1.初めての台湾遠征 1982.5.2〜5.5

 あれは、私が淡水研に入会させて戴いた翌年のゴールデンウィークの事でした。亡くなられた小西前会長が、積年の夢であった台湾釣行を企画され、会員を募ったのです。

 当時、入会したばかりで大物を上げた経験も無く、西も東も解らない初心者の私が、恐る恐る手紙で申し込むと、小西会長は大いに喜び、是非一緒に行って本場の大物の手応えを味わいましょうと、快諾してくれたのでした。

小西会長の旧い台湾の友人によれば、石門水庫という台湾最大のダム湖には、地元の仕掛ではどうしようも無い大物がウジャウジャ居るとの事で、是非日本の進んだ仕掛けで大物を釣り上げて貰いたいとの事でした。

この遠征に参加したのは、淡水研の会員とその家族及び友人の総勢13名。小西会長はじめ、鈴木和夫氏とその友人・佐藤章吾氏と御子息2名・佐藤和志氏・大角夫妻そして私等でした。

 とにかく、初めての海外遠征で、荷物は最小限に、服装・スタイルなどは簡潔にと言う事で、当時長髪であった私は、トラブルの無い様にと短髪にカットして参加しました。

とりあえず、勢いをつける為、利根川の水郷大橋乱杭で秋田支部の進藤氏達と合流し、佐藤氏に手ほどきして戴いたレンギョ釣りをおさらいする事にしました。おかげで、良型のレンギョの手応えを十数回味わう事ができ、素晴らしい秋田の仲間とも知り合う事ができたのです。

そして、台湾へ出発の朝、片付けを終えた私に、佐藤和志氏が声を掛けました。多摩川81クラブの友人が、上流の両総用水吐き出しで、大物の草魚を繋いでいるから見に行きませんかと、誘ってくれたのです。私は、一も二も無く付いて行くと、吐き出しの上手に2本のロープが並び、その先には巨大な獲物が泳いでいたのです。

それは、青魚でした。あの夢に描いていた幻の青魚だったのです。

『佐藤さん、これは青魚じゃあ無いですか?今年の冬に水族館で見ただけですが、草魚より、青魚に似ていますよ。』

当時、青魚は非常に少なく、それを見た事のある者は稀で、殆どの青魚が草魚と間違われていました。

『そうですか、やはり青魚ですか。実は、これと同じ種類の大物を先月にも釣り上げたのですが…』ロープを引き寄せていた釣人の橋本氏がそう言うと、一枚の写真を見せてくれたのです。

143cmあったのですが…』

そこには、巨大な魚が腹を見せて横たわり、その後ろの橋本氏が小さく見えるほどの大物でした。

 

 台湾遠征のプレリュードは最高でした。大物レンギョの手応えばかりか、幻の魚の青魚まで見る事が出来たのですから…

 その日の午後、台北空港に到着して検問を抜けようとしたら、係員が私を呼びとめました。何やらパスポートの写真と私を交互に見比べています。暫くして、別の係員と小西会長が呼ばれ、パスポートの写真と私が同一人物である事が解り開放されたのですが、台湾は長髪は禁止であるというデマを信じて短髪にした事が、逆に災いしたのでした。そんな、つまらぬ事件以外は何事も無く、夕方には目的地の石門水庫に到着。現地の人達が大勢集まり、湖畔のホテルで盛大な歓迎パーテイを開いてくれました。円卓に並ぶ豪華な中華料理と、乾杯、乾杯の嵐に、異国へ来た事を実感。まだ見ぬ大物への期待感はますます広がったのでした。

 夕暮れ、付近の散策に出ると、ホテルの脇に数人の釣人が並んでいました。日本のヘラフナ釣り仕掛けに良く似た仕掛けを50cm程の感覚で2本並べ、シラハエかモロコのような小魚を釣っていました。やはり、台湾でも釣りは盛んなのだと確認、もう後は大物が釣れたようなルンルン気分。

 翌朝は、全員、夜が明けるのを待ちきれずに起床。鏡のような湖面に、大物特有の巨大なモジリやハネが広がるのを、今か今かと待ち構えました。しかし、水面はいつまでもその輝きを失う事無く平静さを保ち、頼んでおいたガイドが到着。しかし、何故か来たのは、小物釣りのガイド。大物釣りのガイドを呼んでくれと言いいますと、そんなガイドは居ないとの事。止む無く、ガイドは断り、手漕ぎボートを各々借りて、自由に探る事にしました。

私と佐藤和志氏は、ボートからレンギョを狙う事にし、ポイントを探して上流へ向かいました。すると、減水して満水時より十数m水位の下がった急な湖岸には、至る所に刺し網が何段にも干上がって掛かっているのが見えました。途中に養殖イケスがあり、近付くと小屋から見張り人が出てきて、凄い剣幕で怒って来るのです。そこで、木立の沈んだ静かなワンドにボートを止めて、台湾で調達した米糠をエサにして釣り始めました。台湾の米糠は日本より粒子が粗く、いわゆる赤糠というもので、非常にバラケが良い。親指大に丸めて送り込むと、透明な湖水に煙幕を描いて沈み、佐藤和志氏から戴いた遊動ウキが、1分もしないうちに浮き上がる。それを根気良く打ち返し、群れを寄せる事に専念するのですが、1時間を過ぎても2時間を過ぎても、ウキにアタリの気配は見られません。佐藤和志氏の方も同じようです。結局、この日は午後からもアタリ無く、ホテルに戻ると、全員疲れた様子で元気がありません。

翌朝は、別のワンドにボートをつけて、昨日と同じようにレンギョを狙う事にしました。すると、1時間程過ぎた時、水面近くを60cm程の魚が1尾、かなりのスピードで目の前を横切るのが目に入りました。草魚のようです。魚は居るのです。草魚が居れば、レンギョだって居るに違いありません。衰えかけていた気力が自然とみなぎって、ウキを見る目に力が入りました。しかし、無常にもアタリは見られず、時間だけが過ぎて納竿となりました。

結局、全員で釣れた獲物は、佐藤和志氏の上げた30cm程の名も知れぬ熱帯魚1尾と、惨憺たる結果に終わったのでした。

帰り際、台北空港のロビーですれ違った現地の中年の女性が、竿を担いでいる我々を見て、珍しそうに声を掛けてきました。レンギョを釣りたいのなら、女性の経営している釣堀にいるからと誘うのです。

しかし、残念ながら我々には、もう、そんな時間はありません。もっと時間があれば、折角はるか遠方の異国迄来たのですから、魚に出会えるまで釣りたいのは山々です。少し、後ろ髪を引かれる思いで後にした台湾でした。

なお、この遠征の後、思い描いていた永年の夢と違ってショックだったのでしょう。小西会長は台湾の話を会報に載せる事は無くなりました。

1ドル360円で、情報化時代より前の旧き良き時代の、青春の1ページでした。

あれから20年。日本はバブルの盛衰を経験し、そして今I.T.の時代となりました。淡水大魚釣りの技術も進歩しました。今や、草魚は全国至る所に放流され、それ程珍しい魚では無くなりました。また、幻であった青魚は、専門に狙う釣人も増え、今や大物師のターゲットの一つとなっています。

 これからは、ますます海外の大物にチャレンジする釣人も増える事でしょう。願わくば、この遠征がそうした歴史の中の1コマとして、記憶の中に留められん事をと思うのです。