『藤田家のたさい』外伝

柏木家の幸せ〜月夜に流れる鎮魂曲(レクイエム)〜

第三章 涙、落つ




 耕一が叫んだ瞬間、彼の頭の中を、先ほど柳川に見せられた殺戮の光景が駆け
めぐった。
 血。
 死体。
 叫び。
 快楽。
 狩猟者としての快感が、耕一の理性に襲いかかった。

「グ、グオオオォォォ……」
 耕一の雄叫びがあたりにこだました。
 それとともに耕一の服は破け、彼の体は一回り大きくなった。
 柳川はぴたりと立ち止まると耕一の方を見、うれしそうな声を出した。
「ん? おお、ようやく、ですね」
 一方、耕一のただならぬ気配に気づいた楓ははっとして耕一を見た。
「こ、耕一さん……その姿は……」
 耕一の姿は完全に人間ではなくなった。
 金色に光る目。
 頭に生えた角。
 全身を包む鋼のような毛。
 昔話に出てくる鬼の姿がそこにあった。
「グルルルル」
 耕一はゆっくりと柳川に近づいた。
「耕一さん、まさか、鬼の力に心が? お願い、耕一さん。鬼に負けないで!」
 楓の声に反応して耕一はぴたりと立ち止まり、楓の方を向いた。
「オ、オンナ……エ、エエエモ、エモ、ノ……」
  耕一はゆっくりと楓の方に歩き出した。
「オ、オ、オオオオオォォ……」
「こ、耕一、さん……そんな、いや……」
 楓の声が耳に届いた瞬間、耕一は立ち止まった。
「ググ、グ、ググググ」
 耕一は頭を押さえて苦しみだした。

 ――本能ノ赴クママニ生キロ!
 頭の中を駆けめぐる狩猟者としての本能。
 ――耕一さん、鬼に負けないで!
 心に届く楓の祈り。
 ――ここ、これが、親父や、おじさんを殺した、鬼、の本能か……けど……ま、
けて、たまる、か……!
 耕一は心の中で必死に鬼の本能と闘い始めた。
「お願い耕一さん!」
 楓の声が再び祈りとなって耕一の心に届いた。
 だが、それを邪魔するかのように、鬼の本能は耕一の心に襲いかかった。
 ――ドウシタ、マズハソコニイル女カラ狩レ! 本能ノ赴クママニ犯セ!
 ――う、うるさい、俺に指図するな! 俺の心から出て行け! 俺の心の中に
いていいのは、千鶴さんと梓と楓ちゃんと初音ちゃんだけだ!
 ――オ前ハエルクゥダ! ソノ誇リヲ忘レタノカ!
 ――違う、俺は耕一、柏木耕一だ! 貴様の好きにさせるか!! 俺の心も、体
も、俺の物だ――!! 
「グオッ! グオッ! グオッ!」
 耕一は座り込むと、頭を激しく地面にぶつけ始めた。
「どうすればいいの、私は耕一さんに何ができるの……」
 楓は悲痛な顔で耕一を見つめていたが、柳川はニヤニヤとうすら笑いを浮かべ
ていた。
「あきらめればいいのに。しょせん、鬼の力を精神力で押さえるなんて無理なん
ですよ。さあ、さっさとあきらめて、本能に身も心をゆだねるんです!」
 楓たちが見つめる中、耕一の行動はさらに激しさを増していった。
「グウウゥォォオオオオ――――!!」
 ズズズズ――――ン。
 雨月山全体に響くほどひときわ大きな音を立てて、耕一は地面に頭を打ちつけ
た。

