秀樹と明子の青少年時代
『レパートリー表通信』などで、昔からたくさんのご父兄より、私どもがいつからピアノを習い始めて、子ども時代はどういう練習をして、どんなことを考えていたかなどというご質問を受けてきました。私どもにも一応プライバシーやヴェールに包んでおきたいところもありますが、そのつど聞かれたことだけを手短かにお答えしてきました。でも、次から次とあまりたくさんの方に聞かれますので、この際まとめて会報に書いて皆さんに読んでいただいた方がお互いスッキリすると思い、会報No.298からNo.311まで『ステレオ作文』と称して2人同時の作文を連載いたしました。これはそれをまとめたものです。 |
五十嵐秀樹 |
五十嵐明子 |
1『きらいになってしまった音楽』
私は、宮城県のあたり一面田んぼと山におおわれたある村で少年時代を過ごしました。音楽とは全く無縁の実にのどかな農村風景をバックに毎日思いっきり遊びました。小学3年生のある日、友人に無理矢理ハーモニカを主体とした「リードバンド」の部室に連れていかれました。クラスの中でちょっと上手に吹けて目立ったばっかりに
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1『ピアノを習いたい!』
私と音楽の出逢い・・それは木琴でした。確か小学校2年生だったと思います。クラスでは得意な方で、朝集会や学芸会等でソロで活躍していました。その頃からどんどん音楽が好きになり、ラジオから流れる音楽に耳を傾けるようになりました。そんなある日、ラジオから流れてきたピアノ曲に、幼いながら大きな感動を覚えました。今でもあの日のことをハッキリ思い浮かべることができます。「どうしよう。どうしよう。とにかく何とかしてメロディーを覚えなければ・・」と、とても焦っていました。なんとか部分的に口ずさむことができた時はホッとしました。 |
2『まだ、ピアノの話は出てこない』
中学に入っても、音楽の時間はあまり好きではありませんでした。ここでもまた、定年間近のおばあさん先生(小学校とは別人)でしたが、どういうわけか、よくみんなの前で独唱させられ、とてもオーバーにほめられたのを覚えています。たぶん「ひいき」されたのではと今になって思います。でも、相変わらず楽譜はほとんど読めませんでした。 |
2『私はピアノの先生になる』
ところが両親は意外と冷たく「どうせ、すぐ飽きるんだから」となかなか習わせてくれませんでした。私のピアノへの気持ちは益々大きくなるばかり。食事のときも、テーブルでピアノを弾くまねをして指をバタバタするので、たまりかねた親が、オルガンを買ってくれました。それが3年生の終わり頃です。そして念願かなってようやく近所の楽器店で習い始めました。 |
3『やっとピアノのピの字が出た』
この男声合唱団への入部が、ハーモニーそして音楽って素晴らしいなあと心から思ったきっかけでした。でも、楽譜はまだほとんど読めませんから、部では上級生に口移しのように音を取ってもらって覚えていました。またここでも、どういうわけか要領良く目立ってしまい、よく上級生達をバックコーラスに従えて独唱をさせられたものでした。うぬぼれが多少出てきて「ひょっとしたら
、俺って音楽に向いているんじゃないかなあ・・・」と密かに思い始めたのです。 |
3『エッ、そんな・・・』
両親に将来の希望も話し、ようやく分かってもらい晴れてピアノが自分のものになったのです。そしてピアノ教室に通い始めたのですが
. . そこで子供心に大きなショックを受けたのです。ソナチネまであと一歩というところまで進んでいたのに「手の形も音のだし方も全然ダメなので、もう一度バイエルからやり直しますので、しばらく我慢してね」と言われたのです。この言葉には一緒について行った母も、かなりショックだったようで、「ごめんね。もっと早く気がついていれば良かったね」と、自分の無知を私にあやまるのでした。 |
4『汗臭い男とピアノとの出逢い』
課題は初めの1ページぐらいでしたが、楽譜なんてほとんどの生徒が読めません。ピアノも持っていません。ですから、音楽室のピアノとオルガンを休み時間に奪い合うのです。腕力が強くない者は泣く泣く紙鍵盤で練習です。私もほとんど紙鍵盤組のほうでした。柔道着を着たもの、野球のユニフォームを着た者等音楽室は汗臭い男どもの体臭で、いつも充満していました。そして『エリーゼ』をひどい指使いで弾くのです。私も御多分にもれず、指が足りなくなれば、手を裏返しにして弾かんとする想像を絶する珍フォームで指を動かしていました。弾いた等とは決して言えません。 |
