梓が奏でる狂詩曲(ラプソディー)

たからもの

第二章




「ほらほら、いつまでそのがまんが保つのかな? あたしはあんたの弱点なんか、
みーんな知ってるんだからね」
「くく……ほ、ほんとに、あとで覚えてろよ! 今おまえがやってること死ぬほ
ど後悔させてやるからな!」
「そんなことしたら、あんたの食事抜くだけさ」
「またそれか! 卑怯だぞ! おまえ俺に餓死しろって言うのか?」
「だったらどっかで食べてくればいいだけの話だろう?」
「ここらで食う食事で、おまえの作るやつよりうまいのなんてないんだよ!」
「あんたね、誉めるんならもっと素直に誉めたらどうなの?」
「やかましい! 普通に誉めてもらいたいんだったら、このくだらない行動をや
めろ!」
「あんたがほんとのことしゃべればやめるって言ってるだろ」
「いいかげんにしろ、ほんとに隠してることなんてないんだ!」
 いつ果てるともなく続く、耕一と梓の言い争い。
 本当にこのまま時が過ぎてゆくのか、と誰もが思ったそのとき、突然現れた一
つの影が耕一の体を突き飛ばした。
「梓先輩から離れろ、この変態!」
 ドン!
「うわっ」
 バランスを崩した耕一はそのまま地面に尻餅をついてしまった。
「な、なんだって……あれ?」
 突き飛ばされたことにより、ようやく梓のくすぐりから解放された耕一は、呼
吸を整えながら、自分を突き飛ばした影を見た。
「あーん、梓せんぱーい、大丈夫ですかー?」
「う、うわ、うわわ、離れろ、離れろ!」
「何やってるんだ、おまえら?」
 耕一の目に映ったのは、何か言いながら梓にしがみつく影と、その影に怒鳴っ
ている梓の姿だった。
「見りゃわかるだろ! セクハラされてるんだよ! 耕一、ぼうっと見てないで
さっさと助けてよ! この、あんたもいいかげんに離れろ!」
 梓はやや泣きそうな顔で耕一に怒鳴りながら、自分にしがみつく影を必死で引
き剥がそうとしていた。
「あ、ああ」
 耕一は釈然としないながらも梓を手伝うべくその影を見た。
 それはやや茶色がかった長い髪を持った小柄な女性で、しかも梓と同じ体操服
を着ていた。
 耕一は困惑した表情のまま、その女性の肩に手を置いた。
「ね、ねえ君。梓も嫌がってるし、いいかげん離してやってくれないか?」
「いや――!」
 ドン!
「うわわ!」
 耕一が自分の肩に触れた瞬間、女性は梓の体を離し、両手で思い切り耕一の体
を突き飛ばした。
 そのどさくさにまぎれて、梓はなんとか倒れずに踏ん張っていた耕一の影にこ
そこそと隠れた。
「な、にするんだ、いきなり」
 耕一は顔をしかめながら、いきなり自分を突き飛ばしたその女性を見た。
 一方、女性は耕一の方をきっと睨みつけていた。
「触らないで、痴漢!」
「へ? ちかん? ち、ち、痴漢……痴漢、痴漢だと!?」
 呆然としていた耕一だったが、ようやく言葉の意味を理解したのかいきなり嶮
しい(けわしい)顔つきになって、大声を出した。
 女性も耕一に負けじと大声を出した。
「そうよ! 背後から私の体に手を触れたじゃない! 立派な痴漢よ!」
「何言ってるんだ! 俺は君の肩を叩いただけだろう!? そんな程度で痴漢なん
ぞにされてたまるか!」
「肩であろうとなんであろうと、あなたみたいな汚らわしい男が私に触れること
が犯罪行為そのもの! それにあなた、さっきから私の梓先輩を無理矢理抱きし
めてたでしょ」
「な、なんだそれ! 俺がいつそんなことをした!」
「いつ? ふっ、堂々としらを切るなんてさすが犯罪者ね。いつも何も、現に今
だって嫌がる梓先輩を抱きしめてるじゃない。これが動かぬ証拠。さあ、これ以
上の罪を重ねないうちに、早く梓先輩を解放しなさい!」
 女性は耕一の背後に隠れている梓をビシッと指さした。
「いいかげんにしてくれ、さっきから嫌がる梓に抱きついてたのは君の方だろう。
それにこの状況をどう見たら俺が梓を抱きしめてるように見えるんだ。おい、梓、
おまえもいいかげん離れろ。おまえがそこにいると、ますますややこしいことに
なる」
 耕一は強い口調で叫んだが、梓はますます耕一の影に隠れるように体を小さく
してしまった。
「ほら見なさい、今だって梓先輩はあなたの存在に萎縮したじゃないの!」
「萎縮したのは君に対してのような気がするが……」
 耕一はあまりにも自己中心的な物の見方をする女性の行動と態度に、軽いめま
いがするのを感じていた。
 一方、女性の方は耕一がいつまでたっても梓から離れないため、心にさらなる
怒りがわき上がるのを感じていた。
「どうやら本当に梓先輩を解放しない気ね……。ようし、こうなったら最後の手
段よ」
 女性は腰につけていたウエストポーチから携帯電話を取りだしニヤリと笑みを
