梓が奏でる狂詩曲(ラプソディー)

たからもの

第三章




「あ、お帰りなさい耕一さん。ずいぶん遅かったです、ね……どうしたんですか、
その顔?」
 ジュースを買いに行って30分後、ようやく帰ってきた耕一を見て楓は不思議
そうに言った。
「いや、ちょっと、ね……」
 少しは収まったとはいえ、未だ両頬が腫れ上がったままの耕一は、引きつった
笑みを浮かべた。
 楓と初音はそんな耕一を見ると、顔を見合わせて大きなため息をつき、冷たい
視線で耕一を睨んだ。
 その視線に萎縮した耕一は、シートの上に正座すると、体を縮こまらせた。
「耕一さん。学習って言葉、知ってますか?」
「子供の頃、聞いたことがあるような気が……」
「耕一お兄ちゃん。その真っ赤に腫れ上がった顔。そんなになるまでお兄ちゃん
を殴った人に、ちゃんと謝った?」
「ま、まだです……」
「耕一さん」
「はい」
「何があったのかはあえて聞きません。でも、わかってますね?」
「……はい。それはもう重々承知しております」
「そうですか。ならいいんですけど。あ、それからその顔、私たちは絶対治療し
ませんからね」
「はい、これも、罰ですから……」
 しばらくの間、耕一はぺこぺこと楓と初音に頭を下げ続けることになるのだっ
た。



 その頃、梓はクラブの部室が集まっている場所へやってきていた。
「耕一の、バカ……」
 どこへ向かうともなくとぼとぼと歩いていた梓は、陸上部の部室の前でぴたり
と止まると目をごしごしこすった。

