──蛇礼利童子、眼開きて「情けなしとよ次郎衛門、偽りあらじといひ給ひに、鬼神に横道なきものを」
とよばわりつる様、天地轟き雷電雷の野をゆくばかりと覚ゆ。
次郎右衛門臆せずして、件の鬼神の刀取りたれば、「かの者等の怨み晴らせよ」と討ちかからせ給ふ、
丁々と二、三十合ほどを渡りて、いかでかはせむ、果たさずしてあるなり。
時こそ今は、次郎衛門、鬼に授かりし能使はせ給へば、身の丈長じて髪は婆裟羅、額に角の生ず。
もとより強者共、次郎衛門殿が変わりたる様に驚きたれど、戦の事なれば人間の道理の及ばざる、
無きものも在るが如く見て取らせ給はすと──
幼獣の涙(第二編)
〜Leaf「痕」より二次創作〜
(5)
ゆっくりと、目を開く。
その人は、そこに、哀しく佇んでいた。暗い、果てしなく暗い、途方もない宙の中に。
……エディフェル姉さん。
「……許してあげて」
何を?
「赦してあげて……」
誰を?
「……許して……」
ううん、本当は知ってる。でも……。
「リネット……お願い……」
赦す事なんて出来ない。
私達から姉さんを奪った、私から全てを奪った、男。
そこにあるのは、怨みと憎しみだけ。
「今のあの人を救えるのは、あなただけ……お願い。
あの人の罪を、苦しみを……」
「いい報いでしょう? 姉さんだって、そのせいで……」
「……!」
バシッ!!
鋭い音で空間が弾ける。姉さんが、私の頬を平手で打っていた。
「どうして……どうして、そんな事が平気で言えるの……」
辛うじて激情を押さえるように、姉さんの声が震えている。しかし私は、熱く疼く頬を押さえる事も忘れて、思わず言い返していた。
「どうして? もっと苦しめばいいじゃない! 何もかも、全部無くして!!」
そうだ。あの人は、もっと苦しめばいい。
「……そうよ! 全てを! 頼るものも、縋るものも、全部無くしてっ!!」
絶望のうちに、何もかもが消えてしまえばいい……。
……けれど、姉さんはただ黙って、私の言葉を聞いていた。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「あの人には、もうとっくに、何も残ってはいないの。
たった一つ……リネットという存在を置いて他には、もう何も。そう、あなた以外には、ね」
涙を浮かべたまま、姉さんの瞳がすっと細くなった。
「……!」
「あなたは、それを知っていた筈よ」
何も言えなかった。そんな事、思ってもみなかった。
……嘘だ。
わざと思わないようにしていただけだ……。
本当は姉さんの言う通り、知っていた。
ただ、自分がこれ以上辛くなるのに耐えられなかった。だから、誰かを責めずにはいられなかった。罪が誰にあるのか、それが自分でない事を願っていた。だから、誰かにその購いを求めようとした。
「リネット……お願い。あの人を守ってあげて……救ってあげて」
「嫌っ!!」
嫌っ……私の弱さを、言い当てないでっ……!
「だったら、どうして泣いているの?」
その言葉に誘われるままに自分の頬に手を遣ると、冷たい雫が指先に触れ、じんわりと輝いた。
気付かぬうちに涙を流しながら姉と話していた、その事に今、初めて気が付いた。
「あの人は、あなたの許しを待っているの。リネット、あなたでなければ駄目なの」
姉はそっと近づくと、優しく私の髪に触れた。いつの間にか、私は姉の腕の中に抱かれていた。温かく落ち着く感触が、穏やかな風のように私を包み込んだ。
「……お願い」
肩の荷が降りたような感覚と同時に、清閑な悲しみが心に、さぁっ、と流れ込んできた。自分で壊してしまった玩具を前にして、泣きじゃくる子供のような心地。そうだ……。壊してしまった、その切っ掛けを作ったのは、私なんだ……。
絞り出すような声が、鳴咽に混じって、漏れる。
「いやな子だよね……私。悪いのは自分なのに……。
姉さん達が殺された時、ダリエリなんか死んじゃえばいいって……皆居なくなってしまえばいいって、私、そう思ったのに。
なのに……っ!」
涙が止まらなかった。
流れ出る涙と一緒に、自分が消えてしまえばいいと思った。
こんな私、嫌だ……っ。
「全部、あの人のせいにしたのっ!!」
そんな事を一瞬でも考えた自分が嫌だった、認めたくなかった。だから全部押し付けて、勝手に独りで傷付いた振りしていたんだ。
「……リネット……」
