五行推命学研究所
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「清明上河図」と徐子平

                                   旧「随想閑話」(2012年01月17日)



 平成24年は壬辰年、水神うごめくの年。何かと“水”にまつわる象意の年となります。日干「壬・癸」の方は、概ね試練の年となりやすく、日干「丙・丁」は活気ある年となることでしょう。
 さて、私は去る1月12日(木)、東京・上野の東京国立博物館に訪れてきました。現在、特別展が開催されているからです。中国歴代王朝の名宝を紹介する特別展「北京故宮博物院200選」です。1月6日~2月19日まで間、開催しています。そのメイン展示が、「 せいめいじょう」という、北宋時代の絵巻物です。
 幅25cm余り、長さ5.28mの中に、髪の毛程の線で、北宋の都・ 開封かいほうの街と生活が、活き活きと描かれている傑作です。国外では初公開とのこと、中国国内でも公開時は朝から晩まで行列ができたという神品です。
 私も、当日朝9時25分頃に博物館に着いたのですが、既に行列が出来ていて、入場前・館外の寒空で約1時間、館内で更に、「清明上河図」を見る為の行列で2時間待たされ、都合3時間並んでやっと実物の前に辿りつきました。
(こんなに並んだのは、愛知万博以来です)
 私は、この絵巻の存在を、かなり以前から知っていて、是非ともこの目で見たいと思っておりました。図らずも“壬辰”年の年頭、“水”にちなんだ垂涎の一品に出会えたのです。
 私がこの絵巻に関心を持っていた理由は、確かに美術的興味もあったのですが、何よりも、四柱推命研究の上からでした。
 この絵巻が描かれたであろう年代が、四柱推命のプロトタイプを作った徐子平の時代と、ほぼ重なるからなのです。徐子平の生存年代は正確には分かりません。ただ、宋代であることは古くから言い伝えられていました。ここに二つの説があります。

(1)『珞碌子三命消息賦註』の序文
 『四庫全書・術数類』に所載の『珞碌子三命消息賦註』に附せられた序文には、徐子平は五季(五代十国)の人だと記載されている。この説によると、五大十国から北宋の人とすると、950年頃~1050年頃かとも推測される。

(2)『珞碌子三命消息賦註』による文献考証
 1966年(民国55)に刊行された『子平命学考証』(台湾・瑞成書局)の中で、著者・鄒文耀氏は徐子平の著とされる三書、『珞碌子三命消息賦註』、「明通賦」(『三命通會』所収)、及び『玉照神成真経』について、内容と年代の考証をしている。
 鄒文耀氏は『珞碌子三命消息賦註』については徐子平の著作であると認め、他の「明通賦」及び『玉照神成真経』については徐子平作説を否定している。
 更に徐子平が『珞碌子三命消息賦註』を著したのは、考証の結果1135年~1146年の11年間とし、徐子平の没年は1174年以前であるとしている。

(3)「清明上河図」の成立年代
 この絵巻の正確な成立年代は、「12世紀初め」とされているだけで、はっきりしない。制作者・張択端が北宋の第八代皇帝「 徽宗きそう」に献上されたと言われ、または、幽閉された徽宗が開封を懐かしんで書かせたとも言われていることから、下記の成立年代が考えられる。
 1100年~1135年。

 (1)と(2)では多少の開きがあるが、(3)「清明上河図」成立年代とほぼ重なっている。
 私が、今回この実物を見るまでに関心を持った理由は、絵図の中にその徐子平時代の空気を読み取ることができるのではないかという事と、ひょっとしたら街の占い師が、絵図に登場するかも知れないという期待からでした。
 図らずも今回の展示によって、当時の占い師の様子が描画されていたことが確認されました。しかも、NHKが「日曜美術館」(教育TV)で、「清明上河図」取り上げたとき、占い小屋の部分がアップで放送されていました。それが下の部分です。

清明上河図
 解像度が低いので見辛いですが、画面中央の小屋にいる占い師の頭の上に、札が三枚掛かっています。「決疑」(左)・「看命」(中央)・「神課」(右)と記されているではありませんか。これは紛れもなく、中央の「看命」は四柱推命の鑑定のことを意味しています。右側の「神課」は、「六壬神課」のことでしょう。左側の「決疑」は、どんな占いかハッキリしませんが、何らかの迷い・疑いを占いで解決して差し上げましょうという意味なのでしょう。『左伝桓公伝十一』に「卜以決疑。不疑、何卜」とあるように、古くは君子が迷った時に易で卜して疑い・迷いを決断したと言われています。
(ちなみに、紫微斗数でも鑑定のことを命盤を見るという意味から「看命」とも言いますが、紫微は実質的成立が明代であろうと推測されるので、宋代のこの絵図の場合、子平推命と見るのが妥当であろう)
 張択端がこの絵図を描いた当時、きっと彼は絵の制作に先立って、街の占い師に会ってスケッチ取材していたことでしょう。また、彼がこの絵図に「看命・神課」を看板とする占い師を描いたという事実は、子平・六壬の占いが、かなり流行っていたという証左ではないでしょうか。即ち、子平推命(四柱推命)と六壬神課を駆使して、相談者の相談に応じていたということなのでしょう。
 ひょっとしたら、その開封の街の占い師は、徐子平と面識があったかも知れません。又は、徐子平の系統を汲む占い師だったかも知れません。更に言えば、徐子平その人だったかも知れないのです。
 日干を中心軸として八字の干支で判断する四柱推命の祖・徐子平とその時代に触れて、本年を出発できたことは大変な喜びでした。

 ちなみに、この時代は、現在放送中の大河ドラマ「平清盛(1118年~1181年)」の青年時代と重なります。(保元の乱・平治の乱/1156年・1159年)平家と清盛の栄華は、水軍を擁したうえ、日宋貿易など水運によって築き上げられました。また、水上に社殿を浮べた厳島神社を祭ったこと等を鑑みると、今年「壬辰」に相応しい大河ドラマだとも言えかも知れません。私は、清盛が殿上人に上り詰めて行ったこの同時代、海の向こうでは、徐子平の推命が産声を上げていたんだなという感慨と共に、大河ドラマを見ています。