昔、某の國の雨月といふ山に鬼ども棲めり。日暮るれば、里に下りて数を知らず人を殺す。
天城の忠義なる、某の国の守護、くだんの者どもを平げんとて強者をば近国他国より召したる中に、
某の次郎衛門と云ふ者侍り──
──隆山地方に、一つの伝説があります
勇ましくも哀しく、
そして、孤独な心達が触れ合い描く──
幾千もの朝と夜を重ねた時の彼方、
そこがまだ、雨月の地と呼ばれていた頃の物語──
幼獣の涙(第一編)
〜Leaf「痕」より二次創作〜
(1)
幾つもの松明の焔が闇に浮かぶ。鬨の声。雨のように放たれる無数の矢。入り乱れる刃と爪が松明と月の光を跳ね、宵闇を引き裂く。怒号と悲鳴と鍔競りの嵐。
その最中で二人は対峙し、無言のうちに地を蹴っていた。
そして。
「ジロー……エモン……」
ダリエリが蘇芳色の目を見開き、両手で俺の肩を掴む。爪が食い込み血が溢れ、冷たく背中を流れる感触をぼんやりと感じた。その傷口を通して、ダリエリの意識がどっと流れ込んでくるのも。
光と闇の入り混じった、混濁した風景。
「あんな脆弱な生物に、何を気遣う必要がある?」
無数に湧き上がる声。
「ただ……好きなんです。どうしようもなく」
こちらの詰問に、哀しくも頬を染めるエディフェル。
「私が……あの子を……殺します」
背中を向けたまま、女は拳を震わせて静かに呟く。
「だってさ、あのエディフェルが惚れたほどの奴なんだろ?」
いつもは勝ち気に溢れているはずのアズエルの、神妙な面持ち。
朱に染まった爪の向こうに、倒れる二人の姿。
「……ダリエリ……どうか……」
「あんたなら……分かるはずだよ」
こんな結末を望んではいなかった!
一体ジローエモンとかいう人間が、どれほどのものだと!?
「お願い……もう……もう誰も……殺さないで……」
両手で顔を覆うリネットの言葉の末は、時折しゃくりあげるような鳴咽にしかならなかった。
無数の視界が幾重にも重なって、怒涛となって俺の中を吹き抜けてゆく。濁流のようなダリエリの意識──おそらくそれはダリエリの走馬灯であったろう──に翻弄されそうになりながら、辛うじて現実にしがみついた。
俺の両手は太刀の柄をしっかりと、揺るぎ無い意志の力によって握り締めていた。その柄から伸びる先は、透かし彫りの鍔を挟んで、ダリエリの胸元に埋まっている。そしてダリエリの背中からは血をまとった刃が、鉄色にぎらつく卒塔婆のように、にょきりと不気味に飛び出していた。
その一刺しが致命傷である事は、傍目にも明白だった。
俺の顔の頭一つ上にダリエリの頭が垂れ、そこからうめくような熱い吐息が漏れている。
不意にその一瞬、宿敵とも言うべき二人の視線がぶつかった。
「……」
「…………」
無言の空間には何の思惑も打算もなく、ただ、真摯な気迫に満ちていた。偽りのない、剥き出しの感情。
ふっ、とダリエリの瞳から光が失せる。
のしかかる、重い屍。
湧き上がる勝鬨。
俺を賞賛する、皆の声が遠く聞こえる。
誰もいない、戦を終えた河原。
山は冷ややかな月の下で、確かに暗く押し黙っていた。
背後に、カシャリと小石を踏む足音が聞こえた。
「……どうして……」
(2)
格子から差し込む光に目が覚めた。
……今日で、あの日から六日は経っただろうか。
鬼との戦いを終えた俺は、未だ雨月の地にいた。いや正確には、ここから離れられないでいた。身体に負った傷は、鬼の血の力で八割方は回復している。だが、心に負った傷は……。この山深い炭焼き小屋に隠れるように暮らす日々が続いているのは、そこに、許されざる俺の罪があるからにほかならない。
とはいえ、霞を食って生きていけるはずもなく、乏しくなってきた食材と炭を求め、今日あたりにでも久しぶりに里へ下りるを余儀なくされていた。
まずは引き戸を開けて背伸び一つ、天道を見れば頃合いは午の刻(正午)かという所に弱々しく輝いている。……相当に寝過ごしたらしい。自嘲じみた苦笑のままに、手水を取りに沢へと下った。
夏ですら冷たい沢の水は、冬なればそれこそ肌を切り裂くような痛みで冷たさを訴える。それを、ぱしゃり、と二三度も顔へかければ、起き抜けの呆けた頭は凛と冴え渡る。懐手に袖で顔を拭うと、襟を背負い込むように身を縮めて、一旦小屋へ戻った。
