「楓ちゃん、今って10月だよね」
「食欲の秋、ついでにスポーツの秋ですね」
「なのにどうして今日はこんなに暑いんだろう」
「澄み渡る秋の空。いい天気で本当によかったですね」
 楓は地面に広げたビニールシートの上に腰を落とすと、まぶしそうに空を見上
げた。
 額の汗をハンカチで拭いながら楓の側に座ると、耕一も楓と同じく、しかしけ
だるそうに空を見上げ、大きくため息を一つついた。
「雨で中止になっても、別に俺はよかったんだけど。雲一つない上に、なんか季
節はずれに暑いし」
「だめですよ。そんな事になったら、延期になっちゃうじゃないですか。そうし
たら耕一さん、いつまでたっても東京に帰れませんよ」
「……ちょっと待って。もしかして見終わるまで俺を東京に帰さないつもりだっ
たの?」
 やっと話が通じたかと思った刹那、とんでもないことをさらりと言ってのける
楓に、耕一は顔を引きつらせた。
「はい。耕一さんだって、そのためにここに来たんでしょう? だったらちゃん
と見ていかないと。梓姉さんの晴れ姿」
「晴れ姿って、たかが体育祭じゃないか。しかもどっかの競技場でやる本式の、
とかじゃなくて、学校の運動場でやる平凡なやつ」
「たかが体育祭、されど体育祭。梓姉さんにとっては高校最後、つまり一生で最
後の体育祭になるんですよ。本式とか平凡とかは関係ありません」
「それはそうだけど」
「だったら、ちゃんと見ていきましょうよ、ね」
「大丈夫だよ、体育祭が終わるまで耕一が帰るわけないよ」
「は?」
 耕一は突然頭の上から降ってきた声に怪訝そうな表情を浮かべ、その声のした
方向を見た。
 そこには体操服を着た梓が立っていた。
「梓、おまえ何やってるんだ、もうすぐ開会式だろ。父兄応援席なんかに来てる
暇なんてあるのか?」
「うん、もうすぐって言ってもまだ20分ぐらい時間あるから、全然大丈夫」
「ふーん……ん? おい、そう言えばおまえさっきなんて言った? 俺が帰るわ
けないって、それどういう意味だ?」
「え? ああ、そのこと。でも、どういう意味って言われてもね……。だって、
帰ったら女子高生のブルマー、拝めないよ。あんたそのために今回こっち来たん
だろ? その目的も達成せずにあんたが帰るわけないもん、違う?」
「な、なんだよそれ!」
 立ち上がった耕一は、にこにこと笑みを浮かべる梓を怒鳴りつけた。
 だが梓は耕一の怒鳴り声など全く気にした風もなかった。
「ん? あたし、何か変なこと言った?」
「何かって、おまえ、根本的に変だろうが! どうして俺が女子高生のブルマー
なんか見て興奮しなきゃいけないんだよ。どこぞの変態オヤジか、俺は!」
「あたしは、興奮するとまでは言ってないんだけど……。あー、やっぱりそうい
うの見て興奮するんだ、耕一。いやだねぇ、これだからオヤジ趣味のスケベは。
あ、もしかしてあんた、あたしのブルマーもいやらしい目で見てるんじゃないだ
ろうね。やめてほしいんだけど、そういうの」
 自分に軽い軽蔑の視線を向けながら放たれた梓の言葉に、耕一は思わず絶句し
た。
「な……」
「な、楓もそう思うだろう?」
「え、いえ、その、あの私は……」
 急に梓に話を振られた楓は、恥ずかしそうに両手の人差し指同士を付き合わせ
ながらもじもじしだした。
 軽く舌打ちした耕一は、楓をかばうように梓の前に立ちはだかった。
「いいかげんにしろよ梓。妙な話を振って楓ちゃんを困らせるなよ」
「あー、図星付かれたもんだから、そうやってごまかそうとして」
「何が図星だ、いいかげんにしろ。俺にはそんな世間様に顔向けできないような
趣味はない!」
「ほんとに?」
「ほんとだ」
「これっぽっちもない?」
「ない」
「ほん、の少しも?」
「ないったらない! あのな、俺は中身重視なの。ブルマーだって、スクール水
着だって、セーラー服だって、女の子が着てりゃ誰でもいいってわけじゃないん
だ。俺好みのかわいい女の子が着てこそ意味があるんだ。そこんとこ勘違いする
な!」
「スクール水着やセーラー服なんて、あたし一言も言ってないんだけどな。それ
に微妙に話ずれてるし」
「う、うるさい! とにかく俺はどこぞのスケベ変態中年みたいに、女の子のブ
ルマー見て興奮するような男じゃない! わかったか!」
「耕一……」
 今までからかうような態度だった梓は急に神妙な顔をして、耕一の肩にぽんと
手を置いた。
 その態度に毒気を抜かれた耕一は、訝しげな表情を浮かべた。
「な、なんだよ」
「そんなこと大声で言って、恥ずかしくない?」
「へ? え? え?」
 あわててあたりを見回した耕一は、そこかしこで周囲の父兄、とりわけ生徒の
母親と見られる中年女性たちが、こちらをちらちらと見ながら、何やら小声でひ
そひそと話し合っているのに気づいた。
 しかもそこから聞こえる言葉には、変態やら、幼女趣味といった冗談では済ま
されないような言葉まで混じっていた。
「え、うわ、え……うそ、いや、え、え、えぇえ――!?」
 耕一はしばらく焦ったような顔をしながらしばらく周りの人を見回していたが、
突然逃げるようにどこへともなく走り出した。
「ちょ、耕一!」
 梓はあわてて耕一のあとを追いかけていった。