 ビキキキキキッ!!
「…………」
 地面に無数のひびが入り、耕一はそのまま動かなくなった。
 その様子に楓は顔を真っ青にさせた。
「ま、まさか……」
 やがて、耕一はゆっくりと立ちあがり、楓を見た。
「大丈夫、だ、か、楓ちゃん。俺は、耕一だ……鬼に、負けてない」
 耕一の声を聞いた楓は思わず涙で瞳を潤ませた。
「耕一さん!」
「ほう、鬼の力、制御できましたか。とりあえずはおめでとう、と言っておきま
しょう」
 柳川は怪しい笑みを浮かべながらぱちぱちと拍手をした。
 その声に反応して耕一は柳川の方を見た。
「柳川。貴様の命、俺が……狩る!」
 爪を伸ばした耕一は柳川に飛びかかった。
「おもしろい」
 耕一の動きに合わせて、柳川も耕一に向かってジャンプした。

 ガギ――ン。
 空中で二人が激突した瞬間、金属と金属がぶつかるような音がし、何本かの爪
が宙を舞った。
 二人は互いに少し離れて地面に着地し、相手の方を向いた。
 やがて耕一がゆっくりと口を開いた。
「柳川、俺の勝ちだ」
「おぉ……」
 柳川は自分の両手を見た。
 彼の両手の爪は、ほとんどが折れており、かろうじて残っている爪も、ぼろぼ
ろになっていた。
「すばらしい。これが、次郎衛門の魂を受け継ぐ者の力……」
「はっきり言う。貴様が完全に鬼の姿に変身したところで、俺に勝つことは不可
能だ」
 柳川はにっこりと笑みを浮かべてうなずいた。
「はい、そうですね。確かにあなたの言うとおり、今の私が完全に鬼に変身して
も、とても勝ち目はありません。おそらく一分で殺されるでしょう。ですが、本
当に私があなたに殺されると思いますか?」
 柳川は折れた爪を自分の手につけた。
 すると、じょじょにその爪は修復されていった。
 その様子を見て、耕一はいまいましそうにつぶやいた。
「くっ……化け物め」
「お互い様ですよ。とにかく、私がすんなりとあなたに殺されることは絶対にあ
りえません。なぜなら、私には、ちゃんととっておきの奥の手がありますから」
「奥の手?」
「そう、奥の手。最強の鬼であるあなたをも上回る力を持つための奥の手。くく
く、さあ亡霊さん、いきますよ」
 柳川の頭上にエルクゥの亡霊が現れた。
「次郎衛門、我らの力の全てをこの男に託す――。これで全てが終わる――!」
 亡霊は柳川の体に入っていった。

 そのとたん、柳川の体が一回り大きくなった。
 目が血走り、彼の体は鬼へと変化していった。
「く、なんだ、この力は!」
 大きくなったのは体だけではなかった。
 柳川の体から出る闘気がその質、量ともにとてつもないものになっていった。
 その闘気のすさまじい力は台風のようにあたりの木々や、雨月山全体を揺らし
ていた。
「千鶴姉、なんだよ、あれは!」
「わかるわけないでしょう!」
「お兄ちゃ――ん!」
「あんな奴が存在するなんて!」
 耕一と柳川のやりとりの間になんとか体力を回復させ、木の影に隠れていた千
鶴たちは、そばの木につかまってかろうじて吹き飛ばされないでいた。
「くくくく……はぁあああ――!!」

 一瞬、時が止まった。
「……とまった……」
 柳川の体が完全に鬼に変わると、先ほどまでの騒ぎがうそのようにあたりは静
まり返った。
 しんと静まり返った中、柳川はゆっくりと口を開いた。
「くくく、どうです、これが私の奥の手です。さあ耕一君。さっきあなたが言っ
たせりふをお返ししましょうか。あなたが私に勝つことは、不可能です」
「黙れ!」
 耕一は爪で柳川に斬りかかった。
 だが、耕一の爪は柳川の体に跳ね返された。
「そ、そんな!」
「何度も言わせないでください。私の勝ちです」
 と、柳川が言うと同時に、彼の爪が耕一の体をかすめた。
 耕一は必死で体を反らして、なんとか爪の直撃を逃れた。
「へへ、まいったな。完全に形勢逆転か……」
「その通りです」
 再び柳川が爪で斬りつけたところを、耕一はジャンプしてかわした。
「そうはいくか!」
 だが耕一が安心した瞬間、柳川は耕一の背後に飛び上がっていた。
「しまった!」
「遅いですね」
 グザッ。
 耕一の背中に爪が突き刺さった。
「ぐはっ」
 柳川は耕一を串刺しにしたまま、耕一を地面にたたきつけた。
「が、がはっ……」
「ふん」
 耕一から爪を引き抜くと、柳川はその傷口を踏みつけた。
「あ……ぐ、ぐああああああ!!」
 雨月山に耕一の叫びが響いた。

