「みんな、兄弟たちよ、それぞれ生きてかえって、あの富士の山に告げてくれ、江藤千萬樹は、永遠に考古学者だった」   

昭和20年6月20日沖縄にて戦死。


江藤が生前こよなく愛した、富士山 (沼津市千本浜海岸より)

 江藤千萬樹(えとうちまき)

 大正9年アメリカ合衆国ワシントン州ワヤマ郡サバトの農業移民江藤秀作の長男として生まれる。生後すぐ洗礼を受け、クリスチャンネームをダビデ・江藤・チマキといった。7歳の時に小学校にはいるために帰国し、静岡県沼津に住む。実家の裏の畑から出てきた土器片をきっかけに小学校卒業ころから考古学に興味を持つ。沼津中学在学中に郷土研究部に所属し、長田実・乙益重隆・七田忠志・弟の江藤百十樹らとともに北伊豆から富士山麓をフィールドに地域の遺跡を踏査した。その中でも、静岡県矢崎遺跡(駿東郡清水町)の発見は南関東における弥生式土器の編年に重要な示唆を与える不滅の金字塔となった。また、縄文早期の遺跡の解明を目指し、伊東市の上の坊遺跡の発見についても学史に残る学績であろう。同時期に静岡で活躍した考古学者に芹沢長介がいる。昭和12年、藤森栄一に手紙を送り、その心の友第一号となる。
 やがて國學院大學に進学し上代文化研究会を主宰した。唐古遺跡の発掘に国大上代文化研究会を率いて参加しているが、このことは以外に知られていない。唐古では、小林行雄にかわいがられ、小林の弥生式土器の様式編年完成に協力している。昭和15年大学卒業後、東調布高等女学校の教師となり、横浜市港北区の弥生時代の集落址である白楽遺跡の発掘を行った。昭和15年8月すべての考古学資料を京都大学に寄贈し、沼津女子商業高等女学校(現在の加藤学園高等学校)に転職して、東京を去る。まもなく、応召し歩兵少尉として出征する。中国各地を転戦した後、昭和19年沖縄に派遣され、昭和20年6月20日未明、たった3人の切り込み隊長として戦死する。享年28歳。現在は故郷の沼津の富士山の見える墓地に静かに眠っている。 

 

藤森栄一の言葉

 藤森栄一はこよなく愛した江藤にて対して、『かもしかみち以後』の中に「考古学者の戦死」という章で哀悼の言葉を捧げている。また、その後昭和45年に千古遺跡の調査の際に沼津を訪れ、江藤の墓に参っている。

考古学者江藤千万樹が、アメリカ軍に突入したとき、どんな最後をとげたのか、米軍側の記録にも残されていない。が、私は「かつて、アメリカ市民だった日本人、考古学者・ダビデ・エトウチマキの最後を見ろ」と絶叫して死んだと思う。 藤森栄一「考古学者の戦死」『藤森栄一全集』第一巻 学生社

 

主要論文

「駿河矢崎弥生式遺跡」『考古学』8−6 昭和12年
「弥生式末期における原始漁業集落」『上代文化』15 昭和12年
「大型石錘と石製模造品」『神社精神文化』V 昭和15年

私が感じたこと

 富士山麓に住む人々にとって、非常に富士山は近しい山であると同時に、大きな心の支えである。おそらく、江藤にとっても富士はそういった特別な存在であったのであろう。沖縄でその生涯を閉じようとしていたとき、江藤の胸に、万感をもって迫ってきたのは、この大きな富士の姿であった。そして、仲間たちに「きっと、生きて帰って、告げてくれ…」という叫びを残したのであろう。江藤のこよなく愛した富士は、沼津からでは、愛鷹山にさえぎられ、全容をあらわしていないが、大きく迫ってくる存在である。特に、千本浜海岸から素晴らしい富士が眺められる。おそらく、突入間近、江藤の胸に描いた富士はこの富士であったことであろう。
 現在、沼津を中心とした静岡県東部地方では、第二東名高速道路の建設にともなう発掘が続けられているが、この第二東名建設予定地の遺跡の多くは江藤の発見したものである。先駆者としての江藤の評価は高まるばかりである。

参考文献

藤森栄一「考古学者の戦死」『藤森栄一全集』第一巻 学生社 所収
七田忠昭「唐古池に集った人々」『みずほ』第29号 大和弥生文化の会


この稿をまとめるにあたり、江藤昭子さんのご協力をいただきました。ありがとうございました。


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