浮かべた。
「携帯?」
「あなたみたいな性犯罪者、警察に逮捕してもらうんだから!」
「け、警察? ちょっと待て!」
「今頃後悔したってもう遅、い……あ、梓先輩!」
 女性が携帯に110番を入力しようとしたそのとき、梓がいつの間にか彼女の側
に立っていた。
 女性が嬉しそうに梓に抱きつこうとしたとき、梓はぱっと女生徒から携帯を取
り上げると、その電源を切った。
「いいかげんにしろ、かおり」
「せ、先輩……」
 「かおり」と呼ばれた女性は、梓から自分に向けられた冷たい目にひるんでし
まった。
 梓はかおりに携帯を渡しながら、申し訳なさそうな顔をして耕一を見た。
「ごめんね、耕一。妙なことに巻き込んじゃって」
「え? あ、ああ」
「この娘も、悪気があってやったんじゃないと思うけど、ちょっと今日は度が過
ぎてたと思う。ほんと、ごめんね」
「い、いや、おまえに謝られても俺は困るんだが。おまえは別に悪いわけじゃな
いんだし」
 耕一は困ったような表情を浮かべた。
 無理もない。
 どんな理由があるにせよ、何もしていない自分を初対面の人間がいきなり性犯
罪者呼ばわりし、あまつさえ警察まで呼ぼうとしたのだ。
 いくらその人間の知り合いである梓に謝られても、そう簡単に耕一の心のざわ
めきが収まるはずもなかった。
 もちろん、梓にもそんな耕一の心情は十分に理解できていた。
「うん、それは、そうなんだけどね」
 だから耕一の言葉にも、梓は苦笑を浮かべるしかなかった。
 だが梓はここで黙る気はなかった。
 自分の知り合いと耕一の仲がこれ以上こじれるのをよしと思えなかった梓は、
両手をパンと合わせて頭を下げた。
「あんたの気持ちもわかるんだけど、ここは一つ、あたしの顔に免じてこの娘を
許してやってくれない? ね、お願い!」
「う……」
 さすがに耕一も頭まで下げられると、非常にばつが悪くなり、強く言うことも
できなくなってしまった。
「お願い!」
「わ、わかったよ……」
「やった! ありがとう、耕一。ほら、あんたもちゃんと謝りなさい」
 梓はかおりの背を押した。
「えー、でも……」
 かおりは心底いやそうな顔をした。
「早くしなさい」
「……はい」
 だが、梓が半ば本気で怒っているのを感じたかおりは、しぶしぶ耕一に頭を下
げた。
「さっきは、どうもすいませんでした!」
「あ、ああ」
 吐き捨てるように耕一に謝ったかおりは、頭を上げると急にぱっと表情を明る
くし、梓の腕につかまった。
「さ、先輩。行きましょう」
「は? 行くって、どこへ?」
「何言ってるんですか。さっき約束したじゃないですか、一緒にお昼を食べよ
うって。だから、どこか二人っきりになれるところに行って食べましょう、ね!」
 そう言ってかおりは梓の腕を引っ張った。
「ちょっと、離してよかおり。あんた何勝手なこと言ってるの。あたしがいつそ
んな約束したんだよ」
 梓が抵抗すると、かおりは不思議そうな顔をした。
「あれ、約束しませんでしたっけ? まあ、そんなことどうでもいいじゃないで
すか。ね、行きましょう!」
 かおりはさらに梓の腕を強く引っ張ったが、梓もそれに強い抵抗を示した。
「だからちょっと、やめてってば、もう!」
「そう言わずに、ねえってば!」
「いいかげんに、して――!」
 梓は大声で叫ぶと、ばっとかおりの腕を振り払った。
「今日のお昼は楓たちと食べるって決めてたんだから、あんたの頼みを聞くわけ
にはいかないの」
「えー、そんなぁ。変ですよ、高校生にもなって体育祭で家族といっしょに食事
なんて。ね、ここはやっぱり高校生同士で食事しましょう」
 かおりはもう一度梓の腕につかまった。
 だが再度梓はうっとうしそうにその腕を振り払った。
「大きなお世話。いい、今日はあたしにとって最後の体育祭なんだよ。その最後
の体育祭で応援に来てくれた家族といっしょに食事をしたいって言うのがそんな
に変?」
「それは、そうですけど……」
 かおりは不満そうに唇をとがらせた。
「な、なあ梓」
 二人の争いを見るに見かねた耕一が、梓の肩をぽんと叩いた。
「何も彼女だけを仲間はずれにすることもないだろう? どうだ、彼女もいっしょ
にお昼――」
 ギン!
「いぃ……!」
 かおりもいっしょに食事を、と言いかけた耕一だったが、そのとき梓から放た
れたすさまじい殺気を含んだ視線に思わず言葉を飲み込んでしまった。
 梓は炎さえも凍らせるほどの冷たい笑みを浮かべると、耕一の頬にそっと両手
を添えた。
「耕一、余計なこと、言わないでくれる?」
 こくこくこくこく。
 穏やかで、それでいてなんの感情もこもらない梓の声と、その冷たい視線にお
びえきった耕一は、壊れた人形のように首をがくがくと振り続けた。