4『先生の嬉しい言葉』
明けても暮れても「ドレミファソラシド」。好き勝手に曲を弾いてはいけないと厳しく注意されていたので、ピアノの前に座るのがだんだん苦痛になっていました。目の前には、何年も待ってようやく自分のものになったピアノがあるのに・・自分から習いたいと言って習わせてもらったピアノでしたが、その時はもう嫌で嫌でたまりませんでした。いかにしてサボろうかとまで考えていたのです。子供なりに努力を重ね、ようやく曲らしい曲をいただいた時は、もう嬉しくて嬉しくて、遊びもそこそこに練習をしたものです。ピアノが好きだったことに加え、それまでの口惜しさから、かなり練習したことを覚えています。 |
5『高校3年・進路180度転換!』
3年になったある日、音楽の先生に、自分の好きな音楽を続けて、しかもそれを仕事としてやっていくにはどうしたらいいかという相談を持ちかけました。かえってきた答えは簡単明瞭、それには音楽大学に行くのが一番の方法であり、そのためには入試科目の一つであるピアノが弾けなくてはいけないことを知ったのです。 |
5『大きな挫折感』
自分からはなかなか言い出せないことだったので、天にも昇るような気持ちでした。両親も「自分の好きなようにしなさい」と言ってくれたので、その時から「音楽大学へ行く」と決心を固めたのです。その年の冬、芸大の講師にレッスンを見ていただくチャンスに恵まれました。ところがこの時、とても大きな挫折感を味わうことになったのです。「あなたのピアノはまだまだ。全国レベルには到底通用しません。」とハッキリと言われたのです。もう目の前真っ暗。その言葉は、母も聞いていました。「今まで頑張ったんだから、またこれから頑張ればいいじゃない」と慰めてくれましたが、私にはショックが大きすぎてピアノを見るのも嫌になっていました。 |
6『ああ青春!メチャクチャな練習』
ピアノ教本は『バイエル』、声楽は手始めに『コールユーブンゲン』で、先生の授業のあいている時に見てもらうというふうに約束してもらいました。しかも、月謝は何とタダでした。ピアノはもちろん家にありませんでしたから、毎朝5時頃自転車をこぎ、山2つ越えて音楽室に直行、守衛さんよりも早く学校へ入ることもあり、朝食は音楽室でとりました。部活が終わってから9時過ぎまで練習。まあ、今では考えられないくらいのどかな環境だからこんなことが許されたのでしょう。 |
6『良い思い出なしの青春』
友達と一番遊びたい年頃でしたが、3回に1回は断わっていたので友達もだんだん離れがちになりました。この状態は高校に入ると益々ひどくなり、友達と呼べる人は、ほとんどいませんでした。でも、いよいよ音楽大学目ざして本格的に勉強できると思うと少しではありましたが夢を持つこともできるようになりました。 |
7『やがてやって来る最初の挫折』
たとえどんなに素晴らしい先生に習ったとしても、1年に満たない特訓ピアノレッスンでベートーヴェンのソナタやバッハのインヴェンションなどを弾くなんて無謀も無謀!声楽はイタリア語の歌曲を歌うなんてこれまた無謀。ピアノは公開の場で一度も弾いたことが無いうえに、いきなり音大教授の前で弾くなんて、「素人の恐いもの知らず」とでも言うのでしょうか、もう数えきれないくらい間違い、つっかかりながら弾きました。声楽も音程がメチャクチャでした。そして、楽典に一般教科。よくもまあそんなことができたものだと、今でも恥ずかしさで泣きたいくらいです。 ♪∴∵¨................... 上にもどる |
7『わたしは、イナカモノ』
講習に参加した周りの人は、楽典も聴音もスラスラ解いているのです。みんなそれぞれ、立派な楽典の本を脇に置いています。どれもこれも初めて見る本ばかり。恥を忍んで隣の席の人に「この本どこで買ったの?」と聞くと「私は地元の川崎の楽器店でだけれど、ここの大学の購買にいろんな楽典の本あるよ」と教えてくれました。自分が、ひどく田舎ものに見え、惨めな気分でした。これと同時に、ピアノの先生を少しばかり恨みました。「音大を受けるなら、ピアノ以外にやるべきことがあることくらい教えてくれても良かったのに」と・・・ ♪∴∵¨..................... 上にもどる |
もう少しつづきます . . よろしければどうぞ |
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