「ワイプ」
アリハラユエ様より
僕にだって、出来るんだから。
近くで兄の声がした。草叢の中に分け入り、ぼうぼうと生い茂った濃緑色の草いきれの中、落ち枝を探していた高石 タケルは、何時もの様にそれに素早く反応る。
近くと行っても、大抵実兄の傍で行動していた。それは無意識の中の必然でも有ったのかもしれない。寄り添うことを嫌がる素振りも見せない兄石田 ヤマト。日常生活の凡そ半分の時間は彼と過ごしている。過保護だなとからかわれている現場をよく見掛けるが、タケルは決してそんな兄が恥ずかしいと思わず、胸張り自慢出来る勇者の様な錯覚を抱いていた。この頃の自分は、大人になっても父の様に女の人と暮らさず、兄と一緒に住むんだと本気で考えられる時期じゃなかったかと思う。
タケルを始とした幾人の少年少女が今迄暮らしていた現実世界から隔離された異 界に飛ばされ。最早野宿が当然の如く思える程の日が経った。悲しいかな人は、自分の心の中で無意識に築いた普通と言う概念と異なった事実を異種と見なす。今だって、本来なら夏休みに入り、学校に行かず少しの危険にさえ気を付けていれば平穏に日々を過ごせていた筈なのだ。だがここは自分等が住んでいた世界ではない。我が身を守るのは自分である。慣れない事をすれば痛みを感じ、だからと言って縋り付く 体も無い。まるで孤島に流された漂流者の如く、自給自足が当たり前なのだ。
最初は最年少だと言う事もあり、覚束無い手付きで他の面々の手伝いだけをしていたタケルも、日が経つに連れて多くの物事を学んでいった。もう、独りでくべる蒔位拾いに行ける。兄にばかり頼っていかなくても良いのだと頭では分かってはいるのだが。
寄り添ってくるのはヤマトの方なのだ。何かをする度に同伴を求める。独りで出来ると主張してもお前は未だ子供なんだと、自分を棚に置いた返事しか返って来ず、結果無理矢理にも傍につく。
兄を確かに尊敬していたが、子供扱いする彼は、正直煩わしささえ感じていた。
そう感じる事が出来る様になった頃は、既に当初の様な同棲の夢も露と消えていたのだ。
タケルは兄の声に反応してしまった、と思った。今ヤマトが呼んだのは自分の名ではなかったからだ。こんな過敏な姿を見られては未だ兄に対する依存が残っていると、再び皆から子供扱いされる。折角成長していく自分を見て欲しいのに、これでは何の意味もなさなくなってしまう。
腕に抱いた何本かの薪を強く抱いて、知らぬ顔を装い、再び地の棒拾いに専念する事にする。子供らしい、誤魔化し方だろう。
「丈!」
兄が再び同じ名を呼んだ。横目でちらりと見遣ると、森の中金髪の少年が辺りをきょろきょろと見回している。目が合う前に、ふいと視線を元に戻した。
がさがさと草を踏む音が遠くから響いて。兄ではない人間がここに来ているのだと警報が胸に響く。
何処からか現れた、薄ら蒼みが通った眼鏡を掛けている少年は、城戸 丈と言う名前だった。
「ヤマト? 如何かしたのかい?」
タケルは年相当と言うべきか、未だ身長が足りない。長身の丈を見上げる時は首をうんと上げなくては顔が見れない。今も、タケルの身体は伸び放題となっている草叢に隠れてしまっている。混血の金髪がなければ、服の色も緑だと言う事も有り、発見する事は困難になってしまうだろう。
その点、兄や丈が特に苦する事と言えば、胸元迄ある草を分け入る事位ではないか。
近くに感じていたヤマトの気配がふと消えた。流石に何が有ったかとタケルは顔を上げる。草に視界を狭まれ、全てが見えた訳ではないが、其処に見えたのは、年上の男の胸元に飛び込んだ兄の姿だった。
「わっ、何するんだよっ!」
突然の事で当然驚いた彼だけに、襲いかかった体重を受け止められず、二人はぎくしゃくした格好で草の上に倒れ込んだ。どん、と音がした瞬間にまるで自分が衝撃を受けたかの如く一回だけ瞬きをしてしまう。