「駄目だよ……私。誰かを許すなんて、そんな資格、ないもん……。
本当に許して貰わなきゃいけないのは、私なんだから……」
認めたくなかったから、目を背けて、誰かを詰って。それで完結させていた。
……私を抱く姉の腕に、少し力がこもった。
「ね、リネット。どんな時も、自分一人が傷付いてると思わないで。
あなたは、決して独りじゃない。手を延ばせば、救いはある事を忘れないで。
……いつも……いつも、そこにあるから……あなたが気付かなくても、ね」
泣いている子供をあやすような穏やかな声が、不思議と耳に心地よかった。
「うん……うん」
私は、子供のように素直に肯くだけだった。
姉さんが、少し儚げに微笑んだ……ように思った。
(6)
人の忙しい空気が、木枯らしに縛られた往来に飽和している。それは上天へ昇るにつれて希薄となり、ついには宇宙の大気と入れ替わる。重いものは下へ、軽いものは上へ。常に変わらぬ自然の理。
その空の下で、杓を手にして吊釜からのんびりと湯を取る者があった。
「……おぉ、忠義か。久しいの」
「兄上。……いや、了雲殿」
了雲が茶筅を掻き立てるその手をぴたりと止め、声をかけて見上げたその先には、小姓を二人連れた天城忠義が立っていた。
「……」
しかし忠義は、一度口を開いたきり、何故か無言で立ちつくしたままである。
何か切り出そうとして、言の端を掴めずにいる様子とも取れた。
「まぁ座れ。茶など点てようぞ」
「……」
相変わらず物腰穏やかな了雲のその言葉で、忠義はようやく機を得て、縁に腰を降ろした。そして閉じた扇を膝に突き立て、閑散とした虚空へと目を馳せた。
墨色に落ち着いた方丈の中、吊釜から昇る湯気だけが、やけに白い。
キイキイと冬空を鋭く裂く鳥の声が遠く澄み渡り、茶筅の音が幽かに無為の時を刻む。
了雲が無言で、ふんわりと湯気を上げる茶碗を差し出すと、忠義もまた無言でそれを受けた。無造作に片手で掴むや、僅かに、ズズ、と音を立ててそれを啜る。両者とも茶の作法を知らぬ人間ではない、むしろ作法を重んじる人間であったが、同時に形ばかりの作法が時として人の障壁となる事を知っていた。故に、この二人の間に、通俗の作法は当てはまらない。本音偽らざるのみが、暗黙の作法……「礼」であった。
「うむ……相変わらず苦いのう」
開口一番、忠義はあけすけにそう言い放った。
忠義は了雲の腹違いの弟にあたる。
二人の父、天城忠盛と側室との間に産まれたのが忠敦、後の了雲。その後十年ほど遅れて、正室との間に産まれたのが忠義である。このままいけば忠義が次期領主となって落ち着く筈であったが、ここに問題が起こった。
忠敦が元服してからほどなくして、忠盛が卒中で急逝したのである。
忠敦派と忠義派に、家中は真っ二つに分かれた。なまじ忠敦が利発の利くカリスマ性を持っていただけに、彼を立てようとする者も少なくなかったのである。何より、忠義が元服にも早い幼子であった事が、ことさら事態をややこしくした。
この時に、忠敦はその才気を以って即座に反対勢力を押さえ、領主の座につく。忠義派の中でも、純粋に忠義を擁立する動きと、傀儡化を目論む動きの二つがあった事が、それを容易にした。そしてそのまま暫く、三十歳に手が届こうかという頃まで、雨月の地を治め続けた。その間にも雨月は商業交易の地として目覚しい発達を遂げ、近隣で飢饉が続いていた時でさえ、ここでは餓死者を見る事は皆無に等しかった。
人の集まるところ、市が立つ。市の繁栄は人の流れにあり、従って、人の流れが無ければ市の栄えることはない。その点を熟知していた忠敦は、関を比較的緩やかなものにしたのである。次郎衛門がこの地に流れてきたのも、そうした人の流れに乗ったからであった。
やがて、忠義が元服を迎える。そのまま忠敦が治めていても問題は無かった筈だが、予めの目論見でもあったのか、後を忠義に託して唐突に隠居してしまう。慌てる周囲を尻目に、果ては出家して了雲と名を改めてしまった。
果たして、忠敦こと了雲の目的は何であったか。
時折、彼は元服前の忠義を指して、「長じて忠敦の及ばざる器」と、苦笑混じりにこぼしていたという。のみならず、元服前の忠義のもとを頻繁に訪れては、後継としての「教育」を施していた節がある。
