スモーキー・スパイシー・カリー ◆ Hunged-Cat様
間合いはこちらに分があった。
序盤で幾度となく繰り返されたつば競り合いで、敵の膂力が大きくこちらを圧倒している事は身に染みている。
けれん身のない構えから繰り出される、思い切りのよい打ち込みを、二合、三合と受けるうちに、柄を握った腕からは握力を奪われ、不本意ながらも後手後手に廻ることを余儀なくされてしまった。
この相手には半端なフェイントなどは通用しない、そんなものは全て、正面からの力技で一蹴されてしまうだろう。
体格面では大きく水を開けられ、そこからくる筋力の差は傍目にも絶望的だ、一見すると彼女の劣勢は、もはや決定的に映ったかもしれない。
しかし、いかに剛力の込められた剣撃と言えども、当たらなければ何ら恐れる必要はない。
なす術も無く逃げ回っているかに見える彼女の方こそが、その鋭い動きを以って、鈍重な敵を翻弄しているのだ。
羽毛の風に舞うが如く、軽やかな足捌きはまさに無双。
こちらの姿を捉えきれず、闇雲に放たれる太刀筋は全て見切っているし、俊敏きわまる彼女のスピードなら、一息で相手のふところ深くに跳びこめる。
獲物を狙う猫科の猛獣がしなやかに身をたわめる様にも似て、彼女は辛抱強く、やがて訪れる機を待ち続けた。
固めたガードにも頓着せず、続けざまに振るわれる烈火の打ち込みで角に追い込まれる。 もう後退できるスペースは無い。
だが、これこそが彼女の誘いだった。
無駄な連撃でスタミナを消費し尽くし、敵の息にわずかな乱れが生じた刹那の一瞬。
その機を逃さず呼吸を合わせ、過またず放たれる必勝の一撃。
「胴ーーーーーーーーーーーー!!」
矢の疾するが如く駆け抜けた彼女の残像を追うように、小気味良い竹刀の音が響き渡った。
「胴あり一本! 合わせて三本、勝負あり、それまで。」
一斉に審判の旗が上がり、決着が宣言される。
静まり返っていた場内に、割れんばかりの歓声が湧き上がった。
「いやったー、藤村の優勝だー。」
「大河、信じてたよ〜。 おめでとう〜。」
「きゃあーー! 藤村先輩、ステキーーー!!」
全国女子剣道大会、県予選個人の部。
私立穂群原学園2年生、藤村大河はこの瞬間、得意の抜き胴で昨年の覇者をくだし優勝を勝ちとったのだった。
折り目正しく蹲踞の姿勢から竹刀を収め、礼を交わす。
白の胴着に白袴、赤胴の拵えも凛々しい少女剣士は、颯爽と同輩の元へと凱旋する。
きつく結ばれていた紐が解かれ、外された面の下からは、爽やかな汗に彩られた花のかんばせが現れる。
上気して薄桃色に染まった頬を、光る雫が一筋つたう。
たった今、自分より大きな敵を打ち負かした少女は、試合中の勇猛な姿とは打って変わって、年頃の可憐な乙女にしか見えない。
「でかしたぞ、藤村。 いやあ〜、良くやってくれた、全国大会もこの調子で頼むよ。」
「おめでとう〜、さすが穂群学の期待の星。 個人戦、初出場で初優勝なんて出来すぎだよ〜。」
「藤村先輩、お疲れ様でしたー。 カッコ良かったです。 あ、あの良かったら私のタオル使ってくださいっ。」
口々に賛辞を送りながら、彼女を取り囲む仲間たち。
しかし、輪の中心にいる少女の方は、溌剌とした美貌に似つかわしくもなく、気鬱げに下を向いたままで大きなため息を吐いた。
「う〜、お腹空いた〜。 もう、相手の顔が江戸前屋のドラ焼きに見えて仕方なかったよ〜。」
「・・・藤村、君、相変わらず緊張感の欠片も無いね。」