軽く草を横に退かして確認したのは、四つん這いの格好で丈を押し伏せているヤマトだった。
「ちょっと・・・、薪探してたんじゃないの・・・?」
微かに顔を赤くしながら丈が呆れた様な視線を送る。声を出した彼にヤマトは人差し指を自分の唇に当て、シッ、と短く嗜めてみせてから。
「声出すなよ・・・タケルに気付かれるからな」
そう言うと、性急に男の唇に自分のそれを押し付けた。短く息の詰まった声を上げた丈だったが、押し退け様とする素振りは見せずに、襲い掛かって来た人物の背に細い腕を回し、自分の方に引き寄せて受け入れ様とする。
あの行為は確かキスと言った。愛する者達の行為だと誰かが言った記憶がある。それでは、外人が挨拶代わりに口付けるのは愛しているからかと聞いた所、その人は苦笑して見せた。
だが、目前で戯れている二人のそれは、そんな生易しいものではないような気がする。慈しむ行為、男と女が街中でしている所を見た事は有っても、男と男、しかも子供同士等と言うのは如何か。
目を細ませる。唇が触れ合っている部分を凝視する。透明な唾液が丈の口端からつうと滑り、顎へと伝い落ちている。徐に、丈の脇に付いていた兄の手が移動した。白く細い腕は、蛇を思わせる様にしなやかに相手の男の股間の上に置かれた。瞬間、彼の背が撓り、頬に赤みが刺す。
気持ち良いのだろうか。タケルはふと疑問を抱いた。排尿と風呂時以外にそんな所は冗談でも触らない。汚い、不浄の部分。兄は、顔色一つ変えずにそこを揉みしだいている。それに伴ってか、丈の口から途切れ途切れの吐息が漏れ出し、この辺一帯の空気を熱いものに変えて行く。
ヤマトが、丈のベルトの掛かっていないズボンの中に手を入れ様とした時、組み敷かれていた男が最後の力を振り絞ったのだろうがばっと否定の声と共に起き上がった。今度は驚かされた兄が一歩引いた所でぺたんと尻餅を付く。何が起こったのか分からないタケル自身も、ここ最近聞かれなかった丈の怒声に固唾を飲んだ。
「駄目だって、今はそう言う事をしている時じゃないだろう?」
手の甲で口元を拭い、彼は尻を叩きながら立ち上がる。ぱらぱらと草切れが落ちて行くのが見えた。ヤマトは顔を赤くしながらチッ、と舌打ちをする。置き上がる気配は無い。
それを見下ろし、彼は短く溜息を吐いた。そして足を進めて。
「・・・行こう、タケル君」
彼はタケルの前迄来て、少し腰を屈めると手をこちらに差し伸べた。見ていた事を知っていたのだろう少なくとも自分より大人な彼はもう紅潮の消え失せた笑顔で声を掛けて来たのだ。
これにはヤマトも瞬時驚いた顔を見せたが、恐らくタケルの存在を忘れていたに違いない。自分が兄の方に視線を向けると彼は気まずそうに目を逸らしてしまった。
タケルは、丈の手を取って立ち上がる。その際に少しよろけた身体を見てか、彼は片手で持ち切れなかった薪を半分持ってくれた。全てを持って行った訳ではなく、あくまでタケル君のお手伝いがしたいんだと微笑みながら言って。
それに微笑みを返すと、繋いだ丈の手を更に強く握った。歩き出す直前、一回だけ兄の方をちらりと振り返る。
彼は既に立ち上がっていて、自分等の方を恨めし気に睨み付けていた。その怒気がどちらに向けているのか迄は分からなかったが、その時、兄に対して絶対な優越感を感じていた。
余りに悔しそうな顔をするものだから。タケルは手を繋いだ侭ヤマトの方に顔を向け、まるで嘲るような笑顔を返事と送って。
「バイバイ、お兄ちゃん」
決して兄に言ったのではなく、ぽつりと呟く様に。追い討ちを掛けるような台詞を吐いて。