 その頃、楓と初音は耕一たちの様子を先ほどと同じように、少し離れた場所か
ら見物していた。
「梓お姉ちゃん、今日はいつもの三倍くらい恐いね。あれなら千鶴お姉ちゃんと
けんかしても負けないかも」
「同感」
「でも、原因が原因なだけに、耕一お兄ちゃんがちょっとかわいそう。ほとんど
八つ当たりだもんね」
「同感。でも」
「触らぬ神に祟りなし」
 二人は声を合わせると、ぱんぱんと柏手を打った。

 耕一から手を離すと、梓は元の表情に戻ってかおりの方を向いた。
「とにかくかおり、今日あんたといっしょにお昼を食べる気はあたしにはないん
だ……って、どうしたの?」
 かおりは梓の方を向かずに、じっと耕一を睨んでいた。
「先輩。さっきから気になってたんですけど、その男、誰ですか?」
「その男って、こいつのこと?」
 未だ顔から冷や汗を流す耕一を指さした梓の言葉に、かおりはこくんとうなず
いた。
「誰って言われてもね……」
「やたらその男と親しげですよね、先輩。本当に誰なんですか?」
「うーん、簡単に言うと、あたしの従兄妹。父方のね」
「従兄妹?」
「うん。名前は柏木耕一、東京在住。職業はグータラ大学生」
「かしわぎ、こういち……先輩の、従兄妹……」
 かおりは噛み締めるように耕一の名前をつぶやいた。
「従兄妹だからね、あんたが言うように親しいっていうのも事実かも。これでい
い?」
「もう一つ質問です。その男と先輩の関係って、なんなんですか?」
「関係って?」
「だから、ただの従兄妹、なんですか? それとも、もっと別の関係、なんです
か? その、恋人、とか……」
 かあぁぁぁ。
 かおりが言わんとしていることにようやく気づいた梓は、一瞬で顔を真っ赤に
してあたふたし始めた。
「な、なななな何言ってるんだよ、あんたは! あ、ああああたしと耕一はただ
の従兄妹で、そ、そそそんな恋人とか、許嫁とか、夫婦とか、そ、そそそなな、
そんなんじゃななないんだから! わかる? わかる? ね、わかるだろ!」