「耕一さん!」
 千鶴たちは動けなかった。
 動きたくても柳川の闘気に圧倒されて、足がすくんでいたのだ。
 彼女たちは自らの力のなさを嘆いた。
「ちくしょう! どうしてあいつがあんなに強いんだよ! 耕一が最強のはずな
のに、どうしてあいつの方が強いんだよ! 千鶴姉、あたしたちはなんにもでき
ないのか! 耕一があんなに苦しんでるのに、あいつのためになんにもできない
のかよ!!」
「そ、それは……」
 梓に詰め寄られた千鶴は辛そうに口ごもった。
 柳川は耕一を踏みつけながら、会話を続ける千鶴たちをいまいましげに見た。
 ド――ン!
「きゃ――!!」
 突然、千鶴たちが立っている場所の地面が吹き飛んだ。
 柳川が衝撃波を飛ばしたのだ。
 しかもその威力は、一発で千鶴たち四人を吹き飛ばし、その体を傷つけるほど
強いものだった。
「う、うう……」
 四人は地面に倒れながら、苦しそうにうめいていた。
 柳川が四人を見て冷たく言った。
「うるさいですよ、静かに見ていてください。あなた方の愛する男の死ぬところ
を」
「み、みんな……ぐぅおぉぉ」
 柳川は再び耕一の背中の傷口を踏みつけ始めた。
「耕一君、あなたは彼女たちよりも自分の心配をしてください。まあ、それもむ
だですけどね。そら!」
「ぐぎゃはっ」  
 柳川が足に力を入れるたびに、耕一の口から叫び声が漏れた。
 さらに柳川が十回ほど耕一の傷口を踏みつけたとき耕一の変身が解け、彼の体
は人間に戻った。
 柳川は、耕一から足をどけた。
「おや、もう力つきたんですか。あっけない人だ」
「うる――さい。俺――はどんなことがあっても――貴様をた、倒す」
 柳川を見上げた耕一は必死で柳川の足をつかんだ。
 柳川はそんな耕一をバカにするように見た。
「まだ動けるんですか、よくやりますね。いったいなんなんですか、あなたをそ
こまで突き動かす物は。正義の心ですか? それとも――」
 耕一はそのまま柳川にしがみついて、起きあがり始めた。
「みん、みんな――とやくそ――く、したん――だ。絶対――きさ、まを――倒
す――って。それに、おや、じに、誓った――んだ――。みん、なを――まも、
守る――って。だか、ら――俺は――」
「ふん、やはり」
 ズスッ。
 柳川は耕一の腹に爪を突き立てた。
 爪は耕一の体を貫いた。
「ごふっ……」
 口から血を吐いた耕一は、苦しさに声を出すこともできずに地面に倒れ込んだ。
「彼女たちへの想い、ですか。ですがね」
 グッ。
 柳川は、耕一の頭を踏みつけた。
「これでどうやって彼女たちを守ると言うんですか。やれやれ、なまじ想いを寄
せる相手がいるから、心の拠り所があるからこんな惨めな姿をさらしてまで闘わ
なければならないんです。よし、私がその相手をなくしてあげましょう」
「な、んだと」
 耕一はゆっくりと柳川を見上げた。
 しかし、柳川は耕一を無視して千鶴たちの方に歩いていった。
「やめろ、柳川……」
「それは無理な相談です。何度も言いますが、私にとっては、あなた方五人は全
て邪魔な存在なんですよ。どうせ全員死んでもらうんです。それに力なき故に愛
する人を守れなかったという現実に対し、あなたがどのような顔をして哀しむの
かも知りたいですしね。友によく似たその瞳に宿る哀しみ、楽しみです」
 柳川は倒れている梓の頭をつかんで持ち上げた。
「梓!」
「耕一――あたし、は大丈夫、だから――あん、たのけが、よりも――まだ、ま
しだよ。だから、しん、ぱい――しない、で」
 梓は弱々しく微笑んだ。
「くくくく、すばらしい夫婦愛ですね、こんな状況でも互いを心配しあうなんて。
ま、それもここまでですが……まずはこの方からです、死になさい」
  柳川はゆっくりと梓をつかんでいる右手に力を入れた。
「く、あぁ……こ、こういち……」
 耕一は梓の小さな叫び声を聞きながら、唇を強くかんでいた。
「梓! ……なぜ――なんだ、次郎衛門。なぜ俺には――あいつを倒せない、あ
いつ以上の力がない――んだ。頼む、おし、え――てくれ次郎衛門。どう――す
れば、あいつ――を倒せるんだ、このままじゃ梓――が、みんながし、死んで、
しまう……」
 耕一の目にうっすらと涙が浮かんだ。
 十五歳のときの、母の病死。
 耕一にとって、そのとき以来初めて流す涙だった。