今日の見張り当番は丈だった。日が落ちる頃、黒味が周辺を染める時間に、タケルは自分から見張り番の手伝いを申し立てた。当然猛反対したヤマトに、タケルはもう子供じゃないんだから、お手伝いだけでも良いでしょうと言い伏せて。こればかりは 他の人間も乗り気で進められるものではなかったが。子供じゃないんだから、意見を尊重してあげようよ、と言った丈に賛成してヤマト他の子供は先に寝床に就いた。最
後迄、ヤマトは残った二人の方をちらちらと伺いをしていたが。
ぱちぱちと木が弾ける音が響く。燃え上がる火の色がタケルと丈の頬を染める。からん、と軽い音を立てながら彼は新しい薪を焚火の中に入れた。
鬱蒼とした森の中から天を見上げても何も見えなかった。唯立ち上る煙が伸びて行くだけで。
タケルは見張り番をするのは初めてだった。それだけでも高まる気持ちを抑えられないのに、隣に座っているのは先刻、兄に押し倒された男。
実は、これ迄ゆっくりと丈と話す事は無かった。その事もあり、緊張感が先程から身を縛っている。
学校が同じという兄達なら兎も角、自分は部外者でこのサマーキャンプに付いて来たのだから。
炎を眺める隣の人間をじっと見詰める。眼鏡に火の色が映っていた。
「・・・如何したの?」
余りに真顔で見詰めていたからだろうか、彼が少し恥ずかしそうにこちらに顔を向けた。目が合って、タケルは何でも無いと言い零す。
「タケル君は、ヤマトの弟なんだよね」
弟、と言う単語に得も知れぬ不快感を覚えながらも、うんと言って頷く。ぱちん、と火の中の炭が威勢の良い音を立て跳ねた。
「僕にもね、兄さんがいるんだ」
意表を突かれた切り出しに、タケルは意外だと言った目付きで丈を見遣る。その反応を予想していたかの様に彼は苦笑しながら膝を抱え、話を続ける。
「二人。僕を入れて男が三人なんだ。年も少し離れているから、中々家族全員揃わないんだ」
「丈さんは、お兄さん達と仲が悪いの?」
まるで言い繋げる如く吐出した言葉に、年上の男はううん、と静かに首を振るだけだった。
きっと大事にされてきたのだろう。だがタケルには想像が付かなかった。兄達に甘えている丈。そう言えば、男のみの兄弟を持っているのは自分と丈以外居ない事に気付く。
やはり、どんな形でせよ頼れる存在が居ると言う事実は、大きなプラスポイントになるのだろう。思うと、ヤマトの姿がふと脳裏に浮かんだ。
微笑み掛けてくる兄。心配げに眉を寄せる兄。
その色濃い脳裏に影が覆った。黒く塗り潰されて、消えて行くヤマトの姿。
「タケル君は、良いお兄さんを持ったね」
まるで若い頃を思い出す老人の様に、心底羨ましそうに吐出した。また、火の中で木が音を立てたとの同時に、タケルの中でも何かがふち切れる音が響く。
膝抱え、顔の半分がその中に埋まっている彼に近付いて。
「・・・丈さん、僕、出来るんだよ」
自分では其れなりに迫力を付けようと声のトーンを幾分落としたつもりだったが、それは余り役には立たなかった様だ。変わらずきょとんとした表情で見詰めて来るかの人。
「出来るって、何が?」
分からないのだろう、本当に分からないのだろう彼。
今自分の口を動かしている筋肉は、好奇心と言う衝動で震えているのだろうか。制御する心は何処に置き忘れたのだろう、それでも丈に顔を徐々に近付かせながら。
「さっき、お兄ちゃんとしてたじゃないっ。キスしてたじゃないっ」
口を吐いた言葉はそんなものでしかなかった。何の飾りも無い、直球に核心を突いた言葉。
その態度に、丈は顔色変えずに真っ直ぐな、それでいて諦めのついた様な視線を向けてきた。タケルの中では、この恥ずかしがり屋な少年は顔を真っ赤にして取り乱すものだと思っていた。それなのにこの沈着振りでは。予定が狂う。ここで宥めるのが狙いだったのに。
「したよ」
短く、それだけだった。暫し呆気に取られたが、直ぐに体勢を立て直し、自分に有利が有る様にと形振舞う。
「僕にも出来るよ! お兄ちゃんに出来るんだ、僕にだって出来るよ!」
