二次創作投降(「月姫」×「夜が来る!)
「二天蒼夜」
(作:阿黒)




(1)


「にーちゃん、にーちゃん」
「――え?」
 背後からの、少し関西風なアクセントの声に志貴は振り返った。下校途中、遠野の屋敷まで続く、住宅街を縫う坂道の途上で。
 振り返ると自分の背後、意外に近くに小学生か中学生くらいの女の子が立っていた。自分の方が坂の上の方に居る分、小さな彼女はますます小さく見えたが、ふわっとした柔らかそうな髪をポニーテールにしたその少女は、中々に可愛いらしかった。
 何よりも見るからに元気いっぱい、溌剌とした爽やかさがある。
 だいぶ夕闇が迫り、黄昏の一歩手前の弱い光の中で、少女は、ニッという邪気のない笑いを浮かべた。
 …お転婆そうな、ちょっとだけ昔の翡翠を思わせる笑顔で。
「あんたに以外に誰がおるんやメガネのにーちゃん。元からぼけーっとした顔なのに更にぼけーっとしとったらボケボケやんか。頭が足りんように見えるで」
「うわあ…すっげぇナマイキ」
 何となくそんな印象はあったが、落ち着けー、相手はガキんちょだしー、と心のうちで自分に繰り返しながら、とりあえず志貴はやや引き攣ってはいたが笑顔を作った。
「ハ…ハハハ。で、なに?俺に何か用?」
「その歳で顔面神経痛かいなにーちゃん?
 何か用かやて?用があるから声かけたんに決まってるやろアホちゃうか?いやホンマ阿呆やなってウチ的には83%確定しとるけど。
 アホで顔面神経痛ってにーちゃんアンタ人生8割方終わっとるなー?」

 落ち着け俺。落ち着け俺!落ち着けオレ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!

 なんかもう、バキボキと変な音を立ててわななく指を抑えながら、志貴は、自分の忍耐の限界に挑戦していた。――いっそ、ブチ切れてしまった方が楽なような気もしたのだけれど。
 でも、児童ポルノ法違反になっても、いまならまだ情状酌量の余地は残されている気はした。

(※問答無用でありません)

「ふ…ふふふのふ…アルクェイドの破天荒さに比べればまだマシじゃないか…」
「なんや知らんけどにーちゃんがアルなんとかにものごっつ失礼なこと言うとるのは確かやな」
「あ〜〜〜〜!で、いったいなんだガキんちょ!」
「ファイナル・キララちょーっぷ!!」

 きぃぃぃぃぃぃぃんんんっ!!!

