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| 猫的武道論 |
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猫的「武道とは何か」
しつこいようですが、「猫的武道」ではなく、「猫的」、「武道とは何か」です。 骨法師範の各著書を始め、「五輪書」から「武士道」など、 多種多様な武道系書物を読んで、猫なりに納得した「武道論」を語るということです。 むろん、実地は皆無のため、観念的にならざるを得ません。 戦いの旅を続け、己が身体にて武道の極意を体得した――という方などは、 鼻で笑っといてくださいませ。 もっとも、そんな方は、始めからこんな駄文は読まないでせうけれど。 |
ねこ語る。
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スポーツと武道 しかし、その意味と目的は、180度違うと言っても過言ではありません。 スポーツとは、「格闘競技」の項で述べた通り、「趣味」であり、その目的は「命の謳歌」です。 では、「武道」とは何か。 一言で言うと、「サバイバル」です。 すなわち、生と死の境目にあって、生を掴むための手段。 格闘における生死の境目とは、要するに殺し合いの実戦のことであり、 それに勝利し、生き延びるための技術のことを言います。
実戦にルールはありません。 雲突く大男に、冴えない小男がケンカを売られて、 「体格が違いすぎる、卑怯だ」 などと叫んでみたところで、相手は容赦してはくれませんから。 逃げられればよし、逃げきれなければ――やるしかなく、勝つしかありません。 そこからして、ルールの下に「比べっこ」をする「スポーツ」とは、根本的に違っているわけです。
もっとも――正確には、それは「武術」と呼ぶべきモノであり、 武道とは、それを更に昇華させた、 日本人独特の道徳観とでも言うべきものだと考えますが。 |
ねこどんどんかたる
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武道のエッセンス
なにごとにも、エッセンスというものがあります。 それは、突き詰めるとそこに辿りつく、シンプルな共通項のことです。 そして、武道のエッセンスとしては、骨法の道場訓がとても判り易い二言を採用していますので、 ソレをお借りして話を進めたいと思います。 「用美道」 「捨身成仁」 ――これだけです。非常にシンプルです。 これに解説を加える、という形で行ってみたいと思います。 |
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「用美道」――の、「用」。
これは、「実用」の「用」です。 「実用」とは、もちろん、「実戦」に耐え得る技術――の、ことです。
先に述べた通り、実戦にルールはありませんから、ありとあらゆる状況に対処できなければなりません。 「格闘競技」においては、「危険」なため、ほとんど「反則」とされている技――、 目突き、かみつき、金的、チョーク、寝て、あるいは背後からの打撃。 果ては、武器の使用、一対多勢。 これらは、危険「だからこそ」、実戦では多用される技です。なんとしても防ぎましょう。
攻撃は、有効ならなんでもいいのです。打撃でも、投げ技でも、締め技でも。 武道とは、生き延びるための技術なのですから、防御が第一なのです。 「サミングしやがった、反則だ」などと叫んでみても、防御技術の甘さを笑われるだけです。 ていうか、目を潰された時点で、次の瞬間、あなたは死んでいます。 実戦においては、負けはイコール「死」なので、死にたくなければ、防ぐしかありませんね。 ということは、具体的な体術うんぬんよりも、「なんでもありうる」という「意識」の方が重要といえます。
というわけで、実用に耐える、身を護り、敵を倒す、技術と意識―― それが、「用」であり、「武術」とほぼ同義語です。 とはいえ、勝って生き延びるためならなんでもいーやとばかり、 こんな技の応酬ばかりでは、残酷だし醜いし、野蛮でたまりません。 そこで、次の概念が表れて来ます。 |
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「用美道」――の、「美」。
これは、文字通り、美しい技、という意味です。 と、言っても、見た目の華麗な技――という意味ではありません。 ムダを省いた、シンプルな技。 計算された、その場に即した、見事な技――という意味です。
何も、現実の腕力ばかりが、「技」ではありません。 戦国の世、ある剣豪が、船の上でケンカを始めた乱暴者を諌めるため、勝負を挑みました。 船頭が戦場に選ばれた中州の小島に船をつけ、乱暴者が勇んで飛び降りると、 剣豪は、船頭の竿を取り、島から船を引き離してしまいました。 小島に置き去りにされ、呆然とする乱暴者に、剣豪は言いました。 「これが儂の無手勝流じゃ。そこでしばらく頭を冷やすがよい」 ……これを卑怯だと思いますか? でも、戦えば、自分も相手も、ヘタすると船の同乗者も、ケガしたり死んだりします。 その場の状況を利用し、ムダな体力もつかわず、よけいな血も流さぬ。 見事な「技」といえるのではないでしょうか。
