9

月はない。
そこに確かにあろうが、夜の守護の女神のは天空に見えない。
新月の夜。今宵は星すらもあつい雲に隠れて、地上はぬばたまの闇に閉ざされている。
明日は雨になるだろう。

もはや深更になるのに、グレンフェルは眠りについた城の回廊を散歩していた。闇を濃くした回廊には、いちおう灯りをともしてあるものの、その陰気さはいっそう凄みをましている。
めずらしく寝つかれぬ夜だった。こうして意味もなくうろついているものの、眠気はいっこうにやってこない。

……やれやれ、そろそろ部屋へもどろうか。きびすをかえしかけて、グレンフェルはふと違和感を抱いた。

なんだ……? この匂いは……香が灯りにくべてある……?

確かめようと手をのばしかけたとき、めまいに襲われた。
なんだこれは!
彼は燭台をたたき落とした。派手な音をたてて燭台は壊れ、うっすらとした闇が彼をおおう。
薬だ。壁に手をついて回復をまったが、なかなかおさまらない。

「誰か!」

大声で呼んだが、むなしくこだまするばかりで答えはない。冷たい汗を、彼は背に感じた。
みな、この香に眠らされたのか? 兄は、帰っている母は? ……ああ! シャンファイナは!

忌々しいめまいはいまだ彼をさいなんでいたが、待っている余裕はなかった。おぼつかない足取りにいらつきながらも走り出す。途中、壁に飾ってあったかたちばかりの長剣をひっつかみ、グレンフェルはまっすぐに恋人の部屋を目指した。

愛しい少年だと思った。
中庭からここを訪ねてくるのは、いつでも彼だったから。彼以外の何ものかがやってくることは決してなかったし、なにより大国カイラスの城中である。不用心などは問題にもしていなかったから、庭への扉には鍵をかけていなかった。
水晶の扉が開く音にシャンファイナは気づいていたが、寝覚めの直後でもあり、とくに不審とも思わなかった。ぼんやりした頭で、少年だと判断し、そのまま身を起こすこともなかった。

ひそやかな足音はそのまま姫の寝台に近づき、そこで止まった。

ちがう……?

疑惑が、あたまをもたげた。いいしれぬ震えがはしる。……だれ、だれ?
そのとき、なまあたたかい風が決定的な恐怖を運んだ。

「!」

叫びかけた口を、侵入者におおわれてしまった。必死で手足をばたつかせたのも、あっさりとつかまれて、無力化されてしまう。

「抵抗するな。おとなしくしていれば乱暴はしない。……いいな」

言外の脅迫を感じ取ってシャンファイナがうなずくと、男は注意深く少女を解放した。

「だれ……?」

少女がふるえながら問うと、男は冷たい微笑をもらしたようだ。

「知っても詮無かろう……女王陛下には縁のない者だ」
「え……どういうこと」

男のセリフに、少女は敏感に反応した。自分はエドラーナの第五公女。兄や姉はさきの戦でみな死んでしまい、公位継承権はわがみひとつにあるものの、いまだ父王は生きている。子供達を犠牲にしての生ではあるが。

男は闇に沈む庭のほうをうかがった。が、約束の時間にはやや早かったらしい。扉をそっと閉めると、城の廊下側の扉に背をあてて姫に答えた。

「エドラーナ公国は再興される。有力貴族どもがしゅん動しはじめた。だが、いざカイラスとわたりあおうとすれば、あの腑抜けた王は邪魔になる。そこでシャンファイナ姫、貴方の存在が大きくものを言う。いまごろ王は自称カイラスの兵とやらに暗殺されているだろう。そして姫は、『こころあるエドラーナ愛国者』に救出され、貴族のどいつかと婚約でもして、祖国解放の旗をあげる……。と、まあ、こんなところか」

ふざけた調子で男は続けようとしたが、姫の涙に気がついて、黙り込んだ。

「どうして……」

つい一年まえまで、顔もみたことがなかった父。いきなり城に呼び出したかと思えば、実の娘をいけにえ同様に敵国に差し出した父。
慕っていたはずがない。憎みこそすれ、同情する価値もない王のために、シャンファイナは涙していた。ただ、哀しかった。
男は無言のままたっていたが、ふいに背の扉に片耳を押しあてた。
……だれか、来る。

「お前は部屋に戻ってろ!」
「嫌です。あたしも姫さまが心配なんです!」

グレンフェルはききわけのないリノカに舌打ちした。
シャンファイナの部屋に向かう途中で、あたちに充満する香りに気を失いかけていたリノカをみつけたのだ。
危険なことがあるかもしれぬから戻れとさんざん言ったのだが、リノカはついてゆくと聞かなかった。サヴァスたちの様子を見に行かせるにも不安があって、グレンフェルはリノカのしたいままにさせておくことにしたのだが。

「あ! あぶな……!!!」

リノカが叫んだ。グレンフェルはほとんどカンで凶刃を避け、振り向きざまに長剣をくりだした。鈍い手ごたえとともに、侵入者は倒れた。剣は男の心の臓を貫いていて、声をあげるひまもなかっただろう。
リノカは少年の天賦の才をまぢかに目撃して、思わずからだを震わせた。

「なんだ……これは」

信じられない思いで、グレンフェルは死体を見下ろした。
賊がいる。この堅固なカイラス城内に。どういうことだ。なにが起こっているんだ。
もう一度、彼は舌打ちした。姫の部屋はもう間近。ぐずぐずしていられない。

「グレンフェル王子!」

全力で駆け出した彼の耳には、リノカの声は届かない……

何ものであれ、この囚われ人の部屋に入ってくる者は斬るつもりだった。そのために息をひそめ、剣を握りなおして哀れな獲物を待ち受けていたのに。

「シャンファイナ……!」

無我夢中で走ってきたらしい少年を、アズライトは斬れなかった。似ていたのだ。あの高慢な少年に。あるいは、親友に……?