「耕一、どこ行ったんだろう?」
 耕一を捜しに来た梓は校舎裏に来ていた。
 そこは、すぐ側にあるはずの学校の塀がほとんど目立たないほど、木々が鬱蒼
(うっそう)と生い茂っている場所で、その様子から生徒たちからは「林」と呼
ばれていた。
 しかも体育祭の開会式の前ということもあって、そこに人気は全くなかった。
「恥ずかしがって逃げるんなら、こういう人気のない場所だと思ったんだけどな」
「だあ――――!!」
 ドカ、ドガ、ガシ、ガス、ズガ、バガ、バガ――ン!!
「ん?」
 梓が林の中に入っていこうとしたとき、突然、校舎裏のさらに木々の影になっ
ていて、ほとんど人目に付かないところから、叫び声と何かを壊すような音が聞
こえてきた。
「耕一?」
 梓は声のする方へ走っていった。
 そこでは耕一が顔を真っ赤にしながら、そこかしこの塀に拳をぶつけまくって
いた。
「恥ずかしい――――!!」
 ドガ、ドカ、ドカドカドカ!!
「っくしょ――――!!」
 ガシィ!
 手当たり次第にあたりの塀を殴りつけ多くのひび割れを作り、とどめとばかり
に渾身の力で塀に拳をめり込ませると、ようやく耕一は暴れるのをやめた。
「気は晴れた?」
 肩で息をしていた耕一の呼吸が落ち着くのを待って、梓は耕一に声をかけた。
「梓……」
 耕一は不満たらたらといった表情で梓を睨みつけた。
「どうしたの?」
 梓がなぜか妙にかわいらしく首を傾げたとたん、怒りが臨界点を超えた耕一は、
そのまま梓に詰め寄った。
「梓、おまえあれどうしてくれるんだよ! なんか俺、めちゃくちゃ変な目で見
られてたぞ!」
「うん、そうみたい」
「他人事みたいに言うな! これで世間一般の婦女子の方々からの俺への評価が
ガタ落ちになっちまったじゃないか!」
「だからって、八つ当たりで人の学校、壊さないで欲しいんだけどな」
「うるせえ! 恥ずかしすぎて八つ当たりでもしなきゃやってられるか! ああ、
俺ってなんてついてないんだ……」
 すっかりうなだれてしまった耕一の肩をぽんぽんと叩きながら、梓はにこにこ
と嬉しそうな笑みを浮かべた。
「けどさ、人の噂も七十五日。あとたったの七十五日、我慢すればいいだけなん
だから。ね、そんなに気にしない、気にしない」
 耕一はそんな梓をジト目で睨んだ。
「……おまえ、なんか嬉しそうだな」
「ううん、別に嬉しくなんかないよ」
「そうか?」
「うん、全然嬉しくなんかないよ。むしろちょっとあんたに悪い事したな、とか、
女の子に人気がますます無くなってかわいそうだな、とか思ってるんだから」
「そんな明るい声で言われても、全然説得力がないんだが」
「気のせい、気のせい。あ、そろそろ時間だ」
 梓は腕時計をちらっと見るとぐいっと耕一の腕を引っ張った。
「ん? 時間って、なんの時間だ?」
「何言ってるの、開会式だよ。ほら、急いで急いで」
 梓は耕一の腕をぎゅっと抱えるとずんずんと歩き出した。
「お、おい。そんなに引っ張るなよ。それ以前におまえはともかく、なんで俺ま
で急がなくちゃいけないんだ?」
「細かいことは気にしない! あんたは開会式からちゃんとあたしを見てればそ
れでいいの!」
 そう言ってますます歩調を早めた梓に合わせるように、しぶしぶ耕一も歩調を
早め、二人は運動場へ向かった。