火桶の中に溜まった灰を掻き出すと、少し多めに炭を足しておく。これで二刻(およそ四時間)ほどは持とうから、それまでに戻ってくればよかろう。俺は懐に銭を二筋ばかり無造作に入れた。
雨月は海に面した土地であり、そこから入り組んだ一つの湾を抱くような格好で、背後に山を控えている。雨月山から湾を挟んだ対岸には、この地の市で最も盛んな部分が集中していた。徒歩にて半刻かかるか、かからぬかの距離である。
果たして、市に着いた頃には日輪はまだ頭上に凍えていた。
人の雑踏が、木枯らしを掻き乱すように千々に乱れて往来している。その中にあって、俺は何故か一層の孤独を感じていた。勿論、俺の顔を知らぬ人ばかりではない。偶には声をかけてくる者もあったが……さりとて、大した知己というほどでもないその関係は、とどのつまり赤の他人に他ならなかった。誰かの舞台を通り過ぎるだけの、ほんの一過客でしかない、その事が、純粋に孤独だった。
枯れ野に伏すとも、断じて屍拾う者無し……。
ふと、珍しく感傷的になっている自分に気付き、今更のように驚いた。このもの哀しい乾いた風がそうさせるのか、はたまた自分の今置かれた状況がその思いに拍車をかけるのかは分からなかったが。
一先ず、米を始めとして大根や牛蒡・味噌・塩・炭等を買い求める。少し足を延ばせば河岸に行く事も出来たが、当座の気分で止めておいた。天城忠義公からの褒美があったので、当分懐の寂しくなる事はない。あらかたの用事を終えた俺は、溜息というでもなしに一つ長い息をつくと、味噌樽を担いだ。
暮れゆく年の慌しい気配が、身体をすり抜けてゆく。
ふと見上げれば何時の間にか、薄墨をぶちまけたような灰色の硬い空がごうごうと回っている。重苦しいくせにどこかしら虚ろな音が、全ての風に充ちていた。それらが板葺きの屋根の上に落ちては、軽妙に跳ね上がってゆく。
希薄な現実。ふいと、自分がここに居ないような錯覚に囚われる。
……しかしそれは所詮、逃避の願望が結んだ感覚でしかなかった。
帰途の途中、その脇に通り過ぎた寺の土塀――これが至ってみすぼらしく、かつては白粉化粧のようであったろう漆喰も、所によっては根元まで剥げかかっている――の向こう、庫裏とおぼしき方から魚を焼く香りが漂ってきた。庫裏というのは、言ってみれば寺の厨つまり台所の事である。
何の気も無しに、これまた幾星霜を経たやらも知れぬ有様の、半ば朽ちかけた寺の門を潜ってみる。このような寺に一体どのような輩が住んでいるやら知れたものではなかったが、少なくともつい先刻までは人の住処とも思っていなかった荒寺だけに、興味詮索心が先行した。
意外な事に、その境内はすっきりとしていた。勿論、予想していたよりは、という意味でだが……ともかく、雑草枯葉に埋もれて荒れ放題といった有様ではない。確かにここそこに草叢はあったが、それは決して見苦しいものではなく、むしろ――相反した言い様になるが――雑然とした調和を感じさせる。限りなく自然に近くも、しかし明らかにそれとは非なる、人の手の入ったものだった。
本堂はと見れば、これは表の土塀よりは幾分マシといった具合。しかも境内の中で伽藍らしいものといえばそれと鐘楼だけなのだから、こいつが無ければもはや寺というよりは、刻を告げるための施設でしかない。
その傍らに寄り添うように立つのは、まさに草の庵。どうやらこれが方丈(住職の部屋)を兼ねているらしい。軒先の松が、半ば松門を描いて立っている。その枝ぶりを見ながら井戸があると思われる裏手へまわるにつれ、パタパタと団扇を煽ぐ音が聞こえてきた。果たせるかな、一人の男が七輪に河魚を載せて炙っている最中だった。
大概の坊主は魚を食ったりしないものだが。寺男だろうか?
あるいは真宗の者か?
と、先方がこちらに気付いたらしく、熱心に煽いでいた団扇を止めて、顔を上げた。白く髭を蓄えた、柔和な顔の老人である。
「おや、客人かな……。はて……おぉ、そうじゃ」
老人ははたと手を打って腰を上げると、襟を正しあらたまった。
「どこかでお見受けしたかと思えば、えぇ、何と申されたかの。
……おぉ、そう、次郎衛門殿じゃな?
