これからはじめる銅鐸研究

 
(写真は復元鉄鐸、サナギ鈴ともよばれている、神長官守矢資料館蔵 写真提供 神長官守矢資料館)

銅鐸とは何だろう。

銅鐸 (どうたく)

 銅鐸は今も昔も、そのものが、地上から姿を消したときから、まったく正体はわからなくなってしまっていたのである。

 じつに、銅鐸は、久遠の冷笑をもって、日本の考古学界を嘲笑しているといっていいだろう。

こういう、発見・型式・製法・用途・埋没のすべてをふくめての、考古学界の最大の謎を、一介の学徒が、くい下ってみたところで、とうてい、その片鱗もわかろうはずがない、とは、私も思うのである。しかし、その常識とは別に、心の中には、それでもやむにやまれぬ衝動がある。それは、少年のころつちかわれた、美しいロマンチシズムからくるものなのかもしれない。それは鐸追求の本筋からは、脱線していることはたしかなのだが、すこし、私の述懐をきいてはもらえないだろうか。

藤森栄一先生 『銅鐸』学生社 昭和38年

インターネットでのぞける銅鐸研究

インターネットで銅鐸をみたい、という方はこちらのリンク集をご利用いただければ、居ながらにして数多くの銅鐸を見ることが出来ます。

   

銅鐸研究のあゆみ

 

はじまりは哲学者の提唱から

 1920年(大正10)哲学者であり、優れた歴史研究家でもあった和辻哲郎先生は銅鐸銅剣文化圏論を発表されました。この文化圏論は現在の青銅器文化圏理論の基礎となるもので、教科書などにも必ずあるあの分布図はこれが発祥となっているのです。

マッチが火をつけて消えてしまった銅鐸研究

 1927年(昭和2)梅原末治(マッチことうめはらすえじ)先生が『銅鐸の研究』を出すと一時、その議論が止まってしまいました。これは、あまりの見事な研究の成果であったがために、ほかの研究者が遠慮してしまったのです。この梅原マッチ先生の銅鐸集成は天敵で終生のライバルでもあった森本六爾先生も絶賛しておられます。

マッチへのライターの反撃

 そこへ反撃ののろしを挙げたのが小林行雄先生です。椿井大塚山古墳の一件以来、すっかり信頼関係が崩れてしまった、マッチ梅原とライター小林のコンビはついに学説上でも大きく対立するようになります。森本六爾先生の考えを発展し、銅鐸の原料は舶載銅利器の鋳潰しであるという説を発表したのです。そして、その出現年代についても弥生時代の前期である、という見解を示したのでした。

ライターでガスバーナーに火をつける

そして、1960年(昭和35)その小林先生に慫慂され、全く実物を見ないで写真だけで書いた論文が佐原真先生の『世界考古学大系』の中の論文だったのです。この中で佐原先生は画期的といわれた銅鐸をつり下げる紐(ちゅう)による分類を発表されたのです。ちなみに佐原先生のお名前は「真」ですから、佐原先生の説はつねに真説であります。(^o^)
 佐原真「銅鐸の鋳造」(『世界考古学大系』二・日本U弥生時代、平凡社 1960年4月)

杉原旦那のなぐり込み

 「 テェーへんだ、テェーへんだ、近頃京都一家の方で小林ライターの子分の佐原のシンが大変な研究をまとめたんだってぇ」登呂遺跡の発掘で自他とも認める弥生研究のボスであった明治大学の杉原先生は、自分が監修している『世界考古学大系』にふと、見慣れない名前の若造が銅鐸について発表しているではありませんか。「これは、いったいどういうことだ。この部分は小林ライターが書くはずではなかったか。」なんと、小林ライター先生は京都一家の番頭の佐原シン先生にこの部分を書かせたのでした。そして、杉原旦那に訂正されないように、直前まで自分が書くことにしていたのでした。「べらぼうめ、小林ライターの野郎やりやがったな。このやろう、なぐり込みだ、野郎ども、集まれ!!」杉原旦那の大反撃が始まったのでした。
 杉原旦那はすぐさま反撃論文を発表し、その中で銅鐸の年代を弥生時代後期前半に設定し、埋納を弥生時代終末としたのである。銅鐸の原料についても舶載の銅銭の鋳潰しであるという説を発表したのである。
 杉原荘介「銅鐸―その時代と社会―」(『駿台史学』22・1968年3月)

ガスバーナーから2口コンロへ 

 その分類、佐原シン分類を1970年(昭和45)佐原先生の学問友達でもあり、梅原末治先生の最後の弟子である田中琢先生が「キクタク」と「ミルタク」に分類されたのです。これは、紐(ちゅう)による分類は銅鐸を鳴らしたか、鳴らさなかったという点に凝縮され、鳴らした銅鐸を「キクタク」、鳴らさなかった銅鐸を「ミルタク」と名付けたのです。ここにいたって、分裂していたマッチとライターの学説は融合して強力な2口ガスコンロを形成するに至ったわけです。
 田中琢「まつりからまつりごとへ」(『古代の日本』五・近畿、角川書店、1970年1月)

持ち運び可能なカセットコンロ

マッチとライターの融合によって強力な2口コンロになった銅鐸研究は一般の大衆には、ちょっとやそっとでは手の届かないところにいってしまいました。それを誰でもどこにでも持っていけるように親しみやすくされたのがカセットコンロ藤森栄一こと藤森エイチン先生です。1964年(昭和39)に発表された『銅鐸』は毎日出版文化賞を受賞し、一般大衆でも銅鐸研究に参加出来るということを知らしめたのです。エイチン先生の銅鐸論が発表されるまで銅鐸関係の一般的な概説書および、読み物は全くと言っていいほど存在しなかったのである。それを一般大衆のものとされたエイチン先生はさすがですね。そんな頃、神戸の桜ヶ丘で14コもの銅鐸が一挙に発見されたのです。

(写真は鉄鐸、サナギ鈴ともよばれている、神長官守矢資料館蔵 写真提供 神長官守矢資料館)

 

レンジでチンする銅鐸研究

考古学はインスタントではいかん、と終生いいつづけた梅原マッチ先生のしかめ面が目に見えるようですが、以後の銅鐸研究は百花繚乱となります。また、銅鐸の出土も相次ぎ、荒神谷、加茂岩倉と大量の銅鐸が我々の前に姿を現したのです。これで、現在までの銅鐸の出土総数は460数個を数えるようになったのです。

おわり

ちなみに、こちらの研究史は真実に基づいておりますが、一部脚色した部分がございますので、その点をご了承ください。なお、登場された各先生方にはこの場をお借りいたしまして、お詫び申し上げます。<(_ _)>_(._.)__(_^_)_


 

銅鐸の鋳造実験

東京芸術大学の戸津先生の実験の内容  

 

準備中です。

論文の表紙はこちらを見てください。

 

 

銅鐸とたたかった人々。 (簡単な銅鐸研究史です)

はじめて銅鐸を目にした人々

江戸時代の銅鐸研究

近代考古学と銅鐸

森本六爾による研究画期

梅原末治によって閉ざされた扉

再びあけられた扉

人々に夢を与えた藤森栄一の『銅鐸』

百花繚乱の銅鐸研究

加茂岩倉以後の研究

これからも人々に夢と希望を与える第五世代のコンピュータ銅鐸


以下工事中です。

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