回廊が続く。

荘厳な落ち着きをみせるカイラス城の一画、謁見の間へと向かうこの回廊を、サヴァスはゆっくりと歩いていた。
薄闇におおわれたこの空間は、まるで時が止まったような静寂に閉ざされている。彼自身の足音も、毛足の長い絨毯に埋もれて、ひたとも音をたてることはない。
ここだけは、いつでも陰気で虚ろで、彼はあまり好きではなかった。ただひとときをのぞいて。

回廊の空気をかえた者は、ひとりの女だった。茶色い瞳の娘。彼の義理の母。

病がちだった彼の実母と違い、娘は笑顔のはつらつとした丈夫なひとだった。王は、娘の健康を愛した。からだの弱いサヴァスではなく、娘が産むであろう健康な子を欲したのだ。娘はやがて、待望の王子を産み落とした。

これでもかと泣叫ぶ赤ん坊は、グレンフェルと名付けられた。サヴァスは弟とはじめて対面したときを、いまでも憶えている。
桃色のほほの小さないのち。生まれいでた喜びに輝いているかのように、あどけなく笑う。子供にむけられた父と義母の慈愛の微笑み。青白い顔のサヴァスには、欲しくても決して得られないもの。

嫉妬せずにいられなかった。哀れむような父の視線ではなくて、病にふせった母ではなくて、この父が、母が欲しかった。

涙があふれそうになるのをじっとこらえるサヴァスのほほを包み込むようにして、義母はささやいた。

「グレンフェルの、よいお兄様になってね。わたしも、あなたのよい母上になるから」

この瞬間、彼はグレンフェルを護ることを誓ったのかもしれない。
父王が亡くなり、弟を王位に望む遺書を発見したときも、弟の成人まで仮の玉座に座ることを決めたときも、かのエドラーナ遠征を成し遂げた時も、彼のあたまには一つのことしかなかった。

私のいのちも長くない。ならば、せめて、あの子の将来のために、なにかを為してやらなくては……

「陛下?」

突然声をかけられて、サヴァスは慌てて振り向いた。
暗い回廊に、女がたっている。派手ではないが、なかなか美しい顔だち。とりわけ濃い琥珀色の瞳が輝いて、この場の陰気な空気を吹き飛ばさんばかり。もはや三十路も終ろうかという年ごろのはずなのに、かの女の若さは衰えを知らぬようだ。
グレンフェルの生母。カイラスの王太后であるアンフィーンであった。

「は、義母上! 何ゆえここに」
「あら」

アンフィーンはさも心外をいうふうに眉をそばだてた。

「謁見の間でお待ちしていると申し上げたのに、陛下がなかなかいらっしゃらないからこうして参ったのに、ひどい言われようですこと。まるで、わたしがここにいるのがおかしいみたい」

つんと顎をそらせた義母のしぐさに失笑しつつ、サヴァスは素直に謝った。アンフィーンには十七年前から逆らえない。

「それで、義母上、今日は何の御用ですか。父のいない王宮は辛いといって、ファルーカで静養なさっておられたのに。大事のな御用事なのでしょうね?」
「え、ええ……あの子は、グレンフェルはお元気かしら?」
「ええ、元気すぎるほどですよ」

聞きたいのはそれだけではあるまいが。
サヴァスにはあらかたの予想はついている。わかっていながら焦らすのは、ちょっとした悪戯ごころからであった。「ただ、近頃は剣にも飽いてきたようですが」

アンフィーンはしばらくサヴァスの近況話に聞き入っているふうであったが、いいかげん我慢しかねたのか、やや早口になった。

「それで、その、どんな方なの?」
「はい?」

サヴァスはなおもしらばっくれようとしたが、義母が意外に真剣なので、困らせるのは止めにしてしまった。

「エドラーナの姫のことですね? グレンフェルは気に入ったようですよ。このところ毎日のように彼女に逢いにいっているようです。そろそろ、正式に婚約させてもいいかと思いますが」
「よい姫なの?」

アンフィーンはさっきの問いをもう一度くり返した。姫のひととなりがよほど気にかかるとみえる。最愛の息子の妻となる少女なのだから、無理もないが。

「私はまだ会っていませんが、グレンフェルの話では、優し気な、美しい姫だそうです。髪はプラチナブロンドで、瞳は、……なんだったかな……そう、『わすれな草』だそうな」
「わすれな草って、あの、庭にたくさん咲いている?」
「だ、そうです。あの子の言い分では」
「そう」

短くそう言うと、アンフィーンはきびすを返した。そのまま歩き去ろうとする。

「義母上? どちらへ? もうお帰りですか」
「気になさらないで。帰りたくなったら、ファルーカへ帰ります」

高貴な女性にしては大股な歩き方で、アンフィーンの姿は回廊の薄やみに消えていった。
突如もどった重い空気に囲まれて、サヴァスはかすかにため息をついた。


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