了雲の個人としての技量も凡夫のそれではなかったが、他人の器をいち早く見抜く目にも優れていた。それを妬まず、素直に認めるだけの度量を持っていた。そして、常に未来を、自分が世から失せた後までも見据える目を持っていた。
その彼が、忠義をして自分の後継にあてたのである。
そして、忠義が彼の期待を裏切る事は無かった。
……ただ一つ、鬼の襲来という事件だけは、忠敦すなわち了雲にも予見しかねた事態であったのだが……。
「して、何用かな。この年寄りの顔を見に、というわけでもあるまい」
掴み所のない笑みを浮かべたまま、了雲が尋ねた。
尋ねた……と言っても、即座に返答を期待した問いではなく、相手に話のきっかけを与える問いである。
忠義もそれを心得ており、幾度か茶を啜ってから、ようやく口を開いた。それは幾度も含んで、ようやく言葉になったものであった。
「次郎衛門が、鬼の娘を匿うておるとの風聞がある」
「はて……次郎衛門とは?」
知っているものも知らぬ様子で、了雲はうそぶいた。
「件の雨月山の鬼を退治せし……よもや、知らぬでもあるまい?」
「あぁ、なるほどの」
ようやく得たり、といった顔で、了雲が膝を打つ。
「して、何故にその次郎三衛門が」
「次郎衛門」
「その次郎衛門が、鬼の娘を匿うのかな?」
「それは分からぬ。大体が、真偽のほども分からぬのでな。しかし幾ら風聞の事とて、火の無き所に煙は立たぬ」
「……結局、どうしたいのじゃ、お手前は」
話がくどくなってきたのを感じた了雲は、率直に訊いてみた。
中々本音を漏らさないのは、忠義が特に優柔不断というわけだからではない。結論は既に出ているのに、そこへ行き着きたくないが故の、遠回りである。
「次郎衛門を呼び、事の真偽次第を問うてみようと思う。何のつもりかは知らぬが、あれとて、話して分からぬ男ではあるまいでの」
「して?」
「……事の如何によっては、そうの……」
そう言って、忠義は沈黙に言葉を預けた。
本来ならばここで「討ち取る」と言いたいところだったが、相手が次郎衛門とあっては、それは容易な事ではない。鬼軍を殆ど一人で平らげた武者を敵に回しては、分が悪すぎるというものだ。第一それでは、一度とはいえ次郎衛門を手放しに褒めた讃えた忠義の立場がない。大方、人知れずのうちに雨月から出ていくように仕向けるのが関の山であろう……。
了雲は、そう踏んだ。
勿論、件の噂が事実無根のものであれば、それに越した事はない。
「それでは……」
忠義への使者が飛び込んできたのは、了雲が唇を軽く舐めて口を開いた、まさにその時だった。
「申し上げますッ!」
「何用か」
縁に座ったまま、多少苛立たしげに忠義が尋ねた。
忠義の前に膝付いた使者は、暫しかかって荒い息を落ち着けた。師走も終わりという時期にも関わらず、襟足が汗でびっしょり濡れている。裾には点々と泥が撥ね、背中まで跳んでいた。
「早う申せ。茶が冷える」
「は……。実は……」
ひとしきり降った雪も止み、よく晴れた冬の乾いた昼である。鼓を打てば、どこまでも響きそうな空であった。
その空の下で使者が口を開くや、忠義は「何ィ?」と頓狂な声を上げて、まだ湯気の立つ茶碗を放り出して立ち上がり、そして唾を飲み込むように呆然と呟いた。
「それは……真か」
その言葉を余所に、冷たい土に染み込んでいく茶を見詰めながら、了雲は思慮深げに顎を沈めた。
(7)
「ふん……まるで話にならんな」
「そう言うな。これも奴を誘い出すためだ」
「俺は、狩りが出来れば文句はないがな……」
「しかし、この程度の騒ぎで奴が来るか?」
「ま、儂等と張り合えるのは、あやつくらいのものだからな。
必ず来るだろうさ」
「出来れば、リネットも一緒に、な」
「勿論だ……なぁ。そう願いたいものさ。
犯しながら、目を潰し鼻をもぎ取り、四肢を食いちぎってくれようぞ」
「それも、奴の目の前で、な……フ、フフ……」
炎を背後に背負って、数名の人影が不気味な会話を交わす。
いや……異常に発達した体躯と、頭から生じる異様な突起は、既に人のそれではない事を告げていた。
燃え上がる炎の中では、生きながらに身を焼かれる村人の断末魔が幾重にも重なりあい、冥府地獄の声色を唱和している。
ふいと一人が振り返って、その惨状をうっとりと眺めた。
「美しいものだ。見ろ、火の粉と共に、無数の生命が昇華してゆく。
取るに足らぬ、塵芥のような生命でも……な」