場にそぐわない、ムダの多い技を使うと、体力もムダに消費しますし、相手もなかなか倒れません。 そういう意味では、「用」とも即した概念とも言えます。 実戦では、いかに早く敵を倒すかも、重要なファクターですから。 そして、ムダなくスッパリと倒すことは、次の「道」という概念にも繋がります。 |
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「用美道」――の、「道」。
これは、「人道」の「道」です。 この項は、非常に難しい概念となります。 なぜなら、何を持って「人の道」とするのか――そんなマニュアルは、この世に存在しないからです。 そもそも、「ルールなし」の意識こそが「武道」なんですし。
とりあえず、武道の目的は、己が身を護ることが第一義なのですから、 それが達成できるにもかかわらず、必要以上に相手を傷つけることは、「残酷」であり、 人の道を踏み外した行為と、言えないこともありません。 ゆえに、「美」の項のように、なるべくムダなく、スッパリ倒す――という考え方があります。 それも、殺さずに済むなら、なるべくそのように。 なにしろ、ケンカ売られて、武器使われても、殺しちゃうと過剰防衛になるのが日本という国です。 そんな、法治国家の現代日本という現状にも、この考え方はよくマッチしますし。
しかし、「武道精神により、人道に則って、美しく倒そう」などと考えていて、 殺されちゃったらバカです。 第一義であるはずの、「己が身を護る」が達成できませんから。 だから、その兼ね合いをどこに置くのか。 その見極めを、いかに体得するのか。 その精神を実現させるには、どこまで強くなればいいのか。 そもそも、その精神……「用美道」とは――特に「人の道」とは、何なのか。 それを求めて歩む、果てなき道。 それをこそ、「武道」というのだと思います。 |
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「捨身成仁」
「身を捨てて仁を成す」――と読みます。 「用美道」が、実際の戦いにおいて「どう戦うべきか」の「作法」だとするならば、 こちらは、「なぜ戦うのか」という道標みたいなもの、でしょうか。
修行の末、武道の精神をほぼ体現できる≪力≫を手に入れたとして……どう使うべきか。 もちろん、無法者の暴力から「己が身を護ること」が、武道の第一義です。 しかし、道で、か弱い女性や子供が、無法な乱暴者に襲われていたとしたら、どうしましょう。 「己が身を護る」という観点から、余計な危険を避けるべく、無視しますか? それはあんまりでしょう。自分も女子供レベルの実力ならともかく、仮にも「武道家」が。 それに、「用美道」の「道」に、反するような気もしますし。 でも、無闇に危地に飛びこむのも、「第一義」に反するような気がしないでもありませんね。 ――だからこそ、「身を捨てて」なのです。 あえて、「己が身を護る」という第一義を投げ捨ててでも、人を救うという「仁」を成せ! それが、「武道家」――「もののふ」の精神だ、という意味なのです。
だからって、仁を成すべく死ぬのが潔い、というわけじゃありません。 「武士道とは、死ぬことと見つけたり」 ――という有名な言葉がありますが、 これだって、決して、ホントに死ぬことを指しているわけじゃあ、ないと思います。 切腹なんて物騒な作法があるので、勘違いされていますが、 あくまでも、「死を恐れぬ勇気と覚悟をもって生きるべし」という意味だと私は見ます。 だって、仁を成すべく死地に飛びこんでも、ホントに死んだら仁は成せませんから。 たとえば、襲われている人を助けようというのなら、自分が死んだら助けられませんよね。
死を恐れぬ覚悟で死地に飛びこんだなら、「用美道」の精神で戦い、 「第一義」に基づいて、勝利し、生き残らなければいけません。 「死ぬことと見つけて」おきながら、そう簡単には死んではいけないわけです。 厳しい条件です。 そう簡単に実行、実現できるものではなく、ひとつの理想論です。 しかも、「成すべき『仁』とは、いったい何なんだ?」という難問も立ちはだかります。 それは、「道」と同義語なのかもしれませんし、違うのかもしれません。 しかし、難しいからこそ、それを達成できたと思える瞬間があれば、 その瞬間の誇らしさは、何物にも代え難いでしょう。 その瞬間を求めて、歩む道。 それも、「武道」という道なのかと思います。 |
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武道の試合
