編輯所日記より


rokuji kazoku

森本六爾先生とミツギ夫人と鑑ちゃん

浅田芳郎先生『考古学の殉教者』より引用、極楽寺時代の唯一の家族写真である 

このページでは森本ミツギさんの編輯所日記より抜粋をしてみました。

 なお、転載するに当たり、可能な限り当時の仮名遣いを優先いたしましたが、旧漢字については変換の都合上新漢字とさせていただきました。 


『考古学』第六巻第三号(昭和十年)掲載分

 ミツギさんはすでに発病され、東京女学館を辞められて鎌倉極楽寺の家で療養生活に入られた時のものである。日記の内容も闘病生活の事が中心となってきているが、まだ海を見に行ったりと寝たり起きたりの生活であったことがうかかえます。しかし、健康状態はこの時を最後に次第に悪化して行く一方で、遂にこの年の11月11日亡くなられてしまわれるのです。

 

二月五日 火 

 夕方鎌倉に着きぬ。地理に暗き運転手は車を止めて、番地を聞く事しきりなり。かくてわが尋ねあてしは茅葺の百姓家なりき。道より少し高く間取鷹揚にて雛びたり。畳の上に座れば家主より暖かき火鉢届けられぬ。口乾きてミカンを食ふ。日没過ぎ貨物自動車着き、主人は更に遅れてシユクリーム等求め来らる。

二月六日 水

 主人所用ありて出京。空曇り風も冷たけれど、海を見に出かけぬ。児な伴ひ極楽寺川の流れに沿うて休み休み行くも息切れして苦しく、幾度か出かけし事を後悔しぬ。されど海見たき一心に引きずられて遂に稲村ヶ崎の海を見たり。富士は中空に聳え箱根伊豆の連峰に雪のカケラきらめき、江ノ島又呼べは゛答へん位置にあり。児はいつか母の側を離れ嬉々として戯れ騒ぐなり。

二月七日 木

 小牧実繁氏来柬。鎌倉の地花すでに白し。荷物の整理するとて取りかかれば、三千代のもの眼に着きて悲しく、総べて眼の届かぬ奥に纏めてしまはしぬ。あはれ、汝の母は自らの健康の為に常に興奮する事を恐れ、尚且常に興奮して汝の死を惜しめり。

二月八日 金

 島村孝三郎氏・小林行雄氏・片倉信光氏来柬。太陽は硝子障子の外にきらめき、小鳥の声愛らし。極楽寺の町も周囲の松山ものどかに晴れてわが庭に続けり。われは日向を楽しみ、一日四回体温を測り、三度の食事を盛んにする事を希ふのみ。

二月九日 土

 郷里の姉上来柬。心うるはしき人の手紙には常に涙こぼれて胸苦しく、されど又楽しければ乙女の如くわれは泣かん。わが病癒ゆる日のあらば如何に嬉しからまし。

二月十日 日

 鎌倉の雨は未だ二月にして春雨の如くなまめかし。木々の幹を染め、土を湿ほして終日止むことなし。主人出京。風呂を立て、新しき魚の酢ノ物等用意せしめて待つ。鳥居博士より抜刷二部受領。小林久雄氏来柬。

二月十一日 月

 紀元節。やわらかき日ざしに梅花いよいよ白し。由比ヶ浜の辺りは人出最も多かりし由、われは一度海を見に行きしばらりなれど、此の頃食欲を増し、台所に口出しするようになりたるは嬉しき現れなりと褒めらる。

二月十二日 火

 小林行雄氏来柬。主人鑑を伴ひて、海岸伝ひに腰越から江ノ島方面へいく。われも海見んとて出かけしかど、黄バスの走る道はホコリ臭くて途中より引き返しぬ沿道到る所に椿の花咲き揃えり。

二月十三日 水

 新聞に牛乳屋主人の心中見えて配達なし。主人長谷の農場に紅梅の鉢を求め魚屋に廻り章魚の生きたるが珍しとて求め帰へらる。皆も喜び熱湯にゆでて、刺身に切り、三杯酢をかくれば白き肉は弾けて、皮は薄桃色に染りぬ。浅春の夜のクリヤ風景なり。

