若年寄日記

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2002年5月15日 「キュー」
 どうも若年寄月記の管理人です。日記はとてもとても、と弱気なコトバも漏れる今日この頃です。
 いやまあ仕事が忙しいのは結構なんだけど、忙しすぎる。朝8時からフルスロットルで夜の11時くらいまでですんで。 まあそういうこっちゃで既に甲府生活もひと月半、忙しいせいかあっという間でした。
 そんで今日はテレビに出てきました。ウチの職場で催すシンポジウムのPRのために、某国営放送(この表現も懐かしーな)のご当地ローカル番組にでてきましたよ〜。
 しかも生なんですよ奥さん。まあ番組冒頭で紹介されて、30分待たされて、ウチの職場の3人が30秒ずつ喋るだけなんですけどね。で番組最後にわざとらしく手を振ってオシマイというもので。
 ビデオでブラウン管(じゃないのか?今のテレビって)に映る自分を見ての感想。
1 太ってるなあ(当社比150%)
2 声低いなあ(煙草のせいだな)
3 笑顔が偽善的だ(意外に引きつらず笑えてた)
というなものでしたよ。
やっぱりテレビって実際より太って見えるってのはホントでした。本人は緊張しっぱなしだったんですけど、まあそれなりに見えるもんでした。
緊張も番組アシスタントの女の子がいい感じだったんで救われましたよ。
でももうテレビはいいです(TT)
さあ、明日の職場の反応がおっかねえなあ〜

2002年4月10日 「こんにちは甲府!」
 どうもご無沙汰しています。若年寄こと管理人です。
 甲府生活もはや10日が経ちました。早いモンです。8時出勤10時退庁という生活を繰り返して、更にその後飲みという事が既に3回もあったりして、なんだかもう長いことこっちにいるような錯覚すらあります。
 サービス残業も20時間を突破して、どうなるか自分でも心配な若年寄ですが、夜眠って3食しっかり食べての生活をしていると、なんだか以前の生活よりも体調が良くなっていくような気がします。まあこれも仕事を任されて、午前様残業とかする事になるまでの話でしょうが・・・。この歳まで定職に就かなかった私としてはこういう感想ですが、先輩社会人の皆様には甘いと言われそうですね。でも民間じゃなくてもこのような所があるという事でご勘弁を。
 今、研修の真っ最中ですが、毎日手弁当で行くという、信じられない状況で、しっかりコンビニ弁当に頼らず生活してますです(^^;)自炊も洗濯も(洗濯機がまだないのです!)アイロン掛けも、まだまだ新鮮なので楽しくしっかりやってます。いやあ、自宅暮らしでは親に甘えすぎでしたね。
 そんな訳で甲府生活に染まりつつある若年寄でございます。その内この日記もまた更新が滞ったり、愚痴のオンパレードになるやもしれませんが、時間があれば公約のリニューアルもしますので、宜しくお願いします〜。

 そのうち、浦和レッズラボもヴァンフォーレ甲府研究所に変わっているかもしれません(^^)

2002年3月31日 「さらば埼玉」
 という訳で、埼玉の住人として最後の日でした。25年という四半世紀という長い時間を過ごした埼玉を後にし、明日から山梨県甲府市の住人になります。いろんなものを置きっぱなしで行ってきます。実家の自分の部屋のマンガとか書籍とか、W杯の開催地ボランティアとか、まあいろいろ。まあ湿っぽい話になりそうなので、よしときます。気がかりは里がえりした時に、飼い犬3ヶ月半のゴールデンレトリバーが覚えていてくれるかどうか。3日飼うと3年忘れない、って奴を信じたい今日この頃です。
 という訳で、今後は甲府からお送りします。結局名づけられなかったこのサイトの名称もその内ご当地にちなんだものにでも変えてみたいと思います。どうか今後もよろしくお願いします。

2002年3月9日 「運転免許最終章」
 なんとか卒業に漕ぎ着けたのが3月7日。そして免許試験場へ。私の住む埼玉県の場合、免許センターは鴻巣という埼玉の北辺にあり、県民すべてが均一に行くのに面倒を払うという土地にあります。昨晩までなにも勉強してなかったので徹夜勉強で臨んだ私は、ふらふらになりながら電車1時間・バス1時間も揺られて鴻巣へ。
 結果から言うと、免許取得できました。96点でした。まあなんとか教習所から通して、一つも落とさずこれました。
 それにしても免許試験場ってあんなに待ちの嵐とは、もっと効率よくできんもんですかねえ。

2002年2月28日 「運転免許その後」
 若年寄の運転免許のその後ですが、結論から言うと、まだ取れてません。11月から始めてまだ、というのは決して試験に落ちまくって、ではなく、若年寄のサボりと資金の枯渇からです。
 なんとかここまでノーミスで学科・技能とも終了して、あとは効果測定と卒業検定、そして試験場だけとなりました。ただなんやかやで忙しいせいで引き伸ばしているうちに、運転技能を忘れていきそうです。最後の技能教習が1週間前ですから、とっとと効果測定受けて、卒業検定受けないとやばいです。高校生で混んでる事もあるしね。
 なんとか、転封前にはしっかり免許取得しておきたいものです。

 今度の日曜日に横浜アリーナに行ってきま〜す。ラジオイベント「ライブ954」があるので〜す。コサキンや爆笑問題、伊集院も来ま〜す。多分ここでレポします〜。
 こうして貴重な週末を使い、免許取得はさらに遠のくのであった・・・

2002年2月3日 「労働基準法違反」
 4月から勤務する(と思われる)先に去年から勤めてる大学院の先輩から電話がありました。まあ最初の内容は、私が先だって問い合わせた件の回答だったんですが、段々ハナシは4月からのハナシへと・・・。
 どうやら私が勤めることになる部署に関して議会で紛糾しているそうで、これから博物館を作るのに財政面から議会でもめているそうなんです。その結果、議会対策で勤務は午前様かつ土日勤務上等、らしいのです。ひたすら甘ちゃんな嘱託生活の若年寄にはひょえ〜〜〜!!!!!!!なのですが、今はどこだって民間でもなんでも大変なんですよね。議会対策がなくとも、定時帰宅だった試しは無く、早くて9時10時、0時は当たり前。で土日上等、なのだそうで。激務だとは聞いてましたが、所詮お役所、土日はしっかり休みだろうから、と舐めていたのでまっつぁおです。
 その先輩氏の一言、「思い残すことないようにしといたほうがいいよ」と力無いつぶやきが私の4月からの惨状を容易に予感させました。大丈夫か若年寄、、、
 一向に連絡の無かった私の転職先ですが、先輩の話や現在の職場に職歴認定の問い合わせが来たりと、4月まで2ヶ月を切ってようやく動き出したようです。あ゛あ゛〜早いトコ住む場所探さんと・・・

2002年2月2日 「OB会」
 大学時代のゼミのOB会にいっちきました。今回は恩師が学部長に就任されたこともあり、盛大に行なわれました。恩師の「学部長は定年前に死ぬ」という縁起でもないスピーチから始まった宴は盛況でした。みんな相変わらずだなあ、と思ったり、来れない人や既に亡き人を思い出したりしながら、旧交を温めあいました。詳しいレポートはゼミの先輩でもあるysugaさん近日中に(!)、写真付きでしてくれると思いますので、そちらをよろしくです。
 最後に、びんぼーなボクを、2次会に出席させてくれたnodagiriさん、どうもありがとー!!

