陰陽師
主を失った屋敷は閑散とし、朽ちるに任され始めた。

もとから荒れ野のようだった庭は、手をかける者が無くなった為に、荒涼とした物寂しげな地となっていった。

内裏にも程近い一等地ではあったが、物の怪の跋扈するという左京の北辺と目と鼻の先ということもあってか、主不在となった土御門邸に此れ幸いと足を踏み込む者など皆無だった。

数年前には、日々絶え間なく響いていた人々の声。

老いてもなお、その稀有な能力で平安の闇を暗躍した陰陽師。
従三位という官位を持ち、気侭に一人歩きが出来なくなってしまってからも、時折ふらりと姿を見せた楽の申し子。
――彼らが生涯守り続け、慈しみ続けていた異形の少女。





少女は老いることがなかった。
幼子から妙齢の女性へと一夜の変貌は遂げたものの、それ以上に歳を重ねることはなかった。
ただ、少女の周囲だけが流れる時と共に変化し、衰えていった。

不思議とも、奇妙だとも思わなかった。
そう気付くには、少女はあまりにも世界を知らなすぎた。

そして、ふとした日常の瞬間。
その人の背を何気なく眺め、とうとう異常にも等しいその現実を認知した。

清廉な白の狩衣の後姿が、一回りも二回りも小さい。
かつてあれほどに広く強かった彼の背は、今は酷く頼りなげなそれで。
煌々とした月明かりを織り込んだような白装束が、今やあらかじめ整えられた死装束のようで。
結い上げられた髪も白く、艶がない。
合間から覗く肌は皺が寄り、指先の皮膚は硬く厚く、少女が記憶している彼の柔らかな感触からは、遠くかけ離れていた。

『晴明』

『…どうした?』

『…晴明…』

『深雪』

『晴明』

『…………』

『…っ…晴、明…―』



穢れなき世界の中(そこは俗世から隔絶された平穏な檻で)
綺麗なまま 無垢なまま 無知なまま (そう 彼の望むままに)
少女がとうとう目の当たりにしてしまったものは

何にも勝り尊ばれる帝であっても

一飯の銭欲しさに男の袖引く女であっても

権力を求め闊歩する貴族達であっても

夜な夜な人を斬り憂さを晴らす咎人であっても(どこで生きる誰であっても)
生きている限り平等に迎える―――老いと、やがては訪れる死。

『―……晴明………晴明…っ……、晴明…せいめい――…』

精一杯彼を抱きしめる少女の腕に、力はこもっていない。
初めて悟った事実に、溢れ出す涙を自制することなど出来なかった。
自分がどれほど無知だったのかを思い知る。
ひょっとしたら、それはもう目前にまで迫っていたのかもしれないのに。



―『俺は…残酷なことをしたのだろうな』―



嗚咽を噛み殺し顔を上げる少女の両頬を、老いた彼の手が優しく挟む。
涙でくしゃくしゃになった幼い表情に、苦笑するような素振りを見せる。
深い皺の刻まれた目尻から、一筋の涙を流しながら。

『お前に何も教えなかった。
この屋敷に押し込めたまま、ろくに世間も見せてやらなかった。
俺や博雅の他は、見知った人間など一握りもいない。
共に年老いてゆくことが出来るのかも、俺は知らなかったのに。
俺はこうして老いてしまったのに―――』

なのに。

『俺はお前に……深雪に残せるものなど……何一つ無い……』

瀬戸際に痛感する、亡き兄弟子の言葉。
―お前が死に、いざ独りとなったとき、あの子供はどうやって生きるのだ?

考えなかったわけではなかった。
残せるものがあるなら、それら全てを少女に残して逝きたいと思った。

『…結局は、保憲殿の云う通りだったのかもしれぬな……』

―酷なようだが、側に置くべきではないかもしれんぞ。

手放したくなかったのだ。
生きる者の気配が希薄なこの屋敷で、博雅と酒を酌み交わし、傍らには屈託なく笑う少女を見て。それだけで他には何もいらなかった。
現状に甘んじて、未来にある最後を懸念しながら、余所見をしていた。
だから今更、選択の余地など自分には残されていない。

『深雪…俺が死んだら、式神も消える。そうすればここはもう、
ただ荒れ果てていくだけだろう。その時には――』



―自分の生が終わる時―おそらく何処からともなく、かの御仁はやって来るだろうから。

ついて行きなさい。彼に。

あのお方なら必ず、お前の手を引き導いてくださるだろうから―――



彼は老いて逝かねばならない。
人間として産み落とされながら、化生となった少女を置き去りにして。
少女は老いることが出来ない。
生まれは人間であっても、人外の力を身に受け継いでしまったから。

彼らが重ねられる時間の、なんと短く儚いものか。
嗚呼、どうか許されるなら。人の身など、こんな脆く弱い肉の塊を脱ぎ捨てて。
いまだ幼く純粋な、この清い魂と共に在ることが叶うなら。
どうか、許されるなら。

どうか、叶うのなら。





―――どうか。








淡い光を放つ、宵闇の桜。
彼の生きていた頃と変わらず、崩れかけた門は開け放たれている。
庭の隅にひっそりと根付く、寂しげな一本の桜の老樹。
微風に舞い降る花弁は、全てを凌駕する夜の中、幽玄の灯火にも似て。



彼が亡くなったのは、昨年の秋口だった。

浅い眠りから目を覚ました彼は薄らと目を開け、御簾の外を眺めていた。
冷たい風に叩かれ、かさかさと乾いた音を立てる木の葉に、落胆のような、諦観の滲む溜め息を落として。