 柳川はさらに少しずつ梓の頭を握る手に力を込め始めた。
「辛いでしょう、悔しいでしょう、耕一君。くくく、もうすぐこの女性の命の炎
は消えます。そして、残り三人の女性の命の炎も、すぐに消えることになります。
くく、さあ、しっかりと見てください、耕一君。愛する人たちの死を。そのとき
あなたは知るんです、力なき者の想いなど、しょせんは哀しみを産むだけの、む
だな物だということを!!」
「く……あぁぁ……」
 梓の声は、今にも消えそうなほど小さくなっていった。
「だめ、だ、梓。し、死んじゃ――だ、め――だ。く、くそっ――なに――が、
最強のお――にだ、最、強の力だ。みんな――を守れない、こんな力なんて、あ
って――もしょうがない――じゃないか。このまま、じゃ、みん――なを、守れ
ない。もっと、力――が、みんなを、守れる力――が欲しい――のに、くそっ、
こ――れ以上、力、が出――ない。死ぬな――死ぬな、梓。死な――ないで、く
れ……」
  耕一の目に浮かぶ涙は、徐々にその量を増していった。
 やがてその涙は目からあふれ始めた。

  目からあふれた涙はつ――っと頬を伝わり、
 ポタッ。
 一滴、地面に落ちた。
 その瞬間、耕一の体が浮き上がった。
「か、体が、え? え? う、ぅう、うわ――――!!」

 耕一の体が一瞬、激しく光を発した。
 そして、それに呼応するかのように、どこからかやって来た光が耕一の体に降
り注いだ。
 光がやって来た方向を見た楓が叫んだ。
「あれは、次郎衛門の墓のある場所!」
 耕一に降り注いだ光は徐々に多くなり、やがて完全に耕一の体を包み込んだ。
 耕一の気配に気づいた柳川は耕一の方を見た。
「ほう、これはおもしろい……ん?」
 耕一の体を包んだ光の一部が徐々に矢の形になった。
 矢の形になった光は、まっすぐ柳川の方へ飛び、彼の右肩を貫いた。
「ぐぉ!」
 柳川は激痛にたえきれず、梓を落とした。
「な、何が、何が起こったというんですか!」
 柳川の肩を貫いた矢は、すぐに消えた。
「おのれ!」
 柳川は耕一に飛びかかったが、あえなく光にはじき返された。
「な、なんだというんですか、あれは!」