2002年1月30日 「ボクをけーさつにつれてって!」
 1週間に渡る家捜しの結果、ようやく自転車の防犯登録証が発見されたので(関係ないもの探してたら偶然発見)、先日のチャリ盗難を警察に届けてきました。
 いつ通っても警官がいない印象のある交番だけあって、入り口の扉が鍵閉まってたりと(寒いから?)、悠長な仕事ぶりでしたが、まあ親切に応対してはくれました。でもたかだか自転車の盗難届を作成するのに30分くらいも掛けるってどういう事なんでしょう。まあ出てくるとは思ってないけど、よろしく、けーさつのみなさん。
 30分の交番逗留で、警察無線を傍受。「○×市○○で車内で70何歳の父親が暴れたとの通報」との無線が聞こえました。家庭内暴力(?)で警察沙汰、この埼玉の片田舎も大変やなあ。

2002年1月22日 「うらない」
 チケット販売のe+(イープラス)から毎日お知らせやメールマガジンが届くのですが、以下はメルマガに載っていた今日付けの管理人の占いです。
 
 ◆○○○ さんの今日22日(火曜日)の星占い ━━━━━━━━━━━━━━━━━
 絶好調に物事が進んでいきやすい日です。海外の情報をうまく取り入れることが、
 現状打破のキーポイントとなるでしょう。奇想天外な洋画が、思わぬヒントをくれ
 そうです。
 ラッキーカラー:銅色
 恋愛運:★★★★★ 金運:★★★★ エンターテイメント運:★★★★★
 おすすめエンターテイメント:SF映画
                           (占い師・小泉マーリ)

 今日、20数年間生きてきて、初めて自転車を盗まれました(T_T)。


2002年1月18日 「さんぽ」
 今日は朝から、厳密に言うと昨夜からの頭痛で、仕事を休みました。休んだといっても、今日は通常、出勤しない日だったので、職場の方では来ないものと元々思ってたようでしたけども(^^;)
 頭を冷やして寝ていたら、午後にはほぼ回復したので、気分転換がてら犬の散歩に外出。今日は家族がみんな出払っていて、私も寝ていたせいか犬も寂しいせいかストレス溜まっていて、犬用小便シートを粉々に破き散らかしていたので、お互い気分転換という事で、自然多いとこにというテーマで出発しました。
 まずは手始めに、近場に湧くという泉を目指しました。これは住んでる市の自然50景のうちの一つらしく、「←0.3キロ」という看板だけを手がかりに行きました。ところが道中は「自然」というテーマだったはずが、国道の排気ガスに工場群の煙とやばそうな所を歩き、これを避けて森や墓場や畑をひたすら歩んだところに泉はありました。伝説では縄文時代から沸き続けているとの由緒書が。でも近くにはゴム工場とかあったりして、水を飲みかけた犬の引き綱を慌てて引っ張りました。
なんだか「ウチのなんとかちゃんです」的ホームページみたいだな その後、近所の川っぺりを歩いたりして、上記の自然50景の大ケヤキを見たり、鎌倉時代の板碑がある寺なんかを犬と一緒に見てから帰宅しました。時間的総距離2.5時間。いい気分転換になりました。体脂肪もそれなりに燃焼した事でしょう。自然の中を歩くってのはいいなー、という、若じじいであるところの私らしい1日だった訳ですが、犬がいなきゃただの怪しい人なので、1人で風流じみた事はしちゃいかんなーという事で、ペットのありがたみを感じた午後でした。



2002年1月15日 「正月は気をつけないと、ってそれは餅だろっ」
 こんなんありました。暇な人は見てみてください。 http://www.nikkansports.com/news/flash/f-so-tp0-020114-15.html

2002年1月14日 「時の流れってやつは」
 正月からこっち、もろもろと忙しく更新もサボってここまで来てしまいましたm(__)m
サボってるのは更新だけじゃなくて、教習所も。路上教習は予約の都合と財布の都合で、今年になってからまだ2時間しか乗ってないし、学科ものこり5時間くらいなのに、ちっとも行ってない。2月から高校生で混むというのに・・・。3月までの取得に暗雲が。まあ路上も今週2時間乗ってのこり11時間。卒検なんかでひっかかんなきゃ終わるでしょう。あとは・・・最悪4月以降転居先の県で本試験を受けることにならないようにするまでですね。
 昨日は昨年亡くなった先輩、当サイトにも来て下さっていたささくんさんの1回忌に行ってきました。まったく1年経つのは早いものです。去年の今ごろ、私は風邪と肋間神経痛で仕事も休んで寝込んでいました。そこに訪れた凶報。雪が降ったりすごく寒かったように記憶しています。法事には20人ほどの友人が集いました。ご両親のご配慮もあり、往時をしみじみ懐古することができました。あの時から時間は止まったままなのに、容赦なく経っていく1年。こうして集まった顔を見て、ああ現に時間は動いているのだなと感じる。こうして会する機会を大事と痛切に感じました。
 今日はそのささくんの誕生日。27歳になってわずか数日で逝ってしまった。若年寄こと私も今年で27になる。追いついてしまうんだなあ。

2002年1月1日 「あけおめ〜」
 どうもみなさま、明けましておめでとうございます〜。年頭に管理人からご挨拶・・・、まあ今年ものんびり更新していきますので、今後もどうぞ宜しゅうお願い致しまする〜。

2001年12月31日 「よいおとしを〜」
 当サイトをご来訪のみなさま、2001年はどうもありがとうございました。皆様の2001年はどのような年でしたか。管理人の2001年は激動の年だった?かもしれません。なにはともあれ、よいお年を。また来年も宜しくお願いいたしまする〜。

2001年12月24日 「めりーくりすます〜」
 今日はイブですね。管理人は特に予定もなく・・・、こうして更新しとるわけです〜。ただこの連休、あそびっぱなしでした。一昨日は高校の同期でひっさびさに飲みました。相変わらずだなあとつくづく思いましたねえ。そういう私も相変わらずなんだろうけどね。野郎四人での飲みだったけど、美味い酒が飲めました。
 そしてイブイブは、教習所。はじめて夜間に路上を走りました。夜である上に国道とか平均速度の速い道を多く走った上に峠越えとかしてたら、気分が悪くなってしまって、ヘロヘロになって教習所に帰ってきました。そしてその後に私が板管理させてもらってるサイトのオフ会へ直行。管理人さんと私ら板管理人3人の野郎4人で鍋かこんで夜通し飲みました。テレビみたりしながらのマターリとした会でしたけど、非常に楽しい久々のオールでした。
 というわけでこの連休は、続けて野郎4人で飲むという事で使い果たしました。よって今日のイブはお家でぐっすりぐったりしてました。明石家サンタでも見て寝まする〜。

2001年12月15日 「東京」
 今日はネットで知り合った方々とオフ会のような形で遊んできました。東京を大泉学園から表参道、そしてお台場へ。都区内を横断する感じで、あっちゃこっちゃで久々の東京を満喫・・・って昨日秋葉原と渋谷いったばかりなんですがね。だいたい私と同じ世代の方々ばかりで、非常に楽しいひとときを過ごしてきました。話題は主にサイト関係の話だったんですが、今回の主催者の方の所は1年で170万ヒットもした超大手の某サイトなのです。うちは1年半やってもうすぐ3000ヒット。そこの一日分にも満ちません(^^;)。リンクしてもらったらカウントもガンガン上がっていくんでしょうね。とても恥ずかしくてURL教えられません(T_T)。凄いトコはホント凄いですわ。
 こうして2日に渡って、柄にも無く東京生活してた私ですが、もうすぐ東京通勤圏を離れることになりそうな身としては、東京から離れがたさを実感してしまいました。
 うわ、「東京」って5回も書いてるよ・・・

2001年12月14日 「なぎらペンギン」
 パソにメモリ128MB増設しました。起動速度はそんな変わんないですけど、ソフトの動きはサクサク進みます。良かった良かった。にしてもメモリも安くなったもんです。デスクトップのメモリを去年、同じく128MB増やしたんですけど、その時は台湾大地震の後遺症で2万以上掛かったのに、今回はノート用で1万かかりませんでした。
 今日は仕事で秋葉原に行きました。そのついでにメモリも買ったんです。数年ぶりにいきましたけど、秋葉原も変わりました。でも部品屋の通りなども相変わらず健在で、秋葉原ならではの雰囲気を漂わせてました。仕事で来たとは言え、目に毒です。「DVD−R欲しー」とか、ソフトも欲しくなるし、何とか欲をメモリだけに留めました。ペンW2G・256MB・100GB・CD-RW・DVD-RAM/RW搭載なんての見るともうダメです。
 直帰だったので、帰りに渋谷に寄ったら、ハチ公口で「ピピー」と笛の音。改札に向かうと警察官に取り押さえられたいかにも渋谷系の男がいた。なにしたんだろうねえ。さすが渋谷、まだ夜7時だというのに物騒ですわ。
 みどりの窓口でSUICA買いました。気持ちよ〜く改札通過できますぜぇ。