  今日は10月某日日曜。
 梓にとって、高校生活最後の体育祭が行われる日であった。





梓が奏でる狂詩曲(ラプソディー)

たからもの





「暇だ……」
 開会式が終わって3時間後、午前の部が終わろうとしていた頃、目の前で繰り
広げられる競技をぼうっと見ながら、耕一はあくびをかみ殺していた。
「やっぱり自分が参加してないっていうのが問題なのかな? 俺が高校生やって
たときは、他人の競技でも結構見てたもんな」
「でも、もうすぐ梓お姉ちゃんが出てくるよ。耕一お兄ちゃん、これは楽しみで
しょ?」
 体育大会のパンフレットをうちわ代わりにしていた初音が、妙に嬉しそうに耕
一に話しかけた。
「べ、別に楽しみになんかしてないよ。そりゃ、知ってるやつが出るんだから、
一応見はするけどさ」
 少しどもりながら返事を返した耕一を、初音は意味ありげな視線で見つめた。
「知ってるやつ、ね。理由はそれだけ?」
「そ、それだけだよ」
「ふーん。……ま、そういうことにしておこうかな」
 やや含みのある笑みを浮かべて初音は運動場の方へ視線を向けた。
「な、なんか引っかかるな……」
 耕一は頭をぽりぽりとかきながら初音と同じように運動場を見た。

「そういえば楓ちゃん、千鶴さんはやっぱりだめだって?」
 耕一はふと千鶴のことを思いだし、楓にたずねた。
 楓は残念そうにうなずいた。
「姉さん、忙しすぎて電話にも出られないみたいです」
「そっか。残念だな、千鶴さんも楽しみにしてたのに」
「ですね」
 耕一たちは揃ってため息をついた。

 今日の体育祭を見に来ているのは楓、初音、耕一の三人で千鶴は来ていない。
 だがこれは、千鶴が梓のことをないがしろにしている、ということではない。
 むしろ妹想いの千鶴としては、梓にとって最後の体育祭でもある今日の体育祭
はどうしても見に行きたい行事だったのだ。
  そのためにわざわざ仕事も休みを取っていたぐらいである。
 だが体育祭当日の朝、急に仕事が入ってしまった。
 さほど急を要するわけでも重要な仕事なわけでもなかった。
 しかし責任感の強い千鶴は、鶴来屋会長としての責務をまっとうするため、不
本意ながらも仕事に行くことを選んでしまった。
 だが、千鶴がどれだけ残念がっているかがよくわかっている耕一たちは、ほん
の少し、梓が出場する競技だけでも見られないかと、先程から千鶴に連絡を取ろ
うとしていたのだ。

「ね、わたしたちが落ち込んでたってなんにもならないよ。それよりも千鶴お姉
ちゃんの分まで梓お姉ちゃんを応援しようよ」
 暗い雰囲気を振り払うかのように、初音が努めて明るい声を出した。
 その声に耕一と楓は顔を見合わせてうなずいた。
「そうだね」
「ええ。やはり今私たちにできて、千鶴姉さんが一番喜ぶことをするべきですね。
あ、梓姉さんが走るみたいですよ」
 楓の声に、耕一たちはグラウンドの方へ目を向けた。
 そこでは梓が出場する400メートル決勝が今まさに行われようとしていた。