「…のおっ…!!」
 思い切り、蹴り上げられた股間を抑え、志貴は路面に崩れ落ちた。
「ヒトのことをいきなりガキんちょ呼ばわりとはエエ度胸しとるなぁにーちゃん?」
「あううううう…」
 女性には絶対に理解できない苦痛に呻きつつ、志貴は勝ち誇る少女の、今は自分より上にある顔を見上げた。
 言いたいことはたくさんあったが、まず。
「なんで…ケリなのにチョップなんだっ…」
「キララのキックはちょっぷ並の破壊力なんや!」
「さ…さいですか…」
 それって実は弱いんじゃないかと思ったが、そんなツッコミを入れられる余力は無かった。
「え〜〜と。…ちょい、痛すぎた?」
「……………」
「あー。その。
 …ごめん!ウチがちょい調子にのっとった。だからそんな、すっごく哀れっぽい涙目しないで欲しいわ頼むでホンマ…」
 一転して反省の色を見せる少女にむきになって怒るわけにもいかず、志貴は痛みを堪え、ゆっくりと立ち上がった。
 自分の非を認めれば素直に頭を下げることができる。
 少しナマイキかもしれないが、基本的にはいい子なのだろう。
「あの。うち、キララいうんや。にーちゃんは?」
「え?」
「だから、名前。ウチは名乗ったんやし、にーちゃんも教えてや」
「あ、そっか、キララ…っていうんだ。綺麗な名前だね」
 大分痛みが薄れてきて、志貴はどうにか背筋を伸ばした。
「俺は、遠野志貴。見ての通りの高校生」
 軽く両腕を広げて、志貴は少女――キララを見た。
「で。そのキララちゃんが俺に一体何の用なのかな?」
「そうそうそう!――なあ、にーちゃん?にーちゃんお腹へっとらん?」
「そりゃあ、まあ、まだ夕食前だしそれなりに小腹は空いてるが」
「ふんふんふんふん。そら、都合(ぐつ)がええなぁ。
 ――あんな、ウチ、そこでちょいと良さげなたこ焼き屋を見つけたんやけど、なんなら一緒に、どや?」
 ちょっとだけ考え込み、そして、志貴は思わず苦笑した。
「なるほど。――たかりというわけか」
「人聞き悪いこと言うなや〜。ウチは好意でにーちゃんに申し出てるんやで?こーんな超絶美少女と一緒においしいたこ焼き食べるなんて、どーみても生まれてから彼女なんて言葉に縁遠い人生送っとるにーちゃんにはもう二度とないチャンスやで絶対?
 にーちゃんはほんのちょいと、たこ焼き代を出すだけでさみしい老後のメモリアルになる楽しい一時を送れるんやで〜」
「あ、あのなー…」
 家に帰れば毎日律儀に自分の帰りを待っていてくれている専属メイドの翡翠がいて。
 料理上手の琥珀さんが腕をふるった夕食が準備されていて。
 それを一緒に食べる、血は繋がっていないけど、可愛い秋葉という妹がいて。
 時折、アルクェイドとかシエル先輩が乱入することもあるけれど、概ね、女っ気には不自由しない生活をしているなどと、この娘は知らないからしょうがないんだけどー。
 なるべくその複雑な心境を表に出さないように努力しつつ、志貴は残念そうに首を振った。
「あいにくだけど、今日はちょっと用事があるから…また、機会があったらね」
「…む〜〜〜〜〜〜」
 不満気に、上目遣いの視線を向けてくるキララは、確かに自分で言うだけあって可愛かった。
 ちょっとした後ろめたさを覚えつつ、でも、何となくこの娘にかかわるとやたらと面倒なことに関わってしまいそうな予感を感じて、志貴はじゃ、とか呟きながらキララから離れようとする。
「…まあ、ええわ。じゃあなにーちゃん」
 が、当のキララは思い切りよく気分を切り替えて、あっさりと手を振ってくれた。
 そのことに多少救われた気分で、志貴はパタパタと坂を駆け下りてゆくキララの後姿を見送った。
 おかしな娘だけど、でも、いい子だな、と思う。
 と、帰宅途中のサラリーマン風の中年男性を見かけ、キララがそちらに駆け寄ってゆく。
 そして、簾頭の中年に、キララは自分のスカートの端をちょっとつまんで、言った。
「どやおっちゃん。…2枚でええで?」
「えっマジ?」
「またんかあああああああああああああああああっっっ!!?」
 思わず大声でツッコミつつ、志貴は全力で坂道を駆け下りていった。。