2001年12月13日 「1勝1敗1引き分け」
 今日は自動車教習所の修了検定アンド仮免学科試験。まずは朝イチで修了検定。3番目だったのですぐに乗車。最後の技能教習から3週間ぶりながら、そこそこに運転できましたが、1回だけ発進時にギアを1速に戻すのを忘れ、クランクで後輪のタイヤが沿石に擦り(乗り上げなかったのでセーフ)、指導員の指示が分かりづらくて右折ウインカーが遅れたのが1回。やばいかと思ったけど、修了検定は合格。今日は全員合格だったので恥をかかずに済みました。そんで午後は仮免試験。修了検定からのインターバルで必死にその場漬けして、なんとか仮免許を頂きました。いやいや余計な金が掛からんで済んで良かった。
 んで本題。1勝目は仮免試験の後、本免試験に備えて問題集を教習所で買う事にしたんです。で、事務のお姉さんに(教習所の事務のお姉さんは美人揃いなんです)、1000円と500円の問題集を注文したんですが、「1300円になります」とのお答え。1000円と500円の間に800円のもあったので勘違いしたのかもとも思ったんですが、明らかにお姉さんからも値札は見えるので、まあお姉さんの好意と勝手に解釈してしまいました(^^;)
 1敗は帰りに酒のディスカウントに寄って、サービス品¥500円のワイン2本と¥100円均一菓子を6袋買ったんですけど、会計は¥2000オーバー。「えっそんなにいく?」と聞き返したら、バーコードが値引きに対応してなかった様子。なんとかセーフ。
 で1分けはその後にコンビニで焼きそばパンと飲み物と少年マガジンを買ったら、¥315だった。安すぎると思ったらマガジンのバーコードが読み取れてなかったようで、引き返して正直に申告。教習所での事もあったしね。この某AM○Mは会計ミスが多いんです。しかも安い方に。とはいえ、こんな事が3回も続くのも稀ですよねえ。

2001年12月8日 「今日という日は」
 今日はジョン・レノンの命日ですね。没後10周年の時はジョンの特集番組とかかなりやった記憶があるんですけど、90年代も結構そういう企画があったのに、今年はそういう番組を聞かない。確か10周年の時は、フジの深夜で追悼番組があって、中村あゆみがビートルズ時代の「YOU GONNA LOSE THAT GIRL」をGIRLをBOYにもじって歌ったり、「IN MY LIFE」を誰だかがカバーしたりと非常に嬉しい番組があったものなんですが。
 特に今年はおめでとうの雰囲気で「偲ぶ」空気は出てきづらいのかなあ。三菱自工かなんかのCMで「WOMAN」とか流れてたし、9月のテロの後、「IMAGINE」が少し流行ったりしたから、いいかと思ったんですけど、残念。
 そして今年の今日は日米開戦から60周年の日ですね。んでこういうネタについても、戦後50年以降さっぱり特番がなくなってしまいましたねえ。なにげにフジや朝日あたりで深夜で、関係の番組やドラマをやったりしてたんですけどねえ。これも残念。
 でも皇室の冠婚葬祭があると、特集番組で昔の映像がたくさん見れるのがありがたいです。昭和天皇崩御の時も、世は空前のレンタルビデオブームだったようですが、私は昭和史の映像たっぷりのテレビに釘付けでした。皇太子ご成婚の時もそうでしたしね。今回も皇太子誕生の頃などの昭和30年代頃の映像なんかを多く見る事ができましたし。なにはともあれ、母子ともに健康で退院とはなによりです。

2001年11月30日 「ジョージ」
 ジョージが死んだ。ジョージ・ハリソンが死んでしまった。あと数時間で日本はお目出度いニュースに包まれる事であろうから、その中にかき消されてしまうには悲しすぎるので、駄文を書いておこうと思った。
 私は26歳で全くビートルズ世代ではないのだけど、小学生時代に私の耳を捉えた初めての外国の音楽がビートルズだった。知った当初はビートルズだとは知らなかったのだけど、ポールの「レット・イット・ビー」と「ヒア・ゼア・アンド・エブリウェア」、ジョンの「ウーマン」、そしてジョージの「セット・オン・ユー」がそれだった。中学に進んだあたりで彼らの楽曲という事を再発見して、CD時代に入るとともに、CDを買う小遣いを得た頃でもあり、彼らの音楽に傾倒していった。
 ジョージはビートルズでは偉大すぎるジョンとポールの影に隠れた第三の男だったけど、非常に強い個性を持ったアーティストであった事は間違いない。私は好みではなかったけど、インド音楽を取り入れたりといった前衛性も持ち、またギタリストとしてもエリック・クラプトンとの友情は有名であり、「泣きのギター」を奏でる名手だった。楽曲も「サムシング」や「ヒア・カムス・ザ・サン」は多くカバーされたし、「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」やシングル版「レット・イット・ビー」のギターソロにシビれていた方も多かろうと思う。
 何を言っても纏まらないのだが、自分の青春の一部を失ってしまったからなのだろうか。数年前から病状が思わしくなく、麻薬患者に刺されたりもしたし、数日前に危篤状態との情報も得ていたのだが、気持ちを言葉にできない。非常に残念でならないが、供養になるか分からないが、自分のためにもこれからもジョージの曲を聞き続けていきたい。ジョージ・ハリソンという偉大な音楽家の音楽を伝え遺していくためにも。ジョージの冥福を祈る。

2001年11月23日 「フォント」
 ネット上でみると字が読みづらいのに今ごろ気がついたので、フォントを強調にしてみました。

2001年11月23日 「ウィルス」
 今年2件目のウィルスが着ましたよ。しかも前回は8月で初めてだったから、本格的に流行って来たのかもね。昨日の夜からメール着信中に小泉メールマガジンとイープラスのチケット情報が来たところで、3通目のメールダウンロードが出来ない状態に。今日になってやってみても送受信が停止してタイムアウトしてしまう状態は解消されないので、プロバイダに電話したら、3通目のメールに問題があるせいで受信できないのだろうという話になり、プロバイダに出来るのは全件削除なので、nPOPというフリーソフトをダウンロードして個別削除してくださいとの仰せ。インターネット自体は問題がなかったので、早速ヤフー様からダウンロード。このnPOPはサーバー内にあるメールをチェックできるソフトで、やってみると、なんと3通も同一箇所から送られた添付ファイル付きメールが。即行削除しやした。
 で、どこからそのウィルス付きメールが来たかというと、大学の先輩からでした。勿論故意ではなく、サーカム型のウィルスで、アドレス帳のアドレス全てに自己コピーを送付するという型のようでした。ファイル破壊やシステムに侵入するタイプでなく、大量増殖でサーバーをダウンさせる奴らしいです。私の場合はプロバイダの防疫システムなのかウチのウィルスバスターのお陰か水際で阻止していたようで、その結果がメール受信タイムアウトという事のようでした。
 で、同プロバイダで私よりその先輩と親しい友人に電話すると、やっぱり彼も対策中。マイクロトレンドのHPとか見てたようでした。彼は受信しちゃったらしく、いろいろ試行錯誤してるようでした。でも「メールは来たけど添付ファイルは無かった。感染してるんだかわからん」という疑心暗鬼状態のようで。でもまウィルスもあたりはずれがあるようですし、またHTMLメールだとウィルスが潜みやすいと言うし、皆さんもお気をつけて。
 マイクロトレンドによればこの種のサーカムが流行だしたとの事ですので、同じ症状が出たようでしたら、管理人までご一報ください。分かる範囲でご協力致します。但し電話でね。メールはいやん。

2001年11月18日 「秋田」
 業務の出張で秋田へ行ってきました。アフターの飲みのハードさと寒さを除いては、意外な収穫が多かったです。秋田の公文書館では自分的に興味のある史料を発見して筆写できたし、県立博物館では丁寧に解説して頂き、学芸員として非常に参考になりました。
 一番意外な収穫はおまけで見学する事にした昭和町郷土文化伝習館(石川理紀之助資料館)。石川は明治時代に活躍した老農(労農じゃないですよ)。老農とは伝統的農業技術伝承者とでもいうべきものです。明治前期の産業は農業生産に立脚した分野が中心だったわけですが、殖産興業・産業革命という「近代化」を成し遂げる上で、産業の質と量との改善が行なわれたわけです。量を改善、つまり量を殖やすために質を改善する。その「近代化」という名の改良は欧米からの技術や品種を導入するというルートとは別に、従来あるものを改善するとか、それぞれの良いとこを持ち寄るという、日本伝統に立脚した技術改善というルートもあったんです。その後者を担ったのが老農らでした。彼ら老農は、博覧会・共進会といった品評会などをはじめ、さまざまな農事改良に携わったんです。
 まあその石川の史料館にはあるわあるわ、そういう関係の古文書の山が。方言きっついじいさん1人が管理人でいるだけでしたが、収蔵庫やら遺構やらを見せてもらいました。意外なところにあるものはあるもんですわ。
 時季もよかったせいか景色もきれいでしたし、食い物や酒も美味かった。きりたんぽ鍋がお薦め(きりたんぽ自体はそんなでもないけど)です。秋田には史料調査もあるし、またいかねばならないです。公費での出張ですのでやるこたちゃんとやりましたけど、個人的にも収穫多き秋田行でした。

