羽沢町の東京考古学会


 かつて、東京考古学会という学会があった。森本六爾先生が創立され、戦前の日本の考古学会をリードした。そして、六爾先生の死後日本古代文化学会と名前を変え、藤森栄一先生が引き継がれた。藤森先生の出征後は直良信夫先生が引き継がれ、戦後は杉原荘介先生を中心とした明治大学の中に移った。

 その東京考古学会の事務所のあった場所がこの羽沢町なのである。羽沢町の東京考古学会についてはすでに藤森先生の『二粒の籾』に報告があるが、あれからもう25年ばかりたち、再びその跡をたどってみるのもあながち無意味ではないと思われる。そこで、藤森先生の『二粒の籾』の報告をたどりながら、現地での調査を行った。


藤森栄一『二粒の籾』より

東京女学館の前にて

私は、それから東へ道をたどった。
あの人は、行途のくらかったとき、金にこまったとき、疲れはてたとき、西へ帰っては癒し、そのつど、この道を引きかえしていった。日本の文化は東京にあり、日本の学問は東京にあり、東京はわが恋人なりと、かれは信じていた。というのも、東京にははげしい友情、そして焼ききるようなゼラシー、巧妙な陥穽、激烈な論戦、かれにとっては、一日もその刺激なしではすごされぬ、魅カの都であった。

▲ミツギ夫人が教鞭をとられた
東京女学館
(著者撮影)

▲ミツギ夫人が教鞭をとられた東京女学館・正門前である。校舎は藤森先生のころとだいぶ変わった近代的なものに変わっている。
(著者撮影)

 かれ森本さんは死の予感におびえるようになると、独りでくるしい汽車の旅をつづけて、懐しい東京へ帰った。それは、ゾウが、自分の死を予感したとき、遠い緑の谷間や湖の象の墓場へかえって行くのと同じだった。
 森本さんにとって、いちばん思い出に深いところは、パリから帰って、しばらくわりと安定した夫婦生活をし、東京考古学会という学会活動を続行できた渋谷区羽沢町九六の旧宅であった。がしかし、そこは既に家主によって閉され、鎌倉へ流れた。ミツギさんの病を養ったこれも思い出の家であった。そして、森本さんはそこで死んだ。

 私はある午後、渋谷駅から、赤十字病院行きのバスに乗った。 二三年前に、あの頃の同志、丸茂武重さんに、森本さんの東京の遺跡について教えて貰ったとき、羽沢町の家はまだあるよ、といわれて、かれにその写真をたのんだ。しかし、丸茂さんはいつか忘れてしまったらしい。私はその写真を写すべく、羽沢町を訪れたわけである。


◆日赤病院正門

◆東京女学館の向かい側は日赤病院の赤れんが塀が当時と変わらぬ面影を残している。

日赤病院前にて

終点でバスを降りて、私はいっぺん、高樹町の電停前までかえり、そこから、市電で通った頃の記憶を何とか紡ぎ出そうと努力しながら歩いた。やがて商店街を抜けて、東京女学館の前に出た。ここはミツギさんの教鞭をとった学校で、あの人は、私がこっちから歩いてくると、たいてい歩道の右側を、紫の袴をひるがえし、にこッとほほ笑んで校門に入っていった。校舎は今も裾色の三階建で、そのころとは、なに一つ違っていないというような錯覚をおこすほどなのに、誰一人として、かつてここに勤める一人の女性教師の収入で、一国の考古学の学会が運営され、その決死の働きで一考古学者が、パリヘ留学をしたことなど知っている人はないだろう。あの人は、毎朝その一国の学問を背負った幸福でこの道を歩いていたのである。舗道はあのときと同じに、銀杏並未は亭々と繁り、バスのほか人通りもまことにまばらである。私が、この舗道を幾日も幾日も通ったということは、本当だろうか。


▲今もかわらない日赤病院のレンガ塀

▲この道を藤森先生は何度も往復されたのである。

 

▲今もかわらない日赤病院のレンガ塀

▲東京女学館前

 

▲東京女学館の前の道はかなり交通量が多い。

▲東京女学館前から渋谷方面へ下る道。

 むろん羽沢町九六などという番地は今はなく、さがしあぐんだ私は小さな牛乳販売店によって一息入れた。牛乳を飲みながら、九六番地をきくと、この横町の角だという。昭和八、九年ころ、私もさんざん出入したんですけれど、覚えていませんか、そこは森本六爾という考古学の先生と、その夫人で東京女学館の先生がすんでいられたんですがね、というと、おやじは私の顔をじっとみて、おれんとこは、明治からここにいるが、そんな人は知らねえな、ということだった。

−九六番地の植木屋の森田さん家は、エンギ悪い家でな、ろくなことあなかったよ−


 羽沢九六番地とおぼしきところは、渋谷区広尾町三丁目九番地という呼び名に変わり、さらに近く渋谷三−XX−XXという合理的な住居表示に変るらしかった。みまわしても、見覚えのある家はない。九番地で、いちばんの長老という、九十歳のお婆さんをたずねたが知らないという。大通りの向う側は、全面が聖心女学院の正門である。門柱の大理石の石に、白人の娘が一人、ミニスカートの下から、長い脚を折りまげて、よりかかっている。他にはもう聞くすベもなかった。

▲聖心女子大校門

▲藤森先生の写真とほとんどかわっていない。

 

▲聖心女子大は昔、宮邸であったところだ

▲聖心女子大

 

 

かつて、東京考古学会のあった場所は駐車場になって跡を偲ぶものはなにもない。
この場所は聖心女子大の正門の真正面にあたる。

 この大きな正門にもまったく記憶はない。私は、あきらめかけた。その広尾通りから、渋谷の谷へ降る九番地の角で、はっと一つの記憶にさわるものがあった。それは、軽石ブロックの垣にさし込まれていた郵便受であった。それに覚えがあった。たしか、あの昔、背丈くらいの檜葉垣につけられていて、しかも、玄関にいた私と郵便夫が口論し、私が、そのアンチモニーの受け口に、小刀で、R‐M0RIM0T0と刻んだ記憶がある。近づいて手にさわってみると、黒くさびているが、たしかに私の字があった。しかし、そこには、ブロック塀だけで母屋はなかった。家屋は取り払われたばかりだろう、壁土や、中のスサの藁切れや葦が散乱し、子供が遊んでいた。玄関の椿や柳、アオキは、さすが、あれからもさらに三十年をけみして亭々とし、裏口の便所わきのカナメも見事である。この庭木、ミツギ夫人が病床で、「編輯所日記」に、日々の木々の美しい移りかわりを克明に記録したあの名文の役者たちも、きっと、近々には、どこかへ移されて行くのだろう。

 木がくれに富士をみて狂喜したあの床中の人が、遠くのぞんでいた富士は、渋谷の谷をこした向うに、ふたたび見えそうであった。丸茂さんの見たときの家、日本在野考古学の中心地だった東京考古学会の建物は、きっと、ここ十日くらいのうちに毀わされたのである。


 

(写真左)谷側に降りる道がある。
(写真右)六爾先生の家もこのように木々に囲まれた小さな家だったのかもしれない。
 

(写真左)六爾先生の霊を慰めるようにあるチェコ共和国大使館前の「おやすみ石」
(写真右)チェコ共和国大使館

参考資料

昭和26年頃の地図 柏書房『5千分の1江戸−東京市街地図集成』 最近の住宅地図による羽沢町付近

 


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