二月十四日 木

 主人出京。地には積らねど終日白きものちらつき、暖かき部屋にいて、女中のキミを相手になす事もなし。小林行雄氏・藤森栄一氏来柬。

二月十五日 金

 神田五六氏来柬。東京人類学会より例会通知あり、主人雑務を整理し終られ、今夕奈良へ出発となる京都の小林行雄氏に電報す。

二月十六日 土

 「考古学」五巻八号水野清一氏の分出来上り、印刷所より回送あり。梅の鉢を部屋の中より日向に持ち出せば、哀れに痩せしクモ在りて花の間に直径五厘ばかりの巣を張り、巣の真中に居て動かず。外は晴れて松山の松いよいよ美し。主人今夜は奈良なるべし。『さ・え・ら』を披く。

二月十七日 日

 曇り後雨となる。三千代すでにわが側に無し。想へば去年の夏、彼女をもうけし日よりわれは日記を認めず、彼女を失ふ日まで、遂に日記を書かんとは思わざりき。杉山寿栄男氏来柬、国分女史来書。

二月十八日 月

 島村孝三郎氏・服部清五郎氏来柬。咳の工合もよろしければ台所に出て夜の料理を手伝う。

二月十九日 火

 國分女史よりカステラを賜る、主人今夜八時に鎌倉着の予定京都より電報あり。鑑転がらんばかりにおどけて喜ぶ。藤沢一夫氏明山大華氏の原稿を寄せらる。七田忠志氏来簡。主人帰られて、京都奈良の話を楽しみ聞く中思はず夜を更しぬ。

二月廿日 水

 主人早朝より出京。御上京中の浜田博士を中心に東亜考古学に関する座談会開催の予定。会場はレインボーグリルなるべし。今日通知をなし、今夜開くと云ふ急ぎの会なり。鎌倉は一日晴れて楽しかりき。

二月廿一日 木

 座談会はレインボーグリルつかえて、神田北京亭に催され、浜田博士の外に原田助教授御出席、島村孝三郎氏も陪席され、江上・駒井・三上・八幡・甲野の諸士揃はれて盛会なりし由『考古学』二月号校正、例の如くステッキを持ち海を見に行かる。

二月廿二日 金

 肥後和男氏・八木光之助氏・三上次男氏来柬『考古学』二月号校正。午後よりわれも起き出して手紙を書く。手紙を書く気になりたるは転地の賜物ならん。夜の雨劇しき音を立てて降る。馴れぬ土地とて云はん方なく恐し。

二月廿三日 土

 今朝は雨も美しく上りたれど、土の湿りこたへてフトンの中なつかしく、終日臥床。寒き日は気分も引き立たず。主人出京、江上波夫氏を訪ね、銀座にて田沢金吾氏にも会はれし由暮れて帰宅、内裏雛を賜ふ。

二月廿四日 日

 奈良より白米一俵到来。主人鑑と鎌倉八幡宮に遊ばる。

二月廿五日 月

 梅原末治氏より『大阪府史蹟調査報告書五』受贈。夜はわが枕元にて、『聖家族』を読み聞かせらる。

二月廿六日 火

 雨。主人出京。江上波夫氏に会はる。朝日新聞掲載中の中谷宇吉郎氏の科学時評は最後迄興味深く拝見しぬ。治宇二郎氏の兄君なり。木代修一氏・三森定男氏来柬。

二月廿七日 水

 島村孝三郎氏・小林行雄氏来柬。奈良の伯母より見舞の菓子を賜ふ。雨の日は心も冷たくてわびし。主人側にて『レモン』を読みきかせらる。

二月廿八日 木

 長雨晴れて快晴となる椿の花の美しき朝なり。午後は海を見に行きぬ。歩き疲れては砂浜に腰を下して休み、黄バスにて帰へる。小林行雄氏来柬。河野国雄氏原稿受送。池田健夫氏より「丘の上」十二号を賜はる。

(森本ミツギ)

注…来柬(らいかん)とは手紙が来たということ


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