「準備よしっと」
 梓は足首を軽く回しながら、左手首にはめたリストバンドをぎゅっと握りしめ
た。
 ――ほんとはこんな物つけないで、思いっきり走りたいんだけどな。

 今梓が身につけているリストバンドと靴は共に鉛入りの物で、リストバンドは
それぞれ5キロで、靴はそれぞれ10キロある。
 これら30キロにも及ぶおもりは、彼女の爆発的な鬼の力を抑えるために用意
された物だ。
 彼女とて普段はそんな物をつけないでも鬼の力を抑えて生活できる。
 それは運動の時も同じである。
 だが実際の試合のとき、つまり気分が高揚し興奮状態になるようなときは、自
分でも力の抑えが効かなくなることがあるのだ。
 それならば力を抑えるのではなく、いっそのことおもりをつけた状態で力を爆
発させる方がいいという楓の発案から、これらのおもりは生まれたのだった。

 ――それにしても楓、いくらなんでも重すぎるよ、これ。あたしは化け物じゃ
ないんだよ……。
 両手両足にかかるずっしりとした重みを感じながら、梓はスタート位置につい
た。
 競技者全員がスタート位置についたのを確認したスターターは、ゆっくりとし
た動作でピストルを構えた。
 その瞬間、全ての時が止まったかのように会場内はしんと静まり返った。
 会場内には、そこを吹き抜ける風の音と、その風が揺らす校旗がなびく音だけ
が残されていた。
 その静寂を合図に、スターターはゆっくりと口を開いた。
「位置について」                
 ――でも、みんなが応援に来てくれてるんだ。みっともない姿だけは見せられ
ない。
「用意」
 ――それに、今日は来てくれてるんだ……。
「がんばれ、梓!」
 ――耕一!
 パンッ!
 ――しまった!
  耕一の声に気を取られた梓はほんの一瞬、号砲への反応が遅れた。
「くっ」
 ぎりっと歯を噛んだ梓は一気にスタートラインから飛び出した。

 スタートでは出遅れたものの、その後の梓の走りはほぼ完璧だった。
 スタートの遅れをものともせずすぐに前を走る走者に追いつくと、次々と彼女
たちを追い抜いていった。
 そして200メートル付近で、ついに先頭走者を射程距離内にとらえた。
 400メートル走は、100メートルや200メートルと違って、スタートからゴール
まで常に体力全開で走りきることが非常に困難な競技である。
 普通の人間ならば必ずどこかで息切れが生じ、ペースが落ちてしまう瞬間が存
在する。
 そうならないのは、陸上のために体を鍛えている人間の中でも、ほんの一握り
の存在だけである。
 梓はその一握りの人間であった。
 先頭走者がペースダウンしようとする自分を必死で奮い立たせているそのとき
も、梓のペースは落ちなかった。
 振った腕が、踏み出した足が、ぐんぐん梓と先頭走者との距離を縮めていった。
 そしてゴールまであと80メートル、先頭走者が必死で最後のスパートをかけ
たそのとき、梓は彼女に並んだ。
 そこから先は梓と彼女の一進一退の攻防が続いた。
 抜きつ、抜かれつ、互いに一歩も譲らない走りを続けた。
 しかしここに来て、今までのやや無謀とも言えるペースのせいか、両手足のお
もりが梓にやたらとその存在を強調し始めていた。
 だがそれでも梓はきっとゴールを見つめて走り続けた。
 誰よりも早く、誰よりも先にゴールテープを切りたい。
 梓はただそれだけを願い、ゴールを目指した。
 純粋に走ることにのみ邁進するその姿からは、まばゆいばかりの美しさが醸し
出されていた。
 そして、勝負の結果は――。