これに関しては、「格闘競技」のページでも、ちょこっと言いました。 武道の技術を体得するのに、「型」ばかりでは、自分がどのくらい強くなったのかわからない。 でも、平時に戦時と同じコトをしたら、死ななくてもいいところで死にまくり、 「生き延びる技術」としての第一義が、いきなり吹っ飛ぶ。 だから、「できること」を制限し、「安全性」を考慮した規則――「ルール」を決めて、 それの下に、自由組手を行う、と。
結果として、見た目は、「格闘競技」のそれと、なんら変わりません。 ただ、決定的に違う点は、何度も言うように、「目的意識」です。 「スポーツ」として成り立った「格闘技」の試合は、試合それ自体が目的です。 「どちらが上手か比べっこ」をして、勝てば嬉しい、負ければ悔しい。 そこに込められた意味は、それで終わりです。 プロともなれば、その勝敗に生活もかかりますが、 格闘の技術そのものが、直接命にかかわるわけではありません。
一方、武道においては、試合とは、己の腕前のチェックにすぎません。 その向こう側に、「実戦」――命のやりとりを見るのです。 チェックに過ぎないとは言っても、「命のやりとり」を想定したチェックなのだから、 これは恐ろしく重要かつ真剣です。 軍隊の兵士に言うところの、武器のメンテナンスと試し撃ち、に価しますから。 「ルールなし」の試合など、「総合演習」といったところですか。
だから、勝敗のつけ方、「ルール」への考え方も、180度違ったものになります。 例えば、ある空手の試合で、「やめ」の声がかかった時、 一方の選手は即座に拳を引き、戦闘態勢を解いてしまったのですが、 相手の選手は、勢い余ったのか、聞こえなかったのか、 そのまま上段蹴りをぶちこんでしまい、拳を引いた選手をKOしてしまいました。
「スポーツ」ならば、もちろん「ブレイク」の声のあとに攻撃した方の選手の反則負けです。 「ルール」は「絶対」でなければ、きちんと「比べっこ」できないからです。 しかし、審判は、やられた方の選手のKO負けを宣しました。 「――これは武道の試合である。 相手が戦闘態勢のままなのに構えを解くことは、油断以外の何物でもない。 実戦ならば、その時点で死んでいる。ゆえに、KOされた方の負け」 ――と、いう理屈で。 つまり、「ルール」は、あくまでも勝敗を決したり安全を図るための便宜に過ぎず、 自分たちは「実戦」のシミュレーションをしているのだ、という意識なわけです。
だから、よく柔道などが「スポーツ化した」などという声を聞きますが、 当たり前なんですね。 海外の選手たち、コーチなども含め、みんな「スポーツとして」やっているんですから。 「命懸け」の実戦を見越したシミュレーションとして見る日本人と、 「娯楽」としての「比べっこ」とする外国人と。 噛み合うわけがない。 少なくとも「国際式」は、「スポーツ」と割りきるべきかもしれません。 「スポーツ」には「スポーツ」の良さも意義もあるのですから、 それは決して悪いことではないでしょう。
また、柔道に限らず、すべての格闘技において、 「どっち」なのかハッキリしておくことは、選手にとってもよいことかと思います。 修行の心構えが違いますから……。 そう言えば、「骨法の唄」の歌詞に、こうあります。 ↓ 「遊びか、本気か、ハッキリ、させろ! やるか、逃げるか、ハッキリ、させろ! お前の、勝手さ――」
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まとめ
ルールの下に競争するのが、スポーツです。 そしてそれは、法治国家時代の現代社会そのものでもあります。 しかし、それは一方で、「ルール」という枷が外れた時には、どうしていいかわからず、 やみくもに暴れ回る怪物に人を変えてしまうことでもあります。 事実、「第1回アルティメット・ファイト」では、 初めて「ノールール」の金網に放りこまれた選手たちが、残酷なファイトを演じてしまいました。 「暴動」なんてモノも、集団がルールの枠からはみ出した時に起こるモノです。
そこで、「武道」です。 武道に「ルール」という考え方はありません。 だからといって、「力」が全てを制する、などというわけでもありません。 「武道」において、己を律するのは、己自身です。 ルールというガイドラインに頼らず、己の目で「道」を見極め、己の足で歩むのです。 武士の世界に、「切腹」などという物騒なしきたりがありますが、 あれは、「己自身で己の犯した罪を裁く」という意味です。
法は外にあらず、己が内にあり。 己自身が己を律していれば、外側のルールが無くなったところで、 何もあわてる必要はないでしょう。 そして、それは、国際化社会で、ルールの枠がゆらぎつつある現代にこそ、 もっとも求められるものではないでしょうか。
そう、「武道」とは、腕力だけの問題ではなく、生き方そのものを問うことなのです。
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