かの雨月山の鬼を退治されたと、名高きつわもの」
最後の言葉に、俺は冷水をぶっかけられる思いだった。
ちがう……。
あれは単なる、私怨に駆り立てられた殺戮でしかなかったのだ。
「儂はこの寺の主、了雲と申す者」
この胸中を知る由もなかろう、この寺の住職だという了雲は、丁寧に腰を曲げた。ゆったりとしたその動作に、年を経た者の貫禄が滲む。
「して、本日はいかな用向きかな?
かような荒寺ゆえ、もてなしの茶も不味うございますぞ」
そう言いながら上げた顔に邪気はない。いやそこから何かを読み取ろうとしても、それは只の徒労に過ぎない事は明白だった。
皺を刻んだ平凡な微笑の下に、奥知れぬ光を湛えた瞳。
不意にそこへ引き込まれそうな気がして、俺は内心慌てて視線を逸らせた。そして拙い針物のように、ようやく言葉を紡いだ。
「なに、ほんの気紛れが……いや。寺に魚の煙りというのも妙な事」
本音半分。あの小屋へ帰る事が億劫だったからと言えば、それも嘘ではないだろう。いや、それこそ本音か。
「はっはぁ、これが鼻に入りなさったか。そこな河岸にて買うてきたのじゃがな、一山幾らもせなんだで、まとめて買うてきたのじゃ」
その言葉に嘘はなく、見れば軒下に開いたばかりの魚が幾重にもぶら下がり、冬の乾いた風を受けて揺れている。それがずらりと、軒の遥か先まで並んでいるのであった。ただ、壮観という他ない。
「これを……全て御坊が?」
「おぉ、なんぼにも買いすぎてな。昼八ツ(午後二時頃)から始めたが、今までかかってしもうて」
全く隠さぬ口調の後に了雲は腰をかがめると、七輪に向かって再び団扇を煽ぎ始めた。煙が少し強く上がり、魚の脂が爆ぜた。
「ほぅ、得度の者が生臭を?」
幾らか遠回しに尋ねてみた……が、皮肉に聞こえたかもしれない。
得度というのは、簡単に言えば仏門に下る事、出家する事だと思って差し支えないだろう。つまりは坊主になる事である。そうした者が肉や魚を口にするなど、少なくとも体面の上では、論外の所業と言える。
「ほっほ。道を誤らねば、およその事は構わぬよ。殺生と言うたとて、それ自体は生きる術の一つに過ぎぬゆえ。それは貴殿もよう存知ておろうが……要は、せんなき事を無闇に行うが悪というもの。
……おぉ。ほれ、いい具合に焼けたわ」
そう言うと了雲は、七輪の上で脂を跳ねる魚を箸で、ひょい、と挟んで俺の鼻先に持ってきた。
香ばしい脂が鼻をくすぐったが、どうしたものかと躊躇していると、つい、とその箸が下がった。
「なんじゃ、いらぬか。ならば儂が食うてしまうぞ。さっきから腹の虫が五月蝿うてたまらぬのでな」
その言葉の尻に合わせて了雲は、ぱくり、と頭からかぶりついた。
「おぉっ……熱つつつ……」
ほこほことその口が動き、舌の上で白身が躍っている。
思い出したように、俺の腹が、ぐぐぅ、と鳴った。それを聞いた了雲の口元に、能面の翁をそのまま持ってきたような、にんまりとした笑みが浮かんだ。
「なぁに、遠慮はいらぬ。貴殿のような者は身体が大事じゃ、食うに憚る事はあるまい」
そして、さも愉快そうに笑った。
七輪の上では、三尾の魚が煙を上げて俺を誘う。
「では、一つ……」
七輪の上の魚を片手に拝むと、指を焼かぬよう注意しながら、その尾を軽く摘んだ。そして右手に尾を摘んだまま、左手に頭を持つ。いざ食べようと口を近づけると、熱い白身にこれまた熱い脂の乗った良い香りが、ぷうん、と鼻を包んだ。
もう一度腹が、ぐぐぐぅ、と鳴った。
身の中ごろを、ぱくりと一口。
……旨い。
身に切れ目を入れてそこへ塩を僅かに降ってあるのが、淡白になりがちな白身を引き締め、脂の味をも引き立たせていた。
なに、腹が減っていれば、大抵のものは旨く感じるものだが。
「いかがかな?」
「……結構な味で……」
俺は了雲への返答もそこそこに、二口目からは迷いなくむしゃぶりついていた。そんな俺を、了雲は満足気に見ている。と、その腰が不意に上がった。
「おぉそうじゃ、貴殿、勿論酒はたしなまれるであろう?」
「ふぁ?」
魚にかぶりついたまま応える俺の姿は、決して見栄えのいいものではなかったろうが、了雲は俺の間抜けな声を認めの返事と受け取ったらしく、構わず続けた。
