二ノ月


 T・A女学院から火川神社までは、徒歩で通っていた。
 以前はバスも使うことが多かったが、歩けない距離ではない。T・A女学院の正門前から続く鳥居坂を下れば、通りを挟んで向かい側が十番商店街なのだ。坂を下って左に曲がって少し歩くと、鳥居坂下のバス停がある。中等部にいた頃は、よくこのバス停を利用していた。
 うさぎと出会ったのも、確かこのバス停からバスに乗って帰った日だった。
 普段ならそのまま横断歩道を渡って十番商店街に向かうのだが、この日のレイは横断歩道を渡らずに左へ曲がった。
 別にバスに乗ろうと思ったわけではない。バス停の前を通りたかっただけだった。
 バスを待つ中等部の後輩たちと挨拶を交わすと、レイはそのままバス停を通り過ぎた。少し遠回りになるが、一の橋経由で帰ろうと考えた。集合時間まではまだ時間がある。たまには余分に歩くのも悪くない。
 十番稲荷神社の前を通り過ぎ、高速下と抜ける一方通行の道路に差し掛かった時に、左手側から歩いてきた亜美と出会した。
「あれ? レイちゃん?」
 こんなところでレイと会うとは思っていなかったのだろう、亜美は驚いたような顔をした。
「ちょっと気分を変えてね。少し遠回りして帰ろうと思って」
 レイは曖昧に微笑んだ。左側―――一方通行の道を通りに向かって歩いてきたと言うことは、亜美は麻布図書館に行った帰りらしい。
「借りてた本を返しに来たの」
 レイが尋ねた訳ではないが、亜美はここで出会した理由を説明した。
「でも、大丈夫? 亜美ちゃんが目を離すと、あの三人はどこに遊びに行くか分からないわよ」
 一の橋に向かって歩きながら、レイは言った。まことはそれほど心配はいらないだろうが、うさぎと美奈子は油断ならない。突然一致団結して、勉強会をサボる可能性もある。
「まぁ、それが心配なのは確かなんだけどね。今日中に返さなきゃいけなかったから」
 亜美は苦笑する。彼女としては止ん事無き事情があったのだ。
 一の橋の交差点を渡り、銀行を行き過ぎると十番商店街の入り口である。
 ふたりは右に折れて、商店街に入る。商店街入り口から伸びている二本の道の左側を行けばパティオ十番があり、通り抜けて大黒坂を昇り、続く一本松坂を昇ると火川神社に行けるのだが、ふたりは敢えて右側の商店街のメインストリートに歩を進めた。ゲームセンター“クラウン”が、この通りにあるからである。
 集合時間までは時間があるから、ゲーム好きのうさぎたちが、そこで時間を潰している可能性が高いと考えてのことだった。
 ふたりの予想は的中した。三人とも、ゲームセンター“クラウン”の中にいた。もっとも、ゲームに興じているのはうさぎと美奈子のふたりだけで、まことは店長の元基と楽しげにおしゃべりをしていた。元基の隣には、恋人(元基がそう言っている)のレイカの姿もあった。
「なんだよ、勢揃いかよ………」
 店内に入ってきたレイと亜美の姿を見付けると、まことは苦笑いをする。
「おっ! ふたりがゲーセンに来るなんて久しぶりだな」
「こんにちは、元基さん。レイカさん」
「こんにちは! 古幡くんの可愛い天使たちの登場ね」
「て、天使たち………ですか!?」
 そんな風に言われるとは思っていたなかったので、三人は困惑する。その反応が面白かったのか、それとも自分の言ったことに自分でウケたのか、レイカはコロコロと楽しげに笑い出した。
 そう言えば、元基が言うように、亜美もレイも久しくゲームセンターの方には来ていなかった。地下にある秘密の司令室に行くときには、ビルの外部に密かに作られた出入り口を最近は使っていたからだ。ゲームセンター内部にも今まで通り出入り口はあるのだが、人の出入りが激しいときはなかなか使えない。だから、必然的にビルの外の出入り口を使うことの方が多くなってしまったのだ。
「あれれ? 来てたんだ」
 うさぎが気付いて声を掛けてきた。美奈子は今度はレーシングゲームを楽しんでいる。まだ自分たちに気が付いていないようだった。
「亜美ちゃんの監視の目がないと、アンタたちがサボるんじゃないかと思ってね」
