、一斉に流れる人の波。
心なしか歩幅を狭めるリンの傍らで、鮮やかな髪を揺らす彼女。
しきりに零れる笑顔は、純真な子供のようで。
忙しすぎる時間の流れ。
知らず置き去りにしてしまった、遠い過去の自分。
取り戻そうにも、もう戻ることは出来なくて。
「茶葉が切れたそうなので、谷山さんの代わりに買ったんです」
「へえ。…これアッサム? セイロンティーも…」
半透明の買い物袋に手を突っ込み、それらしいものをあさっていく。
歩きながらである。
片腕にぶら下げた袋に負荷がかかり、リンは歩きにくいことこの上ない。視線で諌めようにも、彼女はリンに一瞥もくれてはいないので、気付くはずがなかった。
「シェリー」
「?」
「………」
「…あ、歩きにくいって?ごめんなさ〜い」
わざとらしい声で謝ると、あさっていた手を引っ込める。
その引っ込めた手を、今度はさり気無く伸ばす。
―――ああ。―――
伸ばされた手は――リンの袖口を僅かに掴む。
逸れないように。見失わないように。――独りぼっちにならないように。
―――これは…小さなサイン―――
無意識の行動は、彼女の中にある傷の表れなのだろう。
救いを求める、音もなく声もないサイン。
気付いてほしい。でも、気付かないでほしい。
分かってほしい、でも知られたくない。
助けてほしい。―――でも、見られたくない。
直接触れるには、勇気がなくて。でも、何かに縋らなければ、心許なくて。
進むことも戻ることも、恐ろしくて出来なくて。
足元から崩れ落ちてしまうような気がして、とてもひとりでは歩けない。
もうずっと、泣くことを我慢していた。
そう簡単に涙が出ることはなくなったし、泣きたくはなかった。
泣き場所もなかった。
顔で笑って心で泣くことが、大人になることかと思ったりもした。
でも、あの日。
悔しくて悲しくて、心が酷く悲鳴を上げて。
「…リンさんて、案外やることが子供ですよね」
「は?」
相変わらず手はリンの袖を掴んだまま、俯き加減の彼女は小さく呟いた。
斜め上から見下ろすリンからは、彼女の表情はうかがえない。
「いくら私が日本人でイギリス人だからって、あそこまで毛嫌いすることないじゃないですか。金髪なのは私のせいじゃないのに。文句があるなら私じゃなくて私の遺伝情報を構成した神サマ仏サマに言ってほしいですよね」
「………」
「私が直接リンさんに怒髪天を突くようなことしたってなら諦めもつきますけど。例えば研究データ丸ごとフイにしたとか更衣室覗いたとか夜這いかけたとか」
それじゃただの痴女だろう。
彼女に夜這いをかけられちゃ、全男性諸君の99%は狂喜乱舞しそうだが。
「容姿が気に入らないからって、あそこまで言うことないじゃないですか。私自身ではどうしようもないことで嫌われたって、やるせないだけです」
「………」
―"日本人だとか女だとか孤児だとか、そんなことで嫌われたくないよ…"
唐突に思い出したのは、少女―麻衣の泣き顔。
その時の麻衣の表情と、数年前に見たシェリーの表情が…重なった。
脈絡もなく不平を漏らす彼女に、それでもリンは静かに耳を傾けた。
何を今更、とは思わない。
こうすることでしか感情を吐露できないのだと、リンは知っている。
「リンさん」
「なんですか」
「なんで黙って言われ放題なんですか」
「言い訳の余地はありませんから」
「………」
罪悪感のためか、はたまた張り合いのなさに脱力したのか。シェリーは溜め息を落とし口をつぐんだ。
沈黙の最中も、やはりリンの袖には白い指がかかっている。
見渡す限りの人込みを進み、幾つ目かの交差点に差し掛かった時、頃合を見計らったように信号が点滅する。
途端に流れ出す車道の波に足を止め、信号待ちの最前列に立ったふたりは、互いを見ようともせず、あちらこちらからけたたましく鳴るクラクションを聞いた。
「リンさん」
空耳と思えるほど、小さな声だった。
「…何か?」
真っ直ぐに車道を見つめたまま、彼女は続ける。
言い終わるより先に、車道の信号が青から黄色に変わる。
「ありがとう」
あのとき、泣かせてくれてありがとう。
理不尽にぶつける不満を、聞いてくれてありがとう。
袖を掴む手を引いて、その場に立ち竦むリンを促す。
再び足並みをそろえると、オフィスに向けてゆったりと歩き出した。
あの日。悔しくて悲しくて、心が酷く悲鳴を上げて。
でも、楽になれた。
弱さをみせられる相手がいなくて、ずっとずっと我慢してたから。
泣きたくて仕方なかったの。
だから、ありがとう。
分かってくれて、受け入れてくれて、理解しようとしてくれて。
本当に、本当に。――――ありがとう。――――
その全てが言葉になることはなかった。
それでも、リンには充分すぎる言葉だった。
本心から許されていることを知った。
ちらりと振り返る彼女に、リンは静かに微笑んで見せる。
リンからのサインを、彼女は知っている。
それは微笑だったり、気遣う言葉だったり、頭を撫でる手だったり。
まるで子供の保護者のようなリンのサインが、彼女は心地良いと思っている。
父や母から与えられなかったものを、リンはサインとして送ってくれる。
血のつながりなんて、重要じゃない。
家族じゃなくても、恋人じゃなくても、必要なものを補い合うことは出来る。
お互いに送るサインが、確かに自分を支えているのだから。
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おわり |
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