五行推命学研究所
五行図による安田式四柱推命学(五行推命)に関する情報サイト


吉良上野介 (忠臣蔵)

■吉良上野介の命式について
   西暦1641年10月06日(旧暦:寛永18年09月02日)生まれ
吉良上野介

 吉良上野介の命式は、先ず天干星の並びが「食神・偏官」となっています。吉星の食神は休囚し、 凶星の偏官が「沐浴」となって、暴れやすくなっています。特に年柱は50代〜60代の運気をも 表わしていますので、事件が起こった元禄14年は61歳でしたから、偏官が沐浴して、年柱の象意 の如く、暴れたとも言えるでしょう。
 また、日柱の十二運も「死」となっていて、五行に比肩も1つ(●)しかなく比肩星が弱い命式 となっています(身弱的傾向)。しかも、月令を見れば秋生れの木(日干が乙)なので、「死令」 となり令を失していますから、日干は更に弱くなります。これに反して、秋(金)生まれであること が、金の偏官を更に強くしています。本来、偏官が暴れるのを抑えてくれるのは、「食神」 又は「印星」ですが、折角月柱に出ている「食神」も、休囚(絶)していて、十分な力はありませ んが、五行的には食傷2つ(●●)、官星3つ半(●●△)でほぼ同数となり、何とか抑えてはい ます。但し、行運如何で偏官が強くなると、途端に偏官が暴れ始めます。それが、正に後述する事 件の年、元禄14・15年の大運・流年だったのです。
 中心星である月柱が「丁酉食神絶」となっています。普通「食神」は仮傷官や過傷官と成らない限り、 ボワーッとしていて平和主義的な星ですが、この「丁」の食神は、食神の中でも冷静な知性 や趣味性、独特のムードを持っていて、特に「丁酉」の食神は干支自体の納音が美意識のある「山下火」 となっていて、派手さや華美を好む傾向があります。更に、食神が酉(陰金)の絶神となることによっ て、本来のおっとりした食神ではなく、少し傷官的傾向をもち繊細で感受性の強い食神となり、また、隠 れた刃物(金)を持っている食神となっていますし、おまけにプライドの高い偏官を横に持っていますの で、美栄を張るような傾向も出て来ます。
 本来親分肌的な人の多い「食神・偏官」ですがが、身弱的傾向の上、前述のような特殊な食神に、沐浴 した偏官が付くことによって、一見ソフトで物腰も柔らかそうなのですが、内に変なプライドや感受性の強さ があり、言葉に棘と嫌味が出ることもあります。かと言って、上野介がひつようなまでに言葉で、内匠頭を なじったり、苛めたとは考えられません。後世、敵役の吉良上野介を悪人に仕立て上げ、内匠頭を苛 めたことが原因で刃傷沙汰が生じたかのように描かれていますが、彼の命式や当時の状況から見て、自分が 指南役として責任を持っている勅旨饗応役を”いじめ”によって台無しにするほど、馬鹿ではないと思 われます。逆に、接待費を惜しんで政治的に重要な意味を持っていた、この度の勅旨饗応の重要性を理解し ていなかった、内匠頭の愚直さを心配した正室・阿久利と、饗応のプロであった上野介が、内匠頭の見えな いところで段取りしたことを、内匠頭が快く思っていなかったことに原因があると思われます。
 後代の人達が、忠臣蔵に感情移入する為には、内匠頭は悲劇の主君、上野介は憎っくき仇でなければ ならないので、人物像を都合よく作り挙げてきた部分もあります。(特に判官贔屓の日本人には) とは 言ってもやはり吉良上野介の不徳が全然無かったかというと、そうも言い切れません。「食神・偏官」は 敵も見方も多いという場合が多く、我侭さと横柄さから、一部からは嫌われている場合もあるからです。

■行運について(松之廊下事件〜討ち入り)