「あ、ネコ。 約束忘れてないよね? 県大会で勝ったら江戸前屋で食べ放題! 全部あんたの奢りだからね〜。」
「そりゃ確かに約束だから構わんが、もちっと喜んだらどう?」
「・・・? 何で、もちろん嬉しいに決まってるじゃない。 江戸前屋だよ? 食べ放題だよ? しかもネコの奢りなんて夢みたいじゃな〜い。」
「・・・ま、いいけどね。」
親友の前で、ようやくいつもの屈託のない笑顔を浮かべ、嬉しげに身をよじる大河。 しかしその喜びぶりはどこかピントがずれている。
それもそのはず、彼女にとって同年代の学生相手の試合などは、単なる通過点にすぎない。
本来、大河が目標とする、倒すべき敵はもっとはるかに強大なのだから。
今日こそは、謎のベールに包まれたあの男の正体を暴いてやろう。
あの男に会心の一刀を打ち込めば、胸の奥でもやもやとする、何だか良く解からないこの感情も、きっとはっきりするに違いない。
「ん〜、幸せ〜。 もう喉までアンコが詰まってパンパンだよう〜。」
「しっかし君、よく食べたね。 あんなに甘い物ばっかり次々と・・・あたしゃ見てるだけで胃がもたれたよ。」
「女の子は皆〜んな、甘い物が好きなの。 ネコの方こそ、未成年のくせにお酒が好きなんて変わってるんじゃない? そのタコ焼きだって温めなおしてオツマミにする気でしょ?」
「ウチは酒屋兼飲み屋だからね。 跡取り娘のあたしが下戸じゃ商売になんないのさ。」
約束どおり、商店街に出ていた屋台で、タコ焼き、タイヤキ、ドラ焼きをフルコースで堪能した帰り道、大河は親友のネコと連れ立って歩いているところだ。
育ち盛りの少女達の健康的な食欲には際限がなかった。 もっとも戦力は主に一人だったが・・・。
わずか数十分で、今日仕込まれたすべての材料分を食べ尽くし、店のおばちゃんからオマケのタコ焼きまで貰った二人は上機嫌だった。
「こんだけ食べといて、何で君の胸は育たないかね〜。」
「む。 それを言ったらネコだって同じじゃないよう。 増えるのは体重計の数字ばっかりなんだよね〜。」
「お互い、もう少し何とかしたいよね〜。」
「それに今日はいつもよりお腹が空いちゃって・・・。 試合前は駄目だって、先生がお弁当食べさせてくれなかったのよ〜。」
「ああ、ちゃんとエサを与えてれば、三本目にもつれこんだりせず、もっと楽勝だったかもね。」
止むことのないおしゃべりと共に、肩を並べて歩く少女達。
もうすぐいつもの分かれ道にさしかかるという辺りで、一人の男子学生が緊張した面持ちで声をかけてきた。
ちょっと不良っぽい感じだが、大河に向き合う顔は真剣そのものだ。
「あの、藤村大河さんスか? これ、先輩から藤村さんに渡すようにって預かってきたっス。 読んで下さい。」
顔を真っ赤にさせて声を裏返らせながら、一通の封書をむりやり大河に押し付けると、返事も待たずに走り去る男子学生。
制服からすると、どうやら隣町の男子校の生徒らしかった。
「おお、大河やるじゃ〜ん。 ラブレター? 見して、見して。」
呆然と言葉もなく立ち尽くす大河の手から、淡いブルーの封筒をひったくるネコ。 その宛名の部分にはデカデカと・・・
「果たし状 冬木の虎 殿」
とだけ記されていた。
「・・・まあ、何つーか。 あんまり気にしなさんな。」
「ふ、ふん。 いいもん、慣れてるもん、ちっとも気にしてなんかいないもーーーん!」
中をあらためもせずに手紙を破り捨て、泣きながら駆け出す大河。
