名前についてのエッセイ

 

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 ふたつの名前

「李 怜香」と書いて「いー よんひゃん」と読む。

もちろん、実際の韓国語の発音とは若干違っているが、日本語で書き表すとしたら、こんなところだろう。

多くの在日が通名(日本名)を使っている中で、本名を、それも韓国語読みで、すべての場面で使うというのは、やはり少数派らしく、「日本語がお上手ですね」と、最近韓国からきた人と間違えられることも多い。

 

韓国人だということを鼻先にぶら下げて歩いているからといって、さほど不愉快な思いをしたことはないし、読み方がむずかしい、というのも、日本人でもたいへん難読な名前の持ち主もいるので、説明の面倒は同じことだろう。

場面場面でどちらの名前を名乗るか、とっさに判断する面倒と、どちらが負担になるか、それはひとそれぞれだと思う。

私の場合は、無意識にどの名前を名乗るか考えるより、ひとつの名前で押し通すほうが、すっきりと気持ちがいいので、そのようにしているだけである。

体を締めつける服装をしていると、締めつけているということ自体、着ている間は意識に上らないものだが、脱いだとたんにほっとし、いままで窮屈な思いをしていたことに気づく。

通名を使うのをやめたとき、わたしが感じたのは、まさにそのような解放感だった。

それまで、名前の使い分けなどあたりまえだと思っていたが、実はそれが大きな心理的負担になっていたことを、使い分けを止めてはじめて気づいたのである。

 

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 最初はやはり通名だった

 

多くの在日と同じく、わたしも生まれたときにつけられた名前は日本名である。

「本名」というと、ふつうその名を呼んで育てられたというイメージがあり、「芸名」や「ペンネーム」「ハンドルネーム」と対になっているときはそのとおりなのだが、在日の場合は、本名といっても民族名、戸籍名、という意味であり、幼いころから親に呼ばれていた名前は日本名だった、という人が多い。

 

大学入学のために郷里の岐阜県から東京に移り住むことになり、それを機会に通名を使うのをやめた。

実はこのとき、なにを思ってそのようにしたのか、あまり昔のことなので、しかとは思い出せない。

覚えていないくらいだから、さほど重大な決心があったわけではないと思う。

しかし、日本名を名乗っていることに、なにがなし自分を偽っているような居心地悪さを感じていたのは確かだろう。

わたしの入学した大学は、通名で学籍簿に登録するのを認めていないわけではなかったのだから。

 
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 在日に生まれるのではなく、在日になる

 

しかし、考えてみると、これは奇妙なことである。

通名というのは、多くの在日にとっては、日本人が普通に使っている名前とほとんど同じ意味合いを持っている。

自分自身と分かちがたいほど自身の奥深くに刷り込まれた名前。

それが、仮のもの、偽りのものであり、ほんとうの自分の名前は別のところにあるのだと言われたところで、実感をもって、その事実を受け止められるだろうか。

使い慣れた名前を名乗ること、それ自体が、自分の出自を隠していることなのだと非難されたとしたら、人はどのように反応するのだろうか。

 

結局のところ、韓国人と日本人の外見的差異がほとんどなく、「だまっていればわからない」という特殊な事情が、このあたりのねじれに拍車をかけているようである。

国籍はもちろん、出生時に決定される。

しかし、自分が何人であるか、というアイデンティティは、おそらくもっと後にくるものだろう。

在日にとっては、自分の名前がもうひとつあり、まわりの友だちとは異なる存在なのだと知るときが、在日としての出発点かもしれない。

あまりにも有名なボーヴォワールの言葉をもじって云えば、「人は在日に生まれるのではなく、在日になるのだ」というところだろう。

 

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社会人になってから

 

親の庇護の下にいる間は、親が決めた名前を名乗る。

しかし、そのうち、ある時点で、自分で名前を「選ぶ」ときがやってくる。

多くは、進学、就職、結婚といったところだろうか。

 

わたしの場合は、まず大学進学に際して、通名から本名にしたことは、先に述べた。

大学時代に本名を名乗っていても、就職を機に、また会社では通名を使う、という人もいるが、それはしなかった。

 

学生時代民族系のサークルに所属して、友人たちから「よんひゃん」と呼ばれているうちに、通名はすっかり過去のものになり、呼ばれるとなんだかむずむずする、という具合になってしまった。

あまり人目が気になる性格ではないので、目立ってしまうことからくる心理的な負担よりも、「むずむず」のほうががまんできなかった、というのが正直なところだ。

 

実際社会に出ても、会社の同僚や上司の反応は拍子抜けするほど自然なものだった。

会社に限らず、初対面のときに、「韓国の方? 中国の方?」ときかれたり、「いつ日本に来たんですか?」とたずねられることもあるが、韓国人の三世で、日本生まれ、日本育ちなので日本語には不自由してない、などと簡単に説明しておわり、ということが普通だった。