しかし、その向こうに広がるのは、焼かれる者にとっては阿鼻叫喚の地獄絵図。
全てを飲み込む炎の照り返しを受けながら、目を細めてそれを賛美する彼等の姿は、さながら鬼そのもの……まさに、エルクゥに他ならなかった。
次郎衛門率いる第三次の討伐隊は、全てのエルクゥを平らげたわけではなかった。そしてその残党が再び結託し、今また幾多の村を襲っていたのである。
「さぁ、そろそろ引き上げるか。俺は眠くなってきた」
一人が他の者を促す。
「そうだな……。……なんだお前、その担いでいるのは」
相槌を打った者が、仲間の一人の姿を見咎めた。
その輩の肩に気を失ったまま担がれているのは、蕾も綻び始めた十四、十五の村娘である。
「へへッ、久々に狩りをしたら、血がたぎって、なぁ」
「何が久々なもんか……お前、こないだも一人で狩りをやったろう。
おかげで、お前の唸りと女の鳴声が五月蝿くって、こっちは寝られなかったんだ。
あれから三日とあけてないぞ?」
「そう言うな。後でお前にも回してやるから」
「誰がお前のお下がりなんぞ貰うものか」
「……下らん愚痴はそのへんにしておけよ、そろそろ辺りが騒がしい。
これ以上は面倒だからな、さっさと戻るぞ」
リーダー格らしき一人がピシャリとそう言うと、幾重かの影がサッと宙に舞う。そして、下弦の月を背負った放物線の頂点で咆哮一つくれると、暗い森の奥へと姿を消した。
炎に照らされた黒煙が、急を告げる狼煙のようにいつまでも立ち昇っていた。
(8)
「さて、何から話したものかの……」
俺の目の前では忠義が、閉じた扇の先で自分の顎をピタピタと叩いて、思案に暮れている。市を歩いていたところを、小姓に呼び止められた俺は、忠義の居城の広間へ通されていた。
有事の際には戦評定の場となるこの広間へ入るのは、これが初めてではない。最初に参加したの討伐隊(この時点で討伐隊自体は二回目であった)。二度目の討伐隊参加。その行く時と戻った時とで一度ずつここを訪れているとすれば、少なくとも今回で五度目の勘定だ。そのほんの数回の間に起こった事が、俺の人生をめまぐるしく狂わせた。
運命と言うにはあまりに濃密で、生々しく凄烈な一幕。そこに、人というものの全てが凝縮されているかのような日々。だがそれも今は、止まらぬ恒常の流れの中、過去へとゆっくりと希釈されていくのみだ。
ゆっくり、ゆっくりと。
「ふーむ……」
扇のピタピタという音が続いていたが、やがて忠義は扇でピシャリと膝を打ってから、身を乗り出すように脇息へ肘を乗せた。
「時に……そなた、鬼の娘を匿うておるそうだの」
「っ!?」
予告もない唐突な言葉に、一瞬にして、自分の体中から血の気が引いていくのが分かった。
が、忠義は俺の反応を楽しむように、冗談を言った後のように軽く笑っただけで、さらりと話題を摩り替えた。
「いやまぁ、今はそれはどうでもよいわ。話は別にある」
「別に……」
忠義の言葉を上の空で反芻しながら、激しく鼓動する心臓を必死で抑えていた。行く手の道が突然崩れ落ちたような、不吉な錯覚に陥るところを、寸でのところで踏み止まる。
俺がリネットを匿っているというのは、忠義にとって、どうでもいい話ではない筈だ。
一体何を考えている?
どこまで知っているのだ!?
「此度の話というのはの、そちに、もう一働きして貰いたいのじゃが」
「……」
「これ、次郎衛門よ?」
「……は、はっ?」
あれこれの懐疑に没頭していた意識を、慌てて現実に引き戻した。
「要領を得ぬ奴よの。もう一働きしてくれぬかと訊いておるのだ」
「……? もう一働きとは……」
一瞬忠義は躊躇したと見えたが、やがてゆっくりと、吐き捨てるように口を開いた。
「なに、鬼共が悪さをしていくさるでの」
「……は?」
それはもう、終わった事ではなかったか?
言葉の意味を測り兼ねて、忠義の顔を見上げた。
「鬼共の名残りがの、そこらの村を荒らして回っておるのだ」
多少苛立たしげに、忠義が繰り返した。
「先だっての……あれの残党が徒党を組んでおる」
……なるほど。
宵闇の中での戦であったから、討ち漏らした可能性は大いにある。それがまた暴れているから、平らげてこいというのだ。
しかしエルクゥ達が何故今更、この地で……?
俺という天敵を得た今、この雨月になお留まる理由が、何かあるだろうか?