そしてこちらも慣れているらしく、猛スピードで小さくなってゆく背中にかるく手を振りながら、ネコがのん気な調子で声をかける。
「あ、タイガ〜、また月曜日ね〜。」
「タイガーって言うなーーー!!」
深山町の坂を登りきり、古くからある武家屋敷の並びを歩く。
比較的、広い敷地を持つ住居の多いこの辺りだが、この屋敷の塀の長さはひときわ目を引いた。
広大な庭を囲う立派な構えの門には、不釣合いなほど控えめに「衛宮」と書かれた小さな表札が掛かっている。
それを横目で眺めながら、足音を忍ばせ気配を絶って侵入する。
家人に断りもなく内庭にまわると、縁側からそっと中の様子を窺ってみた。
よし、まだ気付かれてないみたいだ。
「え〜と、居間には居ないみたいね。 道場の方かな?」
片手の竹刀を握り直して振り返ると、一人の少年と目が合った。
こちらと同様、短めの竹刀を肩に担いで、口をへの字に曲げた無愛想な顔でじっと大河を凝視している。
くりくりした眼に宿るやんちゃな輝きと、鼻の頭や膝小僧に貼られたバンソウコウが、向こうっ気の強そうな性格を物語っていた。
「お前、また来たのか? 何しに来た?」
「お前じゃないでしょう〜。 目上の人、それも女の子にそういう口利いちゃいけないって、こないだも教えてあげたよね〜?」
「痛っ。 や、止めろ、馬鹿。 不意打ちは卑怯だぞっ。」
素早く少年の背後に廻ると、両手で拳を作ってこめかみにグリグリと"うめぼし"をかます。
込められた力に容赦は無いが、その顔はあくまで笑みを絶やさない。
そう、これは指導だ。 礼儀知らずな少年を正しく導いてやるのは、優しいお姉ちゃんの義務なのだから。
「判ったかな? 判ったら反省しなさい。 そしたら離してあげるよ、士郎ちゃん。」
「痛てて・・・判ったよ。 でもオレのこと、ちゃん付けで呼ぶなよ、もうすぐ五年生なんだぞ。」
「じゃあ、あたしの事もきちんと呼ぶこと。 いい? 美人で優しい藤村さん家のお姉ちゃん。 はい、言ってみなさい。」
「長いよ、大河ちゃんでいいじゃんか。 うちの爺さんもそう言ってるぞ。」
「下の名前で呼ぶんじゃないっ。 いいから言ってみなさい。」
「え・・・と、びじ・・・で? 藤む・・・おねえちゃ・・・? ・・・藤ねえちゃん。」
「ん〜、まあ、それでもいっか。」
大河の自宅、藤村邸のお隣に建つこの家には、衛宮切嗣と士郎という 一組の父子が住んでいる。
この二人には血の繋がりはない。
今から二年前、新都の住宅地で非常に大きな火災があった。
多くの人命が失われ、多くの悲しみがもたらされたその事件からしばらくして、それまでずっと一人で暮らしていた切嗣が、どこからともなくこの少年を引き取ってきたのだ。
独身だと思っていた切嗣と、火災で孤児になったと言うこの少年との間に、どんな事情があるのか大河は知らない。
それは、隣に住んでいるだけの自分などが、立ち入ってよい事ではないように思える。
「さて、そんで士郎、切嗣さんは? 今、帰ってきてるんでしょ?」
「うん。 あと一週間くらいは日本に居るって言ってた。」
「相変わらず鉄砲玉ね〜。 でもいいや、この機会に今度こそ切嗣さんから一本取ってやる。」
「藤ねえちゃんには無理だと思うけどな。 オレなんか今日の昼からずっと爺さんと稽古してたけど、一回もかすりもしなかったぞ。」
「ふっふっふ〜、舐めてもらっちゃ困るな〜。 おねえちゃんはね、今日、県大会で優勝候補の選手をやっつけて来たんだから。 この勢いで切嗣さんだっていちころよ。」
