五行推命学研究所
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〝我〟とは

             「亀毛先生譚話1」(2014年07月07日)
                        (※2018年06月01日更新)




 最近、亀毛先生の門をくぐった斉木君。
 彼は、推命各派を遍歴した後、亀毛先生の噂を聞き、その門を叩いた。
 亀毛先生はと言えば、老齢の推命家。〝五行の学〟に通達し、独特の看命法を駆使するという。

斉木君:先生、四柱推命では何処で性格や為人ひととなりを看るのでしょうか?教えて下さい。私が以前学んだ流派では、日干と月支元命で見ると学びましたが。如何でしょうか?

亀毛先生:斉木君、君は何故〝日干〟と〝月支元命〟で看ると教わったんじゃい?

斉木君:え~と、確か日干を〝我〟とすると学びましたし…。それと、月支元命は最も大事な〝神〟で、格式も用神もここから取るんだと教わりました。〝運の元〟だと言われました。

亀毛先生:そうじゃのう。大陸の古典原書にも、それらしい事は書いてあるしな。ところで、君は〝群盲撫象〟という譬え話しを知っとるかね。

斉木君:はい、聞いたことがあります。確か、一頭の象がいて、それを何人かの盲人が撫ぜながら、ああだこうだと象を評するという話しじゃなかったですか?

亀毛先生:そうじゃな。それと同じなんじゃよ、推命も。

斉木君:えっ!どういう事ですか?同じって。

亀毛先生:ある盲は、象の鼻を撫ぜながら〝象とはホースのようなものだ〟と言う。また或る者は象の腹を触っては、〝象とは壁のようなものだ〟と。足を触って〝象とは柱だ〟。尻尾を撫ぜた者などは〝ほうき〟のようだと。どれも、部分的には間違ってはないがな、決して象でもない。

斉木君:そうですね。全部を合わせたものです。

亀毛先生:それも違うな。単にバラバラの部位の無秩序な寄せ集めではないのじゃ。背中に足があったら象じゃないだろう。命式全体を俯瞰して、且つポイントを弁えた上で、システマティックに把握してこそ、存在の実相、ここでは〝象〟じゃがな…、その本当の姿が見えてくると言うものじゃ。突き詰めれば、俯瞰ふかんに極まるがのう。部分推命は所詮、部分推命じゃて。

斉木君:俯瞰ですか。勘所を掴んでトータルに把握せよって事でしょうか。そっか~。そうなんですね。だから、今まで日干の性情や月支元命の性格、格式・用神の意味をあれこれ習ったのに、命式を見ても漠然としていて、一向に具体的な人物像が浮かんで来なかったんですね。先生のように、命式を看ただけで、まるで見てきたように人物を描き出すことができなかったんですね。

亀毛先生:わしが若い頃、師匠から譲り受けた奥義書には、こんな歌が書かれてあったものじゃ。
 〝命学の 山路深きに入りぬれば 五行通変 俯瞰に極まる〟とな。
 俯瞰と同義の諺に「木を見るな、森を見よ」という言辞もある。これこそが、推命の奥義なのじゃよ。

斉木君:ところで先日、先生が四方山さんに、何か語られていましたが…。僕にはまるで禅問答のようで…。あれって、一体どんな意味なんでしょうか?

亀毛先生:何か話したかのう?

斉木君:あれは確か…、〝我は我にして我に非ず〟とか…、ちょっと謎めいていて…。その後に、続けて〝落とし穴に気をつけなさい〟とも…。あれって、どんな意味だったんですか?

亀毛先生:ああ、そうじゃった、そうじゃった。あれはのう、日干の事なのじゃよ。四方山君は日干と喜忌の問題を勘違いしておった…、だからな、ああ諭したんじゃ。

斉木君:〝我〟と日干の意義について、もう少し詳しく教えて下さい。お願いします。

亀毛先生:そうじゃな。わしも六親論を語る時には、日干を〝我〟として他の干支との関係を論じるがな。だからと言って、日干だけを自分だと思ってはいかん。自分(我)とは、真実には命式全体が自分(我)なのじゃよ。確かに日干を助ける星は重要じゃ。だがな、命式の内部構造上、仮に日干を我として、他の干と支の関係を相対化する事で、通変して六親も論ずることが出来るのじゃが。じゃがな畢竟、全人格的な意味での自分としての我は、命式全体なんじゃよ。それを忘れてはいかん。弱いと無視されがちな年支一つが違っても、全くの別人となるのじゃ。

斉木君:〝我は我にして我に非ず〟とは、そう言う事だったんですね。先生。

亀毛先生:だから、日干に対する喜忌だけを論じていては、本当の需要の神は探せないという事じゃな。

斉木君:それと、先生はよく〝五行のバランス〟というお話しをされますが、それも俯瞰に通ずるんですしょうか?

亀毛先生:流石、斉木君じゃ。よく気づいたのう。推命だけじゃないぞ、従来の東洋の占術は、多くは〝点〟としてか、又は〝点と点〟という関係でしか五行を解釈して来なかったんじゃ。

斉木君:確かに、十干の性情や、干と干の関係、日干と月支の関係などは習ったことがありますが、そういう事でしょうか?でも、五行のバランスという表現は、最近ちょくちょく耳にするようになった気がします。年号が昭和の頃は、あまりそう言った表現は耳にしませんでしたが、平成になってからでしょうか、〝五行のバランス〟という表現を、よく目にし耳に入ってきます。

亀毛先生:そうじゃな。最近は、五行のバランスを云々する推命家もちらほらと現われてはいるが、それも所詮、五行の力量を査定して用神や格局を算定する手段として五行のバランスを云々しているに過ぎない。五行のバランス自体を読むということができておらんのじゃ。でも達人と言われる推命家は、頭の中でそれをしておったんじゃよ。

斉木君:そうですか、それは知りませんでした。本に書かなくても、頭の中でしてたんですね。

亀毛先生:命式全体の五行をマクロに把握してバランスを見極めるのじゃ。そして、その活用の原則とコツさえ飲み込めれば、古今の達人に勝るとも劣らぬ判断が出来るのじゃよ。〝俯瞰に極まる〟とは、そういった極意じゃな。