その疑問を見透かしたように、忠義が続けた。
「きゃつらじゃがな、どうも、狙いはそちにあると見える」
「某に……にござりますか」
「おおよ。先の者共は、いずことも構わず暴れておったものじゃが……。此度の者共は、特に目立つ所のみ狙うて荒らしておる節がある」
そこで忠義は一旦口を閉ざし、一層身を乗り出すようにして、俺の目を見据えた。
「誰ぞを挑発するかのように、な」
「それが、某だと?」
それならば、有り得ぬ話ではない。一族を全滅寸前に追いやった、その手を下した俺である。それを怨むなと言うのは無理な話だ。
「あるいは、そちに縁のある者……かも知れぬがの」
「は?」
「いや、聞き捨ておけ。今のは独り言じゃ……」
事もなげに忠義はそう言ったが、俺は聞き漏らさなかった。
俺に縁のある者? 故郷を遠く離れ、血縁の者などとうの昔に捨てた俺だ。この地に来てより以来、情を交わした者など、エディフェルを置いて他にはない。そのエディフェルも、今となっては……。
そこまで考えて、脳裏を不吉な閃光が走った。
……リネットか!?
俺を敵にまわしてまでも復讐の炎に身を焦がす鬼が、彼女を狙っている……?
有り得ない話ではない。いやさ一族を裏切り、俺に与した結果を思えば、鉾先の向くところとなって当然とも思えた。
頭がめまぐるしく回転を始めていた。どうやって迎え討つ? その間、リネットをどうする?
じッと考え込む俺を余所に、忠義は話を続けた。
「無論、褒美は十分に取らそう。そうよの、望みとあらば……儂が名で、そち等の扶持も」
召し抱えの話か……。
……うん?
今、忠義は「そち等」と言わなかったか? 「そち」ではなく?
「どうかな? そち等にとって、悪い話ではないと思うが?」
……つまりは、そういう話なわけだ。
否の道はない。
「では、もう一番仕りましょう」
俺が平伏して承諾すると、二人の交渉は終わった。忠義は満足げに腰を上げ、一足先に悠々と広間を後にした。
その後に一人残された俺は、暫く腕組みして考えた。だだっ広い広間に張り詰めていた空気が、冬の寒さと入れ替わり、どこまでも静かな空間に、俺一人の思考が満ちてゆく。
考えるに、召し抱え……というのは、表向けの材料だ。実際のところは、リネットを間に置いた、一種の人質合戦と言ってもよい。
忠義の「そち等の扶持も……」という言葉は、リネットと俺の、この地における安全を約束するものであろう……が、裏を返せば、断ればどのような事態に陥っても知らぬ、という暗黙の脅しとも取れた。
その場合、忠義側も甚大な被害を被らずにはいられないだろうが……。俺としてもリネットがあの状態では、満足に対応できるかどうか分からなかった。従って互いに、この選択肢は常識的には有り得ない。否の道はないというのは、そういう意味だ。
言葉こそ柔らかいものだったが、皮一枚めくってみれば、トゲトゲした思惑に満ちていた。いや、そうでなければ、この世情での領主などとても務まったものではないのだろうが……。
どちらにせよ、他に選択はないのだ。どうにか割り切る思いで、広間を後にした。
忠義の居城は、実を取った剛健な造りの城である。守って難攻不落、兵糧戦にしても半年から上をしのげるだけの蓄えがあった。
だがそれも、人間相手ならばの話だ。五、六間(十メートル前後)を易々と跳び、大木を素手でへし折るような鬼相手、それも揃いも揃って寄せ手の全てがそうとあっては、この城とて三日と持つまい。
そうしてあちこちに目を配りながら門を出たところで、軽い脱力感を覚えた。深い息を衝きながら、忠義の居城を見上げる……自然、苦笑が浮かんできた。
人には人の思惑があろうというものだ。
忠義が先程の口約束を守れば、それに越した事はない。そして、万が一にもあるまいが、反古にするようであれば、多少の置き土産を残し、この雨月を去ってもよかろう……。暗い想像ではあったが、そう考えれば多少肩も楽になる。
ともあれ、身の振り方は決まったのだ。
巧く運べば、万事も解決しよう。
