五行推命学研究所
五行図による安田式四柱推命学(五行推命)に関する情報サイト


浅野阿久利 (忠臣蔵)

■浅野阿久利(瑤泉院/浅野内匠頭の正室)の命式について
   1674年05月19日(旧暦:延宝02年04月14日)生まれ
瑤泉院

 浅野内匠頭の正室・阿久利(後の瑤泉院)の命式は、天干星の並びが「敗財・偏官」で 「官殺混雑の命」となっています。中心星の月上の「敗財」が建禄で旺相し、年上の「偏官」 も長生で旺相ています。五行図を見ると(三柱ですが)、女性の命式で財星が少ない(△)の は難点ですが、全体としては安定した五行となっています。このような命式の人は、一見大人 しそうで言い出したら聞かない面があり、プライドが高く好き嫌いもはっきりしていますが、 義理人情があって、人の痛みが分かり、困っている人を見ると黙っていられない性格です。 少し、お節介な点がある位です。物腰は柔らかそうですが、行動力と責任感があります。 「弱気の失敗」を意味する敗財の持っている人情的脆さと、偏官の義理人情の為に、却って 人の世話を焼き過ぎたり、人情がらみで失敗しやすい点があります。困っている人に頼まれ ると、まず嫌とはいえない人なのです。四柱五行のバランスが偏官に偏り過ぎて情緒が不安 定であった内匠頭に比べ、人間的には大変確りした方であったと思われます。
 只、人間的には信頼性のある方だったのですが、運命的には波乱と苦労の多い命式・行運 となっています。まず、中心星の月柱・敗財は「肉親関係の分離」を意味する星です。敗財は 「家庭」と「父」を意味する財星(特に偏財)を尅することから、親子縁や家族縁が薄くなり ます。更に良くないのは「敗財」が「巳の建禄」に座して、旺相している点です。おまけに、 巳は日支から見て「劫殺」、年支から見て「亡神」となっていますので、凶暗示が更に加わり ます。(因みに夫・内匠頭が切腹した年も巳年でした)
 また、大運を起こす法は、月柱を以って初回の大運としますので、月柱が比肩星ですと、 どうしても、幼年期に比肩・敗財・劫財が回って来ることとなり、勿論大運の順逆と周期や命式にも よりますが、家庭が大切な意味を持つ子供の頃に分離を意味する比肩星が来ることとなります ので、幼年期に両親との生死別があったり、実際の別れは無くても、愛情に乏しい幼年期とな ることが多いものです。実際、延宝3年(1675)、阿久利が生れた翌年、旧正月に父の三 次藩主・浅野因幡守長治が62歳で亡くなっています。このような事から、この方の人生にお けるキーワードは「別離」「人との別れ」であると言うことが出来ます。「偏官」 も夫縁が変わりやすい星ですし、更に命式中に「恃勢刑(寅巳申)」が3つ完全に揃ってしま っています。寅巳申の「恃勢刑(勢をたのむ刑)」は、「猪突猛進して失敗しやすく、女命の 場合は孤独で淋しい晩年を送りやすい」とされている支刑です。所謂、典型的「後家相」の命式 となっています。
 ただ、運命的には夫運や家庭運は悪かったのですが、夫との仲は良いかったようです。それが分 かるのは、先ず命式の柱毎の上下を見ると日柱「戊申」は土生金、月柱「己巳」は火生土、年柱 「甲寅」は天干地支とも木の専旺干支となって、命式(三柱ですが)の上下には尅がありません。 更に、内匠頭の命式と阿久利の命式間には干支合を見ると、日干同士の干合「戊と癸」の他、2つ の干合と支合があり、三柱だけで見ても合計で3つあります。以上の2点から、夫婦仲は良かった のではないかと見ることが出来ます。

■行運について(松之廊下事件)

 夫・内匠頭が「松之廊下事件」で非業の死を遂げた元禄14年の行運は、大運が「甲子偏官胎」、 流年が「辛巳傷官建禄」で、流年の傷官が大運の偏官と四柱の偏官(年柱)を尅する最悪の形とな っています。「偏官」の大運は人生の転機を意味しますし、流年の旺相した傷官が官星(夫の星) が尅しているということは、夫に傷が入ることを意味しています。
 この年の傷官は非常に暴れる傷官でした。先ず第一点は傷官は旺相することを嫌うわけですが、 ここでは建禄と旺相しています。第二点は「傷官十干記」の原則から見て、金(辛)の傷官は最 も危い傷官であることです。更に第三点目は傷官が座している地支「巳」に凶意が強いというこ とです。即ち巳は本体の寅(年)から刑せられ、かつ本体の申(日支)を刑するからです。これ は前述のように「恃勢刑」で「困難・闘争・紛争」等の暗示があります。この中でも特に、夫の 座を意味する日支(申)を巳が刑することが良くありません。また、これも前述のように、巳は 日支から見て「劫殺」、年支から見て「亡神」となっていることも、更に凶暗示が重なります。

 浅野内匠頭が切腹した「松之廊下での刃傷事件」当日の干支は、「辛丑傷官養」の日(流日) となっています。やはり、偏官(夫)を尅する傷官の日に、夫が切れて逆上乱心の上、切腹とな ってしまいました。翌年、赤穂浪士四十七士は悲願を達成し、吉良上野介を仇討ちします。その 12年後、正徳4年(1714)に阿久利(瑤泉院)は41歳で亡くなりました。この時の大運 ・流年は元禄14年とは逆で、大運傷官、流年偏官の年でした。