  * * * * * *

 はふはふ。
 ほふほふ。
「んん〜〜…まあまあ、ちゅうとこやな」
 とりあえず寄った公園のベンチで湯気の立つたこ焼きを頬張るキララに缶ジュースを手渡してやりながら、志貴は、げんなりと尋ねた。
「キララ。…お前、いつもあんな事やってんのか?」
「んふ〜〜〜?」
 もごもごと、口を動かしながらキララが言う。
「いつもやないよ。たまーにしかせんて、こんなこと」
「たまにもするなっ!犯罪だぞこんなもん!何より…お前、こんなことやってたら、いつかお遊びじゃすまなくなるぞ!」
「大丈夫やて。ウチかてその辺はちゃーんと考えてるさかい」
 そう言って、キララは携帯電話を取り出して見せた。
「ボタン一発でウチの連れがバイクでバビューンって駆けつけてくる寸法や。そこらのヤクザかてマコトにはかなわんさかい」
「…か、確信犯…!つか、タチの悪いお子様美人局…」
「つつもたせ…?なんやそれ?」
「自覚ないし。…まあ、そのうちわかるよ」
 ふーん?と、あまりわかってなさそうな声を上げてオレンジジュースに口をつけるキララを見て、志貴はため息をついた。
 見回せば、既に辺りはほとんど日も落ちて暗くなっている。
「なあキララ。お前どこに住んでるんだ?早く帰らないと、家の人が心配するだろ」
「…家なんかないもん」
 その言葉に、志貴は思わずキララを見直した。
 その、少し不機嫌そうな顔に視線を固定したまま、言う。
「お前って…やっぱり家出少女?」
「やっぱりってなんやねん!…ウチは今日、この町に来たばっかで、まだ住むところ決まっとらんだけや!!」
「来たばかりって…?」
「あー。ウチは、まあ言うたら流浪の旅人?ってやつ?マコトと二人で日本中、旅してまわっとるんや」
「マコト?旅して回ってるって…」
「マコトは、ウチの…ねーちゃんみたいなもんや。で、マコトの仕事の都合で、あちこち回っとる。この町に来たのも仕事やねん」
「仕事…って。よくわからんが、とりあえず、お前学校はどうしてるんだよ?どう見たってお前、まだ義務教育済んでないだろ」
「うっさいなぁ。…まあ、そら、いつもいつも旅してるわけやないし。仕事の都合で一つの町に長くおる時は地元の学校に通うしな」
 空になったたこ焼きのパックを袋に詰めて、ベンチの傍らにあったゴミ箱に捨てると、キララはつまらなそうにまたベンチに座った。
「まあ、この町に長居するかどうかは、まだわからんけど。とりあえずはホテル住まいやってマコト言うとったし。まだ前の学校から転出手続しとらんし、早く事が片付けば、前の町に戻って次の仕事があるまではおとなしくしとることになるやろ」
「…あんまり聞いちゃいけない事かもしれないけど…その、マコトさん?何をやってる人なんだよ?」
「へへー」
 にかっ、と笑って、キララはチッチッ、と指を振った。
「秘密や」
「…まあそんなことじゃないかと思ったけど。
 でもな、最近、この町は物騒なんだぞ?何だか最近、通り魔がうろついてるって話だし」
 以前この町を騒がした、「連続吸血鬼事件」は、既に解決している。公には迷宮入りになってしまっているが、その犯人たる、比喩ではなく文字通り本物の“吸血鬼”は、既に亡い。
 …志貴の手によって。
 だが、それとは別口で、最近この町に通り魔事件が連続して発生している。今のところ死者こそいないが、それでも重軽傷者が8名、出ている。
 目撃証言によると、犯人はナイフか包丁のような刃物を持った二十代くらいの男とのことで、人気の少ないところを選んで無差別に犯行を重ねている。犯行そのものは確かに凶悪だが、しかし、これは吸血鬼がらみではない、ただの一般人によるものだろうと、アルクェイドは笑っていた。
 確かに「死徒」やその配下の「死者」であれば、怪我などでは済まないだろう。恐らくは、一時期増加した“ルナシィ”と呼ばれる、突如精神に変調を起こした者によるものだろう、という公式見解は、まず間違いあるまい。
 …通り魔を一般人と分類してしまうのも何だか変な気がしたが、確かに手口から見てもありふれた(という表現もまた妙なものだが)通り魔事件であり、警察に任せておくべき事だと志貴は思っている。
 常人の世の出来事は、人の手に任せておくべきだと、珍しく秋葉とアルクェイドの二人が口を揃えて釘を刺してきたことでもあるし。
「大丈夫や!ウチには流星パンチちゅう必殺技もあるし!」
「…やっぱりパンチ力並みのキックなのか?」
「にーちゃんもしかしてサトリか?」
「なんだよソレ?」
 はあ、とため息をついて志貴は立ち上がった。既に日は沈み、空には月が浮かんでいる。もうかなり遅い時間だった。
「とにかく、いつまでもこんなところにはいられないだろ?その、マコトさんに連絡とって迎えにきてもらったらどうだ?その間、そうだな…ウチに来てもいいし」
「ええよ。そこまで迷惑かけられん。どっかコンビニか、24時間営業の本屋で立ち読みでもしながら待つわ」
「んなことしてたらお前、補導される――」