だがその頃、遠く離れたリネットの身に既に危機が迫っていた事を、俺は知らなかった。
(9)
炭焼き小屋の引き戸に、人影が落ちた。
その数、およそ十人弱といったところであろうか。いずれも、山の麓に田畑を構える百姓の若い衆であった。
子供等の間に流布し始めていた、「鬼の娘が伏せっているゾ」という噂の真偽を確かめにきたのである。げに、野山を遊び場とする子供等は、時としてとんでもないものを発見してしまうものだ。
「ここか」
「間違いない。見ろ、捨ててある炭もまだ新しい」
「おい……誰か、他にいるのではないか?」
小屋に出入りする次郎衛門の姿を、はっきりと目撃した者はいない。でなければ、とっくに雨月の地からは彼の姿は消えていた筈である。小屋に出入りする現場を押さえられては、いかに次郎衛門といえど、言い逃れはできなかったろう。悪事千里を走る……無論、悪事でなくとも人の噂というものは、与一の放つ矢よりも早い。
もっとも百姓の間では、次郎衛門の顔を知る者は極めて希だったから、「侍と鬼とが通じておるそうな」という噂に止まった可能性の方が高いが、それはそれで大問題である。
「だ、大丈夫なんだろうな? 本当に、寝込んでいるんだろうな?」
「さて……。しかし、なんでまた、こんな所にいるのかのう……」
戸に手をかけ、すッと音も無く…とは開かなかった。とうに放棄され、あちこちにガタのきている小屋である。まず、戸が斜めに歪んでギシッと軋む。そして、溝に小石を挟んだとみえて、ゴリゴリゴリ……。
「おい、もっと静かにできんのか」
「やっておるわい。これが精いっぱいじゃ」
それでも時間をかけて、少しずつ、少しずつ、音を忍んでゆっくりと開いていく。ある程度の隙間ができたところで、声の主達が、そこから中を覗き込んだ。
「……どうだ?」
「暗くてよく分からんな。……あッ、火桶に火が入ってる……」
「ひえッ」
「お、起きてるのか?」
人の気配があるというだけで、既に腰から下が遁走しようとしている者がある。ばかりか、とうに木立に身を隠している者さえある。
「いや待て。やっと目が慣れてきたところだ……なぁんだ、やっぱり寝ているではないか」
肝の座った一人が中を覗き込んでそう言うと、
「どれ、俺にも見せろ……ははぁ、成る程。しかし、ここからでは本当に寝ているのかどうか分からんぞ」
どこまでも慎重である。それもその筈、それこそいざという時には、「こいつを鬼の前に放り出して、その隙にとっとと逃げるか」と考えている連中ばかりであったのだから、事の運びは牛の歩みよりも遅かった。
「な、なら、お前、見てこい」
「何を言うか。俺が様子を確かめたんだから、今度はお前の番だろう」
「ものにはついで、というものがあるわい。お前が、ついでに見てこい」
さんざん揉めながら、それでもゆっくりと、戸が大きく開いた。薄暗い小屋の中、黒く湿った土に光が長太く延びる。一団は、三歩進んで二歩下がるを繰り返しながら、ようやく土間の端に辿り着いた。そこで息を潜めて見据える先では、何かに被せられた菰の頂点が、ゆっくりと上下していた。
「……おい」
「……あ、あぁ……」
おっかなびっくりの足取りで、板間へと上がる。その向こうでは、菰を夜具の代りにして昏々と眠り続けるリネットが、規則正しい寝息を立てていた。表面の粗い菰の裾から着物の地が覗いているところを見ると、身体と菰との間に、もう一枚夜具代りにしているらしい。
その周りを腰砕けで遠巻きに取り囲んだ侵入者達は、息を呑むように首だけを突き出しながら、リネットの顔を覗き込んだ。
「……?」
一同に息を飲む。
つき立ての餅のような白い肌に薄く汗が滲み、やや乱れた髪がほつれて張り付いている。少し顰めた眉が、切なげな表情ともとれた。
果たしてこれが本当に、あちこちの村を焼いてまわった鬼なのであろうか? 日頃思い描いていた羅刹のような姿とはかけ離れた、あまりに無防備な姿が、目の前にあった。
「……」
「……フ……ウ」
軽い吐息を上げて、不意にリネットが頭を返した。
「!」
(まさか……目を覚ました?)