2001年11月10日 「教習所」
 まだ第一段階なんです。クランクやら坂道発進やってます。ただ日程がつくづく合わなくて、入所して3週間経つのにまだ第一段階の学科が終わりそうもないです。来週は秋田へ出張なのでますますやばい。年内中の免許取得はムリそうな気配です。なんとか11月中には第一段階を終えたいものなのですが・・・
 まあしかし、技能教習の方は思ったよりはなんとかなっており、安堵安堵。まだ6時間しか乗ってないけど。エンストは、初めて車を動かした日にはしなかったのに、他の事を習ってると、頭が半クラとか回転数がどうこうって事どころではなくなり、日に1・2回ほどしてまう。そして悪い癖が左折が大回りなのとシフトチェンジの時、レバーを見てしまう。クランクも無難にこなせるし、教習の最後の方では結構うまく運転できるんだけど、教習の間が1週間くらい開いちゃうんで、どうも次の回ではリセット状態。あああ、免許取得はいつのことやら・・・

2001年11月2日 「飲み」
 ysugaさんと飲みました。私どもの母校の学園祭がこの週末行なわれており、共通の友人(私にとっては先輩にあたりますが)であったささくんさんと生前最後に酒を飲んだのが、この学祭で毎年催されているカクテルバーだったので、偲ぶ目的もあり、そして私たちと故人の共通の師が学部長におなりという事で、挨拶に行こうという事で母校へ行ってきました。
 午後にysugaさんと落ち合い、まず師であるM教授のもとへ。多忙な先生なので、お会い出来るか不安でしたがいらっしゃいました。お疲れの様子でしたが、しばしお話する事ができました。学部長になりなんでも祭りの間中詰めてなければならないとの事。ysugaさんがお祝いを述べると、「いやあご愁傷様だよー」と。只でさえお忙しい身、お体を労われて欲しいものです。
 バーへ行く前に売り子から、去年も飲む前に食べたチヂミを買って食べる。売り子の学生と話すも、卒業して4年も経つと隔世の感がありますねー。
 そして件のカクテルバーへ。今年の母校の学園祭は、春の新歓花見等での急性アル中続出で、H市中の救急車を総動員させてしまったせいで、全学ノンアルコール。よってそのバーもノンアルコールカクテルでした。まあ偲ぶ目的もあり、行って数杯飲む。ysugaさんはなぜかアボガドにご執心。バーテンと今年の学祭と来年の復活について話す。換気の為に開けた窓から見える夜景・・・毎年は夜景が見えるはずが、山が見える。まあそんな夜景(?)に、母校はええなあとちと感慨。後日たん(IMEでは出ない〜)ながら、今回の全学禁酒を決断したのは学部長会議との新聞報道がありました。ああ、M先生〜(ToT)
 まあノンアルコールのまま締めるのもなんなので、そのまま焼き鳥居酒屋へ。まあお馬鹿な話題をツマミに飲み食いしました。ささくんさんが「相変わらずバカだね」と言いそうな感じで。まあ真面目な話題もありましたけど。そして夜も更け、お互いのサイトのマメな更新を誓って散会。誓いは守れてないなあ。特にysugaさん。年末もあり、そして年が明ければささくんさんの1周忌、多くの人と、ささくんさんが「バッカでえ〜」といいそうな会話をしながら酒でも飲みたいです。

2001年10月28日 「教科書」
 今日の午前4時頃から、フジテレビで歴史教科書問題を振り返る番組をやってました。見た方は居られますかね。フジテレビが扶桑社の教科書についてというのも、当事者なのにどうかとも思ったんですけど、面白かったですよ。「新しい」側は殆どつくる会の藤岡信勝氏だけがコメントし、反対の側は様々な人々がコメントし、それを交互にしながら話をすすめる展開でした。
 産経対朝日の構図ですから、微妙に産経寄りですけど、平等に両者の意見を出している分宜しいかと。Nステは「中韓とどうなってもいいとお考えの親や教師はこれを使えばいい」とひどかったですからね。こういう番組は土日の日中あたりにやってもらいたいもんです。
 私個人、この論争はどっちが全面的に正しいとか良いとは思いませんが、今後の歴史教育にとって、この論議は肥やしになるとは思います。しかし自由な議論を遮るものは沢山あります。右も左もどっちの趣味の方にも圧力的な人たちが居ますし、いろんな立場にそれぞれ無知と偏見と利益誘導があります。言論も出版も結社の自由もあるこの日本で多様な教科書があり、議論があるのが当然、やっとそういう時代になったという面もあるかも知れません。ただ暴力はいけません。ルールとマナーは守らなくてはいけません。勉強もしなくてはなりません。どっちの方も傍からみりゃ怖いですし、逆サイドを敵視すること甚だしいので、とても建設的な議論は成り立ち難く、偏見と憎悪に満ちた糾弾をしてるだけに見える部分があります。
 私自身の話になりますが、日本史に興味があって大学の専攻としましたが、大学に入るまで日本の歴史、殊に近現代史というのは、戦前の日本を批判する事である、という感覚が少なからずあったんですね。日本史のサークル活動や専門教育で、歴史の多様さや奥深さを知るにつけ、大分、歴史を自由に見る事が出来るようになりました。多くの方々のお陰です。しかし、以前の私のように、歴史を見るのに不自由な方が世の中にはまだ沢山居られるのではないかと思います。
 テレビや本や歴史を知る術は数多くありますが、それだけ歴史教育は大事だと思います。こう言うと私も「新しい」贔屓のように聞こえるかも知れませんが、日本史の時間を戦前の修身のようにしてはいけないと思います。自由な精神と正しい時代認識を持ち、良いものは良い悪いものは悪いと、それぞれが一様でない歴史観を有することが出来る歴史教育を望んで止みません。結局歴史教育は教師の力量なのかな。
 まあ歴史から学ぶものってのは人それぞれだからね。一つにまとまってると、コロッと反動しやすいですし、ある種の無知や偏見・差別を生みます。それぞれではあっても、明治の日本人が政府も反政府もある種のナショナリズムを共有していたように、現代の日本人も平和な日本を愛する気持ちは共有しているはずです。そこに糸口があると思うのですけども。
 余談ですけど、司馬遼太郎は分かりやすいんだよね。統帥権という魔物によって明治の偉かった日本人と昭和の愚劣極まりない日本人とに断絶されているという。司馬遼には昭和についても小説書いて欲しかったな。
 番組の最後の若い世代へのインタビューで、街角の赤髪のねーちゃんから「閔妃事件」という語が出てきたのはびっくり、鳥肌立ちました。ヤラセではなさそうでしたよ。見かけで判断してはダメね。

2001年10月26日 「若い力」
 今日の業務は高校生相手の解説。展示の解説をやるんですけど、生徒さんにお話するのって凄く難しい。相手が自分より年長だったら、自分と違う引き出しや経験値を期待できる前提で話ができるけど、生徒さん相手は前提どころの騒ぎじゃない。自分の年代以上なら、こっちが勉強になるケースが少なくないし、リアクションが少なくても、少なくとも意味は通っているだろう的な対話が成立するけど、生徒さん相手はそうじゃない。意味をやりとりするっていう意味(変な表現だね)では、殆どこちらから話し掛けるという一方的な状態になってしまう。
 だからこっちは、小さなキッカケでもいいし、教養やネタのカケラでもいいし、日本史の点数の為でもいいから何か持って帰ってもらおうとするしかないです。だからむずかしいね。彼らとせいぜい10年くらいしか人生経験の差が無い訳ですし。
 まあ、こっちは自分の引き出しの中からひねったり絞ったりしながら、事実関係は出来るだけ平易に、そして明治日本の国民8割以上が農民だったとか、当時の村とかは今の○×市☆★の☆★という地名なんかよりももっと小さかっただの、平成と大正とか高度成長期の比較とか、日本史感覚の前提というか、疑問や理解の垣根を取り払って、彼らにイメージし易いようには頑張りましたけど、まだまだ力量不足だな。
 ただ一つ再発見だったのは、若い彼らも理解する態度というか、表情が一様でないんですね。当たり前ですが。当たり前なんですが、人様、殊に未成年者を相手に、語りや活字でモノを言う立場である上で、その一様でない表情と面あわせするというのは大事な事であり、面白いことでもあるなあと、再発見した次第です。解説後のアンケートも、「自由に見る時間も欲しかった」とか「解説が分かり易かった」だの具体的な知的関心も示したりしていて嬉しかったです。いい子たちだったなあ。でも経験上言えるけど、受け持ちや引率の先生によって、同じ学校でも態度が全然違うのも確かなんですけどね。いいときに当たったなあ。
 一方、職場の大先輩S先生は海外からのお客様を相手に解説。通訳付きで。いやあ通訳付きじゃワンクッションだし、対話感覚が掴みづらそう。私にはまだ多国籍軍相手はムリです。終わったあとに上司が、「スネークマンショー見たいだな」って言ったのには爆笑でした(^^;