「先頃、善い酒が手に入ってな。かというて一人で呑むも味気ないで、酌の相手を求めておったのじゃが……」
この坊主、酒までやるのか。
咀嚼しながらもいささか呆れたが、かといって俺とて下戸ではない。
「それは……」
願ってもない、と言おうとして、本来の用向きを思い出した。
日が落ちるまでには、小屋へ戻らねばならない。
「申し訳ないが……」
そう言うと、了雲はいささかがっかりした様子を見せた。
「そうか……まぁ、無理にとは言わんがの」
「本来ならば宵の明けまで付き合うところが……生憎人を待たせてあるゆえ、今日のところは」
「ほう……女子、かな?」
了雲の口元が、老獪じみて歪む。
が、俺の表情から何か感じるところがあったのか、口元に手を当てて一つ咳払いをした。
「いや、これは要らぬ詮索じゃったの。まぁ、件の酒は当分取っておこうから、いつでも来なさるがよかろう。今の時期、そう傷む事もなかろうで」
「はぁ……では、失礼」
歯に挟まった小骨を抜きながら、俺は腰を重く上げた。
女を待たせているのは事実だったが、しかし、彼女が俺を待っているとは限らないのも、また事実だった。
(3)
雨月山から生じる川の上流、斜面を登った奥深いところに、一軒の古い炭焼き小屋がある。既に使われなくなって久しく、その周囲の地面は厚く積もった腐葉と苔に包まれている。
日は大きく傾いて薄雲を貫き、向かいの山の端を金色に染めながら半ば没していた。その斜陽が梢を掻い潜って、小屋を斑に照らす。
小屋の前に立つと、俺は人目を憚るように引き戸を開けた。
壁板の僅かな隙間から差し込む夕日が空に数条の縞を描いて、小屋の中を切り分けるように鋭く照らしている。それ以外の部分は茜色に際立って、なお一層闇を深いものにしていた。
耳を澄ませば、おだやかな呼吸が幽かに聞こえる。
リネットは……あの夜に意識を閉ざしてから、未だ眠ったままだ。
多少の落胆と安堵が入り交じった気持ちで、土間の隅に炭袋を降ろす。俺は板間に草鞋履きのまま上がろうとして……思い直して、草鞋を脱いで上がった。
隅に置いた火桶の中では、炭が今なお赤く盛っている。二刻半ほど留守にした間にも、火は消える事は無かったようだ。薪を使えばもっと暖を取る事もできようが、いかんせん煙が出てしまうのは、あまり都合がよくなかった。
俺がここにいる間はまだいい。だが、留守中に他人に見つかれば間違いなく、リネットは鬼として──つまり、幾多の恨みをかった憎き存在として──殺されてしまうだろう。眠っているリネットには、その時に抗う術がない。
土間へ下りて古い方の炭袋から幾つかを取ると、火桶に落とした。
ぽっ、と火の粉が小さく上がる。
俺はそのまま腰を降ろし、暫くの間、ぼんやりと火桶の赤い光を見詰めていた。その向こうに何が見えようか。
……赤。
焔の色。
燃え立つ草叢、俺を見下ろす女。
……エディフェル。
赤……。
血の色。
生命の焔の色。
腕の中で消えゆく鼓動の感触。
無数に揺れる松明の焔。
刀越しに伝わる、心臓の断末魔。
鍔元で落ちた雫が、ポタリ、と地を染める。
「……どうして……」
リネットが、がくん、と膝を折った。
カシャリ。静寂の中で、河原の小石が乾いた音を立てる。
「どうして、こんな……」
俺に背中を向けたまま、惚けたように呟く。
どうしたんだ?
一体、何だっていうんだ?
俺はエディフェルの……君の姉達の……仇を討ったんだぞ?
「どうして……」
盲目のように、血にまみれたダリエリの骸に手を延ばすリネット。
だが、その手が触れるか触れぬかの内に、鬼の屍は己が運命に従い脆くも崩れ去っていく。
「……待って……嘘なんでしょ……!?」
崩れゆくダリエリの骸、その細かい灰を全て逃すまいとして、体全体で覆うように、抱きかかえようとするリネット。
だが、河原を吹き抜ける風が、その思いをも一緒に大空へ……静かに脅える満月の夜空に運んでいった。
「う……そ……」
手のひらに僅かに残された灰のようなものを、妖しに憑かれたような瞳でぼうっと見詰めるリネットが、そこにいた。
うそ。嘘、だよね?