「何やってるんだろう、梓お姉ちゃん?」
「さあ? とりあえずおもしろいし、助けるのはあとにして、もうしばらく放っ
ておきましょう」
 楓と初音は両手をわたわたと振り続ける梓を、相変わらず少し離れた場所から
楽しそうに眺めていた。

 一方、かおりはそんな梓を見て唇を悔しそうにぐっと噛むと、いらだったよう
な大声を出した。
「先輩!」
「は? な、何?」
 その声で我に返った梓は惚けたような表情でかおりを見た。
 かおりは梓の腕を三度(みたび)つかむと、耕一から離すようにぐいぐいと
引っぱり出した。
「先輩、ここにいちゃいけません! これ以上ここにいたらきっと先輩に悪いこ
とがおきます! さあ、早く離れて!」
「ちょ、ちょっと、何言ってるの、あんたは! さっきからの話、聞いてなかっ
たの?」
「聞いてたからこそ、こう判断したんです! ここにいちゃだめなんです!」
「ほんとに、いいかげんにしてってば!」
 梓は腕に力を入れて、かおりの腕を振り払おうとした。
 だが今度はかおりの決意もかなり固いらしく、彼女も渾身の力で梓の腕をつか
んでいた。
 かおりの腕を払うには鬼の力を使うしかなさそうだったが、さすがに人間、そ
れも自分の知り合い相手にその力を出すわけにもいかなかった梓は、力なくかお
りに引きずられ始めていた。
「ねえ、ほんと離してってば……」
「だめです。あんな男の側にこれ以上先輩を置いておくわけにはいきません!」
「だから……あ、耕一!」
 突然梓はすっとんきょうな声を出して耕一の方を見た。
「耕一、助けに来てくれたんだー!」
 その声にかおりはばっと梓の前に立ちはだかって梓が向いた方向を睨んだ。
「そうはさせません。これ以上、あなたを梓先輩、に……あれ? 先輩、あの男
来てないじゃないですか」
 かおりは不思議そうな顔をして後ろを振り返った。
 耕一は先ほどいた場所から全く動いていなかったからだ。
「先輩、これはどういうこと、で、すか……先輩? 先輩、どこ行ったんですか?」
 自分の側から梓の姿が消えているのに気づいたかおりは、あたりをきょろきょ
ろと見回した。
「しまった!」
 梓のさっきの言葉が、自分から逃げるための嘘だということにようやく気づい
たかおりは、悔しそうに叫ぶと梓を探して走り始めた。
「先輩、どこですか! 絶対逃がしませんからね!」

「ねえ、あの女の子、誰なの?」
 耕一はいつの間にか自分の側に立っていた楓と初音に話しかけた。
「はぁ、日吉かおりとかいう人で、梓姉さんの後輩なんだそうです」
「後輩」
「はい。あとは……姉さんの部のマネージャーをやってるとか」
「部って、確か梓は陸上部だったよね」
「はい」
「マネージャー、ね……。あの娘も選手になった方がいいような気がするけど」
「私もそう思います」
 楓たちの目には、陸上部員にも負けないほどすさまじい勢いで走り出す、かお
りの姿が映っていた。
「で、ああいう趣味な娘なわけね」
「はい、あまり私には理解できない世界なんですが……」
 楓は頬を赤らめた。
「俺も資料でしか知らない。実物は初めて見た」
「とにかく、梓姉さんも困ってました。後輩だし、あの趣味さえなければすごく
いい子だから邪険にするわけにもいかないしって」
「結構かわいらしい娘だしね。はは、梓も苦労してるわけだ」
 耕一は苦笑を浮かべた。
「ちょっと耕一お兄ちゃん。そんな悠長なこと言ってていいの? ぼうっとして
ると、梓お姉ちゃん、あの人に取られちゃうよ」
 初音が冷ややかな視線で耕一を見た。
 その言葉に、耕一はほんの少しあせったような表情になった。
「と、取られるって……。ちょっと待ってよ、梓は別に俺の……ん? ふふふ、
甘いよ初音ちゃん、いくら俺でも、そうそうからかわれてばかりじゃあ、ないん
だよ」
 耕一は勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「楓ちゃんもそうだけど、どうも二人とも俺と梓をくっつけたがってるみたいだ
ね。けど、そうは問屋が下ろさないよ」
 耕一は勝ち誇った顔のまま話し続けた。
「いつも言ってるけどさ、俺は梓とそういう関係になりたいなんて全然思ってな
いの。わかる? だいたいさ、あいつときたら、乱暴ですぐに俺を殴るし、性格
はがさつだし、口は悪いし、ほんとどう考えても女の子らしい所なんて全然持っ
てないんだから。まったく、あれじゃ嫁のもらい手だってあるかどうか……。い
い、二人とも、とにかくこの際はっきり言っておくよ。俺は、梓みたいなかわい
げの欠片もないほとんど男みたいな女、全然眼中にないんだ。それからもう一つ。
二人ともさ、俺が梓をかわいい女の子と思ってるって考えてるみたいだけど、そ
れも間違い。俺にとってのかわいい女の子ってのは、見た目以上に、どこか守っ
てあげたいって思える娘のことなんだ。男尊女卑って思われるかもしれないけど。
とにかく、その観点から言うと、梓はかわいい女の子とは正反対。あんな乱暴な
やつ、俺からすれば頼まれたって、守ろうなんて思えな――」
 バキャッ!!
 次の瞬間、耕一の体はきれいな弧を描きながら空中を舞っていた。
 ドシャァッ!!
「…………」
 梓は地面に落ちた耕一に冷たい視線を一瞬向けると、黙ってビニールシートの
上に座った。
「姉さんお帰りなさい、どうやら無事逃げ切れたようですね」
 楓は何事もなかったかのように梓に声をかけると、梓と同様ビニールシートに
上に座って弁当を広げ始めた。
「言っとくけど、今のは耕一お兄ちゃんが悪いからね、全面的に」
 完全に目を回している耕一に呆れ顔で言うと、初音もビニールシートの上に
座った。