だがリネットは、赤子のように軽く握った手を僅かに動かしただけで、すぐに深い寝息を立て始めた。
取り囲んでいた者達は一瞬びくッとして一歩退いていたが、そろり、そろりと、様子を窺いながら再びその幅を縮めていく。
迫る危機も知らず薄く唇を開いたその寝顔は、どこまでも無垢であった。
ごくり、と男達の喉が鳴った。
(10)
──数日後。
曇天薄暗く、針のような雨が天から垂れている。
寒さに耐え兼ねた忠義は、火桶をぐいと手元に引き寄せた。赤々と燃える炭の上に手をかざすと、僅かな痒みをともなって、乾いた暖かみが伝わってくる。
向かい合って座った了雲は、湯気を上げる湯呑みを両手で包むように持ちながら、墨色に濡れる庭を眺めている。視線が向かいの山の稜線より多少上にあるため、白く蓄えた眉の下で、ごうごうとまわる冬空を睨み付けているようにも見えた。
「厄介な事になったのう」
白湯で喉を潤しながら、了雲がぼやいた。
「うむ……さすが了雲殿、もう知っていたか」
若干震えながらの忠義の皮肉った返答に、了雲は口の端を歪めて笑った。
了雲が忠義の小姓を抱き込んで、密かに事の運びを調べさせていた事など、忠義はとうの昔に知っている。ばかりか、了雲もまた、その事を承知の上であった。
傍目には馬鹿馬鹿しい関係と見えたが、それが二人の微妙な均衡を保っている。かつてのカリスマを捨てた筈の了雲ではあったが、いまだその余波は、家中に根を残していた。家臣の全てが、忠義に全く服しているわけではないのである。
雨月の平穏は、全くこの兄弟の関係に依っていた。二人ともその事を承知であるから、敢えて事を構えるような事はしない。
「燕雀いづくんぞ鴻鵠の、か」
呆れ半分ともとれる溜息をつきながら、忠義がぼやいた。この場合の言葉としては、いささか的外れな気もするのだが……。
「いや、こうした事はままあるものよ。細密な謀ほど、些細な事で狂うものじゃ」
了雲はそう言ってから、少し暗い表情で付け加えた。
「……此度ほどの事は、そうは有るまいがの」
「まことに……」
「して、次郎衛門には何と言付けた」
枯れ庭を眺めていた了雲は、視線はそのまま、忠義に問い掛けた。
「先ず、鬼の娘を捕らえた、と」
平易な口調で、忠義は続けた。
「後日斬首に致すゆえ、必ず遅れずに来よ、ともな。
顔色一つ変えずに聞いておったわ。ふふ……あれでなかなか腹の据わった、食えぬ男よ」
垣に耳。いかに城中といえど、あけっぴろげな発言がいつ身の破滅を招くとも限らない。自然に、次郎衛門と忠義との対話が、謎懸け問答のような遣り取りになったのも仕方ないことであったろう。
事は数日前、次郎右衛門を城に呼んだ当日夕刻に溯る。
「鬼の娘さぁ、とっ捕まえただぁ」
と、城を訪ねた者がある。言うまでもなく、件の百姓達であった。
たまげたのは忠義である。リネットの事は内密にして事を運ぼうとしていた目論見が、あっさりと崩れ去ってしまった。ばかりか、「某が信用ならず人質を取ったか」と次郎右衛門に最悪の誤解をされかねない。慌てて小姓を総動員して城下を探し回らせる一方、間に合わなかった時の事を考え、半ば殴り書きの文を小屋へ持たせた。
当の次郎衛門はといえば、小姓の一人が見つけた時には、了雲とのんびり酒を酌み交わしていた。これからの方向もある程度定まり、先ずは口開けの一杯、というところだったのだが……。
リネットに狼藉を受けた痕跡のないのが、せめての幸いであった。傍目には麗らかな少女と見えても鬼である、という事実が幸いしたのであろう。これでリネットが汚されているような事があれば、いかに言い繕ったところで、次郎衛門は怒り心頭に達していたに違いない。
見境いなくして暴走し、一夜にして城下は焼け野原とならなかったとも限らないのだ……いや、そうなった可能性が多分である。次郎衛門は頭の巡りがよい一方で、ややもすれば感情に流されやすい一面を持っている。それが、二人の持つ共通した評価であった。
百姓等に過分の褒美を与えた上で一応の口止めはしておいたが、既に市井にはその事の噂が広まっているとみて間違いあるまい。「忠義の殿様が、鬼の娘を捕らえてござるげな」と。遅かれ早かれ、ここで何らかの処遇を見せておく必要があった。
時に、室町時代も後期に足を突っ込むか突っ込まぬかの頃である。
各地で一揆が頻発し始め、天皇家の権威は既に失墜していた。東国と西国をそれぞれ支配する、鎌倉公方と室町公方との溝は深くなる一方で、もはや後戻り出来ぬところまで来ている。世の中は確実に戦国乱世へ動き始めているのだ。その激流に対応してゆくためにも、領内をしっかりと固めておく必要を、忠義は常に感じていた。
僅かなりともここで不審を背負う事は、後々までの遺恨となりかねない。
「遅れずに……か」
「左様」
「その問答、次郎衛門に解けるかの」
「解いて貰わねば困るわい。あやつを敵に回すほど、この忠義、阿呆ではないぞ」