ねぇ、ただの冗談、なんでしょ?
いつもみたいに、皆で私を驚かして……ねぇ、そうなんでしょ!?
俺の場所からでは分からないが……リネットの手のひら、その上に薄く散らばったダリエリの名残に、一滴の雫が落ちたように見えた。
続いて一滴。……更にもう一滴。
不意にぽつん、と何かが俺の頬を叩いた。
見上げると、先刻まで煌々と輝いていた月は、眼前の事実から目を背けるかのように暗雲に隠れようとしていた。
広げていた手のひらを、ぎゅっ、と握り締める。
こんなにも心細く儚い、ダリエリの感触。
……わからない。……分からない。どうしてこうなっちゃったの?
どうして!? ねぇ!! ……誰か……教えてよ……。
ただその握り締めた手を胸に押し当て、抱きしめ、私は……泣いた……ような気がする。自分でも、一体何をしているのか分からなかった。分からない方が良かった。分かったその時には、自分の目の前の出来事を認めてしまう事になる。
何も、何もいらない。
この目も、耳も、手も。全てに、何もいらない。
全て閉ざしてしまおう。
そうすれば、何も感じなくて済むから。
山眠らせる冷たい雨が、全てに白い帳を降ろした。
その上に宵闇が更に覆い被さり、やがて何も見えなくなってしまう。ただ、さぁさぁという雨の音が時を教えている……いや、この雨は時の流れすら凍らせているのだろうか?
明けぬとも思われるほどに長い、長い夜。
さぁあ……
……。
……さあさぁ……
……。
……さあぁ……さあぁさぁ……
簾のように果てなく重なる雨音の向こうに、ふと人の声が紛れ込んだような気がした。
誰かが囁いている?
……いや、気のせいか。
だが、待つ間もなく、その声ははっきりと聞こえるようになった。いや、声と呼ぶべきかどうかは分からぬ、意識の流れのようなもの、それが徐々に俺の頭の中に押し寄せてきたのだ。
「……忘れない……」 「私が……殺します」
「ダル……デ……エディフェル……」
「……よくぞ退治てくれた」
「貴様のために、死んでいったのだ……」 「どうして……」
「……かの雨月山の鬼を退治されたと……」
「……許してあげて……」
「レデゼ……ラダ?」
「殺した……」 「……来ないで!!」
「……一番辛かったのは……」
「う……そ……」
ついには、必死に抑えようとしながら、しかしどこかで助けを求めている悲鳴のような声が、幾重にも頭の中を交錯していく。
耳を塞いでも声はいっこうに止まず、それどころか一層深く強く響く。わんわんと耳鳴りがして、頭が割れそうだった。せめて発狂できるなら、全てを拒絶してしまえるならば、それがどんなに楽なことかと思った。
と、唐突に声が遠のいたかと思うと、辺り総て音も消える。
全てを押し潰すような、耳が痛むほどの静寂に、頭身の毛も太る思いがした。
とろとろと渦を巻く闇の中で、涼しい声が響いた。
「どうして、殺したの?」
目の前にエディフェルがいる。
先程から、いやいつからだろうか、俺がずっと走り続けているにも関わらず、だ。
俺の足は濁流に回る水車のようだったが、エディフェルの姿は千年の沈黙を守る碑のように、髪の一筋すらまるで動かない。
だのに、俺の前には、常に彼女の姿があった。
「何故、リネットが苦しむの?」
目は痛いほど霞むくせに、それでも彼女の姿を克明に映す。
肺の奥が熱く乾き、軋みを上げて燃え盛る。体中の水分を全て失いもはや朽木と化した屍が、火の粉を散らして無闇に走っている。火車の如き勢いのそれが俺だ。
心臓が幾度も破裂し、その度に滝のような血を吐いた。
……これが俺の罪だ。
これが、俺の贖罪なのだ。
リネットが背を向けている。
小さな肩を震わせて、声もなく蹲っている。
その背中にかける言葉を、俺は知らない。
よしんば知っていたところで、いざ声をかけた瞬間には、その姿は掻き消えてしまいそうに思われた。
拒まれている……?
もはや、償う事すら許されていないのか……?