「ただ今の400メートル決勝の結果をお知らせします。一位、三年、柏木梓。タ
イム――」

 梓の勝ちだった。



「やった!」
 楓と初音はお互いに抱き合って喜んだ。
「ねね、今のすごかったね、楓お姉ちゃん!」
「ええ。ほんとにすごいって言うか、かっこいいって言うか……なんて言ったら
いいのかよくわからないけど、とにかくほんとにすごかった。ね、耕一さん」
「…………」
 やや興奮気味の楓が耕一に話しかけたが、耕一は全く返事をしなかった。
「耕一さん?」
「耕一お兄ちゃん?」
 二人はもう一度声をかけたが、耕一はやはり惚けたようにグラウンドを見つめ
ていた。
「耕一お兄ちゃ――ん!!」
「え! え、ええと、なに、初音ちゃん?」
 初音の大声でようやく我に返った耕一は、あわてたようにきょろきょろと辺り
を見回した。
 腰に手を当てた初音は、あわてる耕一を呆れたような顔で見た。
「……お約束だけど、何って言うのはこっちのセリフだよ」
「え? え?」
「ぼうっとして、全然返事してくれないんだもん。どうかしちゃったのかと思っ
たよ」
「ぼうっとしてって……俺、ぼうっとしてたの?」
 未だ自分がとっていた行動がどのようなものだったかがよくわかっていない耕
一に、楓と初音は顔を見合わせてため息をついた。
「完っ璧に」
「心ここにあらず、でした」
「……そうだったんだ。自分ではよくわかんないな」
 首を傾げていた耕一だったが、突然思い出したように口を開いた。
「あ、そうだ。梓、梓の順位、どうなったの?」
「へ?」
 楓と初音は思わずまぬけな声を出した。
「結果って、耕一さん見てなかったんですか?」
「いや、見てたよ、競技は。でも、結果わからなかったし、放送も、されてない
だろう?」
「……完璧にわかる結果だったと思うし、アナウンスもされたよ」
「うそ!」
「ほんと」
「え、でも、俺ほんとに……」
 不思議そうな顔で自分の質問に答える楓たちに、耕一はばつが悪そうな、それ
でいて困ったような表情を浮かべた。
 初音は大きなため息を一つつくと、はっきりとした口調で言った。
「さっきの競技、400メートルは、梓お姉ちゃんが一位。優勝、だよ」
「ほんと!」
 楓たちは揃ってうなずいた。
「そうか、梓、優勝なんだ」
 ようやく事態が飲み込め、嬉しそうにする耕一の様子にピンときた楓は、ほん
の少し唇の端をゆがめた。
「ところで初音」
 楓はキリッとまじめな顔をして初音を見た。
「ここでちょっと推理してみない?」
「推理?」
 楓はこくりとうなずいた。
「そう、推理。なぜ耕一さんは梓姉さんの順位を知らないのかっていう理由をね」
「ふむふむ」
「あの、ちょっと楓ちゃん?」
 楓は耕一の声を完全に無視し、耕一を見つめた。
「耕一さん。あなたは先ほど言いましたよね、梓姉さんの競技は見ていたって」
「う、うん」
「なのに耕一さんは競技の結果を知らない。おかしな話、というより普通はあり
えない話ですよね、助手のワトソン、もとい初音さん」
「確かに、普通はそんなことないよね」
 初音はうんうんとうなずいた。
「そう、普通は起こりえないんです、耕一さんの目が特別悪いわけでもなければ。
それにこの場合、順位は場内アナウンスでも知らせてありますからね。なおのこ
と起こりうるわけがないんです」
「でも、現実に事件は起こった!」
「いや、事件ってそんな大げさな……」
 耕一は困った顔で二人に声をかけたが、その声は未だ完全に無視されていた。
「だから、どこかにあるはずなんです、可能性が。私たちが見落としていて、な
おかつ耕一さんがその可能性を選んでしまったがためにこのような怪奇な現象が
起こった、そんな可能性が」
「なんだろう……。あるの、そんなのが?」
 初音の問いに、楓はゆっくりとうなずいた。
「一つだけあるんです。それは……」
「それは?」
「耕一さんが梓姉さんだけを見ていたという可能性です!」
「だけ?」
「そう、だけ。つまり、耕一さんが梓姉さんの走る姿に見とれてしまい、梓姉さ
ん以外の物は何も目に入らなくなってしまっていた。そしてそれは競争相手さえ
も例外でなかった、という可能性。もしそうなら、どうなりますか、初音さん?」
「ああ、そうか! 耕一お兄ちゃんは梓お姉ちゃんがゴールしたのは見えてても、
他の人が見えてなかったから、梓お姉ちゃんの順位なんかわからなかったんだ!」
 初音はぽんと手を打った。
「ご名答。どうですか、ワト……じゃない初音さん。これならば耕一さんが梓姉
さんの競技を見ていても順位がわからなかった理由が説明できませんか? しか
も耕一さんは私たちが声をかけるまで梓姉さんに心を奪われていて、五感のほと
んどが機能していなかったんですからね、順位のアナウンスが聞こえていなくて
も不思議はありません」