 ――梓が、一番かわいい。
  ――冗談だよ、冗談。俺がそんなこと思うわけないだろ。

 ようやく気持ちが落ち着き始めていた梓だったが、先ほどの耕一の言葉を思い
出した途端、再び鼻の奥がつんとなり、目の前がぼやけてきた。
 梓はもう一度目をごしごしこすると、ぎゅっと拳を握りしめると大きく振りか
ぶった。
「人の気も知らないで……。耕一のバカ。耕一なんて、耕一なんて、大っ嫌――」
「梓先輩!」
 びくぅ!
 その時、突然背後から聞こえた声に驚いた梓は、大げさにその場から飛び退い
た。
「だ、誰だよ……って、あ、あんた……かお、り……?」
 荒い呼吸をついたまま後ろを振り返った梓は、そこにいる人物の姿を確認する
とぽつりとつぶやいた。
 かおりは梓が惚けたような顔で自分を見ているのに気づくと、すねたように口
をとがらせた。
「もう、何言ってるんですか先輩。先輩のかわいいかわいい後輩、日吉かおり
ちゃんを忘れちゃったんですか?」
「え? い、いや、そ、そういうことじゃなくってね、うん」
 急にかおりに驚かされたため、未だに状況がよくわかっていなかった梓は、曖
昧な返事を返した。
 かおりはそんな梓を見てますます不機嫌そうな顔になった。
「それよりも、ひどいですよ先輩、逃げちゃうなんて。私、ずっと先輩のこと捜
してたんですよ。どこに行ってたんですか?」
「あ、ああ、あのこと。あ、あれは、その、ご、ごめんね」
 申し訳なさそうな顔をした梓だったが、かおりはゆっくりと首を横に振った。
「いいですよ先輩。私と先輩の仲じゃないですか。それにこうしてまたちゃんと
会えたんです。ああ、やっぱり私と先輩って、惹かれ合う運命だったんですよね」
「ちょ、ちょっと、かおり……?」
 熱い視線で自分を見つめるかおりの様子に悪寒を感じた梓は、かおりの独り言
を止めようと、彼女に声をかけようとした。
「ところで先輩」
「え、な、何?」
 だが、かおりはそんな梓の行動を遮るように、真面目な口調で梓に話しかけた。
「どうして、そんな暗い顔をしてるんですか?」
「あ……」
「ううん、暗い顔じゃない。もしかしたら、泣いてたんじゃないですか?」
「ち、違うよ」
 梓はすっとかおりから視線を逸らした。
「違わないです! そうです、先輩、泣いてたんですよね! そうか、あの男か。
あの男に泣かされたんですね! そうなんですよね先輩!!」
「違う、耕一は、関係……な、い……」
「違わなくないです! ああ、ごめんなさい先輩、私がしっかりしてなかった
ばっかりに、先輩はあの男にだまされて傷物に……」
「さ、されてない!」
「でも安心してください、先輩」
「だからあんた、いいかげんに――」
「そんな傷ついた先輩を、私がこの溢れる愛で癒してあげます。さあ、先輩。先
輩の全てを私にさらけ出してください」
「へ? ちょ、ちょっと、かおり……?」
 妖しい笑みを浮かべながらにじり寄ってくるかおりを見て、梓はじりじりと後
ずさりを始めた。
 ふいにかおりはぴたりと立ち止まり、梓の背後を見た。
「柏木耕一!」
「耕一?」
 かおりの声に反応して梓は後ろを振り返ったがそこには誰もいなかった。
「誰もいない……? きゃっ!」
 どた――っ!
 耕一など、どこにもいないことに気づいた瞬間、梓は強い力で部室の中に引き
ずり込まれた。
「痛たたた……」
 バタン。
 ガチャ。
「え?」
 頭をさすりながら体を起こした梓がドアの方を見たとき、突然ドアが閉まり、
さらに鍵までかかってしまった。
「んふふ、んふふふふ」
 鍵をかけたのはもちろん日吉かおりだった。
 梓はドアの前に立っているかおりに向かって怒鳴った。
「あんた、どういうつもりなんだ! うそついて人を部室の中に引っ張り込むわ、
ドアに鍵までかけるわ!」
「言ったじゃないですか、あの男に傷つけられた梓先輩の体を慰めてあげるって。
この、だあれもいない部室で」
「傷つけられた体ってなんだ! 耕一はあたしにそんなことはしちゃいないし、
第一、指一本触れてないんだ! さあ、わかったらさっさとこんなばかげたこと
はやめるんだ!」
「んふふ、んふふふふ……な――んちゃって。そんなことは最初からわかってま
したよ。先輩はまだ、あの男と、ううん、まだ誰ともそんなことしてないってこ
とぐらい」
「え? じゃあ……」
「だけど、これから先もずっとそうである、わけじゃありません。いつかは誰か
と……だからそうなる前に、先手必勝」
 未だ床に座った状態の梓にかおりはすっと自分の顔を近づけた。
「くっ」
 梓はさっと体を横にずらしてその場を離れた。
 次の瞬間、梓が今までいた場所にはかおりが倒れ込んでいた。
 かおりはけほけほと咳をしながら、梓を恨めしそうな目で見た。
「ひどいです、梓先輩。どうして私の愛のベーゼ(口づけ)をよけるんですか!」
「あ、当たり前だろ! なんであんたとそんなことしなくちゃいけないんだ!」
 梓は床に腰を下ろしたまま、ずりずりと後ずさりし始めた。
 一方、かおりは再びゆっくりと梓に近づいていった。
「愛し合う者同士がキスするのに、なんの問題があるって言うんですか」
「ちょっと待て、誰と誰が愛し合ってるって!?」
「私と先輩に決まってるじゃないですか」
「んなわけないだろう! それ以前にあたしたちは女同士じゃないか。そんな変
なことができるもんか!」
「変じゃないです! 愛さえあれば性別の問題なんて些細なことです!」
 そう言って再び梓に飛びかかったかおりを、梓も同じようにすんでのところで
よけた。
 梓はややおびえたようにかおりを睨みつけた。
「問題大あり、全然些細じゃない! 第一、あたしとあんたの間に愛なんてな
い!」
「ひ、ひどいです、一度ならず二度までもよけるなんて。それに私たちの間に愛
がないなんて……。先輩はそんなに私とキスするのがいやなんですか?」