了雲は黙したまま応えず、相変わらず、鳥の声に耳を傾けていると見えた。
掛け値無しに一騎当千、あるいはそれ以上の力を持つ次郎衛門を敵に回す事だけは、避けねばならない。かといって、迂闊に領民等の不審を煽るような真似もできない……となれば、忠義はどうにも動きようがない。自然、事態の行方はいつしか、次郎衛門の一挙手一投足にかかっていた。
「それに……この程度の問答も解けぬようでは、この先、雨月に留まる事は叶うまい」
「……そうじゃの」
二人が揃って、肩で息を零した。
わが領地で大事が起こっているというに、肝心の領主と前領主が揃いも揃って思うように動けない状態なのだから、溜息の一つや二つは身の垢程度。
しかもその事態の行方を握っているのが、常に弓に番えられた矢のような男なのである。
(11)
忠義の居城の一角にある、とある矢倉。その二階は、普段使われる事のない、開かずの間となっている。扉の外で閂を渡すようになっており、内側からこれを破るのは、人の力では到底無理な話であった。
その埃の匂いたち篭める薄暗い板間の真ン中に、娘が一人端座している。じッと目を閉じたまま、何かを待っている様子とも見えた。
「起きておったか」
その言葉にリネットがゆっくり目を開くと、扉の縦格子からは、誰あろう、忠義の顔が覗いていた。
「……」
「う……」
リネットは少しも怯える事なく、黙ったまま、忠義の顔を正面から真っ直ぐ見詰めた。睨むでもないその眼差しにたじろいだのは、忠義の方であった。
(囚われていながら、何故にこれほど真っ直ぐな目をしていられるのか)
自分の置かれている状況を理解していないのか……いや、そうではあるまい。根拠は無かったが、忠義は直感でそう考えた。
なおも二人の視線が交錯する。やがて。
「……レデゼ、ラダ?」
鈴を転がすような声が、リネットの口からゆっくりと零れた。
当然ながら、忠義にはその言葉の意味が分からない。
「……レデゼ……ラダ? ……ダル……デ……リネット……」
リネットは自分の胸に軽く手を当て、繰り返し言葉を紡いだ。
「……」
それでも忠義が黙っていると、リネットは哀しげに睫毛を伏せ、再び目を閉じた。
娘とはいえ、鬼の力を以ってすれば、このような扉など、容易く打ち破れる筈であった。否、狂暴な鬼ならばそうして当然である……リネットのこうした態度を実際目にするまでは、忠義はそう考えていた。
そうしてくれた方が、都合がよいという期待もあった。それは「解き放った」と「逃走した」の違いだけだが、行動の主体がリネットにあるぶん、忠義の負うリスクは少なく済む計算だった。当然追手を差し向けねばなるまいが、次郎衛門が今暴れている鬼共を平らげれば、その時に一緒に退治してしまった事にすればよい。
領民家臣達は「鬼」という存在を、「個々の集合」ではなく「一塊の集団」として見ている。「鬼共」の中に個性を見出すに至っていないわけだから、リネットという特定した存在を認知できる筈もない。同じ畑から取れた芋が皆同じに見えるのと、一緒の理屈である。
つまり、退治した鬼の中にリネット一人を欠いたところで、それを知る者が口にさえしなければ、「全て平らげた」で話は済むのである。その意味でも、忠義は少なからず不穏当な期待をしていたのだが。
だが、この娘はどうであろう。己が運命を見詰めるように、じっと何かを待ち続けている様子でもある。その姿は忠義の目には潔いものと映り、武者の気概に通うものを感じさせた。
(あるいは……それほどに次郎衛門を信頼しておるのかも知れぬが……)
ただ一つ言える事は、リネットの態度が、諦観から生じたものではないという事だった。諦めた者の瞳は光を失い、死んだ魚のように濁ってしまう。しかしリネットの瞳の奥には、澄んだ光が宿っていた。何かのために生きようとする意志が、確かにそこにあった。
「なるほど、次郎衛門が気に懸けるだけの事はあるわ」
「……?」
再び忠義の顔を見上げたリネットは、小首を傾げた。
「あぁ、言葉が通じぬであったの。なに、心配には及ばぬ。次郎右衛門との誓約があるでの」
「ジロー……エモン?」
リネットの唇から片言ながら次郎衛門の名が紡がれると、忠義の目は驚きで見開かれたが、すぐに柔らかい笑みに取って代わった。
「そうじゃ。あやつが間に合えば……あるいは……」
諭すように、呟くようにそう言って忠義は扉から離れ、しっとりと湿気を帯びた壁の狭間から外を窺った。
身を切るような冷たい雨が黒々とした山を霞で覆い、遥かな峰は霧雨の中で翡翠を匂わせている。その目が覚めるような風景の下を、次郎衛門は今も奔走している事であろう。
「……次郎衛門、この娘を殺すでないぞ」
それは、忠義の偽らざる本音であった。
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