「…………」
「…………」
 しばらく経ってようやく復活した耕一だったが、彼は憮然とした表情のまま初
音が作った弁当に箸をのばしていた。
 一方、その耕一に背中を向けたまま、梓もやはり憮然とした表情をしていた。
 そしてその光景は二人が食事を終えても、まだ続いていた。
 そんな二人の顔を順番に見て大きくため息をついた楓は、二人に声をかけた。
「あの、二人とも。そろそろけんか、やめませんか?」
 耕一は梓に背中を向けたまま口を開いた。
「梓が謝ったら全ては済む」
 その言葉に反応して梓も口を開いた。
「謝らなきゃいけないのは耕一だ」
 二人はくるっと振り返ると互いに睨み合った。
「なんで俺なんだ!」
「どうしてあたしなんだよ!」
 しばらく睨み合いを続けたあと、耕一が口を開いた。
「いきなりおまえが俺を殴り飛ばした。どう考えてもおまえが悪い」
「その理由を作ったのはあんただ。あんたの方がずっと悪い」
「あの、二人とも……」
「どんな理由があったって、いきなり人にスクリューアッパーぶち込むやつの方
が絶対に悪い!」
「あんたはそれ以上のことをあたしに言ったんだよ!」
「……だから、いいかげんに……」
「ぶん殴られるよりひどいことってなんだよ! あれか、かわいくないとか男み
たいってことか? 冗談じゃない、あんなもん全部事実だろう! そんなことぐ
らいで人殴るんじゃねえ!」
「また言った、また言った、また言った――! あたしのこと男みたいってまた
言った――!!」
「二人とも――!! いいかげんにしなさ――い!!」
「は、はひぃ――――!!」
 全身から鬼特有の巨大な殺気を吹き出しながら怒鳴る楓に、すっかり萎縮させ
られてしまった耕一と梓は、恐怖のあまり互いに抱き合いながら声を合わせた。