『…最後に、観ておきたかったのだがな……』

『――何を?』

片時も離れずにいた少女が、枕もとから彼を見下ろし、小さく尋ねる。
世界が、とても静かに感じた。
数刻前には忙しく立ち働いていた式達が、陰も形もない。
それが意味することを認めながら、少女は素知らぬ顔で返事を待つ。
過去と変わらぬ、老いながらも飄然とした微笑を浮かべ、彼は言う。
心の内では、ああ、とうとうこの時がきたのだな、と思いながら。

『冬を』

『冬?』

『ああ。冬を、雪を観たい。庭が埋もれるほどの雪を、観ておきたかった』

そうすれば、とても安らかに終えられる気がする。
少女の髪と同じ柔らかな白銀に包まれ、その冷たさに安堵しながら。
――お前のことは、やはり気がかりだけれども。

万感の思いを、吐息一つに篭める。

『深雪』

『何?』

『泣かないのか』
『泣かないよ』

『泣きたくないのか』
『泣きたくないよ』

『何故だ?』
『晴明が困るから』

『そうか』

『…そうだよ』

一層目を細め、彼は笑みを深くする。くつくつと低く咽喉を鳴らし、少女の瑠璃の双眸をしかと見つめた。その眼差しが、少女から言葉を奪う。
じんわりと込み上げる熱いものを堪えようと、小さな口をかみ締めた。

終わりゆく自分のために涙を堪える少女が、愛しい。



『―――俺は幸せだった――……』



心からの言葉を告げる。
そして、ありがとう、と唇の動きに乗せて、ゆっくりと、息を吐き出し。





彼は、逝った。











「…もう春なんて、早いね…」
そう呟く少女が纏うのは、艶やかに華をそえる唐衣。
数年前に彼から与えられた、これが最後の衣裳だった。

もう、ここには誰もいない。

小さな命が自然のままに息づく庭に、人ひとりが通れる程度に草の刈り込まれていた獣道も、いまや草花に覆われ無いに等しい。
彼の終わりを暗示するように、一斉に姿を無くした式神たちは、彼女達本来の姿に還っていった。
優しく色付く藤の花。庭を流れる澄んだ遣り水。甘やかに香る木犀の小花。
姿を無くしてもなお、変わらず彩りを添える彼女達。

「―気はすんだか」
「…うん…」
「じきに夜が明ける。それまでに里へ戻るぞ」
「分かってる。すぐに戻る。…先に行っていいよ」
「………」
少女の言葉に漆黒の身を翻すと、かの者は闇へと駆け出してゆく。
狐神である彼が、今の少女の拠り所だった。
晴明の言葉どおり、彼はどこからともなく現れ、自分の手を引き導いた。
孤独ではない場所に、連れて行ってくれた。

「……晴明…。私も幸せだったよ。博雅や、晴明や…、蜜虫や、薫や、皆がいて、すごく……すごく、幸せだったんだよ―――」

哀しいけれど。

今ここで、貴方と一緒じゃないことは、きっとずっと痛いけれど。

「右近。左近」
幼さを残しながらも、凛とした涼やかな声。鳴らした扇に応え、少女の立つ濡れ縁に二頭の狐が現れる。
「もう行こう。…夜明けまでに里へ戻らないと」
仲間達のもとに、帰ろう。

月明かりの下、純白の毛皮に覆われた、世にも美しい獣へ形を変える。
月明かりを露のように弾く身体は、彼が最後に観たいといった、雪の色。

走り出す。風を切るように身を躍らせると、生い茂る草が大きく唸った。
このまま走り続ければ、夜明け前には確実に帰り着くだろう。
京から遠く離れた里ではあるが、それが難なく出来る力が少女にはあった。

駆けてゆく。新しい、自分の居場所へ。
亡き彼らの飲み交わす甘やかな酒の薫りも、人間の息遣いもない場所へ。
風を裂き、呑みこみ、立ち込める闇に、溶けてゆく。

「――晴明………」

ねえ、晴明。

幸せだったよ。

晴明に守られた小さな世界が、本当に好きだったよ。

優しく頭を撫でてくれる博雅が好きだったよ。

晴明や博雅の声が好きだったよ。

ふたりの手は、大きくて温かくて、大好きだったよ。

抱きしめてくれる腕が、髪を梳いてくれる指が、好きだったよ。

もう逢えないから、――だから余計に、好きなんだよ。

縋るような思いで、振り返る。
懸命に凝らす瞳には、望む姿が映るはずもない。
止めどなく込み上げる涙は、風に流れ残らず後方へと散ってゆき。

彼が亡くなってから、少女は、初めて声を上げて泣いた。






朽ち、傷み、腐敗する。
誰の目に留まることなく、時と共に弱り、果ててゆく。
少女の生きた、穏やかで優しい檻の扉は、その後決して開かれることはなく。

かつての日々を偲ぶかのように、人知れず四季折々に花々が咲き。


そして――。


―― 檻から解き放たれた少女は、二度と姿を現すことはなかった ――







おわり



あとがき
死にネタ……。私、実はべらぼうに弱いんです。

だからこれを読んでいる最中も目が潤んで潤んでどうしようも無かったんです。


いつかは誰にでもどんなものにでも終わりはやって来ますよね。
それは大切な人の命であったり、幸せな生活であったり、死にたくなる程辛い状況であったり……。

このお話での終焉とは悲しみをであり、幸せの終わりでもありました。
いつか自分の身に降りかかる事とは言えやはり切ないですね。

蓮美様、こんなに切なくて素敵な創作をありがとうございました。
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