「うわ、藤ねえちゃん、すごいな。 オレも爺さんがやられるトコ見たい。」
「おねえちゃんにまかしときなさい。 さ、付いておいで。」
音をたてぬ様に気を配りながら、開け放たれたままの入り口から首だけを出して、道場の中を覗き込んで見る。
そこに切嗣は居た。
自らの腕を枕にし、タオルで顔を覆った切嗣が仰向けに寝転んでいる。 不謹慎なことに、枕もとには無造作に灰皿が置かれ、そこに吸殻が小山を形作っている。
士朗との稽古の後、どうやら昼寝を決め込んでいるらしい。
この場で待つようにと無言で士郎へ目配せすると、そのまま滑るような足取りで切嗣の頭側方向へと忍び寄る。
静かに呼吸を整え、大きく上段に振りかぶった竹刀を打ち下ろす。
「トリャアーーーーーーーーーーーー!!」
とった! このタイミングなら鬼神と言えどもかわせまい。
ぱし。
・・・だと言うのに、裂帛の気合をこめた一刀は、気の抜けた音と共に寝転んだままの切嗣の手の中に吸い込まれていた。
何事もなかったかのように煙草を咥えて火をつけると、のんびりと煙を吐き出しながら挨拶をよこす切嗣。
「やあ、大河ちゃん、いらっしゃい。」
「・・・・・・。 切嗣さん、い、いつから気付いてたの〜?」
「ん? 竹刀を振りかぶった辺りかな? 大河ちゃんは真剣な表情も可愛いね。」
「う〜〜〜〜〜。」
「士郎、お茶を淹れてくれるかい? 少し喉が渇いたよ。」
実際、衛宮切嗣という男は不思議な人だった。
これだけ立派な屋敷に住んでいると言うのに、どんな職業なのか見当もつかない。
ボサボサの髪に無精ひげを生やした姿は、到底、真っ当な勤め人には見えなかったし、どこへ何しに行っているのか、しょっちゅう海外を旅行しているらしい。
その度にお土産をくれるのだが、怪しげな人形やら、奇怪なデザインのキーホルダーやら、あまり趣味は良くないようだ。
仕立ての良い高価そうなスーツはしわくちゃで、身だしなみには構わない性分らしく、いつかなどは左右で違う靴下を履いていたこともあった。
身ごなしは大雑把で、何も無い場所でつまずいたりするくせに、その所作にはまるで隙がなく、熟達した武道家のようにも思える。
大河とて、ひとたび剣をとれば、女だてらに腕には相当の自信がある。
事実、同年代の男子は無論のこと、暴力の専門家である、藤村組の若い衆にだってそうそう引けは取らない。
なのに切嗣からは未だに一本も取れた試しがないのだ。
しかも困ったことに、切嗣にかるくあしらわれた後、煙草の匂いが染み付いた大きな手で優しく髪を撫でられていると、少しも悔しくなくなってしまうのだった。
「大河ちゃん、今日の試合で優勝したんだって? さっき士郎が自慢げに教えてくれたよ。」
「あ、えへへ。 楽勝だったよ。」
居間に場所を移し、息子に淹れてもらったお茶を啜りながら、にこやかに大河に語りかける切嗣。
お茶請けは、大河の持ってきた少し冷めてしまったタコ焼きだ。
士郎は、どうやら切嗣の敗北シーンは見られそうもないと見切りをつけたのか、表へ遊びに出かけてしまったようだ。
「うん。 大河ちゃんはこんなに可愛いのに、元気があっていいね。」
「またそんな事言ってからかって〜。」
「本当に大河ちゃんは素敵だよ。 僕は君に感謝しているんだ。」
「へ? そ〜んなタコ焼きぐらいで大袈裟な。」
「ははは、士郎の事さ。 ・・・あいつはね、知っての通りあの大火事でとても辛い目にあったんだ。 今、生きてるのが不思議なほどの怪我もした。 ・・・だけど、心の傷はもっと酷かった。」