 元禄14年(松之廊下の年)の行運を見ると、大運「辛卯偏官建禄」、流年も「辛巳偏官沐浴」となって います。大運だけについて 見てみると、この時期は7回目の大運に当たっています。7回目の大運は波乱を呼ぶことがありますので、 注意が必要です。というのは大運と月柱が「天戦地冲」となるからです。上野介の場合ですと、月柱「丁酉」 と大運「辛卯」が天干同士で「火(丁)尅金(辛)」と陰陽不配偶で尅し合い、地支は「酉と卯」が金尅木 の冲となっています。中心である月柱と強烈に尅し合うことになる為に、人生に大きな変化や波乱が考えら れます。命式全体にとって大運が吉星である場合には、良い意味での変化となることもありますが、上野介 の場合には、偏官が暴れるのを嫌う命式ですから、余計にこの大運は荒れる時期となってしまっています。
 更に大運と流年に「偏官」が重なり、「偏官」が更に殺化して、凶暴化しています。偏官は元来、比肩(我) を尅する星ですので、「自分を尅する者」=「仇」「敵」「ライバル」等を意味しています。この偏官が重なり 殺と化し「鬼」となって、刀(辛)を持って、眼前に出現することになったのです。上野介にとって、この 「鬼」が内匠頭でした。
 松之廊下刃傷事件の当日(旧暦3月14日)の干支を見て見ますと。まず当日の流日は「辛丑偏官衰」で 、やはり「偏官七殺」の「鬼」が現れる日でありました。又「丑」の日であることから、命式本体に「巳・酉」があり、 流年も「巳」となっている上野介にとって、「金局・巳酉丑(▲)」して更に偏官の殺が強まる日となってい ます。事件が起こった時刻は巳の刻で干支で言えば「癸巳」の流時となります。上野介 の日干から見ると、 「癸巳偏印沐浴(食神)」で、中心星が食神の上野介にとって、倒食をする日であり、時間の干支を上下(天干 と地支)で見ても倒食となっていますし、巳の刻は前述のように金局を強める十二支でもあります。従って、 この日、この時刻は上野介にとって魔の日、魔の刻であった訳です。ただ、その月の干支が「壬辰印綬冠帯」であって、羊刃 であるにしても、印綬が出ることによって助けがあったことが、幸いしたと言えるでしょう。人に訳して言えば 梶川殿でしょうか?

 元禄15年(討ち入りの年)は流年が「壬午印綬長生」でした。この流年は大運の支「卯」と流年 の支「午」が「破」となってはいますが、決して最悪の流年ではないように見えます。印綬は我が身(比肩)を援けて くれる星であり、人からの援助引き立てを意味していますし、「偏官」を漏気して弱め、和らげてくれる星で もあるからです。大石内蔵助を中心とする赤穂浪士達は、初め主君の一周忌命日である三月に討ち入り決行を 計画していましたが、結局時を逸してしまいました。それは、四柱推命的には上野介の大運が印綬であったが 為に、延期せざるを得なかったと言えます。
 しかし、赤穂浪士にとってはチャンス到来の月、上野介にとっては「鬼」が忍び寄る月が12月(旧暦)でした。 この討ち入りの月は流月が「癸丑偏印衰」となり、中心星の月柱食神の上野介にとっては「倒食」となってし まうと同時に、金局する月となり、命を危険に晒すこととなったのです。丁度、船に穴が開いたような状態、 エアーポケットに入ったような状態となる月でした。そしてその月、上野介の命運が尽きる日が来ました。 先ほどから何度も出てきた「辛」の日、「偏官七殺」の日が討ち入りのその日だったのです。即ち、討ち入 り当日の流日は「辛卯偏官建禄」で大運と全く同じ干支(反言)となってて、従って、中心星の月柱と「天戦 地冲」となる日だったのです。
 因みに、この討ち入りの日、元禄15年(1702)12月14日は西暦 では翌年の1703年1月31日となっています。四柱推命的には年の区切りは、あくまでも2月4日前後の 立春ですが、1月末は次の年の運気の波が少しずつ来ているとも考えられます。1703年の流年で見ますと、 「癸未偏印養」で「倒食」すると同時に、日支「亥」と大運支「卯」、流年支「未」で「卯亥未」の「完全木 局」して分離を意味し、宝(財・命)を尅する比肩が強く現れることとなります。



※日付の区切りについて

 現在は午前0時で日付が変更されていますが、江戸時代は朝方に日の出時刻頃の卯刻 に日付が変わるようになっていました。従って討入日は旧暦12月14日寅刻となって いますが、今日的には12月15日の午前四時頃ということになります。従って、討入 日の干支を「辛卯」(旧暦12月15日、新暦1月31日)として、解説しています。