徐々に遠ざかる後ろ姿。
「待ってくれ……っ!!」
そこで跳ね起きた。
息が荒い。全身が、冷たい汗にびっしょり濡れている。
目の前には、火の消えかかった火桶の、ぼんやりと赤い焔。
「……ふ」
何時の間にか、壁板にもたれたまま寝入っていた自分を見出す。そして、先程までが夢であった事を認識するのに、数瞬を要した。
軽く頭を振って夢の余韻を打ち消す。後味の悪い夢だ。
火桶を取ると、溜まった灰を捨てるべく表へ出る。
天上には臥待月が、今まさに薄雲に食われようとしていた。
(4)
数日後、俺は再び了雲を訪ねた。
別に何の用があったわけでもない。
これを人恋しいと言うのだろうか、どうしようもなくただ純粋に、話のできる相手が欲しかった。
境内に入って見回したがその姿はなく、もしやと思い庫裏の裏手へ周ってみれば案の定、そこには屈んで薪を割る了雲の姿があった。
薪の木口に鉈を当てると台に乗せて、こんこん、と軽く叩く。正目に沿って刃が食い込んだのを確認して、食いついた薪もろとも鉈を振り下ろせば、薪は目に沿って鮮やかに二つに割れる。コツを掴めば、特に力のいる仕事ではない。
こんこん……すとん。
こんこん……すとん。
「……」
声を掛けそびれた俺は、そのまま暫く、薪割りの様子を眺めていた。
こんこん……すとん。
こんこん……すとん。
こんこん……
と、不意にその音が途切れた。
小気味よい拍子に聞き入っていた俺は、了雲が手を止めてこちらを見詰めているのに、ようやく気付いた。
「おぉ、よう来なされた」
そう言うと了雲は立ち上がり、うーんと背を伸ばすと、ポンポンと強めに腰を叩いて空を見上げる。
「ん……おぉ、もう申の刻あたりか、うむ」
秋の夕日は釣瓶落とし、いわんや冬の夕日をや。
了雲が薪をまとめて軒下に積み、二人が縁側に腰を降ろした頃には既に辺りはとっぷりと暮れ始めており、まさに誰そ彼の頃合いだった。
樽から瓶子に取った酒を、坏に注ぐ了雲。
「どうかな、今時分の酒では多少老ねが過ぎておるやも知れんが、なかなかに旨いものであろう?」
老ねる。即ち、酒が貯蔵され熟成した事を言う。ただ、あまり熟成させすぎると、却って味がくどくなったり、香りの鮮やかさが損なわれてしまったりする。
「む……」
なみなみと注がれた坏を鼻先に持ってくると、独特の甘酸い香りが鼻をついた。一口含んでみる。と、舌にさらりと乗ったかと思うと、濃厚な味の中に、米が生きているのが分かる。喉越しも引っ掛かるような事はなく、舌の奥に心地よい香りを残すのみ。新酒に見られる刺激もなく、ふくよかな旨味が広がる。
屈指の銘酒と言って過言ではあるまい。……まぁ、普段呑んでいる酒がそもそも水を混ぜたような酒なのだから、何を呑んでも旨いと言うのもあるが。
「これは……」
「いやなに、荘に蔵持ちがあっての。実際に世話をした事はないのじゃが、儂の説法をいたく気に入ったらしゅうての」
「はぁ」
そう言いつつ庫裏へ引っ込む了雲の背中に、俺はそんな返事しかできなかった。この坊主にしてこの荘園あり、と言うところか。普通、酒など持ってこないものだろうが……。いやそれより、こんな寺でも荘園を持っている事の方が驚愕に価するか。
と、ほどなく戻ってきた了雲の手に、何やら盛った皿が乗っていた。
「肴を忘れておったでの、鯉の造りじゃ」
……この際、何が出てきても驚くまい。
「人情と刺身は厚い方がよいと言うが。なに、儂に言わせれば、並べて程々がよいものよ。
して、本日の用向きは何じゃったかの?」
「……いや、特にこれといった事は」
「そうか」
特に言及する事もなく、了雲はそれだけ言うと、坏を傾ける。
二人黙々と呑む酒は、妙に苦く感じた。
ほどよい、しかしどこかしら、やりきれぬ酔いに頭が痺れる。忘れたいという願望と、忘れてはならないという警鐘とが交錯していた。
それでも、ぽつりぽつりと会話が交わされる。手柄者を相手に呑む酒の例に漏れず、その内容は雨月山の鬼に関する事、やがて古今の鬼一般へと移っていった。出家の身とはいえ了雲もこの類の話は嫌いでないとみえて、俺も知らぬような故事を持ち出してくる。
その了雲が幾度目かの坏をぐいと飲み干すと、さも今思い付いたかのように口を開いた。