「・・・・・・・・・・・・。」
「家に来たばかりの頃は、声をあげて笑うなんてこともなかった。 それがこんなに短期間であんなに元気になったのは、きっと大河ちゃんのおかげだよ。」
「そんな・・・。 切嗣さんが良くしてあげてるからよ。」
「僕はね、大事にしなきゃいけない人達を、自分のエゴでいつも不幸にしてしまうんだ。 実を言えば、士郎の事もその罪滅ぼしのつもりなのかも知れない。」
その時の切嗣の目には、大河の姿も士郎の事も映ってはいなかった。
はるか遠く北欧の空の下、永遠の冬に包まれたお伽の森の中に建つ城を思い、そこに残された幸薄い女性と、幼い少女の幻影を追っていることなど、大河には想像出来る筈もなかった。
「僕はずっと、誰かを幸福にしたかったんだ。 でもね、人が人を幸福にしようなんて、それはとんでもなく傲慢な思い上がりなんだって気付いてしまった。」
「・・・・・・・・・・・・。」
「人はね、決して誰かに幸福にしてもらうもんじゃない。 皆、自分だけの力で幸福になってゆくんだ。 そんな簡単な事に気付くのに随分と沢山のモノを犠牲にしてしまったよ・・・。 とても多くの人を傷つけもした。 ひょっとしたら、今また士郎にも同じ事をしているのかも知れないね。」
「・・・あたしには難しい事はよく解からないけど、誰かを幸せにしたいって想いは無駄じゃないって思う。 その心を感じられれば、それだけで幸せな気持ちになれるもの。 だから切嗣さんと一緒にいられて、士郎もきっと幸せな気持ちだと思うわ。」
「そうかな・・・、そうだといいな。 やっぱり君は素敵な娘だね、大河ちゃん。 これからも士郎と仲良くしてやっておくれ。」
「うんっ、まかしといて。 あたしが、ず〜っと士郎の面倒みてあげる。」
衛宮切嗣という人は、誰の前でも常に飄々として、捕らえどころのない顔で笑っていた。
だが、どんなに笑って見える時でも、その目の色は驚くほど深く沈んでいて、それはずっと変わる事がなかった。
彼がその笑顔の仮面を被るまでに、どれほど多くの血が、どれだけ多くの涙が流されたのか窺い知ることは出来ない。
しかし、この時の彼の笑顔は心からの安寧をかみ締めているようだった。
自分の半分ほどの年齢の少女が、何気なく口にした言葉。
たったそれだけの事が、止まりかけていた彼の時間を動き出させ、もう一度歩き出すきっかけを与えてくれたのだ。
気の早い太陽が急ぎ足で西の空へと去り、町が暮色に染まる頃になって、ようやく士郎が帰ってきた。
両手一杯にスーパーの袋を抱えた子供らしからぬ姿で。
呆れたことに、どうやら夕方のタイムセールに出向いていたらしい。
「今日はカレーを作る。 こないだから家政婦のおばちゃんに教えて貰ってるんだ。 藤ねえちゃんも食ってけ。」
それだけ言うと、いささか大きすぎるエプロンを装着し、張り切って台所に立つ士郎。
ハラハラしながら後ろをうろつく切嗣をよそに、下拵えに野菜の皮をむく包丁捌きにも危なげなところはない。
みじん切りした玉葱を、焦げ付かせたりせずアメ色になるまで炒め、ブロックから切り出した肉には、筋切りを入れて柔らかくする神経の細やかさだ。
夕飯にお呼ばれされる形になった大河は、途中で何度かお手伝いを申し出たのだが、
「オレが一人で作る。」
と言う、少年の頑固な言葉に退けられた。