2001年10月25日 「グラサン」
 今日の日中のNHK総合の番組、首都圏いきいきワイドだったかな?に、トゥナイト2の顔こと山本晋也監督がでてました。ああ、昼の行灯、晴天の蝙蝠…。それだけです。

2001年10月21日 「水沼さん」
 今日はW杯ボランティアの研修会で、水沼貴志さんの講演を浦和に聞きに行くはずだったんですけど、昨日、中学以来の友達と深酒してしまい、結局行けませんでした(TT)

2001年10月18日 「けったくそ悪い」
 今日は業務の日。なんだかバタバタした1日だったんですが、その締めにけったくそ悪い事が。私の勤務先は17時閉店なんですけど、閉店後にきたんですよ、客が。客っていっても、勤務先は某公務員養成所の附属機関みたいなもので、その学生(といっても公務員見習や公務員勤務数年の研修者)だったんですけど。まあウチはそううるさくない機関なので、私の先輩職員がその学生が所望の史料(業界の機関紙)を探しに書庫に行きました。別件もあってか、なかなかその職員が書庫から戻らなかったので、気を利かせて書庫に降りたら、所望の史料は無い、との事。早速上がってその旨を学生に伝えると、「本当に無いのか」「また改めて来ても無いのか」とのたまう。そういった雑誌類は製本して集合して配架してるから、所在はわかるしいい加減な管理をしてる訳ではないと説明して、色々な方面から史料を受け入れている関係上、今後一切、その史料が出てこないとは言えないが、現状では所蔵していない、と丁寧に説明しても、なお食い下がる。不信や倣岸を露わにしつつ。ネームバッチで判別できるんですけど、そいつらは大学を出て公務員試験を受け、部署に配属されて数年で研修に来てた連中だったんですね。要は幹部になる連中です。そういったエリート様は、付属機関の嘱託職員風情が自分の希望を叶えてくれない事にご不満だったのでしょう。こっちは理で史料が無い旨を説明し、誠意で閉店後も調査しているのに、無いという理屈も理解できない頭と、閉店後も探し丁寧に説明している誠意を感受できない精神で、「この怠慢無能野郎が」とでも言わんばかりの表情で居るのです。数人居ましたが、その中のリーダー格の男は、全く承服しかねる信用しかねるといった表情のまま去りました。おためごかしのありがとうすら言わずに。
 ま、こういう差別的権威主義者もいるのだな、公務員には。と思いましたね。人として頼みごとをする以上、いくらこっちがサービスする立場とは言え、同じ職場ですし時間外ですし、一言あるのが礼儀でしょう。それが時間外でも同じ職場だからという特権意識と、将来の幹部職員という愚かなプライドが、こっちを低能あるいは無学とさえ見るような目つきをする、勘違いな思いあがりを持たせたのでしょう。こうした輩が奉仕者であるという自覚を忘れたダメ公務員になっていくのでしょう。以前TVで国家1種公務員試験合格者の特集をやってて、東大卒の合格者たちが、受かったとたんに「国民にたいして…」とかへらへら喋っていたのを思い出すのですが、こういった連中はプロ意識ってないんでしょうな。あるのはエリート意識だけで。逆学歴差別や全ての公務員の方々を批判するわけではないですけど、職に対するプロ意識と、人としての普通の感覚を喪失した連中が、官界には上の方にも下のほうにも沢山います。民間もそういう所があるのかも知れないけどね。しかしともすれば相反するこの二つの意識・感覚は非常に大事だと思います。自ら気をつけねばね。
 私?、私は、あのダメ公務員の連中を相手にした時は、ひっじょおに丁寧に接客しましたよ。慇懃無礼でもなく、しっかり丁寧に親切にね。でもその後同僚相手にぶち切れ大発動でしたけどね。うふっ

2001年10月14日 「波平」
 今日のサザエさん、ワカメが隣りのウキエさんに憧れて、三つ編みを志す。朝食のシーンでヘアトニックの匂いに気付いた波平が「カツオっ!また勝手に使ったな」。しかし使ったのはワカメと判明。三つ編みの為に付けたらしい。という事で、波平はあの状態でも、育毛剤を使用している事が判明。そこでマスオが「ワカメちゃんはそんなの付けなくても充分フサフサじゃないかぁ」。墓穴を掘るマスオとむくれる波平。サザエさんも際どい話をやるなあ。その後、ワカメがワカメサラダを食べたりと、結構すごい話題でした。

2001年10月6日 「えっ オレ?」
 W杯ボランティア第2弾に言ってきました。この日オープンの埼玉スタジアム2002のオープニングイベントのサポートでした。朝6時出は朝がダメな若じじい的には大変でしたが、なんとか東浦和駅発のバスに間に合いました。
 ボランティア業務は9時から17時まで、観客席やコンコースの観客案内の業務でした。オバちゃんオジちゃんばっかりでしたよ(ToT)。なかでも隣りのエリア受け持ちのオババ(市井の中村玉緒といった感じ)がヤケに馴れ馴れしくて、しょっちゅう話し掛けにやってくれるは、怪しい飴はくれるは辟易でございましたよ。
 プログラムは知事や県民による初蹴りから始まり、レッズとアルディージャの選手の模範演技と続きました。プロの模範演技ではアルディージャの2選手とレッズの永井・福永の2選手(いかにも三菱的人選と思いましたよ。こういう時は生え抜きじゃなくて人気のある阿部やトゥットでしょ。永井はともかく福永とは。やや脱線)がぬるいボール回しをしてました。
 ハトこそ飛ばなかったものの、環境に優しい天然ゴム製の風船を飛ばし、レッズの公開練習を経て、青少年による練習試合が行なわれました。高校生・中学生・小学生の男女の埼玉選抜がそれぞれ行なったんですが、一番面白かったのが埼玉女子代表U12(小学生)でしたよ。高校生男子はスピードとパワーはあっても、ボールサイドに固まる素人のような蹴り合いでしたし。小学生女子チームはポジショニングやボール回しからしても面白かったです。中でも18番をつけた選手が凄かった。いきなりセンタリングを頭で決め、ボールを呼び出す動きも良く、ゴールキックをカットしてワンタッチでシュートしたり、サイドからの切り込みのスピードやフェイントが素晴らしかった。この年代だと飛びぬけた選手が際立ってしまうのかも知れないけど、将来の日本女子代表に育つかも。結局たった10分間の試合で2点決め、引き上げる時に近くへ見に行ったら、ハーフっぽい顔立ちでした。ゴールの名前コールが日本名でしたからハーフや外国籍ではないかもしれないけど、技術と精神を感じたプレーぶりでしたよ。
 業務は午後から暇になったので、2階席やらを見学にぶらつきましたが、このスタジアムは最高です。陸上トラックがないおかげで1階席はなにしろピッチに近いし、2階席はピッチ全体が良く見えフォーメーションやパス回しが真上から見る感覚で見える。ミーハー的には1階、サッカー全体を見るなら2階席といった感じです。ここで来年のW杯を見る事が出来る人は幸せだなと思わずにいられませんでした。
 午後は暇暇だったという事で15時ころにはゴミ拾いを各自して自由解散になりました。ゴミは結構ひどいです。少年サッカー団が数多く来てたんですけど、コーチはそういうとこまで指導しないんだろか。煙草等の大人のマナーは良かったです。ミルクのお湯が欲しい方がいて、私が係員に尋ねても知らずとか、・・・という場所はここかと聞いても知らない警備員とか、運営側の右往左往も数多く目に付き、前途多難な気もしましたが、非常に面白い体験でした。
 全部終わってオーロラビジョンを見てたら、埼玉県のサッカーの歴史の紹介ビデオを流してました。フランスW杯予選の岡野のVゴールの節のとき、岡野のVゴール記念で浦和駅前の伊勢丹前広場で凱旋イベントがあったんですが、その事も紹介され、喜ぶファンの姿も映りました。「あれ、あの帽子と垂れ目は…」、そうです。私が映ってたみたいです。いやあ、私も埼玉サッカーの歴史の1ページに名を(顔を)連ねたのね。埼玉県公認で。