 カッ―――――

 音はしなかった。だが、唐突に、一瞬に、視界が青く染まった。
「―――月が!?」
 天を仰ぎ、そこに二つの月を見出して、志貴はわずかな間だが混乱した。その瞬間…という言葉にすら当てはまらない、ほとんど無に等しい時間。
 二つのうち、蒼い月が輝きを増した。
「凍夜…」
「え?…キララ?」
 奇妙に静謐に満ちた世界。
 目に映る、全てがほのかに蒼く染まった世界。
 ――真月。
 三年程前、突如現れた第二の月を、いつしか人々はそう呼ぶようになっていた。
 目に見えながら、しかし如何なる手段、機器を用いても、その存在を確認・証明できない幻の月。
 出現当時は世界中から注目を受け、様々な混乱と社会現象と新興宗教を生み出したが、今はただ在るだけの無害な、当たり前の存在として受け入れられてしまっている月。
 そして現在では、出現した時と同様、不規則に出現と消滅を繰り返している。
 それもここ最近はすっかりその姿を見せなくなり、たまに現れても以前に較べてその光も薄まってきているようでもあったが…それもさして話題にもならぬほど、ありふれた存在。
 その真月が、今は怖いほどに蒼く美しく輝いている。
「――離れたらあかん」
 ぎゅっ、と自分の袖を掴んでくるキララが、幼い声に緊張を込めてきた。いつしかその手は、胸元にかかっていた、奇妙なペンダントを握り締めている。
 一見、十字架に似ているが…?
「にーちゃん。死にたくなかったら、ウチの傍から離れたらあかん」
「死…って、キララ?」
「黙っとき!――あかんなぁ、こんな見晴らしのいい場所…人気もないし…にーちゃん、手遅れかもしれんけど、はよ人通りの多いところに出よ!」
 何が何だかわからないが、その意見には賛成して志貴は手を貸して――というより、自分の袖を掴んで離さないキララを連れて歩き出した。
 何だかわからない。
 だか、何かが異常で、そして危うかった。
 志貴の直感が、生物としての原初的な本能が、警報を鳴らしていた。
 まだ幾らも歩かないうちに。
「ニャーン」
「…ネコ?」
 滑り台の影から、野良猫らしい貧相なブチ猫がヨロヨロと二人の方に歩み寄ってきた。
 愛想のつもりか、長いシッポをゆっくりとうねらせている。
 今、このような時でなければ少しくらいかまってやっても良いのだが…。
「あかん!」
 キララの叫びに、反射的に志貴は足を止めた。
 同時に、何か回転するものが自分の鼻先を掠める!
「…!?」
 キララの制止に咄嗟に立ち止まり、僅かながら後ろに仰け反らなければ自分の顔面が破壊されていた。それを理屈ではなく肌で感じ、志貴は慌てて「それ」から更に距離を開けた。
 異常な速度とパワーで自分に飛び掛ってきた、ネコと。

 ぼこり。
 ぐりゅり。
 ぎゅる。ぎゅる。ぎゅる。ぎゅる。
 ぎゅる。

 原形は、ネコの姿を留めている。
 だが、背中から、まるでナイフのように尖ったヒレを、自分の肉を破って次々と生やしてゆくネコなど、存在するはずがない。
 存在していいはずがない。