二時間に及ぶ士郎の奮闘の末に出来上がったカレーは、ゆで卵のスライスまで載せられており、添え物のグリーンサラダを含めて見事な仕上がりだった。
これで大河が、お米をコゲ付かせずに炊けていたなら完璧だったろう。
「士郎、すっご〜い! これ、もの凄く美味しいよ。 あたしが先週の調理実習で作ったやつより、全然美味しい〜。 ジャガイモなんかもう、ホックホクだよう〜。」
「ちょっと辛すぎた・・・。 おばちゃんに、ニンニクと生姜を入れると風味が良くなるって教わったけど、入れすぎたみたいだ。」
「いや、でも本当によく出来てるよ、士郎。 これなら君、将来はプロの料理人になれるぞ。」
「何言ってんだ? オレ、大人になったら爺さんと同じになるんだ。」
「・・・!」
「ねえ、士郎。 あんたこの家に来て幸せ?」
「当たり前だろ。 ここは爺さんも、藤ねえちゃんも居て面白いからな。」
「ね? 切嗣さん、士郎は大丈夫でしょ?」
「は、はは。 あははははは。 ・・・士郎、水を貰えるかい? このカレー美味しいけど、やっぱりちょっと辛すぎたみたいだね。」
「爺さん、涙出てるぞ。 大人のくせに、これっくらいでだらしないな。」
「士郎〜、あたしにもお水〜。 あと、お替わりちょうだ〜い。」
終始にぎやかな夕飯を終え、その後は道場でもっとにぎやかな時間を過ごした。
士郎に剣の稽古をねだられるも、満腹で動けなくなっていた切嗣に、倍は食べていた筈の大河が代わり、遅くまで竹刀を打ち合う音が響いた。
「大河ちゃんは、先生に向いてるね。」
と言う切嗣の言葉に、真っ赤になった顔を士郎にからかわれ、ムキになって追い掛け回す姿を切嗣に大笑いされ、とにかく楽しい時間がめまぐるしく過ぎて行った。
「それじゃあ、ご馳走様でした。」
「うん、遅くまで引き止めて悪かったね、大河ちゃん。 本当に送らなくて平気かい?」
「すぐ隣だもん。 眠っちゃった士郎を一人にするの可哀相だし。」
「今日は本当にありがとう。 僕はまた来週から旅に出る、士郎を残して行くことになるけど、お願いできるかな?」
「もちろん! でも、今度は何処に行くの?」
「うん、少しヨーロッパの方へね。 ・・・逢いたい人達がいるんだ。」
「ふ〜ん。 あ、あのね、切嗣さん・・・。」
「何だい?」
「あ、あたし、頑張って英語もいっぱい勉強するし、剣の腕だって、もっともっと磨くから・・・。 だ、だから、いつか一緒に連れてって・・・。」
「うん、いつかね。 士郎と君と、三人で旅にでよう。」
「・・・う〜、そーゆー意味じゃないのに〜。」
「いいかい、士郎? 大河ちゃんや家政婦さんの言う事を良く聞いて、それから何か困った事になったら、お隣に相談すること。 それから・・・。」
「大丈夫だよ。 そんなに何度も言わなくたって、爺さんが帰ってくるまで、留守番くらい一人で出来るさ。」
出発を明日に控えた切嗣が縁側で、自分の留守中の心得を繰り返し士郎に言い聞かせている。
切詞とて、言葉ほど心配に思っている訳ではない。
彼の息子は、育ての親などよりもはるかに生活能力に優れ、また年齢のわりには実にしっかりしている。
ただ、一緒に居られる時間に、少しでも多く士郎と言葉を交わしていたいだけなのだ。
無論、いくら大人びているとは言え、幼い士郎に彼のそんな想いが伝わる筈もなく、いかにもうるさそうな顔をさせるのが関の山なのだが。
「隙ありーーー! 衛宮切嗣、覚悟ーーー!!」
と、その時突然、大音声で物騒な言葉を叫びながら、スカートが風にはためくのも構わず、竹刀を構えた少女が空から降ってくる。