「当然だ! あたしは――」
「耕一としかキスしないんだ、ですか?」
「…………!」
 梓は目を見開いた。
「図星、ですね」
 先ほどまでとはうって変わって、かおりの顔からは表情が消えていた。
「お昼の先輩の様子から、そうじゃないかなって、薄々は感じてたんです。それ
にさっきからの様子だって。でも、それがまさか、本当だったなんて……許せな
い……」
 かおりはぎゅっと拳を握るとすっと目を細めた。
「ちょ、ちょちょっと待ってよ、かおり。あたしは、別に耕一とそんなことした
いなんてちっとも――」
「じゃあ、あの笑顔はなんだったんですか?」
「笑顔?」
「さっきあの男といっしょにいたときの、先輩のあの笑顔ですよ。ほんとに嬉し
そうで、すごくきれいで。先輩のあんな笑顔、私は今まで見たことがありませ
ん!」
 かおりはきっと梓を睨みつけた。
「あの男と先輩が会ったのっていつですか? 会ってからまだ大して時間経って
ないでしょう? なのにどうして先輩はあの男とあんなに仲良くしてるんです
か? 私なんて、入学したときからずっと先輩のことが好きだったんですよ。男
とか女とか、そんなの関係なく、柏木梓っていう一人の人間を愛してるんです。
それだけ先輩が好きだったのに、それなのにどうして、私には一度も向けてくれ
たこともない笑顔を、あの男にはあっさり向けるんですか?」
「そ、そんなこと言ったって……」
「認めない。そんなこと、絶対に、絶対に私は認めない!」
「だ、だから……。ご、ごめん、うまく言えないけど、やっぱりあたしはあんた
の気持ちには……ハッ!」
 梓がかおりから目を逸らした一瞬の隙をついて、かおりは梓に飛びかかった。
 どた――っ!
 かおりを避けられなかった梓は、その勢いで床に倒れてしまった。
「さすがですね、そこまでしてあの男への純血を守っているなんて」
「あんたね……」
 かろうじて顔を動かしてかおりのキスだけは避けられた梓は、自分の体の上に
完全に倒れ込んでいるかおりを睨んだ。
「んふ、んふふふふ」
「ん?」
 プシュ――!
 かおりはさっとハンカチを自分の口に当てると、梓の顔にスプレーをかけた。
「ん……!」
「かかりましたね、先輩」
 かおりは妖しい笑みを浮かべながらゆっくりと立ち上がった。
「く、くく……」
 梓はそんなかおりを睨みながら立ち上がろうとした。
 しかし、体が自由に動かず、立ち上がることができなかった。
「くっ」
 ――何これ、体が動かない。眠り薬? いや、眠くはない。じゃあ、これって
まさか。
「あ、あんた、まさかこれ――」
「正解。しびれ薬ですよ、先輩。もうちょっとしたら、完全に体の自由が利かな
くなると思います。本当は、このあと媚薬も飲んでもらおうと思ってたんですけ
どね、残念なことに切らしちゃってまして。でも、しびれ薬だけでも十分役に立
つと思いませんか? んふふふ」
「あん、た、ど、うい、う――もり――」
 なんとか体を起こそうとする梓に、かおりは冷たく言い放った。
「決まってるじゃないですか。先輩を、私のモノにするんです。あの男に完全に
取られる前に」
「…………」
「体はともかく、今の先輩の心は確かにあの男のモノ。でも、私はそんなこと許
さない。先輩を誰よりも愛しているのは、私なんですから。たとえどんな手段を
使ってでも、先輩を私のモノにしてみせる」
「だからって、こん――こと、して――あたしが、あ――たのこと、好き、にな
るわけ、ないだろう」
「今はそうでしょうね。でもそれがずっと続くとは限りません。体の繋がりが先
で、そのあと心が繋がるという恋愛だってあるんですから、世の中にはたーくさ
ん。特に、こういうパターンでは、ね。そういう意味では私にとってはラッキー
でした、先輩の体があの男のモノになる前でしたから。ええ、本当にラッキーで
した。んふふふふ」
 かおりは再び含み笑いをした。
 梓はそんなかおりをじっと睨み続けた。
「さあ、私と一つになりましょう、梓先輩。そして全身で私の愛を受け止めてく
ださい。そうすればわかりますよ、誰が先輩に一番ふさわしいか、誰が先輩のこ
とを一番愛しているか、先輩は誰を愛するべきかってことが。心配はいりません、
女同士で嫌だと思うのなんて最初だけです。そのあとはきっと先輩の方が……ん
ふふふふふふ」
「そう。でも、残念だったね。そうそうあんたの思い通りにはいかないよ」
 かおりをきっと睨みつけた梓は手を地面について、ぐぐぐ、と立ち上がり始め
た。
「あたしの耐久力を見誤ってたようだね。おあいにくさま。このぐらいのしびれ
薬で、あたしがまいるとでも、思ってたわけ? それに、あんたがべらべらしゃ
べっててくれたおかげで、体力も回復してきた。ほら!」
 梓は完全に立ち上がった。
「さあ、これで形勢逆転」
 脂汗を流しながらほんの少し笑みを浮かべた梓を、かおりはさほど表情を変え
ずにじっと見ていた。
「さすがですね、先輩。でも、まだ足下が、ふらついてますよ!」
 ドン!
 かおりは肩から梓に体当たりした。
 その勢いで梓はまた地面に倒れてしまった。
「くっ、あんた……!」
 ガチャリ。
 梓は顔を上げた瞬間、冷たい金属音と共に両手首に冷たい感触を感じた。
「これって……」
 梓が手を挙げると、その手首には鈍い銀の光沢を放った手錠がかけられていた。
「これで逃げられませんね。んふふ」
「しびれ薬といい、この手錠といい、あんた、こんなもんどこで手に入れたんだ」
「蛇の道は蛇ってやつですよ。その気になれば、手に入れられないモノなんてこ
の世にはないんです。劇薬だって、手錠だって……人のココロだって……」
 そう言って冷たい笑みを浮かべたかおりに、梓は初めて恐怖を覚えた。
 ――この娘、マジでやばい。このままだったら、あたし、ほんとにこの娘に。
じょ、冗談じゃない。そんなのやだよ。助けて、助けてよ、こ――。