「まったく姉さんたちは、いったいどれだけけんかすれば気が済むんですか?」
「だって、耕一が悪いから……」
「梓の方が悪いんだろうが……」
 ぎろ。
「なんですか?」
「い、いえ、なんでもありません!」
 こんこんと説教を続ける楓の前で、正座をしながらぶちぶちと言い訳をしてい
た耕一と梓だったが、楓の一睨みによって再び条件反射のように体を堅くしてし
まった。
 楓はそんな二人を見て、心の底から大きくため息をついた。
「とにかく、もう少しけんかの頻度を減らしてください。わかりました?」
「はい」
 しぶしぶながら声を合わせて返事をした二人に、楓は満足げにうなずくと、手
をぽんと叩いた。
「さ、この話はこれでおしまい、と。ところで耕一さん、怒鳴ったりしたので、
私のどが渇いてしまいました。飲み物を買ってきてもらえませんか?」
「う、うん、わかった。で、何がいい?」
「私はオレンジジュースを。初音は?」
「ミルクティーがいい」
「オレンジジュースにミルクティーだね。梓、おまえは何がいい?」
「え、あたしもいいの?」
 耕一に声をかけられた梓はきょとんとした。
「なんだよ、いらないのか?」
 ほんの少し不満げにした耕一に、梓はあわてて取り繕った。
「い、いや、いらないとかじゃなくて、あたしもいいのかな、と思っただけで」
「いいに決まってるだろ。ほら、なんだよ」
「じゃあレモンティーを――」
「ああ、ついでに梓姉さんもついていってください」
「へ?」
 梓の言葉を遮って出された楓の言葉に、梓はまぬけな声を出した。
「どうしてあたしが?」
「何本もジュースを買うのは耕一さんも大変でしょう。だから、姉さんもついて
いってください」
 にこにこと笑みを浮かべた楓は、明るい調子で言った。
 そんな楓に耕一と梓は異議を唱えた。
「い、いいよ、楓ちゃん。こんなの一人で行けるって」
「そうだよ。第一なんであたしが耕一なんかと」
「いいから、二人で行ってください。もちろん、けんかはしないでくださいね」
「だって……」
 ぎろ。
「……文句、あるんですか?」
「もちろんありません」
 なおもしぶった二人だったが、先ほど以上にすごみをきかせた楓の睨みに、
あっさりと声を合わせて屈服した。

「まったく、どうしておまえといっしょに行かなきゃいけないんだよ」
「あたしに言うな」
 楓の頼みによって梓といっしょに自販機の場所までジュースを買いに来た耕一
だったが、楓の姿が見えなくなったとたん愚痴をこぼし始めた。
「だいたい、これもみんなおまえが……悪い、やめよう」
「……そ、そうだね。楓、恐いし」
「ああ。でもさ梓、楓ちゃんって、いつの間にあんなむちゃくちゃ強くなったん
だ? あの殺気はマジで恐かったぞ」
「あたしも初めて知った。あれ、千鶴姉と同じくらい強いよ」
「そういや、初音ちゃんも結構強いんだよな、確か」
「うん」
「で、千鶴さんは言うまでもなく。そうか、楓ちゃん、あんなにかわいいのに
な……ふむ、つまりあれだな。おまえたち姉妹ってさ、みんな揃いも揃ってめちゃ
くちゃかわいいから、普段は凶暴な面をそのかわいさで隠してるってわけなんだ
な」
「凶暴はないだろ、凶暴は……ん? みんな?」
 うなずこうとした梓だったが、急にはっと目を見開いて耕一を見た。
 だが耕一がそんな梓の視線に気づくことはなかった。
「…………」
 結局梓も小さな笑みをこぼすだけで、それ以上何も言わなかった。