2001年9月29日 「ゴミ拾い」
 先週末、W杯ボランティアの研修の一環として、埼玉スタジアム2002周辺のゴミ拾いに参加してきました。とりあえず、スタジアム、駅から遠すぎ。埼玉高速鉄道の浦和美園駅から1.2キロ。時間的距離にして15〜20分。駅前で話し掛けてきた同じボランティアのおっちゃんと話しつつで気が紛れたものの、帰りの1人の時は歩けど歩けど…。この遠さは計算の上らしく、イベント時の収容人員6万3千が一気に捌けるとヤバイという理由らしいけど遠すぎ。こんな遠いとこに一緒に10月13日の柿落としマリノス戦に行ってくれるお方がおりますでしょうか(ToT)
 ともあれ、散々あるいた挙句着き、ゴミ袋と軍手の記念品(携帯ストラップ)を頂き、およそ1時間のゴミ拾い道中へ。気軽なものだろうと高をくくっていたものの、あるもんです。ゴミ。結局空き缶やらコンビニ弁当の箱やらを袋一杯に拾って終了。
 終了後、スタジアム見学に入場。一般公開前なのでドッキドキ。カメラもっていけばよかった。スタジアムのサイズは陸上トラックの無いサッカー専門のせいか、6万3千のキャパの割りに小さめ。横浜国際より一回り二周りは小さい。しかしサッカー観戦には最適です。一階席からはピッチが目前です。なんでも一階席は横浜国際のトラック部分に収まる近さらしいです。ふふふ、マリノス戦は2階席だけど、国立や横浜よりも近いとこで望遠レンズに選手を納める事が出来そうです。中村俊輔とか波戸とか松田とかイングランド行っちゃう川口とかね…(ToT)
 試験中のオーロラビジョンに大写しされた自分のツラのあまりのエロさに自己顰蹙でした。(オチ)

2001年9月16日 「NEXT DECADE」
 中学以来の付き合いの友人と久しぶりに会う。中学の修学旅行の夜以来、当時仲間ウチで流行ってた三国志(横山光輝の漫画)になぞらえて、それぞれ玄徳・関羽・張飛・趙雲・孔明の「5人組」として固めた縁だったが(ちなみに私はなぜか関羽)、最近は多くて3人までしか集まらず。まあ1人(玄徳)は都合で来れなかったが、久しぶりにリラックスしたひと時を送りました。あれからもう10年、早いもんです。劉備はメーカー勤務、張飛は某団体の厚生関係、趙雲は郵便局員、孔明はコンピュータ会社、関羽は…まあ学芸員と、雲長以外は堅気になってるわけです。変わった境遇に変わらない間柄、この10年色々とあったけど、なんとかそれぞれやってこれた。次の10年はどうなっているのだろうか。またこうして集まってバカやってるんだろうな。

2001年9月7日 「高齢もとい恒例」
 季節の変わり目、朝夕に涼しさが戻ってきた今日この頃、若ジジイこと管理人は、まんまと風邪をひいちまいました。火曜の仕事帰りあたりからなんか体が妙に熱く感じて、ヤバイと思ってはいたんですけど、翌日の職場の飲み会の2次会カラオケの頃には意識朦朧。睡眠攻勢の結果、今日に至ってようやく微熱程度になりました。原因は寒いくらいの冷房で厚い布団かぶって寝る生活のツケであることは明白です。皆さんも季節の変わり目に気をつけてくださいね。管理人は明日あさってと野外へ病み上がりに鞭打っていっちきます。

2001年8月25日 「旧世紀」
 この21世紀の世に、こんな光景を見るとは…。
 今日、母校での集まりを終えて、終電を乗り継いで家路についていた時に、あるモノを目撃しちゃったんです。それは所沢の駅で飯能行き最終電車に乗り換えるときでした。乗り換えにホームを急ぐ私の目に飛び込んできたのは…、なんと臙脂色の特攻服にサラシ巻の女が車内のドア際にヤンキー座りしている姿だったです。今どきレディースなんているんですねえ。もう21世紀だってのに。帰りに浴衣姿の女の子が多かったんですけど、お祭がどっかであったんでしょうね。夏といえば暴走族。祭といえば暴走族。カメムシの季節になると巷の道路に出没するアレです。まあ臭いと騒音の違いくらいは有りますけど。いわば夏の季語みたいなモンです。思わず「暴走族が電車で帰ってんじゃねえええええ」と突っ込みを入れたくなったんですけど、笑って因縁つけられるのもイヤだったので、観察を断念して隣りの車両に乗ったちょっと臆病なオレでした。

2001年8月21日 「再び山梨 そして台風」
 また山梨行ってきたんですけど、刻々と迫り来る台風11号。台風の雨は降ったり弱まったり。西から東へと逃げ帰り、なんとか地元に帰りついた時には小ぶり。喜びチャリで帰るとウチに着く2分前に豪雨スタート。5秒で水も滴るダメ男一丁出来上がり。明日の出勤時にはピークなんだろうなあ(ToT)

2001年8月19日 「24時間TV」
 24時間テレビ見てて、思い余って武道館へ行ってきました。微々たるもんですが千円ほど募金してきました。あんまりこれまで24時間TVなんて見たことなくて、募金もする事はしても、「ありがとうございました」の言葉が照れくさくて、箱に入れて逃げるように去っていたものでした。ですがこの歳になって、「偽善」という言葉に躊躇しなくなりました。もちろん自分が「善」行をしているなどと宗教者のような事は言わないです。言い方が難しいのですが、偽善もまた善なりというか、無から偽善までの距離感より偽善と善との距離の方が近いというか、「善」なる行為を知らんのに偽りの「善」をいう事は出来ないとか、いろいろ考えるのですが、要は気の持ちようで、自分の気持ちや財布の余裕を出すことで役に立つことがあるのならそれでいいではないか、と素直に思えるようになりました。まあ偽善といえば偽善です。募金なんかで飢餓や戦乱や病気や世の不公平がなくなるわけがない、という考えもあります。その通りです。世界は変わりません。しかし自分を変える事は出来るし、自分に出来る事は必ずあるはずだと思います。大前提は変わらなくとも自分の前提は変えられる。これからさまざまな意味で共生の時代。募金ごときでこんな事いうのもなんなんですが、募金という行為に自己満足するでなく、手の短さの済まなさ申し訳なさを自覚しつつも、その目的に貢献しえた事にささやかながらな喜びを感じる、こんなスタンスも有りなのではないかと思いました。
 武道館の帰り、遅まきながら靖国と千鳥が淵へ行ってきました。靖国の周りには街宣車ならぬ街宣トラック2台が例のおどろおどろしい音響を轟かせながら通過。荷台には「覚せい剤シンナー、たった一度が命取り」という至極まっとうな事を掲げていました。千鳥が淵ではセルフ販売の献花があったので、小泉の隣りに献花。海外戦没者に黙祷しました。今はない祖父の話を思い出したりしてちょっと泣きそうでした。

2001年8月16日 「健康診断」
 私はここでは若年寄という事になっていますが、年寄と自称するように、私はエブリデー不健康満点野郎なので、医者にかかる事におびえる事この上なしなのです。そんな若年寄が何を好き好んで医者にかかったかといえば、転職の面接に必要だったからで、怯えたあげく血圧が150に上昇(実話)。
 私はさしたる問題も無くクリアしましたんで置くとして、問題はそこであった出来事。内科の検診を待っていたところ、そこは胃カメラ室の前だったんですね。そこの脇の椅子に腰掛けるdebuな母娘。その母娘はあろう事か病院内でスナック菓子食ってるんですよ。お徳用チーズ菓子みたいなの。そこに現れた車椅子に点滴姿の中年男性。その様相を見た娘のほう、「かわいそー」と言う。彼女は「可哀相」という言葉が一番可哀相で残酷だということをまだ知らない。無知なのはいい。仕方が無い。しっかし無恥なのは許せない。普通胃カメラ飲む人の前でモノ食うかぁ!?一体全体あのデブ親子は内科に何しに来てたんだろう?