取り乱していたのは自身の方だった。むきになって、自己主張する。この人にだけは子供扱いされたくなかった。上から見下ろして格付けされたくなかった。それには、兄と同じ事をして証明する事が必要だった。
兄に出来ることが、自分に出来ない訳が無い。そう思い込ませながら。
「タケル君・・・君とは出来ないよ」
些か憤慨しながらタケルはくっ、と喉の奥で声を吐いて丈を睨み付ける。其処には今にも泣きそうな瞳をした少年がじっと自分を見詰めているだけだった。
その態度に、更に頭に血を昇らせた幼子は怒声とも言える声色で怒鳴り上げ。
「出来るよ、僕にだって出来るんだよ!?」その言葉に丈は瞳を伏せて見せた。
「タケル君、君は」
「僕が子供だから出来ないって言うの!?」
弾かれた様に丈の言葉を遮ってタケルが吠えた。その小さい悲鳴の様な声は森の中に響き、一瞬で辺りの沈黙を突き破った。肩を震わせながら言葉を、頭の中で纏めていた心の束を吐露し続ける。
「僕にだって出来るんだ、子供じゃないんだ、お兄ちゃんに出来る事が僕に出来ない筈ないでしょう? だって何時も丈さんは僕の事子供扱いしなかったじゃない、お兄ちゃんみたいにしなかったじゃない!」
思いの堰が流れた様に、タケルは思いのたけを全て零していた。
余りに悔しかったのだろうか、彼の大きな瞳からぽろぽろと涙が零れていく。熱くなった頬を冷やすそれを拭いもせずにきっ、と最後の力で凄みを見せても、何等丈の態度は変わらなかった。
可哀想に。丈の眼はそう言っている様な気がして。
「う、ああ、わあああんっ!」
我慢がしきれなくなったのだろう、それとも色々混ざり合った感情がこの小さな身体の中を駆け巡っていたのが止んだのか彼は年相当の少年の様に泣き出した。まるで迷子になったかの如く周りを気にせず、唯わんわん泣き続ける。丈はそんな彼においでと言った。待っていたかとタケルはその言葉を合図に身体を丈の胸に飛び込ませてそこでも泣いた。白いベストが涙で湿っていくのを感じながら、ごめんなさいと心の中で詫びながらそれでも、流れる涙と嗚咽を止められなかった。
「・・・寝ちまったか」
ひょっこりと後ろの木からヤマトが姿を現した。目の下が腫れるまでタケルは泣き続け、遂には寝入ってしまったのだ。微かな吐息を吐き、規則正しく肩を震わせる少年の頭を、丈は静かに撫でる。金色の髪が指に絡むのを見ながら、兄は静かに近付いて来てもう殆ど木を焼き尽くしてしまった焚火の前に、並んで腰を降ろす。
「・・・ずっと聞いていたんだよね」
徐に切り出した丈の言葉に無言で頷いた。二人を残した後、自分は木陰に居ると丈に目配せしていたのだ。それでも心配だったから何度も姿を確認していたのだ。
タケルの手は強く年上の彼の服を掴んで引いていた。これでは伸びてしまうかもねと彼が苦笑して。
「羨ましかったんだと思うよ。ヤマトの事がさ」
不意に、頭の中で呼ばれた。何時もの聞き慣れた声で、お兄ちゃんと。そして、軽い眩暈がヤマトを襲った。片手で額の髪をくしゃりと掴んで何かに絶えている様でもあった。
その様子を静かに見詰めながら丈はタケルの頭をすっと撫で。「でも、僕もタケル君の気持ち、分かるよ。僕も末っ子だからね、昔からそうだった。兄さん達がやっている事を何でも真似したがってた」
金髪の少年はその紡がれる言葉をまるで暗記でもするかの如く心で反芻する。異常な程現実味が有る彼の言葉は、何よりも信じるべき義務が有ると思い込んでいたからかもしれない。
「・・・でも、タケルはタケル、お前はお前だろ?」
確認する様な弱々しい声色。目前の消え行く火を見詰めて、ゆっくりと丈の方を向いた。目が合ったのは、偶然ではないのだろう。それでも返事は返って来なかった。
気まずそうに、昼間自分がタケルに向けた視線をその侭返されたような視線。
今隣に座っている彼に、口付けしようか否か迷っていた。
END