 ぎゅるり。

 肉を裂く、嫌な音を発して刃がついたヒレ――刺でも角でもない――が伸びる。血と、膿汁を滴らせて。
 不快。
 そのネコが、撥ねた。
「このー!」
 咄嗟にキララが投じた、まだ中身の残っている100%果汁ジュースの缶が空中であっさり両断される。だがオレンジジュースの飛沫は、タップリとネコにかかった。
「ギャン!」
 オレンジジュースは飲料であるが、弱いとはいえ酸である。目に入れば、強烈な痛みで目の弱い粘膜を灼く。不可思議な存在とはいえ、まだネコの原形を留めている部分は本来の生物としての常識が通じるようであった。
「逃げろ!」
 逆方向――公園の反対側の出口に向かって、志貴とキララは走った。
「なんなんだありゃ?…死徒の使い魔ってわけでもなさそうだが…」
「――にーちゃん、なんか意外に落ちついとるな?」
「…まあ、こういうバケモノには多少の縁があってね。それよりキララ、お前の方こそ…やっぱり何か訳有りってことか?知ってるんだろあれが何だか?」
「光狩や」
「ヒカリ…?」
「ウチも難しいことは知らん。平とう言うたらバケモノや。真月の光に住む。
 そして、人間の暗い心に憑く。動物にも憑くけどな。でも、人間の、くらーい心や悪い奴に憑いた方が強いらしいって」
「…………」
 とりあえず黙って聞く志貴に、キララは自分の胸元のペンダントを見せた。
「光狩は人間に憑いて悪さしよる。この町に光狩憑きの仕業らしい通り魔…“ルナシィ”が出てるゆーんでマコトはここに来たんや。…まさか着いたその日にご対面、なんて思っとらんかったけど」
「成る程。…シエル先輩みたいな人なんだな」
 つい一週間ほど前から、調べ物があるということで町を離れているシエルを思い出し、志貴は嘆息した。今、この場にいてくれたらこれほど頼もしい人もいないのだが。
 だが、今は自分がこの子と自分自身を守らなくてはいけない。
「うわうわうわっ!」
 突然悲鳴を上げてキララが急ブレーキをかける。それに2,3歩遅れてキララを少し引き摺りつつ、志貴も何とか立ち止まった。
 公園の出入口前は、触手の海と化しつつあった。
 腸のような、ミミズのような、ヘビのような、ブラウンピンクの厭らしい醜悪な管が、分裂と増殖を繰り返し、粘液を滴らせながらこの公園全体を覆い尽くさんばかりの勢いで増えてゆく。
「なっ…なんなんだよこれ!?これも光狩か!?」
「ザコや。でも、ザコもこんだけ集まると厄介やな〜」
「な、なんで誰も気づかないんだ?こんな大事になってるのに!」
「…光狩は普通の人間には見えへんし、触ることもでけん。何よりこの凍夜の結界や」
 蒼く染まった公園を示して、キララは顔を顰めた。
「光狩は真月の光の中でこそ、パワフリャになるんや。ある程度強い光狩なら真月に働きかけて、結界を作り出すことができるんや。
 テレビのヒーロー物なんかであるやろ?何とか時空とか不思議空間とか。そんな感じで、この中では何をやっても全然オッケーなんや。フツーの人間にはなーんもわからんくなる」
 さっきからずっと握り締めているペンダントを、更に強く握り締めてキララは迫る触手の海から後退った。
「ウチらはこの護章があるから光狩を見ることができるけどな」
「…その護章、バケモノ避けの力とか無いわけ?」
「そんなもんあったら苦労せんわ。…ウチは火者やないんやさかい」
「まあそうだろうけど。…下がって!」
 後ろ手にキララを庇う。同時にメガネをずらし、そしていつもポケットに入れている「七つ夜」を志貴は抜き出した。
 カシャン、と小気味の良い音を立てて刃が柄から飛び出すと同時、志貴は自分たちに向かって飛んだ、幾本もの触手が寄り合わされた太い触腕の「死点」に刃を突き立てた。

 バラッ…!