よくよく見れば、ターザンよろしく片手でロープに掴まった大河が、土蔵の二階部分から飛び降りたらしい。
このためだけに軒下に据え付けられたフックと滑車は、士郎にも手伝わせて昨日一日がかりで設置した力作だ。
だが、切嗣はそちらの方を見もせず、背中を向けたままでひょいと身をかわす。
「きゃああああーーー!?」
ッガラ、ガッシャーン。
身を避けると同時にガラス戸を開いた切嗣の機転のおかげで、派手な音を立てて転がったわりに被害は軽微だったようだ。
あちこち擦り剥いて、壁にぶつけた鼻の頭を押さえた少女が、居間から縁側へと這い出してくる。
「やあ、いらっしゃい大河ちゃん、今日も元気で可愛いね。 でも、たまには普通に玄関から遊びにおいで、士郎が真似して怪我でもすると困るんだ。」
「・・・はい、次からそうします。」
いつもの人を食った笑顔のままで、煙草をくゆらす切嗣。
それを横目で睨んだまま、全身に負った"不名誉の負傷"を士郎に手当てされながら、ぶつぶつと不平を言い募る大河。
ここ数日ですっかりお馴染みになりつつある光景だ。
「もう、士郎のせいだからね。 ちゃんと切嗣さんの注意を引きつけてって言ったでしょう?」
「オレは作戦通りちゃんとやったぞ。 藤ねえちゃんが、あんなでかい声で叫ぶから気付かれたんだろ?」
「う〜、うるさいうるさい! 全部、士郎が悪いったら悪いの!」
大河の果敢な襲撃は、この四日間で七回にも及んだが、いずれも切嗣に難なく退けられていた。
いかに緻密に作戦を練っても、いかに綿密に行動を起こしても、被害を被るのは大河自身となぜか士郎ばかりだった。
入浴中、食事中、寝込みを襲う、と考えられる全ての手を打っても、最終的にはいつも通り、煙草の匂いの染みこんだ手で、ポンポンと頭を撫でられている自分がいる。
「切嗣さん、絶対に約束だからね〜。 切嗣さんから一本取ったら、あたし達を一緒に連れてってよね。」
「ああ、もちろん約束は守るよ。 ただし本当に僕から一本取れたらね。」
「藤ねえちゃん、頼むぞ。 オレも協力するから。」
「まったくもう、切嗣さんてば背中にも目がついてるんじゃないの〜?」
「ははは、僕は魔法が使えるからね。」
「そうだぞ、藤ねえちゃん知らなかったのか?」
「何よ〜! そんなこと言って、二人してあたしのこと馬鹿にして〜。」
今日も三人揃って大騒ぎの夕食を共にし、夜もふける頃に帰宅してゆく大河。
明日の朝一番で旅立つ切嗣とは、これでしばしの別れとなる。
暗くなった庭を抜け、門をくぐり、隣家までのごくわずかな道のりを並んで歩いて行く二人。
街灯に照らされて、ポケットに手を突っ込んだ男の影と、頭一つ以上小さな少女の影が、地面にのびて揺れていた。
ほどなくして藤村邸の門前に到着する。
「それじゃ、気を付けていってらっしゃい。」
「ありがとう、お休み大河ちゃん。 ・・・と、そうだ、コレをあげようと思ってたんだ。」
「・・・? わ、可愛いトラのマスコット。 ありがとう、切嗣さん。」
「うん、お守りだよ。 大陸ではね、虎は一日に千里を往って千里を帰るって言って、百獣の王として珍重されてるんだ。 元気な大河ちゃんにはぴったりだろう?」
「えへへ、大事にするね。 ・・・そうだ! あたしからも切嗣さんにお守りあげる。 ね、目えつぶって。」
言われるままに大人しく目を閉じる切嗣。
大河は、ほんの少しだけためらった後、精一杯につま先立ちすると、後ろに組んだ手はそのままに、そっと唇を触れ合わせた。