「グレンフェルさま」

逃げようとする姫の華奢な腕を捕まえながら、彼は耳を疑った。
グレンフェルだと……では、カイラスの王太子か! シリスの埋葬を許したあの騎馬の少年は、王太子だったのか!

「シャンファイナを放せ」

言いながら、少年はアズライトに斬りかかった。第一撃はなんとか受け流したものの、アズライトは姫を捕らえたままの不利を悟った。
それほど少年の剣技は傑出していた。いささか乱暴に、彼は姫をほうり出した。
その様子にさらに激したのか、少年は血濡れたままの長剣を叩きつけてきた。冷静に受け止めつつ、アズライトは実は焦っていた。

このままでは、負ける。シリスに希代の剣士よと讃えられたこの俺が。
激しさを増す少年の攻撃は、いっかな疲れをみせない。では、どうすれば……

キラと、少年の剣が刃こぼれた。少年の表情がゆがむ。飾り物の長剣は弱すぎたのだ。
アズライトはこれを見のがさなかった。渾身の力をこめて、少年の剣をたたき折り、もう一度白刃をひらめかせた。

「う、あああああっ」
「いやあぁ!」

少年と少女の叫びを、アズライトは荒い息の中に聴いた。なぜか、なにも考えられなかった。灼熱した思考、冷えた感情。
……俺は、なんだ……?

シャンファイナは錯乱していた。意味をなさない叫びは、やがて嗚咽に変わっていった。
顔中を涙でぐしゃぐしゃにしながらも、彼女はかたわらに転がった朱の塊を手にとった。
腕だ。アズライトに斬り飛ばされた、グレンフェルの左腕だった。

かえりみれば、少年は床にうずくまって、血しぶきをあげるきりくちを抱え込んでいる。高貴な紅が、彼の衣服のみならず、あたり一面を染めていこうとしていた。

すうっと、激情がひいてゆくのを感じた。嘆くことより、他にすべきことがある。

肉の塊を抱いたまま少女がたちあがると、その首にアズライトの剣があてられた。

「貴方を、エドラーナ解放軍にひきわたすこと。それが俺の仕事だ」

そのままの姿勢で、少女は言った。

「わかりました。お前と共に参りましょう。ただし、しばらくお待ちなさい。別れを告げるまでのこと。そこの、水晶の扉の外で、待ちなさい」

凛とした姫の言葉に、アズライトは威圧されて、無言で従った。知らぬ間に、姫のなかに、シリスの幻影を見ていたのかも知れない。

「リノカ」

男が去ると、リノカが姿をあらわした。いままで廊下で様子をみていたものらしい。真っ青なほほを震わせている。

「リノカ、すぐに、たすけを呼んで来て。このあたりにはまださっきの仲間がいるかもしれないから、そっと。わかりましたね」
「で、でも。姫さまは」
「わたくしのことはいいから。早く。グレンフェルさまが死んでしまう」

行ってしまわれる。姫さまは、また犠牲になろうとしている。この方を、お護りしようと誓ったのに!

「はやく、リノカ」

再三促されて、リノカはようやく決心した。

「では、参ります」

リノカが使命を果たしに出ていくと、シャンファイナは寝台の敷布をとって、歯で細く裂いた。血を流し続けるフレンフェルの左肩に、それをきつく巻きつける。
力のないこの身では、それが彼にできる精一杯のことだった。

「シャンファイナ……いくな」

呻くように、フレンフェルは言った。怖いと、そのとき初めて思った。このままでは、彼女は行ってしまう。失ってしまう!

「わたくしは、幸せでした」

ききたくない。そんな別れの言葉は。

「あなたがいたから。あなたが護ってくださったから」
「ききたくない!」

腕の激痛にかすれた声で必死に叫んだグレンフェルのほほを、シャンファイナは両手で包み込み、泣き濡れた瞳を笑わせた。

「あなたが、すきです」

彼は、帰りたい、と痛切に願った。出逢った頃に。危うげではあったが、おだやかに満ちていた春の日に。

「これからも、ずっと……」

視界がぼやけはじめた。貧血を起こしている。それでも彼は、残った右腕をさしのべて、少女のプラチナブロンドにけむる髪をすいた。

こめかみに触れるグレンフェルの指が冷たい。
ああ、やはり、恋などするべきではなかった。こんな辛いおもいはしたくなかった。
彼に触れられた場所が熱をもつ。いまはただ、切ないばかりの微熱だった。

「わがままを、きいてくださる……?」

声がゆれた。ともすれば、こどものように泣きじゃくってしまいそうに。

「わたくし、を……忘れないで」
「だれが、忘れる、ものか。……神かけて、おまえを、愛す」

きれぎれな、しかし永遠の恋人の誓いに、涙がせきを切った。

「うれしい……」

彼女の言葉と、甘やかな最後のくちづけと、どちらが先であったのか。
シャンファイナ姫のあの瞳が、なんの憂いもなく輝いたことだけが、記憶にやきついた。

そして少女は行ってしまった。


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