「すごい、すごいよホーム……じゃなくて楓お姉ちゃん!」
 初音の賞賛の声に楓はわずかに微笑むと、芝居がかった風に耕一を指さした。
「ふふ、これぐらいの推理、私にかかればなんてことはありません。さあ耕一さ
ん、これで言い逃れはできませんね。素直に白状してもらいましょう! ブルマ
ーをはいた梓姉さんに胸をときめかせていたと!」
 ガク。
 耕一はあぐらをかいたままで器用にこけると、そのままの格好で顔だけを上げ
て楓を睨んだ。
「ど、どどどうしてそういう結論になるんだよ!」
「どうしてって、さっきまでの推理、聞いてなかったんですか?」
「聞いてたよ。けど、俺が梓の順位を知らなかった理由を推理したら、どうして
俺が梓のブルマー姿に胸をときめかせていたっていう結論が出るんだ! その論
の展開が全然わかんないんだよ!」
 耕一は真っ赤な顔で叫んだ。
 一方、楓はきょとんとしていた。
「だって耕一さん、今朝言ってたじゃないですか。『俺はブルマーに興奮するん
じゃない。俺好みのかわいい女の子が着てこそ、ブルマーもスクール水着も意味
があるんだ。だから俺は、この学校にそんな女の子を捜しに来たんだ』って」
「違う! 特に後半なんか、全然違う!」
「細かいことは気にしないでください」
「全然細かくない!」
「まあ、それはそれとして話を続けましょう」
「ちょっと……」
「耕一さんはそんな不純な動機でこの学校に来ました。でも耕一さんの好みは、
元々梓姉さんって決まってたんですから」
「……決まってない」
「結局今日耕一さんは、梓姉さんを見に来たってことになるじゃないですか。だ
から耕一さんが梓姉さんに見とれていたってところから、梓姉さんのブルマー姿
に胸をときめかせていた、という結論を私は導いたんです。これのどこがおかし
いんですか?」
「どこがって……始めっからみんなおかしいじゃないか! そもそも俺が梓に見
とれてたなんて、いったいなんの証拠があって――」
「じゃあ、どうしてぼうっとしてたんですか、さっき?」
「え? だ、だからあれは、走ってる梓があんまりきれいだったからその、思わ
ず見とれ……じゃなくて!」
「じゃなくて?」
 楓はニヤリと笑みを浮かべた。
「だから、えと、見とれてたんじゃなくって、だからさ、その、きれいっていう
のも生々しいものじゃなくて、走ってる梓が輝いてたってことなんだから、その、
スポーツ選手として……ほら、わかるだろ、そういうの?」
「でも耕一さんから見たら普通にきれいだったっていうのもあるんですよね、梓
姉さんは」
「まあ、それは確かに元々梓はかわ……ってだからそうじゃない! もう、いい
かげんにしてくれ!!」
 ほとんど泣きそうな顔で耕一が叫びだしたため、さすがの楓もからかうのをい
いかげんにやめようかと思ったとき、この騒ぎの元凶であるにもかかわらず、騒
ぎ自体には全く関与していない女性が、彼らのいる場所にやってきた。
「何やってんの、耕一?」
「うわ――――!!」
「きゃっ!」
 ズザザザザッ。
 派手な音を立て土煙を上げ、さらに大声まで出しながら、耕一は背後に立った
梓から離れた。
「お、おおど、おどおどかすな梓!」
「何言ってるんだ! 驚いたのはこっちだよ! ちょっと声かけただけであんな
に大声出して驚かなくったっていいだろう!? あたしが声かけるのがそんなに驚
くようなこと!?」
「しょ、しょしょしょうがないだろ、驚いちまったもんは!」
「なんでそんなに驚く必要があるんだよ!」
「細かいことは気にするな!」
「細かくないし、あんな驚き方されたら誰だって気になるよ!」
「それでも気にするな!」
「…………」
 ふいに梓は黙ってじいっと耕一の顔を見つめた。
 その視線に耕一は思わずひるんだ。
「な、なんだよ、梓……」
「何、隠してるの?」
「何を、お、俺が隠してるって言うんだ……」
「あたしに聞かれたらまずい話してたんだろう? だからあんなに驚いたんだ」
「そんな話なんてしてないし、隠してる、ことことも、ない! だから、気に、
するな!」
「ふーん。でも、そうまで一生懸命隠されると、聞きたくなるのが人情ってもん
なんだよね……」
 梓は妖しい笑みを浮かべた。
 耕一がその笑みにひるんだ瞬間、梓の姿は耕一の視界からふっと消えた。
「あれ、ど、どこだあず……ひぁ!」
「ほぅら、白状しろ耕一!」
 梓は耕一の背後から脇腹をくすぐりだした。
「ふふゃひゃひふゃひゃ…や、やめろ、梓……ふふゃひゃひゃ!」
「何を話してたか白状するまでお断り。ほれほれほれ!」
「ふゃふゃ、か、隠してる、ことなんてひゃひゃ、ない、そんなふゃもん、ない!」
「結構強情だね。でも、どこまで保つかな?」
「いいかげんにひゃは、し、しないふくひゃしないと、怒るぞ、マジで!」
「その前にあんたが口を割るさ。ほら、こちょこちょこちょこちょ……」