それは一秒にも満たないごくささやかな接触だったけれど、何かが通い合うには充分な一瞬だった。
「・・・煙草臭〜い。 ファーストキスってレモンの香りじゃないの〜?」
「あのね大河ちゃん、こういう事はボーイフレンドにしなさい。 ・・・いや、参ったな。」
「やった〜、初めて切嗣さんに奇襲が成功したわ。 でもこの一本はノーカウントにしてあげるね〜。」
「やれやれ、大河ちゃんには敵わないな。」
「いつか絶対に、正々堂々と切嗣さんから一本取ってみせるからね! 首を洗って待っててね〜!!」
赤らんだ頬を見られまいと、素早く身を翻す少女。
大きく手を振って駆け出す小柄な姿を、切詞はいつまでも見送っていた。
冬の夜の静かな月光の下、衛宮切嗣が息子に別れを告げたのは、
それからわずか三年後のことだった。
結局、大河は一度も切嗣から一本取る事は出来なかったし、三人で旅に出る事も無かった。
夢は、夢で終わった。
それでも彼女は、決して立ち止まったままではいなかったし、いつでも前を向いて、新しい夢を追い求め続けた。
俯いて涙している暇などない、傍らで自分を見つめている少年に、模範を示さなければならないのだから。
それがあの人への約束。
「そっか〜、思い出した。 それであたし英語の教師になったんだっけ・・・。」
たいそう長い時間、もの思いにふけっていた大河が、珍しくしみじみとした調子で呟いた。
そっと開かれた手の中には、ストラップ付きの小さな虎のマスコットが、大事そうに載せられている。
現役の選手時代、ずっと愛用の竹刀に括り付けられていたそれは、あちこち無数の小さな傷が目立ち、少しだけ古びている。
それでも決して失くしたり、他の物に代えられたりすることは無かった。
これこそが、彼女の人生のベクトルを決定付けた、大切な大切な宝物なのだから。
「藤ねえ、オレ、もう出かけるぞ。 帰りは夜になるから、今日の晩メシは自分の家で食ってくれ。」
「あれれ〜、士郎。 珍しくめかし込んじゃって、さては遠坂さんとデートだな? いいな、いいな〜。」
いつもと違う大河には気付かなかったらしく、忙しない様子で背後から声をかけられる。
切嗣から託された、もう一つの大切な宝物だ。
すっかり背が伸び、声変わりもし、おまけに今日は一張羅のよそいきまで着込んでいる。
ここ衛宮邸の居間には、今も変わらぬ住人たちの、少しだけ成長した姿が在った。
徒に振り返るだけの過去は何も生み出さない、想い出とは確かな未来へと続く、もう一つの「今」なのだ。
「なっ、違うって。 遠坂のヤツが買い物に行くからって、荷物持ちに呼ばれただけで、デートとかそんなんじゃ・・・。」
「ほほう。 じゃ、おねえちゃんも一緒にお買い物行こうかな。 デートじゃないならいいよね〜? あ、ついでに桜ちゃんも呼ぼっか?」
「ば、冗談じゃない、この馬鹿トラっ! そんな事したら、怒った遠坂が一体何しでかすか・・・って、ヤバイ、遅れちまう。」
「行ってらっしゃ〜い。 あんまり慌てないで、気を付けて行くのよ。」
「ああ、判ってる。 それじゃ藤ねえ、戸締り頼むな。」
焦って時計を確かめると、玄関にしゃがみ込んでスニーカーの紐を結わえる士郎。
日を追うごとに益々父親に似てくる背中に、大きく声をかける。
「士〜郎〜。 女の子を泣かしたりしちゃ駄目だよ〜。 じゃないと、切嗣さんみたいにイイ男にはなれないんだからね〜!」─完─