「そう言えば、田村麿の故事は御存知かな。鈴鹿山の話じゃが」
坂上田村麿。平安の頃の将軍であり、特に征夷の功大きく、当代なおも武士の鑑として名を残している。能の修羅物にもなっており、観音の助けを得て鈴鹿山の鬼神を退治したを語る、というのがその粗筋である。
「ましてや間近き鈴鹿山、ふりさけ見れば伊勢の海……」
ふいとその一節を口にしてみる。と、慌てて了雲が口を挟んできた。
「いやいや、それは謡曲が事であろう。儂が言うておるのは、弘安元年敕使記の話よ」
「……?」
聞いた事もない名前に、思わず首を傾げる。
「ははぁ、いやすまぬ、これでは分からんわの。鈴鹿御前、あるいは立鳥帽子の事じゃ」
「……あぁ」
以前に諸国を漂泊していた頃、そのような言葉の出る話を聞いた事がある。陸奥だったか常陸だったか、なんでも当地の童は、そういった話を子守歌代わりに眠るとさえ言われている。
……田村麿が鈴鹿山の討伐に臨んだ折、敵対していたうちが一人の立鳥帽子(鈴鹿御前)と合い見えた。年の頃十六ほどの美しい少女ながら、鬼神の力凄まじく、田村麿と互すほどであった。討つべき敵でありながら、立鳥帽子は田村麿の器に惹かれていく。やがて二人は互いに愛し合うようになり、その結果、立鳥帽子は味方の鬼神を裏切っていく事になる……。
諸説俗話が幾多もあるが、概ねはそういう話の流れである。……どこかで似たような話がなかっただろうか。
「……その話が何か?」
「いやさ、人の心というものは存外分からぬものでな。端から見るままを語るは容易いが、それは結果起こった事を述べるに過ぎぬ。
果たしてこの二人の内に、いかな葛藤があったか……それは誰も知らぬ、知り得ぬ事じゃでの。意外、真実は別にあるのやも知れぬと思うてな」
「葛藤……」
「あるいは、それを罪と呼ぶべきか……誰も知らぬがゆえに、互いでしか許し合えぬ罪、とな」
愛する男のため、同族を裏切った女。
愛する女の、同族を殺した男。
何かを失わなければ、前へは進めなかった。
いや……進んだ時には、ふと気付けば既に失っていたのだろう。
「しかし、その罪を購う術は、もはや……」
そこまで言って、俺は後の言葉を失った。
いつの間にか、田村麿を今の自分に置き換えて話をしている事に気付いたからだ。
……もはや、か。
罪を購うに何をしようかと実際を考えていないのに、覚悟だけは一端に持ったつもりでいる自分が、妙に滑稽に思えた。
了雲が大仰に目を見開いた。
「よもや貴殿が事でもあるまいに……。
まるで当人が、仏門に下るが如き言い様じゃな」
「いや……別にそのようなわけでは」
慌てて言い繕った。
神仏を全く信じぬわけではないが、他力にすがるような真似はしたくなかった。それが意固地と呼ばれようとも、俺は自身の技量の限りで償いをしようと誓ったのだから。……だがその術、何をもって償いとするか、それだけが見えぬ。
「ほっほ、いやすまぬ、戯言じゃよ。そうよの、貴殿はこの道には向いておらぬようじゃ」
「……」
「いやいや、仏縁これにあらずという事ではのうて。貴殿の場合、誰ぞを救う道は、苦界の只中にある……とでも言おうかの」
「誰かを……救う?」
脈絡のない了雲の言葉に、少し面食らった。
そもそも罪人たる俺が、一体何を救うというのか。血塗れたこの手で、一体誰を救えるというのだ?
暫しの沈黙。
と、了雲が俺の顔をじっと見て、そしてポツリと言った。
「恐い顔じゃな」
「?」
「羅刹の顔じゃよ、今の貴殿は。ただ重き罪を負うて、同じ一所をぐぅるぐる迷うておる。その事を忘れたいがために、己が身を無闇に切り裂いておる者の形相よ。それしか術を知らぬがゆえにな」
否定は出来なかった。償う術も知らぬ俺は、ただ躍起に自分を追い込んでいるだけだという、その事は十分に承知していた。負っている罪の重さに耐えかね、それから逃れようと必死であがいているという事。何も出来ないという事実から目を背け、それで矛盾を埋めようとしているだけだという事も。
その他に、何が出来るというのだ?
だがしかし了雲は、やや頬を緩めて続けた。
「何故に償いをするのか、考えた事はおありか?