 ピカ――ッ!
 光は一瞬、大きく輝いたあと消えた。
 耕一がいた場所には一人の鎧を着た人間が立っていた。
「あなたは、耕一君、なんですか……?」
 その人間は見たこともない格好をしていた。
 その身を包む、戦国時代の武士が着ていたような形をした銀に輝く鎧は、全身
を完璧に覆っていた。
 胸などを守る銀色の金属。
 各関節を包むゴムのような黒い物質。
  顔を覆う仮面。
 目の部分に張ってあるゴーグル。
 鎧はその人間の全身を完璧に覆っていた。
 さらに、右の腰には銃がつけられており、「鎧武者」というより、「戦士」と
いう言葉がぴったりと当てはまっていた。
 「戦士」は、一瞬消えたかと思うと梓の側に現れ、倒れていた彼女を抱きかか
えた。
「こ、耕一……」
「しゃべるな、梓」
 「戦士」いや「耕一」は傷ついた梓の顔や頭をいとおしそうになでると、傷口
に手を当てた。
 するとその手がぼんやりと光り、梓の傷は瞬く間に治癒していった。
「耕一……何を?」
「俺の生命エネルギーを少し分けて、お前の傷の治療をしている。それにこの光
には俺の『想い』もこめられている……だから、すぐによくなる」
「ありがとう、耕一……」
 耕一の顔は仮面とゴーグルに隠れて見えなかったが、梓にははっきりと自分を
見つめる耕一の優しい瞳を感じることができた。
 やがて梓は気持ちよさそうに目を閉じた。
 そのあと、耕一は千鶴たちの傷を治していった。
「みんなすまない、こんなに傷だらけにしてしまって。だが、もうすぐ終わる。
そこに隠れて見ていてくれ」
 全員の治療をすませた耕一は、柳川のいるところに移動した。
「…………」
「ん?」
 耕一はうつむいたまま何かを言った。
 だが、柳川にはその声は聞こえなかった。
 耕一は柳川に近づいて再び言葉を発した。
「やっとわかった。俺になかったものが」
「やはり耕一君、あなたでしたか」
「次郎衛門の力を受け継ぐために必要だったもの。それは、次郎衛門の全ての心。
五百年前、次郎衛門はエディフェルと、愛する人と出会ったことにより、様々な
感情を知った。喜び、怒り、そして……哀しみ。その全ての心を、想いを、俺は
知らなければならなかったんだ。俺はみんなと知り合ったことにより、人を愛す
る喜びを知った。みんなを傷つけた貴様の行動を目の前にしても何もできない自
分に、心からの怒りと悔しさを知った。そして今、梓が、みんなが殺されそうに
なったとき、愛する人を失う哀しみを知った。次郎衛門の想いの全てを知った」
 耕一はすっと顔を上げた。
「今俺は、次郎衛門の全ての心を知り、その力を手に入れた」
「そ、その姿は――」
 柳川の体の中から、エルクゥの亡霊の声が響いた。
「亡霊、貴様なら知ってるだろう。次郎衛門が身にまとっていた、貴様たちエル
クゥの宝ともいうべきこの鎧「希(のぞみ)」を。この鎧と次郎衛門の全ての力
を手に入れた俺は、何者にも負けない最強の戦士になったんだ!」
「おのれ、次郎衛門――」
 亡霊は悔しがったが、柳川は対照的に、にこにことしていた。
「くくくく、そうですか、最強ですか。ではその最強の力とやらを、見せていた
だきましょうか!」
 柳川は爪を伸ばすと、耕一に飛びかかった。
 それを見た耕一も柳川の方に向かっていった。