「ひっどぉ〜〜〜い!!」
 レイの意地悪な言葉に、うさぎはむくれる。そんな反応は、いつもと何ら変わるものではない。
(美奈、やっぱりアンタの思い過ごしよ………)
 レイは心の中で呟きながら、最高得点を叩き出して大はしゃぎの美奈子に目を向ける。
「亜美ちゃんは図書館行ってきたの?」
「うん。返しに行ってきたわ」
「公園最近行ってないなぁ………」
「麻布図書館の方よ」
「あっ。そうだったんだ!」
 何気ないうさぎと亜美の会話。だがこの時、レイは会話の不自然さに気が付いた。いつもだったら、聞き流してしまうような他愛のない会話だったのだが、美奈子の懸念を気にしていたレイだからこそ、その会話の不可解さに気が付いたのである。事実、直接会話をしていた亜美も、その会話を聞いていたまことも気が付いていない。
 レイは、少しばかり驚いたような表情でうさぎの顔を見てしまった。
「………どしたの? レイちゃん。あたしの顔に何か付いてる?」
 うさぎが不思議がった。突然、驚いたような表情で見つめられれば、大抵そういう反応を示す。
「ゴミが付いてる」
 レイはそう言って、うさぎの頭の上のお団子に手を伸ばし、ありもしないゴミを取るような仕草をして取り繕った。
(なんだろう、この不安は………。あたしの思い過ごし?)
 突然沸き起こった不安に、レイは押し潰されそうになる。救いを求めるかのように目を向けると、美奈子は相変わらず、レーシングゲームに没頭していた。

 結局、昨日は自分の抱いた疑問を、美奈子に話す機会を逸してしまった。
 美奈子がひとりでいることがなかったからである。美奈子以外のメンバーに聞かれるわけにもいかない話なので、話す機会がなかった。
 テスト勉強が終わってからは、見たいドラマがあるからと言って、美奈子は即座に帰宅してしまった。あの様子だと、セーラーヴィーナスに変身して飛んで帰ったに違いない。
 下校途中、昨日と同じ経路を通ってゲームセンター“クラウン”に寄ってみる。だが、残念ながら店内には美奈子の姿はなかった。
「今日は来てないよ」
 背後から声を掛けられたレイは、ビクリと身を竦めた。振り返ると、元基が立っていた。商店街の入り口にある「ウェンディーズ」の紙袋を持っているところを見ると、間食にハンバーガーでも買ってきたのだろう。もしかすると、遅い昼食かもしれないが………。
「ゴメン。驚かしちゃったかな?」
 レイが予想以上に驚いたようだったので、元基の方が困惑してしまったようだ。
「ええ、ちょっとびっくりしました」
 強がっても仕方がないので、レイはそう言って肩を竦めながらチロリと舌を出した。
「最近は宇奈月のところの方が多くて、なかなかこっちには遊びに来てくれないんだよね………」
 そう言われればそうである。中学生の頃はゲームセンターの方が憩いの場所だったのだが、高校に入ってからは喫茶店パーラーの方に行くことが多い。まことがアルバイトしているせいもあるが、ゆっくり話すにはパーラーの方が都合がいいのだ。ゲームセンターの方だと、うさぎと美奈子が遊んでしまって話に加わらないのだ。事件でもなければ地下司令室に行くこともないので、日常的な話題はパーラーで行うことが常となっていた。
「でも、うさぎや美奈はけっこう来てるでしょ?」
 少しばかり寂しげな表情の元基に、レイは言った。ゲーム好きのうさぎと美奈子は、日曜日とかには遊びに来ている可能性は高い。
「美奈子ちゃんは相変わらずかな。うさぎちゃんは………カレシいるしね」
 そう言って、元基は笑った。確かに、うさぎは休みの日こそ衛に甘える絶好の日なので、ひとりでゲームセンターに遊びに来るとは思えなかった。遊びに来るのは、カレシのいない美奈子くらいのようだった。
「元基さん」
 レイは元基の顔を見つめた。迷ったが、訊いてみることにしたのだ。
「最近、うさぎの様子変わったと思いませんか?」
「うさぎちゃん? いやぁ、いつもと変わらないと思うけど………? 何かあったの?」
「いえ。特にそんなことは………」
