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森博嗣を知ったのは、土屋賢二のエッセイからだ。土屋は、(面白い意味で)理屈っぽい哲学のエッセイを著していて、大学4年(といっても6年目)のときに土屋の本を見た。土屋のエッセイを読んでいた時には森博嗣の名前はただ通り過ぎただけだったが、たまたま本屋で森博嗣の名前が目に止まり、1冊めの「すべてが〜」を買ってみた。そうしたら、森博嗣にハマってしまった。読みはじめる前は、どんな小説なのか、時代小説なのか探偵物語なのかもわからずに買ったけれど、僕のミステリー好きは、この時の森博嗣から始まっている。そして「S&Mシリーズ」と言われる森博嗣作品の全てを読み、僕はこの森博嗣を大いに絶賛したい。故に今でもミステリーを評する時には、これら「S&Mシリーズ」の森博嗣が基準となっている。
かと言って、僕はただのミステリー好きであり、森博嗣のファン(熱狂的愛好者)でもなければミステリーマニアでもないので、所々で知られている森博嗣の生活環境や書籍の著作年(「すべてが〜」は最初に著したものではない)ということにはまったく興味が無い。講談社文庫の背表紙に振ってある番号順に本を買い、順番に読み、そこに印刷されている活字を追っているだけなのである。これは、森博嗣の文体の内に科学としての社会学(ところが社会科学ではない)の姿勢と通じるところを感じ、森博嗣に圧倒されているのも、このためだろうと思う。
これまで多くの本を読んできたけれど、それは学術書や理論、思想、方法に関する書物多く、文庫本1冊になるほどの小説はあまり読んだことはなかった。そんな中にあって森博嗣の1冊め「すべてが〜」を読み終えた時には、それまで自分が感じていた小説というもののイメージに大きな衝撃が加わった。これは、先にも書いたが、森博嗣の文体の整然さのせいもあると思う。難しいことではないのだが、学術書や(見たことはないけど)供述調書を読んでいるかのようだった。
ミステリーの醍醐味はそのトリックにあるかと思うのだが、そしておそらくミステリーの著作者もこの点にかなりの比重を傾けて書物を書いているのだと思うが、断言してしまえば、僕はトリックにはあまり興味が無い。だって、実践することはないんだもん。そうであるので、僕はそのストーリー、物語の流れが好きなのだが、ミステリーはトリックの部分だけがリアルに詳細に顕されていて、物語全体の流れが疎かになってしまっているものが多くあるように感じる。
と、ここまで書くと逆説を説いているような気もするが、ところが森博嗣はそうではないのである。トリックが疎かということではないが、人物の行動の描写や風景、場面の詳細が、実にリアルに描かれている。これによって、著者と同じ視点で登場人物を追うことができ、おそらく極限近くまで感情を一(いつ)にすることができるのだと思う。
ここで話を少し折れて、「ドン・キホーテは実在する(した)のだろうか」ということを考えてみる。ドン・キホーテは、セルバンテスが書物に著した伝説の人物と言われている。セルバンテスも晩年、ドン・キホーテにモデルはいないということを言っている(ということを聞いたような気がしたんだけどハッキリしない、というか所出がわからない)。ドン・キホーテの物語は、実は僕はあまりよく知らない。たしか上下巻の文庫本は持っているが、数ページ目を通して読み進めるのをやめてしまった。日本語訳があまりにも僕の体系と馴染まなく、これ以上文字を追うのに苦痛だったからだ。そういうわけでドン・キホーテという小説は(読んでもいないのに)「嫌い」の部類に入るのだが、ただ、読んだだけの数ページでも人物の描写が実によくなされているということだけは印象に残っている。そう言うとセルバンテスの筆が良い、あるいは(他人はどう感じているのかわからないので)セルバンテスと僕との感性というか言語体系の方向に似たようなところがあるのかとも思うが、しかしそれではドン・キホーテが実在しなかったということにはならない。
まあ通常考えるにあたってドン・キホーテは実在しないのだが、実在し得ないということではなく、それは物語の記述の精緻さによってそのような錯覚すら覚えてしまうということである。実際僕はドン・キホーテは実在しているもの、あるいはモデルがいたとも思っていたのだった。森博嗣の描写によって僕は、物語の場面に自分をを置くことができ、登場人物と同じく笑い、おどろき、涙し、人間の原生の深さを感じるのである。(03.06.05 ) |