これはもちろん、外国人が珍しくない東京という場所だったせいもあるだろうし、要するに運がよかっただけ、それとも、わたしが鈍感だっただけなのかもしれない。

 

本名を名乗っているということは、「わたしが韓国人であることは、タブーでもなんでもなく、普通に話題にしてかまわないことですよ」と言っているも同然である。

最初からそういう風に出られると、つきあう日本人の側も、距離感がつかみやすい、ということはあるような気がする。

本名と通名とどちらを使うか、という問題への個々人の解答に関して口をはさむ筋合いはないが、やはり一般論を言えば、在日にまつわるなんとはなし薄暗いイメージを払拭するためには、本名を使うことは効果があるのは確かだろう。

 

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 日本人との結婚

 

次に結婚である。

最初の結婚の相手は、在日韓国人で、その人も本名を名乗っていたので、なにも考えることもなかった。

その結婚は、7年ほどで離婚という結末を迎えてしまい、しばらくして日本人男性といっしょになることになった。今の夫である。

 

結婚するに際して、「帰化しないし、日本名を名乗るつもりはない」ということは言ったが、夫からは、「いやなことはしなくていい」の一言で終わりで、とくに話し合いというほどのものはなかった。

彼の心の中で葛藤があったのかなかったのかわからないが、つきあっているうちに、コイツに関してはまるごと受け入れるか、受け入れないかで、いいとこどりはできない、という洞察を得たのは確かだろう。

 

在日が日本人と結婚する場合、いわゆる国際結婚のような言葉や習慣の違いは少ないが、それだけに「たいした違いはない」と日本人側が勘違いしてしまうと、あまりいい結果は出ないように思える。

日本人とほとんどかわらない外見を持ち、日本語をぺらぺらしゃべっていても、在日としての部分は、やはりわたしの中に深く根をおろしている。

それを切り捨てたら、わたしはもうわたしとはいえない。

名前ももちろん、切り捨てられない重要な部分のひとつである。

 

夫がそういう気持ちを理解してくれたのは、幸運というべきことなのだろうか?

そもそも、結婚というのは相手を丸ごと受け入れることではないのか、という考えは、理想論にすぎるだろうか?

 

とにかく、そうしてわたしは、それまで住んでいた東京から、夫の住む宇都宮に移ってきた。

 

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社労士事務所の開業

 

さて、宇都宮で、社会保険労務士事務所を開業するにあたって、いまさら通名を使う気はなかったが、事務所名をどうするかは 少し考えた。

 

社労士の事務所名は、一般的には「○○社労士事務所」「○○労務管理事務所」 「社会保険労務士○○事務所」といったところだろうか。 

○○には、たいてい自分の名前がはいる。

 ただ、名前を事務所名に入れたくなければ、地名を使うなり、オフィスなんと かと、カタカナにするなりという方法もあることはある。

 

本名を使っていれば、事務所名がなんであろうが、名刺を出したとたんに 韓国人(少なくとも日本人ではない)とわかるので、事務所名だけに こだわってもしかたないのだが、やはり、「韓国人の社労士には仕事を 頼みたくない」という人がいるだろうなぁ、ということは考えた。

しかし、ミもフタもない言い方かもしれないが、「韓国人はイヤ」という人と は、こっちもおつきあいしたくない。

 本名を使い、韓国人であることを表に出して営業して、それでお客が減るのな ら、それはそれでしかたないだろう、という結論に達したのである。

で、事務所名は「李社会保険労務士事務所」となった。

 

経済的な成功が大切だから、通名を使う、という考えがあるのは よくわかる。

 結局、なにを大事に思い、なにを優先するかは人それぞれなのだから、 仕事上は通名を名乗ることが、いけないことだとか、はずかしいことだということはない。

わたしにとって経済的な利益より、自分がすっきり気持ちよく名乗れるほうが 大切だというそれだけのことだ。 

もっとも、経済的な利益がどれだけ失われているかは、決してわからない。

 どこにいっても、いっぺんで覚えてもらえるし、韓国関係の話題からいろいろ 話がはずむこともあるので、プラスの面もけっこう大きいのではないだろうか。

 
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名前ってなに?

 

夫婦別姓がさかんに論議されるようになってから、日本人の間でも、名前とアイデンティティのかかわりということが、かなり意識されるようになってきた。

単なる記号ではなく、わたしをあらわすもの。

そして、名前からわたしが規定されるということも当然ありうる。

そのどちらの姿をも見据えて、「わたしにとって名前ってなに?」と問い掛けてみる。

たぶん、これからもずっと、この問いは消えないままだろう。

わたしが在日である限り。

 

(1999/9/7)

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