 カキ――ン。
  乾いた音が夜の雨月山に響いた。
 空中で激突した二人は、互いにすぐそばに降り立った。
 柳川はうれしそうに、耕一に向かって自分の右手を振った。
「先ほどは、私の爪が折れましたが、今度はほら、なんともないですね」
 耕一は振り返らずに答えた。
「左手はどうした」
「左手だってもちろん……な!」
 柳川が左手を振ると、その爪はぼろぼろと崩れ落ちた。
 しばらく左手を眺めていた柳川は、再び笑い出した。
「くくくく、なるほど。なら、これはどうですか!」
 空中に飛び上がった柳川は、無数の残像を作り出した。
「いくらあなたが強くなっても、私のスピードに、その鎧を着込んだ姿では追い
つけないでしょう!」
 柳川は、さらに残像を増やした。
 残像の数が三十にもなろうかというとき、柳川の残像全てが右手を構えた。
「……もらった!」
 三十もの柳川全てが、耕一に襲いかかった。
 バン!
「うわっ!」
 耕一に飛びかかった柳川は、身動きひとつしない耕一にはじき返された。
「な、なぜです? 私は確かに、あの鎧の隙間、黒い部分をねらったのに。しか
も、私がねらった部分から、2、3センチずれたような……まさか、耕一君がず
らした? あの部分は、私の爪が効かないほどの強度と、耕一君が自由に動ける
ほどの弾力性を持っているというのですか。しかも耕一君は背後にいた私の動き
を完全に読んだ上で、わずかに急所を外した……なるほど。くくくく」
 柳川が、ゆっくりと立ち上がった。
「くくくく、くひゃひゃ。ひゃはははははははは――――!!」
 柳川は、今まででもっとも大きな声で笑い出した。
 その笑いは、数分間も続いた。
「ひゃはは、はは、は、は……すばらしいですよ、耕一君。それにおもしろい。
こんなに笑ったのは、あのとき以来ですよ。あなたは本当にすばらしい人だ。私
をこんなにも楽しませてくれるんですから。強い敵はエルクゥの、鬼の狩猟本能
を満足させるこれ以上ないものです。さすがは次郎衛門の力を受け継ぐ者、とい
うわけですか……くく、では私も、その強さに対抗しなくてはいけませんね」
 柳川は両手を上に上げた。
「この世に満ちている全ての憎しみの心よ……私に最強の力を与えなさい!」

 柳川が叫ぶと同時に、彼の体は少しずつ大きくなっていった。
「奴は、まだ大きくなれるのか……だが、闘気はさほど変わっていない……なぜ
だ」
 耕一の言葉通り、柳川の体は大きくなっていたが、彼の闘気にはほとんど変化
がなかった。
 だが耕一の疑問をよそに柳川の体の巨大化は続き、ついに先ほどより一回りほ
ど大きくなった。
「いったい奴は何を……ん? これは……」
 耕一は柳川の頭上に巨大な黒雲が表れていたのに気づいた。
 パリパリッ。
 その黒雲の中では稲妻が光っていた。
 だがその稲妻は耕一の知っている稲妻ではなかった。
「黒い、稲妻だと……」
 黒雲の中では黒い稲妻が光っていた。
 いや、光っているというより稲妻が光を吸収している、と言った方が正しかっ
た。
 稲光の量は徐々に増えていった。
 やがてその稲妻は一つにまとまり始めた。
 パリパリッ、パリパリッ……。
「くる!」
 ズガガガガ――ン!!
 バ――ン!!
 耕一が叫んだと同時に、稲妻が柳川の体に落ち、その体が爆発した。
 あたりにそのとき生じた土煙がもうもうと舞った。
「…………!」
 土煙から顔をかばっていた耕一は何かに気づき、キッと土煙を見た。
 その土煙の中には一つの影が立っていた。
 その影を見た耕一は、自分に言い聞かせるようにゆっくりとつぶやいた。
「あれが、柳川の最後の変身」



<つづく>


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