明石原人と直良信夫先生



こちらのコーナーでは直良信夫先生の学績のうち、明石原人について調べたものを載せております。

明石原人は明石旧人だった。ついに実証された洪積世人類の存在!

 兵庫県明石市教育委員会は六日、同市藤江の藤江川添(ふじえかわぞえ)遺跡で、五万−十二万年前の旧石器時代の地層から打製石器を発掘したと発表した。石器が見つかった地層は、近くの海岸で明石原人の骨が見つかった地層と年代がほぼ一致し、東北地方で旧人が七万−八万年前に使っていたとされるほぼ同じ種類の石器が見つかっていることから、同市教委は今回の発見は明石原人が旧人であったことを裏付けるもので、原人か旧人かの論争に一応の決着がついたとしている。

 明石原人の骨は一九三一年、故直良信夫氏が発見したが、東京大空襲で喪失。当初は原人の骨と思われていたが、その後発見された地層を調べた結果、旧人の可能性が高まり、原人か旧人かなどで長らく学会の論争が続いていた。原人と旧人は、同様に狩猟生活をしていたが、脳の大きさや骨格の違いによって区別される。原人は更新世中期に属し、簡単な石器を使用したのに対し、旧人は更新世後期前半に存在し、進んだ技法による打製石器を用いたとされる。

[1997-10-06-19:18] 時事通信ニュース速報より

そのほかの新聞記事についてはこちらをどうぞ

直良信夫先生のご臨終

 直良先生について書かれた本は多いのですが、こちらの本は先生の長女で小説家の三樹子さんが書かれたものです。直良先生のご臨終の模様が詳細に描かれております。また、直良先生は相沢忠洋さんを終始応援されておられたという話も伝わっております。

直良三樹子 著

見果てぬ夢「明石原人」−考古学者直良信夫の生涯−
株式会社時事通信社 1995年

終章「明石原入」は「旧人」

旅だち

 父は静かに横たわっていた。酸素吸入の管を鼻孔に挿しこまれ、気道確保をするために頭をのけ反らした姿勢のまま、じっと動かなかった。昭和六十年十月二十九日、春江が看護婦にあとを頼んで、ちょっと物を取りに家へ帰ったとき、昼食を看護婦が食べさせてくれたのだが、そのとき父は食物を喉につまらせたのだという。顔色も変わってほとんど窒息死の寸前となったが、ようやくなんとか吸引器で蘇生したのだという。しかし、そのあとはまったく食べたがらず、ぐったりとなったままであった。それまでは毎日、食欲旺盛で、一日じゅう、大声でわめいたり、童謡をうたったりしていたのだが、ぴたりと大声を出さなくなり、身動きもしなくなったというのだった。八度からの熱が続いているので、看護婦がきて両わきにアイスノンを挿しこんでいく。熱が高いのは、もしかしたら嚥下性の肺炎をおこしているのではないかと、私は思った。それにしても不思議である。今朝はまだすこし元気があり、起きたときに春江の顔を見て、「おはよう」と言ったというのだ。昼夜の区別も、肉親の認識も、自分の置かれた状態の把握もなく、ただ妄想の世界で端の者を困らせていた父が、突然、死に瀕した事態に遭遇して蘇生したら、正常な意識が戻ったというのだ。私が父の名代で明石市での文化功労賞の授賞式に出席したことはわかっているというのだが、賞状を見せても視線をうろうろと走らせるだけで、なにも言わなかった。正午前ごろから容体が急変したということだが、ひとたび破壊された脳細胞が正常に働くことはあり得ないと思うのだ。私が娘の美恵子であることがほんとうにわかってくれているのだろうか?その疑間が胸を突き上げて、私はベッドの中に手をさしこんで、骨と皮だけの痩せた父の手をそっと握ってみる。すると思いがけないことに、かすかな反応があり、父の指が軽くからんできた。私の胸に、驚きと歓ぴが広がる。確かに応えてくれているのだ。しかしそっとそのままにしておくと、父の手から次第にカが抜けていく。そこでもう一度、私がカを入れてみると、こんどははっきりと、父もカを入れて握り返した。そしてしぱらくしてから、そっと手を引き抜こうとしたとき、あきらかな意思を持って、父はそれを阻止したのだ。私の指をあわてて押さえこんだのだった。これは確かに私がわかってくれて、最期の別れを言ってくれているのだ。首を落としてのけ反っていて声が出せないので、わずかに動く指さきだけで、意思の伝達をしているに違いない。そう思うと私は腕を引き抜くことができなくなった。早朝に着いた列車で、父の妹たち(私の叔母たち)が、東京や横浜や伊丹や宝塚から駆けつけたのだが、それも父ははっきりとわかっていた。父の意識が正常に戻ったことは大きな歓ぴだったが、しかし、事態は平常ではなかった。顔の相が変わってきていた。骸骨に皮一枚を被せたほどに痩せて、首を落とした姿勢のまま、窪んだ目でしきりに空に視線を泳がせている。日本人ばなれしていると自慢していた高い鼻が、かえって表情を倹しく見せていた。なにが見えるのか、なにを探しているのか、目は絶えずせわしなく動き、瞬くこともなくカッと見開かれている。顔色が次第に蒼ぐろく沈んできていた。やがて下顎呼吸が始まった。オシログラフに乱れが出て、脈博が減少しはじめた。私はしっかりと父の手首を握りしめ、脈をとり続けた。もう瞳孔が拡散しはじめて、反応は失われていた。オシログラフに平坦な波形が出、ときどきつまずいたような不整脈が躍る。父は口を開け、大きく目を瞠り、苦痛に満ちたように眉間に深い皺を刻む。そして、ふっと静かに瞼を閉じた。「ああ、目ぇつぶるわ」と、輝子叔母がつぶやいた。そのときひとつ、父はフーッと肩で大きな呼吸をすると、オシログラフは完全にゼロになった。昭和六十年十一月二日、十三時十八分。父は波乱の生涯を閉じた。八十三歳であった。脈がまったくなくなってしまった父の手を、それでも私はしぱらく握っていた。皺だらけの、柔らかい手であった。夢中で土を掘り返し、必死で原稿を書き続けてきた小さな手。しかし、私にとっては大きな大きな父親の手であった。

「明石原人」は「旧人」

 昭和六十一年三月二十九日、千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館において、発掘調査結果に関する研究発表会が催された。その席上、調査団長の春成秀爾助教授によって、発掘調査の際に得られた遺物の中に、人間によって加工された板状の木材片が含まれていたことが発表された。この木材片は、発掘現場の「明石原人」が埋もれていたといわれ、調査団によってX層と命名された、砂礫や粘土を合んだ地層に埋もれていたもので、長さ二三・四センチ、最大幅四・八センチ、厚さ四ミリ。春成氏によると、樹幹を縦割りして板状にしたあと、さらに両面を細かく削って仕上げており、すくなくとも二種類の石器が使い分けられているという。樹種はハリグワというクワ科の小高木で、現在の日本では絶滅種となっているが、中国や朝鮮では、弓や器具の材料としてよく利用されてきた樹木とわかつた。この木材片が含まれていた砂礫層は、前年の西八木海岸の発掘調査に参加した富山大学理学部の広岡公夫教授(古地磁気学)によって、同じこの日に報告発表があり、西八木層で得た約三十箇所のサンプルについて磁性鉱物の磁気方向を測定分析したところ、十一万年から十七万年前の地層という結果が出た。これによって、はじめて「明石人」の存在を裏づける生活の〃痕跡〃が見つかったことになり、「明石人」がネアンデルタール人級の「旧人」であることがほぼ確実となったのである。

 


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