2001年8月15日 「山形 再び」
 今年の夏も山形へ行ってきました。今年は出張で。何を好んでヨリによって帰省ラッシュにあわせて出張行かなならんのだろ。13日から行ったのですが、行きの山形新幹線は山形まで立ちっぱなしでした。
 初日、山形県某町の地域開発センター内の郷土資料室へ。某町へ着くまで、新幹線からローカル線へ、ローカル線から代行バスへ、3時間1本のバスを乗り逃し、タクシーで¥5000ほどかけて到着。出張旅費として落ちるんだろうか。着いてから現地の先生と事務職の方に色々伺うが、当日朝5時半まで転職面接の面接カードを書いていて8時半の新幹線。もう意識絶え絶えの3時間の応対を終えて初日終了。夜は同行の先任者の方と飲む。そこでダチョウの刺身を食う。隣りの若者の会話に耳を傾けると、昼ローカル線内で聞いた若者の友人に関する話と同じだったっぽく、地方の過疎化を痛感。
 2日目、某町内の旧家に赴く。自称大江広元の子孫。素性からして胡乱げな当主が骨董自慢を開始。源頼朝の書、木兵衛の急須、利休の茶壷、乃木希典の軸装、荻生徂徠の額装、尾形光琳の画、平安時代のなんとか、なんとかのなんとか…私、山川の教科書みながら思い出しました。なんでも芭蕉も立ちよったそうで。眉に唾つけるどころの騒ぎじゃなかったですよ。奥さん!次から次へと出てくる品々。お宝探偵団にでも出演されたほうがよさそうなオウチでしたよ。そこを早々に辞去しホントの芭蕉ルートに復帰し、最上川沿いに北前船の町へ。
 3日目、日本一の地主と呼ばれたオウチが立てた美術館に。ホンモノを見ました。それまで由緒ただしげな紛いモノばっかり見てたんで。その後新潟経由で帰京。いやまあ貴重な体験をしました。
 あっ8月15日なのに記念日ネタなしだっ。

2001年8月6日 「クドい」
 2年ぶりにカンコンキンシアターへ。9列目という席でルーの濃い顔もラッキィのオゲレツネタも天野の毒メガネ(レンズ無し)も飯尾の透明ぶりも非常に良く見えました。ルーとウドちゃんが客席の通路をうろついた時には一本槍な芸風と濃すぎる風貌に圧倒されました。有周の出番が少なかったのが少し残念だったっす。その代わり飯尾と西田たか子が大活躍。そういえばLaおかきの相方だった村山はなにやってんだろ。

2001年7月28日 「コンサート」
 7年ぶりにコンサートに行ってきました。最近月イチで舞台やサッカー観戦など。やっぱ生で見るのっていいですねえ。

2001年7月26日 「ナツい」
 風邪もほとんど癒えたけど、…あいかわらずあっついねえ〜。
 先日所用で甲府に行ってきました。盆地なだけあってやっぱり暑い。

2001年7月14日 「アホ」
 夏風邪をひいてしまいました。6月の忙しさのツケか、冷房病か、夏ばてか。いずれにせよ、バカは風邪ひかないっていうけど、夏風邪ひくのはホントのアホらしいです。ほんとアホです。
 熱もちょっと出たものの、外気温はもっと異常な高さで、若年寄(これ使うの久しぶり)の住む埼玉県では、ここ数日観測史上五指に入る暑さ。清盛並みの熱ださないと追いつけませぬ。
 7月終わりから8月あたまにかけては、ちょっと遠出したりコンサート行ったり舞台見に行ったりと用事が目白押しなだけにさっさと治さねば。
 最近週刊ペースなので、もっとペースを挙げたいのですが、今日はアホ状態なのでこの程度で。

2001年7月2日 「また夏がやってきた」
 昨晩いろいろNHKでつまみ食い。まずBSで高田屋嘉兵衛に関する番組を見る。今日から「菜の花の沖」が始まるので番宣も含めてなのだろう。司馬遼のエッセイにのせて送る番組で、ゴローニン事件における嘉兵衛と露艦ディアナ号の副官との交流など、非常に面白かった(でも、今日スタートのBS「菜の花の沖」は見れなかった)。
 番組も終わりしな、NHK地上波のNHKアーカイブスで「戦艦陸奥引き揚げ」をやっているのを思い出し、チャンネルを変える。戦艦陸奥は、日米開戦時に旧海軍連合艦隊旗艦を担っていた長門と同型艦で、ワシントン体制下、長門とならび口径40センチの主砲を備えた、4万トン近い世界最大の戦艦の一つだった。
 陸奥は、そういった大艦巨砲主義時代の産物だった。日米開戦後、航空兵力の時代となり、陸奥は他の戦艦同様、無用の長物と化し、戦争中ほとんど内地に停泊する日々だった。その陸奥が、1943年、瀬戸内海の泊地で突如爆沈したのである。今回の番組は昭和40年代に行なわれた陸奥の引き上げ作業のドキュメントだった(放映は昭和45年)。
 吉村昭の小説で有名な陸奥爆沈事件だが、その真相は謎である。その謎解きはともかく、その映像はかなりショッキングだった。難航する引き揚げ作業がすすみ、1500トンクレーンによって引き揚げられた陸奥の主砲塔が海面から露わになるとともに、すすり泣く遺族たち。あの戦争は多くの国を巻き込み、多くの戦争未亡人と戦争孤児を生み出した。丁度わたしの祖母や父母の年代である。すすり泣く彼らはどんな困難や辛苦を胸に戦後を生きてきたのだろうかと思い、胸につまされた。
 引き上げられた陸奥の艦内には、わずかな遺骨が眠っていた。犠牲者の特定もできなかったことから、厚生省は遺族に分骨したそうだ。またひどく腐食した陸奥は、スクラップにされ、くず鉄として再利用された。私にはばらばらの鉄くずと犠牲者の遺骨とがオーバーラップしてならなかった。また夏がやってきたが、あの戦争の傷あととこの戦後の時代を考えさせられた番組だった。
 余談だが、陸奥の姉妹艦である戦艦長門は、終戦まで沈まず生き残り、米軍に接収され、南太平洋での原爆実験の標的に供された。


2001年6月25日 「衆愚とは?」
 都議選は自民の圧勝だそうで。昨週の某市長選では、「小泉純一郎」と記された無効票が多数あったという。空前の小泉ブームですわ。私は無党派ですし、小泉首相個人に関しては、外交下手そうという以外は、今の所パフォーマンスも上手いと思うし、これからどういった具体的な「構造改革」をしていくのか注目していこうと思う程度です。それほど批判的ではないのですが、景気も政治もなんら変わってないのに、このブームってのはちょっと空恐ろしいです。手詰まりの時代空間に政治家一個人の魅力へ国民が傾倒するというのは、歴史的に非常に危険だと思えます。
 まったく反動とは恐ろしいものです。小泉氏はあの森喜朗の派閥から出てるんです。小泉氏は魅力的かも知れないが、自民党には亀井静香や末広まき子のような政策や思想が粗雑な保守政治屋がゴマンといるわけです。共産党の志位氏が「小泉人気は一時のもの」と言ってましたが、都市部での自民圧勝は、来月の参院選も推して知るべしのような気がします。
 ただ政治家の人気が高いというのは、少なくとも有権者の政治的関心が高いとも言え、この政治離れの時代ただ悪い傾向とも言えない一面がある。細川にしても村山にしても、国民的な人気は高かった(しかし、最近「〜さん」と愛称で呼ばれた政治家はロクな結果を残してない気もするが)。55年体制崩壊までは、日本社会党の「消費税反対」のように、国民が漠然とメッセージを託せる、民意の反映とも言うべき批判があった。イデオロギー的な対立も崩壊し、価値観が多様化する中、無党派層すら与党の領袖の個人的魅力に託する時代となった。強い政治力はメリットも大きいがデメリットも大きい。
 これからの問題は、有権者がどれだけ経験値を積むかだろう。細川政権が、村山政権が、橋本政権が、小渕政権が、森政権が、そして小泉政権が我々に何をもたらしもたらすかを忘れない事だ。この不景気の下、これから生活と政治の乖離は収束し始めるだろう。小泉政権は、公約を守るとすれば、国民にも出血を強いる改革を断行するのだろう。公約に責任を取らない政治家と投票に責任を取らない国民だが、政治家の言った事、自らの投票の意志を忘れない事から始めなければならないと思う。
 先日、田中長野県知事がポピュリズム批判に対して「(有権者の意志を反映しない政治がいい人は)北朝鮮に行けばいい。」といい物議を醸した。この発言の是非は兎も角、昨今の政治状況が現代日本の民主主義の質を問い始めてるという、そんな時代状況を感じて止まない。