 レイとしては、曖昧いな返事をするしかなかった。
(あたしは何をやっているの………)
 うさぎに対して後ろめたい気持ちになった。うさぎは普段と何ら変わることがない。なのに、自分は心のどこかでうさぎを疑っている。
 美奈子の言葉に踊らされてしまっているのかもしれない。実際、美奈子にあんなことを訊かれなければ、自分もうさぎの変化に気付かなかった。
(衛さんは、どう思っているかしら………)
 うさぎに変化があれば衛が気付かないわけがない。レイは、衛の意見も聞いてみたいと思い始めていた。

 変化のない日常。
 朝起きて慌ただしく支度をして学校へ行き、つまらない授業を聞いて、休み時間にはクラスメイトと他愛のないおしゃべりをする。学校が終われば連れだって火川神社へ行き、二十時過ぎまでテスト勉強の毎日。
 マンネリ化してしまうのは頭の回転の良くないと言う亜美の意見を聞き入れて、木曜日の今日はまことのアパートに集まった。
 まことのアパートに集まる楽しみと言えば、夕食はまことの手料理がたらふく食べられると言うことだ。火川神社で勉強会を行う場合は、家に帰るまでは夕食にありつけない。小食のレイと亜美は全く問題がないのだが、うさぎと美奈子にとっては深刻である。余計な間食をしてしまうので、体重が気になるのだ。
「食べ過ぎると太るわよ」
 悪戯っぽく亜美が言うが、ふたりは意に介さない。まことの手料理は絶品だ。こう言うときのふたりは、色気より食い気なのだ。
「こうも食べっぷりがいいと、作る方も張り合いがあるよ」
 作る側のまこととしてみれば、うさぎや美奈子のように豪快に食べてもらった方が嬉しいようだ。
 太りやすい体質の美奈子は、余計に食べた分のカロリーは消費しないと全て蓄えられてしまうので、最近は芝公園の自宅から麻布十番までは自転車で通っている。都営大江戸線なる地下鉄が開通すれば、二駅の距離になるらしいのだが、それはまだ数年後の話である。今はバスくらいしか交通の手段はない。それでも中学の頃は、美奈子は徒歩で通っていた。
「歳は取りたくないわ………」
 と、年寄りのようなことを言う美奈子は、さすがにもう徒歩ではキツイようだ。それに、夜中に女子校生が徒歩で芝公園を抜けていくなど、危険極まりない。
「アンタは大丈夫よ。痴漢の方が寄り付かないから」
 レイの意地悪な言葉に、美奈子は口を尖らせる。
 今日も愛用の自転車で来ていた美奈子は、帰り際にレイに呼び止められた。うさぎと亜美の姿は既にどこにもなかった。レイはこのタイミングを待っていたのである。
「ねぇ美奈。この間のことなんだけど………」
 言いにくそうにレイは言ってきた。いざ話そうと思うと、気持ちが揺らいだ。
「この間のこと?」
「うさぎの様子が変だってこと」
「ああ………!」
 美奈子はすっかりそのことを忘れている風だった。と、言うより忘れようとしていたのかもしれない。
「忘れて! 気のせいだったみたい」
 美奈子は曖昧な笑みを浮かべた。相変わらず嘘が下手なやつだと、レイは思った。美奈子は「気のせい」だとは思っていない。表情にそう出ている。
「あたしも、そう感じているの」
 言いながら、レイはチラリとアパートを見上げた。窓からまことが手を振っている。レイはそれに答えながら、何気ない動作で美奈子を誘導した。
「この間美奈が言っていたように、何がどう変なのかって訊かれると答えに困るんだけど、何かが違う気がするの………。これは気のせいなんかじゃないと思う」
 アパートから少し離れた電柱の下ので移動すると、レイは口を開いた。アパートからは見えない位置だった。立ち話をしていても、まことが通りかからない限りは気付かれない。
「この間、うさぎ公園にしばらく行ってないって言ってたのよ」
「公園?」
 美奈子は首を傾げた。レイの説明が不十分だったからだ。
「亜美ちゃんが図書館に行ったって話をした時なんだけどね。亜美ちゃんは麻布図書館のことを言ってたんだけど、うさぎは有栖川公園にある都立図書館の方だと思ったみたいなの」