「えっと、オレンジジュース、と」
 耕一は自販機の取り出し口からジュースを取り出すと、再び投入口にコインを
入れた。
「ねえ、耕一」
「ん?」
「結局、さっきあんたが言ってたことって、なんなの?」
「さっきって?」
「だから、あたしが400メートルから帰ってきたとき」
 ピタ。
 耕一は次のジュースを買うために自販機にお金を入れようとした状態で固まっ
た。
「……なぜ、そんなくだらないことを、そこまで気にする」
「だって、なんかあれが騒動の元々の原因のような気がしたからさ。だったら、
やっぱり知りたくなると思わない、その原因?」
「…………」
 耕一は梓の質問には何も答えずお金を入れると、取り出し口からミルクティー
を取り出した。
 梓は頬をぷうっと膨らませた。
「けち。別に教えてくれたっていいじゃない。減るもんじゃないんだし」
「…………」
 だがやはり耕一は何も答えず、黙々と次のジュースを買い始めた。
「そんなに教えてくれないってことは、もしかして耕一……」
 梓は急に顔を曇らせた。
「ほんとに、あたしが傷つくような、すごくひどいこと言ってたの?」
「…………」
 耕一は軽く舌打ちすると、頭をぽりぽりとかきながら梓を見た。
「……わかったよ、教えてやる。けど、ほんとに大したことじゃないんだからな」
「ありがと」
「話してたのは、朝の話の続きだよ」
「続き?」
「ああ。ほら、あの、ブルマーとか、スクール水着とかの、あれだよ」
「それって、あのことなの?」
「ああ。んで、それがいつの間にか、この学校で俺好みのかわいい女の子が見つ
かったのか、てな話になったんだよ」
「……それで、見つかったの?」
「まあ、な。正確にはちょっと違うが」
「……そう。そ、そうなの、よ、よかったじゃない耕一! あんた好みの女の子
が見つかってさ。で、それっていったい誰なの?」
「……梓だよ」
 耕一は梓から視線を逸らすと、ぽつりとつぶやいた。
「へえ、そうなんだ。あたしなん……だ……へ? あた、し……?」
 作ったような笑顔を浮かべていた梓だったが、その笑顔は耕一の言葉を受けて
固まった。
「だから、俺がかわいいと思う女の子は、梓なんだよ」
 耕一はまじめな顔をして、梓をじっと見つめた。
「梓が、一番かわいい」
「ほん、と……?」
 梓のつぶやきに、耕一はゆっくりとうなずいた。
 その態度に、梓は顔を真っ赤にしてうつむいてしまった。
「そそ、そんな、だ、だって、耕一は、あたしのこと、男みたいとか、言ってて、
そんな、風に言ってくれたこと……」
 梓は、目の前で両手の人差し指を付き合わせながらつぶやき続けた。
「それに、あたし、千鶴姉たちみたいにお淑やかじゃないから、耕一は、絶対あ
たしのこと、そんな風に見てくれないって思ってたから……だから……」
 梓はぱっと顔を上げ、耕一を見た。
「だから、あんたがほ、ほんとに、そう思ってくれてるんだったら、あたし、す
ごく……って、何やってんの、あんた?」
 梓の顔の前には、自分の口の端を両手の人差し指で引っ張り、さらに舌まで出
した耕一の姿があった。
「へっへーん! 引っかかった、引っかかった!」
 きょとんとした梓の顔を見て、耕一はしてやったり、といった表情を浮かべた。
「へ?」
 惚けたような顔をする梓に、耕一はウィンクをしながらさらに言葉を続けた。
「なんだよ、気づいてなかったのか? 今までのはみんな冗談だよ、冗談」
「…………」
「だいたい、ちょっと考えればわかるだろ、俺がそんなこと思うわけないんだか
ら。いや、これはむしろ、俺の演技力の勝利と言えるかもしれないな。うん、耕
ちゃん大勝利! まあ、とにかくあれだ。俺はさっきおまえの競技の話をしてた
だけで、ほんとに大したことは何も言ってないからそっちは心配するな。ほんと、
おまえが傷つくようなことは全然言ってないから」
「…………」
 だが梓はうつむいたまま、何も言わなかった。
 その様子に耕一は少々拍子抜けしたような表情を浮かべた。
「なんだ、リアクションなしかよ、つまんないな。ま、いいか。とにかくおまえ
の用事もこれで済んだことだし、さっさとジュース買って帰ろ――」
 パンッ!!
 耕一の言葉は、うつむいたまま繰り出された梓のビンタによって遮られた。
「い、いた――」
 パンッ!!
 あまりの痛さに何かを言おうとした耕一だったが、その言葉は再び梓のビンタ
によって遮られてしまった。
 そして耕一がその痛みを実感する前に、梓はさらなるビンタを繰り出し始めた。
 パパパパパパパパンッ!!
「あ、あが、がががが……」
 ひとしきり耕一を殴りつけると、梓は涙で潤んだ瞳で耕一をきっと睨みつけ、
何も言わず彼に背を向けた。
「…………」
 梓はギリッと歯を噛むと、どこへともなく走り去ってしまった。

「さすがに、今のはちょっと、やりすぎたかな……」
 両頬を真っ赤に腫らした耕一は、走っていく梓の背を見ながらぽつりとつぶや
いた。


<つづく>


第三章へ