 そのころ楓と初音は耕一たちからやや離れた場所で、彼らの戯れ(たわむれ)
を呆れ顔で見ていた。
「ねえ、お姉ちゃん」
「何?」
「あのめちゃくちゃ恥ずかしい二人、どうする?」
「どうするって……どうしようか? 放っておいても害はあまりなさそうだけど」
「でも、得することもあんまりないのも事実だよね」
「じゃあ止める? この間みたいに『夫婦でいちゃつくのは家の中だけにして』っ
て言えば、たぶんすぐにやめるわよ。まあ、そのあと二人のしつこいくらいの言
い訳を聞く羽目になるでしょうけど」
「それはそうだろうけど……。うーん、やっぱり今日はこのまま放っておこうか」
「あら、どうして? 言い出したのは初音じゃない」
「今日は梓お姉ちゃんたち、いつも以上に二人の世界を作ってるような気がして。
なんか、あの世界に入ったらものすごくやつれそう」
「……それもそうね。じゃあ仕方ないわね、今日は二人に心ゆくまでいちゃつい
てもらいましょうか。さっきの一位のご褒美、ということにでもして」
「賛成。それにしてもわたしたちって、ほんと姉夫婦思いの妹だよね」
「そうね。でも姉さんたちに聞かれたら、二人とも夫婦ってところを必死になっ
て否定するんでしょうけど」
「あれだけやってれば、説得力の欠片もないんだけどね」
「本当。いいかげん素直になれば、私たちにからかわれずにすむのに、耕一さん
も」
「あはは、そんなの無理だよ。いきなり告白するなんて、耕一お兄ちゃんにそん
な度胸ないもん」
「それもそうね。ほんと、梓姉さんも苦労するわね。ああいう奥手な人が相手で」
 そう言って楓たちは苦笑しあった。
 楓たちの視線の先でじゃれあっている一組の男女。
 だが実際に楽しんでいるのは梓だけで、耕一の方はくすぐられすぎでほとんど
気絶しかけているのが現実なのだが、楓たちはそんなことは全く気にかけていな
かった。



<つづく>


第二章へ