 ――俺は梓みたいな女、かわいいなんて思えないの。
 ――俺にとってかわいい女の子ってのは、守ってあげたいって思えるような娘
なんだ。頼まれたってあんなやつ、守りたくないね。

 だがそのとき、梓の脳裏に浮かんだのは、楓たちと話していたときの耕一の言
葉だった。
 その途端、梓の心から弱気な心は完全に消え去り、激しい怒りがわき起こり始
めた。
 ――そうだ、あいつなんかが、助けに来てくれるわけない。あいつなんかが、
あいつなんかが!
 ギリッと歯を噛んだ梓は体を起こすと鬼の力を全開にして、両手に力を込めた。
 ――もしあたしがこんな状況になってるって知ったって、あいつは絶対に来て
くれない。楓や初音とのんきにおしゃべりでもするに違いないんだ。それに万一
この状況を見たって、あいつはきっと、同性愛者になったとでも言って、あたし
をバカにするに決まってる。そうだ、あんなやつに、あんなやつに、誰が頼るも
んか!!

「でゃあ――!!」
 ミシ、ミシシミシ。
 梓はさらに力を込めると、手錠の鎖が少しずつきしみ始めた。
「う、うそ……」
 かおりは目の前の状況に驚いていた。
 いくら梓の体力が人並みはずれていても、しびれ薬を吸い込んで体力が減少し
ている状態で、手錠の鎖を引きちぎるなどということができるとは思っていな
かったからだ。
 だが現実として梓の手錠の鎖は、少しずつちぎれ始めている。
 それほどまでに梓が自分を拒絶しているのだということを感じたかおりは、悔
しさと怒りではらわたが煮えくり返る思いだった。
「でぇ――――い!!」
 バキン!!
「やった!」
 とうとう手錠の鎖はちぎれた。
「どうだかおり、これであんたの企みも――」
 プシュ――!
「…………!」
 梓が顔を上げた瞬間、かおりは再び梓にしびれ薬入りのスプレーをかけた。

 ――ちょ、ちょっと、これって、さっきのと違う。さっきのよりはるかにきつ
い。体が、全然、動かせない。

 梓はほとんど口を動かすこともなく両手をだらんと下げると、そのままばたっ
と前のめりに倒れた。
「先輩がいけないんですよ。先輩があんなに私を拒絶するから。先輩があの男の
ことしか心に描かないから。だからさっきよりはるかに強い薬を使わなくちゃい
けなくなったんです。全部先輩が悪いんですよ」
 かおりは無表情のまま、梓の両手を後ろ手の状態にした。
「もう先輩はほとんど体を動かせないはずですが、念のため」
 かおりは自動販売機や駐車場の入り口で使うような太い鎖を取り出すと梓の両
手に巻きつけ、そのつなぎ目に大きな南京錠をかけた。
「これで先輩は絶対に逃げられない」
 梓の体を仰向けにすると、かおりは再びクスクスと含み笑いをした。

 ――だめだ、もう全然体に力が入らない。残ってた力も手錠切るのにほとんど
使っちゃったし、体がなんともなくったって、こんな太い鎖、切れっこない。こ
こまでなの? あたし、もう、だめなの?

 梓は目の前に立っているかおりを虚ろな目でぼうっと見つめた。



<つづく>


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