誰ぞのためか、あるいは己のためか」
口調こそ問い掛けるふうだったが、了雲は返答を期待していなかったとみえて、そのまま続ける。
「小さき罪ならば、己で許しを与えることもできぬではない。
じゃが、己では許せぬほどの罪を負うたとき、人は誰かにそれを求めるものよ。償いと引き換えの許しを、な」
「しかし、それでは、まるで……」
自己を満足させるためだけに、償いがあると言っているようなものではないか。
「そうしたものじゃよ、所詮はな。
なぁに、それ自体は何も難しい事ではあるまいよ。
ただ、償いと救いとを同じぅしてしまうのが、人の陥りがちな業というだけの事じゃ。……本来は別のものなのじゃがな」
自分を回顧するような顔つきで、了雲は穏やかな微笑を見せた。
「時に誰ぞを憎むが人の必定であるように、たとい罪人であろうとも、直に誰ぞを救いたいと願う心、それもまた必定よ。」
そこで了雲は膝をポンと打つと腰を上げ、既に暗くなった方丈へ向かうと、囲炉裏の火箸で──方丈に囲炉裏というのも妙な組み合わせだが──炭火を挟んで何やらしている様子。やがて灯明の明かりが、日焼けた畳を照らし出した。
その光から改めて目を表に戻せば、いつの間にか、辺りはすっかり暗くなっていた。
吊釜から湯を取って、了雲は茶を点てていた。
その茶碗を熱そうに両手に包みながら、了雲が戻ってくる。
必定、俺一人が瓶子の酒を空ける恰好になった。
「まぁ、それしか術を知らぬかも知れぬが、のぅ、次郎衛門殿。他にも、道は確かにあるものじゃよ。ただ、貴殿が知らぬだけじゃ」
「他の道……?」
「左様」
「御坊は、その道をご存知か?」
「知らぬ」
思わせぶりな口調に期待した俺に、了雲はただ一言あっさりと言い放つと、その後へ付け加えるように続けた。
「いや、虚仮にしておるのではない。所詮、人の道は当人にしか見えぬという事じゃ。なんぼう儂が言うたところで、貴殿の代わりに道を歩む事は叶わぬわ」
それはそうだが。
他の道が在るやも知れぬ、その一事を何度反芻したところで、俺にはやはりこの道しかないように思われた。何も変わっていないのだ。
いや、別な術の可能性を見出したが故に、それが何なのか判然としない事に、言い様のない焦燥感が湧いてくるのを禁じえなかった。
他に為すべき事があるのやも知れぬという思い。
一体俺は何をやっているのだ……?
「儂が如き者すら、何の因果か、長うこと生きておるが……。
人生五十年と申すがの。まこと、人の道は孔丘ですら及ぶまいよ」
何かに思いを馳せるように、了雲は向かいの山の中腹を、穏やかに眺めた。その辺りには、今は使われていない炭焼き小屋があったはずだ。未だ目を覚まさぬリネットの眠る小屋。そして、俺の罪の在処。
そこにリネットを匿っている事が露見したように思われて、俺の心臓が一瞬どきり、と跳び上がった。……いや違う、本当は自分の罪を見透かされるのを嫌ったのだ。この期に及んで、なお。
「当世、罪に震えておるのは貴殿だけではないわい。誰もが何がしかの荷を負うておる……無論、儂もそうじゃがの。
救いは存外近くにあるものじゃよ。なかなか気付かぬが、な」
了雲はそこで一旦言葉を切ると、茶碗を傾けて、ほぅ、と息をついた。白い息が、軒の陰にかかる。
閑散とした竹薮から、ギャア、と軋んだ声を上げて鴉が飛び立った。下弦月を包む薄曇天が相変わらず低く渦を巻いているぶんには、恐らく宵も更けきる頃には、雪が降るものと思われた。
「うむ……雪になるかの……」
了雲もまた、空を見上げていた。
そのまま二人は暫く言葉を交わす事なく、ただ感慨も無しに空を見上げ続けた。雲の天幕には、斑に影落ちる月、それ以外何も無い。
そして、そろそろ帰ろうかという時。
「次郎衛門殿」
立ち上がって草鞋に足を乗せた俺に、了雲は背後から声をかけた。
振り返ると、茶碗を底まで持ち上げて、ずずず、と茶をすする了雲の姿があった。そして深く息をつきながら、その手を膝の上に降ろす。いつにない真摯な瞳が、俺を捕えていた。
「所詮人は独りでは生きられぬ。いかに言い繕うたところで、こればかりは変わらぬ事実。……努々忘れめさるな」
そう言い残すと、了雲は方丈へと姿を消した。