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「あのくそ親父! おもいっきり殴りやがって」

ラウェドは痛む頬をおさえて唾を吐いた。口の中で、かすかに鉄の味がした。
熱をもってきた頬を冷やすために共同井戸までやってきたとき、かろやかな羽音がきこえてきた。

「シルフィ」

ラウェドは鳥を呼び、肩にとまらせた。
鳥が羽繕いする気配を感じながら空を見上げると、その青さが目にしみて、雲のかたちがいつもより歪んで見えた。

(泣くもんか。ぜったいに、泣くもんか)

少年には、夢があった。この聖都サールナートを守護する、聖戦士になりたかった。
この世にならぶものなく尊き白亜の神殿を、このところ増え出した野盗や他の外敵から護る戦士たちの姿は、夢見がちな少年を魅了したのである。

「おまえなんかがそう簡単になれるはずがない。あきらめて、家を継げ!」

と、父は頭ごなしに彼を叱った。しかし、たかだか十一歳の子供がきくわけがなく、今日の出来事となったのだ。

(いっそのこと、家出でもしてやろうか)

自暴自棄気味に思ったとき、大通りのほうから澄んだ音色と、人々のざわめきが聴こえてきた。

「そうか……きょうは降臨祭の日だっけ……。シルフィ、行ってみるか?」

すると鳥は嬉し気に一声鳴いて、さっさと大通りに飛んでいってしまった。

「ちぇ。冷たいやつ」

井戸の水を汲み上げて、おざなりに腫れた頬を冷やすと、ラウェド・イリオールは鳥を追って走り出した。

……聖説にはこうある。

{ 一に、樹があった。大神サーヴァはこの樹に召喚された。……サーヴァ神は恵みの大地サーヴァリアを創りたまい、八の神々に分け与え、サールナートの地のみは、大神に愛したもうた地ゆえに、これを聖都となす…… }

毎年、創造神サーヴァが『樹』に召喚されたとする日には降臨祭がおこなわれ、他の八つの聖地からも多くの神女や神官がサールナートにやってくる。そして、一年の平和を祈るのだ。サールナートの神女を中心にした儀式が終ると、聖職者たちは皆で聖都の大通りを行進するのが古くからのならわしになっていた。

きらきらしい行列を見物するために、都の住人たちはこぞって大通りに集まり、なかには遥か遠い国からわざわざやってくる者もある。
今日だけは大通りに店を出すことは禁じられていたが、都に住むラウェドが目を疑うほどの大勢が集まった。

ラウェドが大人達をおしのけて、やっとのことで見物人たちの最前列に立つことができたときには、神官達の行列はなかばまで過ぎてしまっていた。
先頭の聖戦士たちを見ることができなくてがっかりしたラウェドの肩に、鳥が舞い降りた。
そのとき、これからどうしようかと思案にくれたラウェドの耳に、すぐそばの男たちの噂話がとびこんできた。

「……なあ、知ってるか? フィンディアス国で、一度もなかった地震が起こったらしい」
「地震? ……なんだか、最近、イヤなことばかりないか? 大陸中で」
「おかしいと思わないか。神がおれたちをお見捨てに」
「ばか、なんてことを」
「王位についたばかりのカディス王が魔を呼び出しているとか、いろんな噂をきいてるんだ。商人どもがおびえていてね」
「こんなときにこそ神に祈らんでどうする。それに、俺はいい噂を知っているが」
「なんだ?」
「このところサーヴァ大神殿が騒がしい。が、いくさの準備などではなく、あるお方のお世話にてんてこまいだと。喜びの忙しさだというぞ」
「もしかして、そのお方っていうのは……」

と、急にひとびとのざわめきが大きくなって、それきり話はきこえなくなってしまった。
ラウェドはあわてて人々の視線のさきを追った。

行列の中に、その少年はいた。
賢そうな白馬に騎乗し、すこしばかりくせのある黄金の髪を陽の光に輝かせて。

「カライルアさまだ……」

誰かが呟いた言葉に、ラウェドは、はっとした。

(あのひとが聖騎士カライルア)

年の頃はラウェドより二つばかり上だったはずだ。聖戦士の頂点にたつ騎士になるために、神託によって選ばれ、神殿で育てられている少年。
ラウェドにとっては、憧れの塊のような存在だった。

銀糸の刺繍がなされた空色のマントをなびかせて、凛々しい少年がいってしまうと、今度は質素な白い布で頭髪を隠した神女見習いの少女たちが歩いてきた。
彼女たちがラウェドの目の前まできたとき、彼の肩の鳥が一声、高く鳴いた。

ひとりの少女と、目があった。
なぜか、ラウェドは風と、森の香りを感じた。
翠の瞳の少女は、何か言いたそうに口を開いたが、すぐ後ろの神女に「スフェナさま」と注意され、しぶしぶもとの位置に戻っていった。

(? なんだろ)

妙に思いながらもラウェドがなにげなく行列の先をみやると、あの金髪の少年がこちらに振り向いていた。さっきの少女が気になったのだろうか。

(狼みたいだ)

そんなふうに感じたのは、金髪の少年のきついまなざしのせいだったのだろうか。
気がつくと、騎馬の少年はもう遠くになっていた。

神聖な行列が終ると、だんだん人もまばらになってきて、物売りの威勢のいい声がきこえるようになってきた。

あんな大げんかをしたてまえ、そうかんたんに家に帰るわけにもいかず、ラウェドはあてもなく街を歩いた。

買い物に忙しそうな男にぶつかられ、甘えた声をかけてくるすれた感じの女にからかわれ、屋台からただよってくる焼けた肉の匂いに気をとられているうちに、ラウェドはいつのまにか神殿の近くに来ていた。

聖なる行列が終ったあとでも、聖戦士たちは神殿の警護をおこたらない。じっとみていると、迷惑そうな顔つきをされたが、追い払われることはなかったので、少年はてきとうな壁にもたれて彼らを見ていることにした。

(いいなあ。かっこいい)

白い鎧を身につけた戦士たちを見ていると、あの金髪の少年のことを思い出した。
あと十年もすれば、聖騎士になれる少年。

(でも、どうしてあのとき、僕をみたんだろう。なんだか怒ってたみたいだし……まるで狼みたいで、ちょっと怖かった……)

「った!」

肩の鳥に殴られた頬をつつかれて、ラウェドはとびあがった。

「ばか、なんてことすんだ……え?」

聖戦士たちからはちょうど見えない路地に、一人の少女がいた。鳥はそのことを彼に伝えたかったらしい。

少女はくちびるに人さし指をあてて、手招きした。ラウェドが誘われるままに彼女のそばにゆくと、少女は路地の奥にさがって、ほっとしたように大きく息を吐き出して、

「その子、あなたの?」

といった。

「え? あ、シルフィのこと? そうだよ」
「おいで」

鳥は喜々として少女のもとに飛び、翼をばたつかせた。
彼意外にはあまり懐かない鳥であるから、ラウェドは驚いたが、少女の瞳を見て、なんとなく納得した。
彼女はラウェドに風を感じさせた、あの少女だった。

「きみ、あの神女見習いの子だよね。たしか、えっと、……なまえ、なんだっけ」
「スフェナ。あなたは?」
「僕はラウェド」
「で、この子はシルフィ、ね」

鳥のつややかな羽をなでながら、スフェナは陽に透けた若葉のような瞳を細めて、笑った。


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