五行推命学研究所
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仮面の忍者・赤影と四柱推命(第9回)

                                旧コラム(2003/07/18)
 
 先日(7月13日)、仮面の忍者・赤影役の俳優として知られていた坂口祐三郎さんが、脳幹出血のため福岡県久留米市の病院で亡くなられました。私も子供の頃、ワクワクしながらこの特撮時代劇を見たものです。渋い白影とかわいい青影のキャラクターも良かったですね。特に最後の頃の、赤い仮面から黄金の仮面にかわる頃には、本当にゾクゾク・ハラハラしながら、どうなるんだろうと見ていたものです。今も赤影の主題歌が聞こえてくるようです。

 ところで、今回は懐かしさもあり、主役の「赤影」を演じていた坂口祐三郎さんについて取り上げて見ました。坂口祐三郎さんと四柱推命との関わりですが、1970年代に朝田啓郷(けいごう)氏が主宰する「日本推命学会」という四柱推命の研究会がありましたが、坂口さんもその会の会員だったのです。朝田啓郷氏が1977年(昭和52年)に亡くなって以降は、「日本推命学会」も自然消滅してしまいましたので、その後の坂口氏と四柱推命との関わりは分かりませんが、1974年(昭和49年)に、元お姫様女優で後に霊能者となった北条希功子さんとの離婚問題を、「日本推命学会」の機関紙であった『推命學界』紙上で出生データを公開し、書簡の形で相談されていたことは事実です。

 朝田啓郷氏は岐阜県大垣の人で、会社を経営しながら、虎門流の流れを汲む推命家として、四柱推命の研究・鑑定・啓蒙に励み、1970年代に活躍した人物でした。朝田氏は最初、初代高木乗の主宰する「命理学会」に加入し推命の教えを受けましたが、両者とも官殺混雑の為か、喧嘩分かれのような状態で袂を分かってしまいましたが、朝田氏は初代高木乗の異才を評価してもいました。その後は京都市鞍馬の阿部泰山の仮寓へも時々出向き、盛んに議論を交わしたこともあり、後半は大阪天翔館・二代目館主の布谷章山氏とも深い交流を持っていました。潤沢な資金を元に様々な事故や事件の取材の為、人と財を投入してデータの収集をし、四柱推命の法則を証明しようと努力していた人物です。

 「日本推命学会」の機関紙『推命學界』紙上で公開された出生データによると、坂口祐三郎氏の命式は下のようになっています。この命式は、官殺倒食とでも言うべき命式です。表(おもて)のみを見ると年上に一位の正官が出ていますので正官倒食にも見えますが、五行の官星に●3つ出ている為に、表の正官も内実は偏官化(殺化)してしまい、官殺倒食となっています。正官倒食でしたら、まだ大人しい運気なのですが、正官が殺化することによって(官殺倒食)、運気の波は振幅が大きくなり、更に月令を失している為、余計に良い時と悪い時の差が激しくなるのです。官殺に合わせて寅巳申の三支揃った刑が出ていたことも、彼の苦労を助長させています。月柱の中心星である食神とそれを尅する時上の偏印が共に絶となり、相手を尅する力量に欠けています。譬えれば有能だが減量をし過ぎてヘナヘナになったボクサー2人が殴り合っているような状態となっているのです。そして、偏印と食神が力を相殺しあっている間に、多過した官星が暴れるという状態です。倒食四柱にその解除星として、絶対に欲しい財星と天徳星が一つもありません。従って一言で言えば、才能とバイタリティーのある努力家で、自分なりの拘りとプライドはあるのですが、運と環境に恵まれないという、器用貧乏的な命式の典型となってしまいます。この方の命式に財星が確りとあれば、生き馬の目を抜くような才能と運で、努力も評価され、経済的に安定した生活が出来たものと思われます。しかし、周囲の人は彼の内に秘めた男気と努力を認めていたことでしょう。

 命式の中心にある食神は丙申で天干が火、納音も火(山下火)となり、エンターテイメントを意味する食神が火性となっているところに、坂口氏が赤影となった所以かも知れません。安田流ではラッキーカラーなどということを言いませんが、命式から不思議にその人に縁のある「色」というものはあるものです。

 1967年(27歳)〜1968年(28歳)、「仮面の忍者 赤影」で主役となり名声を得ました。この時期は大運が甲午比肩死、流年が丁未傷官墓となっている時期でした。比肩は月上の食神を生じ強め、偏印の気を漏気して弱め、流年の傷官ともあいまって、命式を一種の「印綬傷官」的な形にしてくれます。この年の大運と流年は、十二運や命式本体は違いますが、丁度ロッキード事件で逮捕された田中角栄氏が首相に上り詰めた頃の大運・流年の関係に似ています。比肩と傷官の力によって、個性を光らせ強く自分を世に押し出しましたが、比肩も傷官も吉作用と同等以上に凶作用がありますので、その名声は長続きしないものです。角栄氏の場合、流年の傷官が終わって次に財星が来ますしたで、大運の比肩が財星を尅する形となり、比肩が急に凶作用を現わし総辞職・ロッキード事件へと発展してしまいましたが、坂口氏の場合、大運が印綬に変わりますが、命式本体に財星がないので、赤影で名を成してもそれがその後の運気に繋がらず、苦労の時期が続きます。

 1974年(昭和49年)には、北条きく子さんとスピード離婚しています。この年の3月2日に披露宴をするも、北条さんが同夜より身体に異常を訴え、翌日より別室で別居となり、3月21日には離婚を承諾、4月4日に離婚を一般に公表しました。この年の大運は癸巳印綬病、流年は甲寅比肩建禄で、分離の星・比肩が日干と反言(同じ干支)となって出ている上に、大運の巳と流年の寅は四柱本体の寅巳申とあいまって、刑を強めている年でしが。これは、丁度1992年(平成4年)、宮沢りえさんと貴乃花が電撃婚約、電撃破談した年の宮沢りえさんの運気と同様でした。宮沢さんは日干が壬申で流年も壬申の年で反言していましたし、大運が丁巳正財絶で流年が大運を尅して、且つ巳と申が刑となっている年でしたので、坂口氏の場合とよく似ています。大運の癸の印綬は天徳貴人となっていますが、この時期に坂口氏が朝田啓郷氏の「日本推命学会」と縁があったとうのも、印綬天徳の働きかも知れません。

 10年前、1993年(平成5年)、印星の年に故郷福岡県久留米市に帰り、そこで知人から「九州で芸能学校を作るから一緒にやろう」と声がかかります。故郷で再出発を図ったのです。母を意味する印星は同時に故郷をも意味し、大運が正官でしたから、故郷に帰って再起を期し新しい使命(正官)に生きるようになります。

 そんな中で、本年2003年が巡って来た分けです。7回目の大運には注意が必要ですが、これは中心である月柱と天戦地冲し、寿命を意味する食神と旺相した偏官七殺が尅し合い、更に流年に印綬が墓神と共に出ることによって、突然の死が訪れました。印星が休囚すると「成果が消えて無くなる」として、比肩と同様の現象が起こります。亡くなられた7月も未月で同様に墓神が重なって出る月となっていました。

 何よりも、倒食を解除し運を安定させる財星が、坂口氏の大運に出てこなかったことが悔やまれます。現在の大運が過ぎれば、次にはその財星が来るはずだったのですが…。

 人生は持って生まれた星の能力によって福運も掴み、苦労も掴まされますが、その中でどのような心と情を持った人となったのか、又どんな生き方を残したのかに価値があるのかも知れません。

 ※最後に、坂口祐三郎氏のご冥福をお祈り致します。


赤影・坂口祐三郎氏の命式