 触腕が解け、バラけた触手の一本一本がボロボロになって朽ち果ててゆく。
 だが、志貴はそんなものには一顧だにせず、間髪おかず伸びた左からの触腕の「線」に沿って刃を滑らせた。触腕は簡単に、先端から三つに分断される。
「ひゃっ!?」
 一瞬の遅滞もなく刃を返し、横合いからキララに絡み付こうとしていた触手を数本、まとめて志貴は両断した。
 その間、一呼吸。
「な…なんなんやにーちゃん!?にーちゃんも…火者なんか!?」
 志貴が手にするナイフはごく小さなものである。人の胴ほどもある触腕をあっさり両断できるような代物ではない。それがまるで豆腐でも切るように…いや、まるで最初からそう決まっていたかのように、光狩は切り裂かれていた。
「…切りがない。移動しよう」
 返事の暇も与えず、志貴はキララを引っ張った。そのまま志貴は、今までずり下ろしていたメガネをちゃんと掛けなおす。同時に、周囲のもの全てに見えていた「死」が、隠される。
 生命・非生命を問わず、その“死”そのものが見えてしまう、直死の眼。
 自分の存在するこの世界そのものの死すら。
 常に死を見続けることに、本来見えざるものが見えることに人間は耐えうるものではない。今、ほんの少し「死」を見ただけで、負荷のかかった脳は鈍痛を発している。
「…とりあえず、打開策が欲しいな。知ってることがあったらどんなことでもいい、教えてくれないか」
「えーっと…」
 再び公園の中央に戻りながら、キララは少し考えてから言った。
「とにかく、もうマコトはここに光狩がいることに気づいてるはずや。結界張るのをマコトが見逃すはずがないし。だから、もう少しだけ踏ん張れば、マコトが来てくれるはずや」
「そいつは心強い。――でも、その少しだけ、が中々大変そうなんだが」
 きょとん、と志貴の顔を見上げ、キララは不思議そうに口を尖らせた。
「にーちゃん強いやん!ザコの光狩なんか全然問題にならへんし。
 ウチの知り合いにも色んな力持っとるんがいるけど」
「それが“火者”って奴か?マコトさんって人ももそうなんだ」
 火者。
 古来より光狩を討つことを生業とする者達の総称である。生来、特殊な能力者を輩出する一族で、その中でも赤い瞳を持つ者は特に強力な力を有している。
 だが、キララの知る火者――さして多い数ではないがいずれも火者として優秀な者達――の能力と比べても、志貴の能力はズバ抜けていた。
 治癒能力である「繕い」。
 事前に自らに向けられた攻撃を察知する「重ね」。
 他人の心を読む「サトリ」。
 常人の数倍の筋力を発揮する「金剛力」。
 それらの中で一番志貴の能力に近いと思えるのは、物質の破砕点を見抜く「貫目」だが、似ているようで実はまるで次元が異なるようにキララには思えた。
 そして。
「マコトは生粋の火者やけど、でも…」
「つまり、俺が言いたいのはこういうことなんだけが」
 キララの言葉を遮り、同時に志貴は立ち止まった。
 蒼々とした月光の下。
 先程まで志貴達が居た中央の広場に、一人の男が立っていた。
 だらしなく着崩したヨレヨレの衣服。
 伸ばし放題の髪。
 血色が悪く、やや痩せた顔。
 その右手の包丁と、両眼だけがギラギラと鈍く輝いていた。
「ここに結界が張られているのなら、当然それをやった奴が居る、ってことだよな」
 キララを庇って静かに前に出ながら、志貴は構えた。
 構えといっても大仰なものではない。ただ、いつでも動き出せるように、心を静め余分な力を抜く。ただそれだけのものである。
「ウチの知っとることは受け売りばっかやけど」
 乾いた声で、そっとキララが囁く。
「光狩は、基本的に何でもアリや。知能なんてカケラも無いけど、人間に憑りついた場合、ヨリシロになった人間の性格や技能で行動パターンや能力に影響が出るって」
「…よくわからないが、一つだけ。一番大事なコト」
 硬い声で、半ばは確認するように志貴は尋ねた。
「あれは、人間なんだな?化け物に憑依されているけれど、れっきとした、まだちゃんと生きている、人間なんだな?」
「う、うん…」
 正直、今自分の前にいる光狩憑きの男は、かつて相対したことのある『死徒』に較べて怖い相手だとは思えなかった。どんな能力があるのかは不明だとしても。
 おおよそカタチのあるモノで、遠野志貴にコロセないモノは無いのだ。
 だが…