2001年6月19日 「こまっちゃう」
 話は先週の金曜日なんですけど(最近記憶力がだんだん怪しい)、私は本業外の仕事で、日産が去る今、優香の出身地という以外に特徴がない某市へ行ってました。その仕事帰り、鉄道が通ってない某市ゆえにバス待ちをしていると、市役所のバス停前を塞ぎ、マイク音量最大で同じ事を繰り返す一団が。そう、都議選が始まってたんですね。その大音響の張本人は某政権与党の候補者。応援に「○○○、こまっちゃう」の名言で有名な某芸能人が来てました。
 私は都議選の有権者ではないけど、結局一回も政策についてはなぁんも言わなかったんだよね。ひたすら名前を繰り返すだけ。仮に山川さんとしたら「山に川の山川です」と名前と芸能人が来てる事を連呼・説明するだけ。某党は組織票が計算できるから、名前さえ覚えてもらえばいいんだろうけど、まったくひどいもんだった。オレだったら選挙では「山本リンダ」って書くよ。名前を連呼するだけの選挙広報の騒音には毎度腹が立つんだけど、もっと利巧な方法はないのだろうか。リンダの生顔と低劣な広報にゲンナリウンザリな夕暮れでした。

2001年6月18日 「ここは何処」
 先週の土曜日、あるシンポジウムで早大に行って来たんです。シンポに行くはよかったが、早稲田の何処でやるんだか失念。「んん〜、確かなんとか講堂、ええと早稲田といえば大隈講堂?」と行ってみたらば、なんたらちゅう演劇の看板。結局構内を徘徊し、10分の彷徨の後、無事(?)小野講堂でシンポの看板を発見。
 シンポが終わって、高田馬場方面へ歩いて古本屋でも見ながら帰ろうと歩く。歩けど歩けど、見覚えのある通りに着かない。途中でラーメンを食い20分ほど歩いて早稲田の駅に到着。歩き疲れでもう古本屋巡りを断念。地下鉄で表参道行って歩いて原宿方面へ行こうと東西線・千代田線乗車。これが運の尽き。表参道で降り歩く歩く歩く。んん、ここは港区青山。ちっとも渋谷区に近づかない。なんとか道路標識をたよりに方向修正しつつ歩き続けた若年寄が見たものは秩父宮ラグビー場。なんと代々木へ来ちまった。
 もう原宿も断念。国立競技場駅から大江戸線で練馬乗換えで帰ろう。新宿御苑・神宮球場・国立競技場の裏を通り、案内番も国立競技場駅まであと800m、300m、40mと来て、ようやく駅に着いた私が見たものはシャッターに閉ざされた駅入り口。どうやらイベント等の際にしか使用されない入り口らしい。近くに他の入り口があるだろうとたかをくくり歩くも見つからず。結局中央線沿いに歩いて、やっと信濃町の駅に着く。どうやら中央線にぶつかった地点は千駄ヶ谷との中間地点だったようだ。結局、表参道から1時間以上も歩いた。ふぅ。
 オレってちょっと方向音痴気味かもって思わないでもなかったけど、気味どころじゃすまない一日でしたわ。歩いた時間トータル2時間、もう何処にあるかわかんないけど万歩計付けときゃよかった。今日は脂肪燃焼ばっちりデー。

2001年6月14日 「ジュエリーと私」
 今日の夜10時すぎ、自宅電話に若年寄あての電話。この時間、携帯以外に来る電話に訝しみながらも、階下の親に呼ばれて受話器を取ると、案の定テンション高め、馴れ馴れしさ過剰の営業電話。西新宿のジュエリーショップだそうで、なんでもワンダフルやトゥナイト2でCMやってるとの事。仮に見てても「ああ、見てますよ」なんていえねーよ。でも矢継ぎ早に商売っ気以外の話をする自称21歳にちょっと好感。危ない危ない、これもあっちの手なんだよね。私はカワイイおねえちゃんのトークに幻惑されて、旅行会員権を買っちまった人を知っているのだ。10分くらいでやっと脈なしと分かってもらえたのかさようなら。即座に「要らん!」と電話を切れる漢になりたい。

2001年6月9日 「手相」
 ある集まりで宇都宮へ。餃子食って集まりに参加して餃子食ってお土産餃子買って帰る。しまった。餃子の像を見るのを忘れた〜。
 その帰り、ビンボーな私は在来線と私鉄で帰ってきたのだが、新越谷と南越谷の乗り換えの時、「手相の勉強をしてるんですけど〜」って満面の笑みで言われてしまった。だからオレにどうしろっていうんだ?ちょっと引きつった笑みでそのままサヨナラ。半素人に運勢をどうのされたくない。なんか見回すと、同じ質の笑みを浮かべてキャッチしてる人がチラホラ。恐るべし越谷!

2001年5月23日 「1周年」
 このサイトも今日ではや1周年。1周年までにはリニューアルと思ってましたが、なにやらかにやらで結局間に合わず。今後にご期待ください。

2001年5月23日 「コードギリギリ?」
 昨夜のNHK−BS、リーガ・エスパニョーラのレアル−バジェカーノ戦やってました。中継の栗田アナが叫んだバジェカーノの選手の名前に夜中一人で失笑。
「デ・クィンタナ〜!!!」。わからない人は10回繰り返し読んでみてください。
 前回の五輪だかW杯の女子バレーボールで、東欧の選手でティムコさんという選手がいました。やっぱりスパイク決めた後にアナウンサーが「ティムコ〜!!」って叫んでました。分からない人は10回繰り返して言ってみて下さいね。お下品でした。

2001年5月16日 「怒りの地元民」」
 昨日の塩川財相の「忘れちゃった」発言はがっかりでした。でもホントに「忘れちゃった」っぽくてちょっと怖い。やっぱ主要閣僚にジジイはダメだ。
 ところでテレ朝のダイオキシン野菜裁判もがっかり。しっかりテレ朝得意の先走り報道なのに、司法は「危険性を知らせるという報道の趣旨は適当」と農民の訴えは全面棄却。テレ朝も「あの報道は遺憾だったが」くらい言うかと思えば、「(司法が)我々の放送の趣旨を理解してくれた」と開き直り。現場の隣町に住む地元民として知りたかったのは、何を食べたら危険か、何が危機に瀕しているか、ということです。それなのに「野菜がヤバイって言ったけど実は煎茶だったよ。でも訂正も謝りも補償もしないよ」ってそれが適正で公正な報道か!お茶なんて沢山飲んじまったわい。詐話屋め!
 結果としてテレ朝のした事は、ワタシら地元民の健康を更に危険にさらし、なおかつ地域農業を経済的に追い込んだ訳でしょう。そういう事しといて、テレ朝も報道内容が公正でなかったことも取材能力が無能でないことも認めないのであれば、報道の誤謬によって生じる可能性のある損害を、なんらかの意図から未必の故意的に引き起こしてると言わざるを得ないと思う。テレ朝もこういう「眉をひそめて眉をひそめさせ商売」だけでなく、もっと地に足ついた報道姿勢を持って欲しいものだ。報道だって商売は大事だけど、虚報が人を殺すことすら容易だという自覚と自制と自省くらいもってもらいたいもんだ。

2001年5月15日 「ヤギ男爵」
 更新を休むまえまでの文章を見てみると、なんかバカボンの事ばっかり書いてましたねえ。バカボンの後は羊男(©村上春樹)ならぬ山羊男。さしずめヤギ男爵?バカボンのリバウンドだけではないのかも知れないけど、ヤギ男爵の支持率は91%だそうで。国会中継の視聴率も高いようで、バカボンもキャラ的には際立っていたけども、ヤギ男爵の姿勢の良さと自分の言葉で喋るサマが新鮮に映っているのでしょうか。
 しかし、ヤギ男爵の公約はポピュリズムとはかけ離れたものになるはず。9割の支持率がどこまで下がるのか。下がったとしても結果はどうなるのか。宮沢内閣から非自民連立を挟んでバカボンに至るまでの失政を継ぎ、後世どのような歴史的評価を受けるのか。ヤギ男爵と9割の支持率から、そんな興味が沸いて来た。ヤギ男爵がサギ男爵にならない事を祈りたい。
 それにしても野党、特にハトカンはだらしないねえ。第二党としての代案・有効な批判も出せず、揚げ足とり的な批判に終始している。まるでちょっと昔の某野党みたいだ。とても政権交代を望めるとは思えない以上、せめて自分らの政策を現政権に反映させる批判なり妥協なり、柔軟な態度と建設的な議論を見せて欲しいものです。

2001年5月14日 「ひさびさに」
 3ヶ月ぶりの日記更新です。
 ここまで長かった…。
 パソコンがイカレたり引越しがあったりと、まあいろいろありましたが、ようやく更新できるようになりました。
 これから更新していきますんで、どうぞ宜しくお願いします。

 

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