あの茶金の髪の少年が、婚約者であるグレンフェル王子だと知ったのは、カイラス城の一画の新しい居室に案内されてしばらくしてからのことだった。
リノカがさっそく、侍女という職業の特権ともいうべき『たあいのないおしゃべり』を使って情報収集してきたのだ。

リノカは感応力豊かで気のいい娘だった。エドラーナ城に入ったばかりで暗く沈みこみ、好奇心旺盛な女官たちの誰もに敬遠されていたシャンファイナのそばにいたのは、リノカだけだった。

「それにしても、びっくりしましたわ」
「グレンフェル様のこと?」

シャンファイナは開け放った大きめの窓のそばの、ゆったりした椅子に腰掛けていた。姫が意外とおだやかに状況を受け止めているようなので、リノカは安心していた。
春のやわらかな風がふわり、と部屋を吹き抜けた。

「一国の王子ともあろうお方が、あんな野盗めいたまねをするなんて」

リノカは批難したが、彼についての正直な感想はひかえた。思っていたよりずっと素敵だ。でも、姫さまにそう言ったら怒られるかな。

シャンファイナはリノカの胸のうちも知らず、「そう……」とぼんやり呟いた。彼女の視線は窓の外、城の中庭にそそがれている。
二階のこの部屋からは光溢れる庭には出られない。
そういえばエドラーナでも姫さまはよくお庭に出てらしたっけ。緑がお好きなのかしら。リノカはささやかな荷物を整理しながら姫の細い後ろ姿を眺めた。

と、重厚な扉がすっと開いた。現れた人物を咎めようとしてリノカは驚いた。
いかにも王子らしく使用人など気にもとめない様子で、グレンフェルは近くて遠い庭を見つめたままのシャンファイナに歩み寄った。
彼女は少年の存在にまだ気づいていない。声をかけようとして、リノカはやめた。
彼の手には、青紫の可憐あ花が植えられた素焼きの小鉢があったのだ。

少年の手がシャンファイナの肩にかかった。とたん。

シャンファイナが喉も裂けよとばかりに叫んだ。
はねのけられた少年のもう一方の手から小鉢が飛んで派手な音をたてて割れた。グレンフェルは傷ついたような目でおびえた少女を見、割れた鉢を見た。

「すまない。怖がらせるつもりはなかったんだ……もう、来ない」
「まって!」

きびすを返し、立ち去ろうとした彼は足を止めた。少女の声がひきとめたのだ。

「ごめんなさい。……行かないで」

暖かな空気がやさしく揺れた。

「兄上!」

普段は静かな王の私室に大きな声が響き、サヴァスは苦笑した。彼の弟は頭に血をのぼらせてここへやってきたのだ。
どん、と巨大な樫を削って作られた机を叩く。

「あれはいったいどういうことか」
「なんのことだ?」

サヴァスはことさらにしらばっくれたわけではない。が、グレンフェルは兄のとりすました表情がカンにさわったらしく、さらにつめよった。

「シャンファイナ……姫の侍女たちを、なぜ国に帰してしまったんだ!」

やっと気づいたのか、あれからもおう半月はたっているのに。弟の、王子らしい鈍感さに、兄はいまさらに可笑しくなった。だが、そんな甘えが許されるのも今だけだ。いずれ、細やかな気遣いをおぼえてゆかなくてはならない。
グレンフェルは、王になるのだから。

「後々の、禍根となる可能性を考えたのだ。……一人は、残してあっただろう」
「けれど」
「口答えは許さん。王命だ。エドラーナの人間は、できるだけ姫に近付けてはならない。それは、姫を危険から遠ざけることにもなる。わかるな」

若い王の有無を言わせぬ口調に、少年は気押されたようにうなずいた。

「もう、さがれ」

が、グレンフェルは兄の命令に従わなかった。
いまだ子供っぽい目もとに、決して譲らぬ気配を漂わせて、彼は口を開いた。


あの方には、やっぱり明るい笑顔がとてもお似合いだわ。
小さなテラスに通じる水晶製の扉は開け放たれて、きららかな日ざしとやさしい風が入り込んでくる。

城の中庭に面した静かな部屋に移ってから、シャンファイナはずいぶん変わった。青い瞳から追い詰められた光が消えかけている。声をあげて笑うこともあったし、リノカとも打ち解けたようだった。
それもこれもあのグレンフェルさまのおかげ。あの王子様は姫さまを理解してくださっているみたいだから。
はじめに通された、暗い、いやに重厚な居室からここへ移したのは彼だった。

リノカは緑したたる中庭に出ている姫を見やった。ちょうどフレンフェルがやってきたようだ。シャンファイナの霞みがかったようなプラチナブロンドの髪が、やんわりゆれた。

それにしても、グレンフェル様って、いつも庭から来られるのね。
ちょっと可笑しくなってリノカは笑ってしまったが、ふたりの邪魔をするわけにはいかないので、部屋の掃除もそこそこに退出することにした。

「うまいものを持って来てやったぞ」

グレンフェルが服の隠しから手のひらほどの袋をとりだすt、少女はほほえみながら首をかしげた。

「異国の菓子だそうだ」

彼が少女の手をとって袋の中身を出してやると、星の光をかたどったちいさな砂糖菓子がいくつか転がった。少女はしばらくそれを眺めていたが、グレンフェルに促されるままに、ひとつを口に含んだ。

「……おいしい。甘くて」
「だろ?」

得意そうに胸をはりつつ、彼は少女のゆっくりしたくちびるの動きにこころを奪われていた。

あのエドラーナ王の娘だとはどうしても思えない。
彼女は華奢で、静かな気品を備えていて、なによりもはかなげなあの瞳。青い花の精にこそふさわしい二つの目は、なぜかいつも淋し気で、それが彼は気になっていた。
なんとかしてその淋しさを取り除いてやりたかった。哀しみを秘めた微笑みではなくて、こころからの笑顔が見たくて、彼はほぼ毎日のように彼女を訪れている。

ふと、シャンファイナが彼の目をじっと見てきた。

「な、なんだ。まずいか?」

胸が激しく高鳴りだしたのに内心ひどく焦りながら、彼はなんとかそう言った。

「今日は、剣の試合をなさるとか言ってらしたでしょう? あれはどうなさったの?」
「ああ、なんだ」

ほっとしたのと、なぜだかがっくりしてしまったのとで、彼は複雑な気分でため息をついた。

「もう誰も、俺に勝てるやつがいないんだ。……つまらぬから、やめた」

彼のあっさりした言い方に、少女は綺麗な瞳を見開いた。

「そんなことで、よろしいの?」
「俺がいいと言ったら」

ついに笑い出してしまった少女だったが、やはりかげりが消えないのが、彼には辛かった。

どうしたら、彼女を守れるのだろう……


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