テレビドラマでは必ず番組の最後に 「この物語はフィクションです」のテロップが入りますよね。
あれどういう意味合いがあるんでしょう?だって他のメディアでは見当たらないじゃないですか。
まあ、マンガなんかでも、 (色んな意味で)政治的なしがらみが強い作品だと 欄外に書いてあるときあるけど、 テレビドラマはそういうのにかかわらず「必ず」入っています。それにしてもなんであのテロップを 「テッテッテ〜レビ〜を見〜ると〜きは〜」(byこち亀) のテロップみたく番組の冒頭で流さないんでしょうね。
さんざん物語を語っておいてから「フィクションです」ってやるより 冒頭で断っとく方がよっぽど筋ではなかろうか。
まあ、番組の頭で「この物語は嘘っぱちです」ってやっちゃうのも 無粋といってしまえば無粋ですから、 そういう配慮かもしれないとも思うわけですが。いや、テロップをどこに入れるかはともかくとして、 論点はそもそものテロップの意味合い。
これを僕なりに考えてみたんですけど、 もちろんテレビですから、画面に映るものはすべて実在するわけで、 それの物語の中での扱い(悪徳企業の社屋だとか)と 実在する「物」(ロケ現場の建物)との関連性は一切ないよという、 これはまず最初に思いつく理由。でも今回僕が脚本を書きあげたとき、別の理由が思いあたりましてね。
というのは、きっとテレビの脚本家も、脚本を書くとき 自分の身近な人物とかをモデルにしたり 身近な出来事をネタにしたりしてるはずじゃないですか。
そういうときその、作者に身近な人物が そうやって出来上がった作品を観たとき 「あ、あのときのあれか」とか、 場合によっては「あ、俺のことだ」とか思うと思うんですよ。だから「この物語はフィクションです。実在の人物・事件とは一切関係ありません」っていうのは そういう風に言われることに対する 脚本家の予防線なんじゃないかなーなんて。
……まあ、以上のことは半分冗談なんですが、 今回脚本書いている時期、ごく個人的なことで精神的にすっごく辛くて、 とてもじゃないけど何か物を創るってことができなくなってて、 ついつい身近な人をモデルにしたりネタにしたりしてしまって。
でも書き上がってから、 「あいつがこれ観たとき、『自分の事だ』っておもうやろなあ……」 という思いが頭をよぎったと。
そういうわけです。でも、いくらモデルの人物や元ネタがあるからって、 それをそのまんま使わないで自分のなかでダイジェストしてから 脚本にしているわけでしてね。
そのダイジェストする過程でやっぱり 僕の脚本を著作物たらしめる僕自身の創造性が付加されていて、 脚本上のネタと元ネタはまるっきりとは言わないまでも 別物になってるはずなんです。
そこは明確に一線を画する必要があるんですよ。
僕はドキュメンタリーを書いたつもりは毛頭ないんですから。だから、よっぽど「この脚本はフィクションです」と パンフに書いてやろうかと思いましてね。
でも、それはできませんでした。
何故なら舞台はディズニーランドだから。この「舞台はディズニーランドだ」というのは 高校生くらいのころからいつも言ってた僕の持論みたいなものなんですが、 成井豊が「ケンジ先生」という著書のあとがきで 同じ様なこと言ってるのを最近知って複雑な思いを抱きまして ――と、それはともかく。
ディズニーランドでは従業員のことキャストって呼ぶんですよ。
そしてキャストは入場客のことをお客さんと呼ばずゲストと呼びます。
で、ここからは一ディズニーランドファンの個人的私見なんですが、 つまりディズニーランド自体が大きな舞台なんですね。
で、そこではミッキーやドナルドが実在する(生活している)世界が 創り上げられていて、 ミッキーの中身のお兄さん(かどうか知らんけど)から ワールドバザールの売り子さんまでが その世界の住人を演じているキャストなわけです。
そして僕らはその舞台の上にあげてもらっているゲストだというわけです。ディズニーランドは舞台であるというアナロジー。
逆もまた然り。
程度や質の差こそあれ、僕が理想とするのはそういう舞台なんです。
だから「芝居を観るため」というよりは「久しぶりに誰々に会うため」で あっても、交通費かけて入場料払ってせっかく会場に来てくれた方々に 「これから演ることは嘘っぱちなんだよー」なんてこと、 わざわざ言うこっちゃないと思いましてね。
もちろん観客はそんなこと承知で観にくるわけですけど、 それを改めて演じる側に言われるのはまた別の次元の話。そんなわけでパンフレットに 「この物語はフィクションです」と書くのはやめにしたのでした。
本当のこと言うとすごく書きたかったんですけどね。