グレンフェル王子にとって、兄王はどうしても頭のあがらない存在だった。
日頃傍若無人にふるまっていても、兄の静かな一言にはあらがえないのだ。

しかし。と彼は思う。

しかし、今回の結婚話はなんとしても阻止しなければ。全く興味がないし、ましてや相手がどんな娘か知れたものではない。
それに、ここでひとつ「強い意志」というものを見せつけておかないと、今後ろくなことにならない気もしていた。

と、どこからか馬のいななきが聞こえて来た。グレンフェルはふと立ち止まり、考え込んだ。このまま部屋に戻ってしまうのはつまらないし、性に合わない。さて、どうしようかと思案を重ねようとしたとき、もう一度いななきが聞こえた。
気の荒い馬に、近衛兵が手こずっているのだろうか。

彼は顔をあげ、意地の悪い笑みを浮かべた。そうだ。カイラスの馬の気性の烈しさをかの姫とやらに見せつけてやればいい。きっと、かんだかい悲鳴でもあげて逃げ帰るだろう。
軽いいたずらの計画を簡単にたてると、少年は含み笑いしつつ、馬房へ歩き出した。

リノカはちらりと主君の姫を盗み見た。
シャンファイナ姫はさきほどと変わらぬ姿で馬車の小さな窓から外を見つめていた。

触れれば壊れそうな繊細な顔に物憂気な表情を浮かべたままの姫の姿は、侍女であるリノカの胸を痛ませた。
顔も知らぬ、噂では粗野であるらしい敵国の王子に嫁ぐのはさぞ辛かろう。
しかも、エドラーナから連れてきた侍女や衛兵は、リノカ以外すべて帰されてしまった。つまらない騒ぎを未然に防ごうというサヴァスの配慮であったが、リノカは反感を抱いた。
これでは姫さまがあんまり可哀想だ、と思ったのだ。
だが、肝心のシャンファイナ姫は何も言わず、用意されたカイラスの質素な馬車に身を移した。

おかわいそうな姫さま。こんなに若くて、お美しくていらっしゃるのに。リノカは自分のこともかえりみずにこう思い、揺れる馬車の中で唇を噛んだ。

と、ぼんやりと外を眺めていたはずの姫が突然身をひるがえし、華奢な手が窓のカーテンを閉じた。どうかなさいましたかと問いかけたリノカはその瞬間、馬車が急停車したのを感じた。
なにが起こったのかと耳をすます。

どうやら前方で何か起こったようだ。しばらくすると緊張感がとけ、かわりに蹄の音が近づいてきた。

リノカはカーテンを細く開けてのぞき見た。

騎馬の誰かが近づいてくる。カイラスの近衛隊長ではなかった。
逆光でよくわからなかったが、リノカは急いでカーテンを閉じ、窓から顔を背けるようにしているシャンファイナをかばうように入り口のドアを見据えた。

騎馬の何ものかは、彼女たちの馬車の前までやってくると、馬の足をとめたようだった。蹄の音が聞こえなくなった。
そのとき、リノカは背後にかすかな震えを感じた。
いままでに見たことのないシャンファイナの恐怖であった。

護ってさしあげなくちゃ。リノカは不意に決意した。
あたしが、この姫さまを護ってあげなきゃ。他に誰がいるっていうのよ。

耳障りにきしみながら、扉が開く。

車内の光景は、予想通りのものだった。震えている姫君を護るようにこちらを睨みつけている侍女。が、ひとつ違う。

悲鳴がなかった。

侍女のほうはよほど肝がすわっているのだろうが、姫はどうか。
ただ怖くて声を出せないだけなのか。

当初の計画も忘れて、彼はひきよせられるように侍女を押し退け、プラチナブロンドの長い髪からはみでた手首をつかんだ。
すこしひねればあっさり折れてしまいそうなほどに細い。
隣で侍女が騒いでいるようだったが、彼は気にもせずにつかんだ手をひっぱった。

姫の顔がこちらを向いた。
雲のような髪がうねった。

「……え? あなたは……」

その不可思議なか細いつぶやきよりも、少女の濡れた瞳が青く輝いたことに彼は驚き、言葉を失った。突然機能を止めた頭に、カイラス城の庭に毎年咲く、ちいさな青い花の姿が浮かんで消えた。

あれは、なんという花だったろうか……



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