 ヒュン!

 何の前触れもなく、無造作に襲い掛かってきた銀色の閃光を志貴はかわした。更に続く弧の軌跡を紙一重でかわしてゆく。
 男の身体能力は人間の限界を軽く超えていた。だがそれくらいのことは死徒との戦いで経験済みである。どんなに速い動きでも、「線」は見える。そして自分がそれを見逃すことは、決してない。

 ちんっ。

 志貴のナイフと擦過した男の包丁が、涼やかな音を立てて切れた。包丁に走る「死の線」を切ったのである。
 その不可思議な現象を気にもせず――あるいは理解できず、疑問に思う知能も無いのか。
 男は柄を投げ捨てて素手になった。全く臆することなく。
人間としての心など、もはや全く残ってはいないのだろう。
 だが、それでも。
「キララ…光狩に憑かれた人を元に戻すにはどうしたらいいんだ?」
「そんなん…ようわからん。ある程度、痛い思いをさせればとり憑いた人から逃げ出すことはあるそうやけど…あるいは何かの呪文とか」
「痛めつける…か」
 志貴の眼はソレが最初から内包している死、崩壊する未来を視ることができる。
 点、そしてそこから伸びる線として表れる死を突き、切ることで過程を無視して結果だけを出すことができる。
 そして死に手加減はない。中途半端な死など無い。死は死であり、停止であり、存在の喪失である。
 死なない程度に殺すことなどできはしない。
 だが、たとえ正気を無くしていても、バケモノにとり憑かれているとしても、人を殺したくなどなかった。
 偽善であることはわかっている。
 遠野志貴は世界で一番、殺しが上手で。そして既に自分は殺人という禁忌を犯している。
 相手が本来の生命種とかけ離れた吸血鬼であろうが、その吸血鬼に殺められてなお、汚れた仮初めの命を注がれて使役される死者であろうが、殺さなければ殺されるという最も基本的なセオリーに従っただけだとしても。
 自分がヒトをコロシタことは、ひどく単純な事実であった。
 だが、それでも、殺人という行為を肯定したくはなかった。
 どんなにそれが欺瞞に満ちた、意味の無い誤魔化しであったとしても、殺人だけはやらないという最後のラインを固持したかった。
 それを肯定してしまったら、相手の全存在の否定という、一つの生命の、一つの意思を持つ者に消滅を強いる最大の暴力を容認してしまうことになる。
 志貴は光狩にとり憑かれてしまった男を見た。
 自分を殺そうとしているモノを見た。
 そして、冷静さを失わないよう心がけながら考える。
 この状況を打破する方法を考える。
 あまり時間はかけられない。周囲からはヒタヒタと、形を維持できない、力が弱いとはいえ無数の光狩が迫る気配を感じる。目の前の、この凍夜を作り出した光狩憑きを無力化するのが一番の早道だ。
 自分と、キララの身を守りながら。
 相手を殺さないように。
「…とり憑いた…光狩だけを殺せるか?」
 そう自問自答しながら、全身に冷たい汗が流れるのを、志貴は感じていた。



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