森本六爾終焉の地を探る
森本六爾氏は昭和11年1月22日、鎌倉市極楽寺87番地の仮寓で死去されましたが、現在その終焉の地はどのようになっているのでしょうか、本館では先日調査をおこないましたので、その結果をご報告いたします。
藤森栄一著『二粒の籾』によるレポートの紹介
藤森栄一氏は『二粒の籾』のなかの最初の章で「森本六爾の遺跡」という題で森本六爾に関係する場所の調査をおこなっています。
私は森本さんの遺跡を追ってみることにした。
かつて、私が弟子だった頃、いや、森本さんが世を去ってからでも、もう三十年という歳月が流れている。その間、あの人は幻のように、私の頭の中で生きつづけていた。昇華したり、発酵したり、しだいに姿をかえていた。私は、自分の解釈、イメージをかえたくないために、三十三歳から後、自分が育て上げていく森本六爾のためにも、極力、現実を見にゆかない必要があったのである。(中略)
かれ森本さんは死の予感におびえるようになると、独りでくるしい汽車の旅をつづけて、懐かしい東京へ帰った。それは、ゾウが、自分の死を予感したとき、遠い緑の谷間や湖の象の墓場へかえって行くのと同じだった。
森本さんにとって、いちばん思い出に深いところは、パリから帰って、しばらくわりと安定した夫婦生活をし、東京考古学会という学会活動を続行できた渋谷区羽沢町九六の旧宅であった。がしかし、そこはすでに家主によって閉され、鎌倉に流れた。ミツギさんの病を養ったこれも思い出の家であった。そして、森本さんはそこで死んだ。(中略)
ミツギ夫人が闘病し、そして、東に帰った森本さんが最後に窮死したあの鎌倉市極楽寺坂八七番地の藁屋根の家はどうだろう。鎌倉駅から極楽寺坂下まで車をとばし、私はあの坂をとぼとぼ登っていった。八七番地はなかなかわからなかった。切り通しの両側の崖の上に並ぶどの家もそうであるように思えた。かつての茅葺がトタンやスレートに変っていることはやむを得ないわけである。この切り通しを、療養中のミツギ夫人が、たった一度だけ歩いた。五月の浜に一杯タコの昇る日だった。あの人は海がみたい一念に、この坂を這うようにして降りていったのだった。
私は懸命に切り通しの坂をのぼった。
つき当りは、江の島電鉄の路線である。記憶は一切ない。左に折れて、極楽寺駅、さらに、下って八七番地、ここがそうだというのだか、私は当惑するばかりだった。森本さんの転居案内に、火の見まえというのがあって、そこらしいところに、たしかに消防の屯所らしいものがある。しかし、そこにはもう、それらしき家はなくて、建築資材の置場と、洗たくものの干場があった。あの頃の階段かと思われる崖は、削られて車庫にかわり、そこで死んだ不滅の英才、森本六爾という考古学者のことなど、むろん知っている人もなかった。
一人の老人が、「あそこは、むかし綿屋の別宅があったところだかな」と、この物めずらしい男をじっと観察しただけだった。
森本六爾の唯物的資料は、すでに、すべてこの世にないのである。
現地調査の記録写真
極楽寺坂のようす
江ノ島電鉄の陸橋の上から
陸橋の下は江ノ島電鉄が走っている
極楽寺(禅寺です)
江ノ島電鉄極楽寺駅
この場所が森本六爾の旧宅のあとらしい。藤森栄一氏のレポート通りに跡を偲ぶものはなにもない。
しかし、そこにはもう、それらしき家はなくて、建築資材の置場と、洗たくものの干場があった。あの頃の階段かと思われる崖は、削られて車庫にかわり、そこで死んだ不滅の英才、森本六爾という考古学者のことなど、むろん知っている人もなかった。一人の老人が、「あそこは、むかし綿屋の別宅があったところだかな」と、この物めずらしい男をじっと観察しただけだった。
森本六爾の唯物的資料は、すでに、すべてこの世にないのである。
「哲学者の散歩道」から海を望む
森本六爾は極楽寺から由比ヶ浜へ出る坂道を「哲学者の散歩道」と呼んで、好んで歩いた。
(小林行雄『ひととせの記』より)
哲学者の散歩道は最後に由比ヶ浜に合流する。
「今日も例の散歩道に、一人でゆきました。浪白く立って、風ある日もよしと思はれました。」
五月十一日
(小林行雄氏あて書簡より『ひととせの記』)
由比ヶ浜、中央は江ノ島、六爾が鑑ちゃんと遊んだのはこの砂浜だった。
「晴れた日、男の子をつれて、江ノ島まで七里ヶ浜の磯をつたひました。子供も大人も貝拾ひです。いささか頭がボンヤリしていますので、よい疲れやすめです。」
二月二十一日
(小林行雄氏あて書簡より『ひととせの記』)
関係場所の地図