五行推命学研究所
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「知命畏天」(第7回)

                                 旧コラム(2003/05/31)
 
 四柱推命の古典『李虚中命書』(巻中・二十)に次のような文面があります。
 「作福作威、返福為禍、知命畏天、転禍為福」(福をなせども威とならば、かえって福も禍となり、命を知り天を畏るれば、禍も転じて福となる。)
 これを意訳すれば、「たとえ吉福の運であっても傲慢となって威張り、驕り高ぶるよになれば、却って折角の吉福も禍いとなることがあり、それとは反対に「命を知り、天を畏れる」謙遜さがあれば、禍も転じて福となるのです」ということでしょうか。

(1)作福作威、返福為禍

 先ず、この言葉には運勢の良い時にこそ、次の不幸の落とし穴があるとの戒めがあります。『平家物語』の「驕れる平氏も久しからず」「盛者必衰の理をあらわす」を思い出すべきでしょう。
 また、「福」には「福運」と「才能(能力)」という二つの面があります。良い運には勿論本人の努力もありますが、四柱推命的には努力プラス「良い命式」と「良い大運」からもたらされるわけです。当人はその日に生まれようと思って生まれたわけではありませんから、その持って生まれた「運」も「才能」も天与のものであり、そしてそれは自分だけのものではないと思うのです。
 より多くの人と共に分かち合うべきものとして、福運が与えられています。確かに、天はその人にその運と才能をどのように使うかという「自由」も同時に与えています。与えられた運と才能に花を咲かせ実を実らせるのは、誰あろうその人自身の努力と工夫なのですから。
 それを勘違いして、「福」(運と才能)を私物化、自分の喜びの為だけ使い、時には運と才能を誤用して、人の恨みを買えば、禍の原因を作ることとなるのです。これを『命書』は「返福為禍」と言っています。
 司馬遷の『史記』(孝文紀)にも「禍は怨みより起こる(禍自怨起)」とあります。運や能力を持った俺は「凄いんだぞ」と傲慢になれば、やがて鼻持ちなら無い人相の人となり、果ては驕れる平家と同じ末路を辿るようになるでしょう。逆に、自分が持った「福」を人に施せば、天にも人にも愛されることでしょう。

(2)知命畏天、転禍為福

 「禍を転じて福となす」は、よく知られた言葉です。また「人生、半分は良く半分は悪いものだ」と一般でもよく言われますし、事実そうだと思います。人生は良い時ばかりではありません。悪い時にこそ、その時期をどう過ごしたかが、人の価値を決めるのかも知れません。
 『命書』では「転禍為福」の秘訣は、「知命畏天」だと言っています。この言葉には深い意味があり、短い文章で述べることは難しいのですが、簡単に言えば、自らの「命理」を知り、天を畏れる謙遜さを以って賢明なる生き方をすれば、禍もいつか福となる、ということでしょうか。
 歴史に偉人として名を残した人達は、この苦しい時にこそかけがえの無い何かを得ています。逆に、犯罪者と言われる多くの人は、この苦しい時に、人を憎んだり、人のせいにしたりして、怨みの情念を蓄積しています。
 逆境の時にこそ、「知命畏天」の智慧が必要なのでしょう。

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●『李虚中命書』について

 『李虚中命書』(三巻)は唐代の人で四柱推命学の祖・李虚中の書とされています。旧本の題には「鬼谷子撰・李虚中注」となっていました。この書は、中国の代表的古典全集である『永楽大典』や『四庫全書』(子部・術数類二)に収められています。
 文献考証的にはこの書が果たして、本当に李虚中の著作であるかどうかは大変に疑問があるところです。李虚中に関する資料として信頼性のある韓愈の「墓誌銘」があります。韓愈(昌黎韓公)は唐代の四大詩人(「李杜韓白」)の一人に数えられ、唐代最高の文人学者でした。彼が李虚中の死後、その業績を讃える墓誌(『大唐故殿中侍御史隴西李府君墓誌銘』)を、813年(元和8)に作って記念としたのですが、その文章が今も「韓愈全集」に残っています。
 その「墓誌銘」には、李虚中に著書があるとは記していませんし、二十四史の一つである『唐書・藝文志』にもこの書の名前は記載されていません。李虚中の著作が始めて記録に現れるのは『宋書』においてで、『李虚中命書格局二巻』とあるものです。南宋の学者・鄭樵(ていしょう)が藝文を略して『李虚中命術一巻』『命書補遺一巻』とし、晁公武の「讀書志」に『李虚中命書三巻』、「焦氏經籍志」に『命書三巻』『命書補遺一巻』と記録されています。
 その後、久しく伝本が絶えていましたが、明代の1407年(永楽5年)に成立した、古典叢書である『永楽大典』に収められることになります。その中に李虚中の自序一篇があり、そこには司馬李主が壺山之陽において、鬼谷子に遇い遺文九篇を出だし、幽微の理を論じたが、李虚中がこれを注釈したと記されていますが、これは作り話であろうと思われます。
 内容的には現在の四柱推命のような、変通星や格局、蔵干を駆使して高度に体系化された推命学ではないのですが、推命学の原型を物語る文章となっています。六十干支納音の説明に始まり、天乙貴人を主とする神殺による説明や太歳・大運・小運等についての記述がなされ、また「天干」「地支」「納音」を以って「三元」と呼んでいます。
 この文献の文章を、無批判に全ての李虚中の説として、受け入れることはできないにしても、その後の文献よりは李虚中の頃に近い古い推命の形と説を知る重要な資料となることは間違いありません。