 その時の会話で、うさぎはしばらく公園に行っていないと呟いたと言う。そんなはずはない。つい先日、衛とそこでデートしたばかりのはずだ。
「忘れてたんじゃない? あのコ、忘れっぽいし………」
「あたしも、そう思いたいけど………」
 レイは少しばかり視線を泳がせた。
「でもなんか、引っ掛かるのよね」
「あたしも具体的に説明しろと言われても、何ひとつ正確には答えられないんだけどね」
「釈然としないわね」
 レイは小さく息を吐いた。全く同じ気持ちだったから、美奈子も肯く。迷路の中を彷徨っているような、複雑な心境だった。
「だけど、これだけは言えるわよね」
 レイは言葉を続けた。
「あのコはうさぎよ。それは間違いないと思うわ。あたしたちにはそれが分かる。四守護神としてのマーズは、あのコをセレニティだと感じている」
「だけど、あたしたちの知っているうさぎとどこか違う………。セレニティではあるけれど、うさぎではない。何故かそう思える。それが何故かは分からない」
 レイの言葉を美奈子が引き継いで言うと、レイは肯いてみせた。うさぎに対して抱いた奇妙な感覚は、ふたりとも同じだったようだ。
「亜美やまことはどう思っているかしら………」
「分からないわ。もしかすると、気付いていないのかもしれないけど………。うううん。『気付いている』という言い方は、何かおかしいかもしれないわね」
「うん。うさぎなのよ、あのコは………」
 美奈子は呟く。何者かがうさぎに成り済ましているのとは、明らかに違うと思えた。彼女はうさぎそのものだった。だが、どこか違和感を感じる。
「もう少し観察しましょう。あたしたちの思い過ごし………いえ、勘違いかもしれないし………」
 そう美奈子に言うレイは、本当にそうあって欲しいと思っていた。

 同じ疑問を、衛も感じていた。
 実際には、日曜日に逢って依頼以来、うさぎとは顔を合わしていない。彼女のテスト勉強を優先しているからだ。
 だが、電話のやり取りはしている。掛かってこなかったのは、日曜日と月曜日の二日間だけだった。
 衛としても、何がどう変なのかは具体的に言葉では言い表せなかった。確かにうさぎと話している。受話器の向こうのうさぎは、いつもと変わらない。
 しかし、何かが違う。
 衛はそんな疑問を抱きつつ、日々を過ごしていた。こんな話を、うさぎの仲間たちにできるはずもない。ルナやアルテミスに相談しようかとも考えたが、何がどう変なのか説明ができなければ、気のせいだと言われてしまう可能性の方が高い。ルナもアルテミスも、うさぎの変化には気付いていないと感じられた。気付いていれば、真っ先に自分に何らかの問い掛けがあるはずだ。
 仲間たちに相談するのは、うさぎに直接逢ってからでも遅くないと考えていた。明後日の土曜日には、うさぎとデートすることになっている。息抜きのために、その日は勉強会がないのだ。
 亜美は、効率よく勉強できるようなプランをあらかじめ立てる。土曜日を一日フリーにしたのも、亜美の考えだ。時にはリフレッシュしなければ、脳の回転が鈍ってしまう。それでは、幾ら勉強をして知識を詰め込んでも、しっかりとメモリーされない。勉強ずくめでは能率が上がらないと言う亜美のその考えは、衛と同じであった。
(この心の(もや)を晴らしたい………)
 その為には、うさぎに逢わなければならない。だから、土曜日は絶好の機会だった。
 逢えばはっきりする。衛はそう思っていた。
 衛は忘れていたのだ。
 月曜日にうさぎから、問い掛けられるはずの質問があったことを。その質問が、うさぎの口からいまだにされていないことを。
 うさぎはその類の約束を忘れる女の子ではない。例え衛が忘れていても、うさぎは覚えているのだ。
 ましてや、その質問の答えは自分に対しての衛の気持ちを表している。
 衛に自分のことを好きだと言わせるための口実。それをうさぎが忘れるはずはなかった。
 衛の感じた違和感は、いまだにその質問がされていないからなのだ。彼自身は、既に忘れてしまっていることなのだが………。